15 True Colors ― 胸裡 ―
夏休みが始まった。
終業式の後、蓮はいくつかの補習と課題レポートを終わらせるとバイトのシフトを目いっぱい入れた。五月にバイトを始めてから週に数日、ほどよくシフトを組んでもらっていたが、バイクの免許を取るという目標ができた以上できるだけ早くその資金を貯めたかったからである。
蓮の働いているファミリーレストランは港近くのショッピングモールの一角にあった。そのため休みになると一気に客の入りが多くなる。
お店の人員は先月ぐらいまで人手不足の状態だったが、最近はある程度人材の確保もできいた。が、夏休みになると大学生も遊ぶのに忙しくなるようで、旅行や帰省も重なってしまうとバイトの人数がだいぶ薄くなる日もあった。
八月にも入ると、休憩もろくに取れずホールとカウンターをひたすら行き来する日が続くが、蓮はなんとかこなしていった。バイトを始めて数ヶ月、いろいろなことを手早くできるようになっていた。
そんな自分を周りのスタッフも結構頼りにしてくれているのが蓮にはなんだかうれしかった。
店長は頓野宮という名前であった。
年齢は四十前後。チェーン店のファミレスを経営する会社の正社員で、蓮が初めてこの店に来た時にバイトのことを説明してくれた人だ。口癖は、〈頓ちゃん困るんよ〉〈頓ちゃん忙しいんよ〉である。
身長は、蓮と同じぐらいで百六十五、六センチぐらい。、髪型は七三に分け、七の方を何かのマンガのキャラのように尖らせていた。
ベテランのバイトからは陰で散々馬鹿にされていたが、蓮はそれほど嫌いではなかった。時々意味不明な凶悪なシフトを組んだりして、流石の蓮もそれはないだろと思うことはあったが、人手不足の中で〈困るんよ〉を連呼しながら、ヒーヒー働いている店長を見ると、なんだか変に不憫に思え、許せるのも不思議なものであった。
蓮が初めてレストランに来て、バイト募集のことを聞いた女の人は岡本聡美という大学二年生の学生であった。大学では英語を専攻しているらしい。かわいらしい丸顔をしていて、いい意味でたぬきに似ていたが、忙しくなるとペタペタとペンギンのような歩き方になる。蓮にいろいろと仕事を教えてくているのでとても感謝している。
他にもバイトの古株で山本典雄という男の人がいた。とにかく仕事が早く、めちゃくちゃ混んでいるホールのオーダーから、テーブルの片づけ、セットまで流れるようにこなしてくれた。蓮もバイトの最初のころは仕事の足手まといになっていたので、いろいろと助けてもらった。がっちりした樽のような体格であるが、太っているわけではない。何かスポーツをやっているのでもなく、昔からそういう体つきらしい。
ちなみに趣味は競馬と競艇。今は大学三年だが、ダブってしまったらしい。山本より少し遅れてバイトを始めた、大学の同期である現在四年生の小松にいつもそれをいじられていた。
その他にも同じ高校生やフリーター、主婦など、いろいろな立場の人がおり、話を聞く中で今まで知らなかったことを学ぶことができた。
蓮はせっせとバイトにいそしみ、八月もあっという間にお盆になる。
その日も蓮は夕方から出勤していた。ディナータイムもほぼ満席だったが、ピークを過ぎると少し落ち着きが感じられるようになった。
レストランのエリアは二つあり、それぞれにホールスタッフを数名ずつ配置している。お客が入るとそれぞれ交互に案内するようにして片方が極端に混みあわないように工夫しているのだ。
蓮が両方のエリアのちょうど境にあるカウンターの内側の立ってお客さんの様子を見ていたその時、
「ちょっとおねいちゃん」という男の声が聞こえた。
蓮のすぐ近くのテーブルの客が呼んだらしい。
そのテーブルは蓮が担当するエリアではなかったが、他のスタッフが忙しそうにしているのを見て用件を聞くことにした。その席に近づき、「はい、なんでしょうか」と聞いた。
客席に座っていた男は、どちらかというと痩せて小柄であった。
メガネをかけ日に焼けている。それほど長くはないが無造作に髪をのばし、薄茶色の作業着のような上着に、とび職が使うようなダボダボのズボンを履いていた。
「ス、スプーンくれよ」男は言った。
「スプーンですか?」テーブルをみると、蓮の好きなグラタンオニオンスープがあった。スプーンを下に落としてしまったのだろうか。
「あん」男はたぶん、〈うん〉と言いたいのだろう。蓮はそれには触れず、
「少々お待ちください」と言ってスプーンを取りにカウンターの奥へ戻った。そして新しいスプーンを持っていくと、お待たせしました、と言ってテーブルに置き、席を離れようとした。
「も、も、もっとちっこいのねいかな」と男は言う。
「小さいスプーンですか?」
「あん」
「お待ちください」と言って蓮は再度カウンターに戻り、ティースプーンを持っていく。
「おお、あ、あんがとな」男は言った。
ちょっと話し方はおかしいが、店員にちゃんとお礼を言える客であった。蓮は軽く会釈すると、自分のエリアに戻り食事が済んだテーブルの片づけをした。すると、また例の男が蓮を呼んだ。
「ね、ねいちゃん」
「あ、はい」蓮はちょうどカウンターへ戻るところであった。
「ぎ、銀紙ねえかな」
「えーと、ギンガミってゆうとどんなものでしょうか?」そんなものを欲しいといった客は初めてであった。
「た、た、食べもんとか包むやつな」
蓮は少し考えて、「アルミホイルみたいなものでしょうか?」と聞く。
「そ、そ、そいでいい」
「どれぐらい必要ですか」
「こ、こんぐらいで、えい」と言って、男は人差し指と親指で長さを作った。お待ちください、と蓮は言い、ホイルをカウンターで探したが見当たらない。忙しそうに動いている他のスタッフに聞いてみると、アルミホイルはカウンターに置いてないと言われてしまう。
蓮は仕方ないのでそのことを男に伝えた。
「ほ、ほうか」と言って、男は微妙に落ち込んでしまう。あまりにもしょんぼりしていたので、蓮はよっぽど、キッチンに声をかけてアルミホイルをもらえないか聞こうと思ったがキッチンではスタッフは休むことなく動き回っていた。
これは無理かとあきらめていたそのとき、チーフの野宇がキッチンからホイルの箱を持ってきてくれた。チーフという役職は店長の下の役職である。基本はホール担当であるが、忙しい時にキッチンや皿洗いであるディッシュウォッシャーのサポートをしてくれていた。
偶然、蓮の話を耳にした野宇が、気を利かせてホールに戻るついでに持ってきてくれたのだ。野宇は必要な大きさを蓮に確認し、ホイルを切り取ると「これ使って」と蓮に渡してきた。
蓮はそれを持って先ほどの男に届けると、
「お、あ、あ、ありがとな!」と言って男はとても喜んだ。
たかが包み紙で、これだけ喜んでもらえると思っていなかったが、なんであれ礼を言われるのはうれしい。接客業をしているとどちらかというと、文句や苦情を受けることが多いようにいつも感じていたので、蓮はなんだかいいことをした気分になった。
その後もぼちぼちと客足は途絶えることなく、蓮は仕事に追われていた。
しかし不思議なことにある時を境に突然ぱったりと客足が止まってしまう。
こういった現象は時々起こるので一時的なものであろうと思っていると、何やら様子がおかしい。
すると突然、警察官がぞろぞろと入ってきた。数は十名近くいるだろうか。店の外を見ると、数台のパトカーが、赤色灯を派手に回しながら店に横付けされていた。
蓮には身に覚えがないので一体何が起こっているのかわからない。頓野宮や野宇の姿を探すが見当たらなかった。蓮が反対側のホールを見ると、数名の警察官が一つのテーブルを囲んでいた。警察官の何人かはトイレに出たり入ったりしている。食事中の客も、不安げに様子をうかがっていた。
何組かの客に、何があったか聞かれたが、蓮も何もわからないので答えようがなかった。そうこうしている間に、客はどんどん出ていき、最終的に蓮が担当しているエリアの数組を残して、もう一方は無人となった。閉店にはまだ一時間以上ある夜九時前なのでこれは異常であった。
他のスタッフも何も知らされていないようで、不安気な顔をしていた。
しばらくすると店長の頓野宮がバックヤードから現れ、ちょっといいかなと蓮を呼んだ。隣には警察官の姿が見えた。身に覚えが無いのだが何か自分がまずいことをしてしまったのかと不安になる。
「男にアルミホイルを渡したのは君だね」警官は聞いてきた。
蓮は一瞬何のことかわからなかったが、先ほどの男を思い出し、
「はいそうです」と答える。
「どんな状況だったか教えてもらえるかな」と警官に聞かれた。
蓮は男に声を掛けられた場所を伝え、男が座っていたテーブルのところに行き、事の成り行き状況を説明した。もちろん、そこに男の姿はない。
蓮が一通り話を終えると、警官は、ありがとうございました、と言って他の警官と何か話し始めた。蓮は自分のフロアに戻り、やることもないので他のスタッフと一緒にぼーっと立っていた。
その後しばらくして警察は引き上げ、店の前に止まっていたパトカーもどこかに走り去っていった。その後は客足は戻ることもなく暇な時間が続く中、野宇が苦笑いながら近づいてきた。
「いやー大変だったな」
「何があったんですか?」蓮が聞くと、
「クスリだよクスリ」と野宇は疲れを吐き出すように言った。
男はどうやら覚せい剤の常習者だったらしい。
スプーンとアルミホイルを使って、あぶりという手段で、クスリを吸引していたのだ。どうやらトイレでキメたらしく、焦げたホイルとスプーンが洗面台に残されていたのを、他の客が見つけて通報したようだ。
発見した客は店員には伝えず、警察に直接連絡したので、店長も警察が入ってきたときに驚いたようだ。その後の事情聴取や、道具の証拠写真を撮るのはチーフの野宇が応対をしていたらしい。
蓮はふと、アルミホイルを渡した時、男の切実に思い詰めていた顔が、一瞬にして明るくなったのを思い出す。と同時に、後悔の念に駆られた。
〈自分は余計なことをしてしまったのだろうか〉
普段の生活の中で、身近にある犯罪として薬物があることを学校の何かの講習で紹介していた。その時は蓮には実感が湧かなかったが、薬物のヤバさを学んだのは、学校の体育館で聞いたことではなく、以前いたランバトのチームメンバーを通してである。
ある日の練習の後。近場のファミレスでチームのメンバー数名と食事をしていた時だ。
派手な女が二人、メンバーの一人に話しかけてきた。二人とも短めのスカートを履いた露出が多い服装で髪は明るい色をしていた。
ちょっとした知り合い程度のようであったがその対応があからさまに冷たいのが気になった。しばらくしてその女たちがいなくなった後、そのメンバーは言い訳するように、
「あいつら薬局みたいなことやってんだよ」と言った。
それで他のメンバーはその冷たい態度に納得していたが、蓮には意味が分からず、
「薬局でバイトすると駄目なんですか?」と隣のメンバーに聞いた。
そのメンバーは最初きょとんとしていたが、蓮が薬局の意味がわからなかったと理解し、苦笑いしながら説明してくれた。
薬局というのは、隠語で違法薬物の売買をする人たちを指すのだ。
流石にそこまで言われれば蓮にも理解できる。
二人の容貌を思い出してみたが、確かに異常に目が精気にあふれ、妙なテンションの高さであった。他にも、薬物中毒になると独特の口臭がすることや、クスリが切れたときの禁断症状などの特徴を教えてもらったが、その時はそうゆうものなのかと思うだけでさして深くは考えることもなかった。
それから少し経ったある日、蓮はその二人のうち一人を街中で偶然見かけた。
外見が特徴的だったので蓮は覚えていたが、相手は蓮に気づいていないようであった。
チームの先輩が言っていたように、薬物にはまっている人間の顔は、クスリが効いているときはむしろ元気があるような印象を受けるのはその通りのような気がした。しかし、顔の状態はメイクをしてごまかせるが、少し窪んだ眼窩に瞳孔が開いた双眸は隠しようがなかった。そしてなによりも体の状態であった。
ノースリーブの上着から見える腕や、短めのスカートから伸びている足はかなり細い。
それは健康的な細さではなく、骨に最低限の筋肉と皮がこびりついているような痩せ方だ。しぼんだという言い方があっているのかもしれない。肘や膝の関節は、異様に目立ち、仏教の餓鬼を連想させた。
日常的に食べ物を食べることができず、痩せてしまっている貧しい国の人たちの写真は見たことがあるが、それとは何か違う。顔の異様な精気に、骸骨のような肢体が対照的で、気色悪さを蓮は感じた。すれ違いざまにちらっと見えた、太もも内側の注射痕のようなあざが、破滅へ向かうスタンプラリーのように思えた。
蓮は、それ以降も街中で、薬物をやってそうな人間を見かけたことがあるが、すべて女性であった。女性は腕や足が見える服装を着るが、男性は全体的に露出が少ない服装が多いので、身体的な特徴が見分けにくいのもあるせいかもしれなかった。
先ほどの男の目は眼鏡越しで瞳孔の状態はわからなかった。とはいえ、最初の話し方がおかしい段階で気づくべきであった、と蓮は思う。
自分が良かれと思ってやった行いや、相手のためにと思いとった行動が、実は思い違いであったり、相手や周りからしたら、大きな迷惑だったり余計なお世話であったりする場合がある。
蓮自身、中学の時に余計なことをしてくる教員に苦しめられた経験が多くあった。そういう傾向のある教員は、相手の気持ちを全く考えられない化石のような頭をした人たちが多かった。主観に囚われ客観的に物事を考えられないのだ。
少なくとも、蓮は自分がそういった種類の人間になりたくない。人に本当に求められている行動は、時として真逆な場合もあるのだ。
〈いろいろ考えられるように、ならないとな〉
すぐそれができるかと言ったら難しいかもしれない。でも、そうする努力はしよう、と強く思った。
何にしても、今回の一件で間違いなく学んだのは、薬物はやはり怖いということ、そして、客にアルミホイルがほしいと言われても、今後は渡さないほうがいい、ということであった。