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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

美人女医 戸倉先生とわたし。

美人の戸倉先生と直美とのやり取りに力を入れてみました。

押して押して押しまくる戸倉先生と、バッサリ叩き落としつつさりげなく拒否する直美の静かなるバトルに注目下さい(笑)

世の中には美人といわれる人が本当に居るのだな、と私は思った。


確かに世間で美人といわれている人は数多居るけれど、私自身が美人だなと実感した人はそうはいない。

戸倉先生については私が美人であると認めた稀な存在だった。

まあ、私に美人と認められたからといって名誉でも何でもないのだけども。



「なに?」

戸倉先生は私に聞く。

「え」

「え、じゃないわ、私の顔に何かついている?」

戸倉先生は聴診器を私の胸から外しながら言った。

「いえ―――何も」

つい、見惚れてしまっていたらしい。

美人は三日で見飽きると言うけれど、私は見飽きない質のようだ。

戸倉先生は病院でも人気の女医先生である、美人な上に頭脳明晰となれば世の男性が放っておくわけが無い・・・のであるけれどいかんせん、先生は男性がお嫌いだった。

ついでに言うと女性が好きなのだという。

世に言う、同性を愛する方らしい。

私はブラジャーを付け直し、前をはだけたブラウスを着る。

「発作は起きた?」

「いえ、ここのところは何も。平和そのものです」

「それはいい傾向ね」

「はい」

難しい心臓の手術をした私は経過と観察の為、先生の診察を受ける。

戸倉先生は手術も行う人で、その手腕はアメリカの大きな病院でも評価を受けていた。

男性が主に活躍する世界で、若いのに凄い人なのだ。

「それより―――」

「それより?」

先生はタイトスカートを履いているのにもかかわらず足を組んで私を見た。

仕事中は患者をあまり刺激したりしない服装が望まれるらしいのだけれど先生は病院の規則に反骨心でもあるのかいつも他の女性の先生たちとは違う服装で患者に接する。

「この間の返事はどうかしら?」

「あ」

そう言われてついぞ忘れていたことを思い出す。

先生に見惚れているくせに言われるまで思い出せないとか。

「いやだ、忘れていたの? 今度の診察時に返事をくれるって言ったじゃない、あなた」

診察の時と変わらない態度。

多分、この人は仕事とプライベートで相手への態度を変えない人なのだ。

「忘れていました、すみません」

先生とは手術の前からお世話になっているのでかれこれ、5年ほど付き合いがある。

その付き合いの途中で―――いや、最近か。

最近、なんの冗談か戸倉先生に私が告白されたのだ。

その返事を今、先生は私に求めている。


私は男性が好きだ。


これはハッキリと言える。

―――とはいえ・・・

「なに?」

目の前の美人には惹かれてしまう。

それは美人を鑑賞としてなのか、好きなのか。

「それが・・・先生のお気持ちはありがたいのですが・・・」

嬉しくないわけが無い、うん。

女性とはいえ、こんな美人に好かれるのは。


 平凡な私のどこが気に入ったのだろうか?


美人は傍から傍観するに限る、というのが私の今の感情だった。


「断るの?」


戸倉先生は言った。


「は、い?」


いやいや、私が断らないことが前提なんですか?


「断らないと思っていたのに、直美ちゃんは」


「その自信はどこから来るんですか?」

戸倉先生が自分の事を分かっていて、どう周りから見られているのも私は分かっていた。

私が知っているのは病院の中だけの先生だけれど、5年も付き合いがあれば大体わかって来る。

女性が好きだという事は先生に掛かって2年くらい経ってから知った。

上手く隠していた先生だけど、私相手にとんだチョンボをしたものだ。


「経験」


まあ、それは否定出来ない説明ですけどね。


「私は男の人が恋愛対象なのですけれど」


「まあ、それが普通ね」


ギシッと椅子の背もたれに更に身体をもたれさせる。


「――そこに、私は割り込めない?」


「女性は恋愛対象外です、先生のことは好きですけど・・・」


その人に好意を抱くことはあっても、恋とか愛情とかは感じていないのが現状。


「困ったわね、私はあなたの事が好きなのに」


あっさり、照れも無く言う戸倉先生。

告白も突然、唐突にあっさり言われてびっくりしたものだ。


「聞きますけど、先生は私のどこが好きなんですか?」


「まあ―――大体、全部知っているからねえ・・・直美ちゃんのことは」


・・・診察の度に胸を見せていますけどね、ついでに言うと胸も開胸して手術もしているからある意味、すべてを知られていると言ってもいい。

でも、それくらいで患者の事を好きになるだろうか?

私以外、美人や可愛い子はいくらでも病院に来て先生の診察を受けるだろうに。

「普通な所」

普通な所って・・・

「・・・具体的に言ってください」

「だって、それくらいしか思い浮かばないんだもの」

表情から本当にそれくらいしか思い浮かばないようなのが分かる。

ちょっと酷いとは思う、もう少し上げてくれれば私を好きだという事は認めようと思うのに。

「先生、私のことが好きならもう少し具体的に言えてもいいでしょう? 今日はもう帰ります、返事はNOです」

戸倉先生のことは好きだけど、私の好きは恋愛感情の“好き”ではないと思う。

憧れや好意止まりの好きで。


「ちょっと―――直美ちゃん!」


「お疲れさまでした、嫌いにはならないので大丈夫ですよ、先生」


一応、フォローを入れておく。

戸倉先生のことだ、落ち込むかどうか分からないけれど自信満々だったのに私に断られて少しは胸が痛むかもしれないから(笑)。






次の診察は1か月後だった。

そろそろ病院には行かなくても大丈夫かなと自分では思っているのだけれど、経過観察とだからと戸倉先生が診察する。

私は疑ってはいるのだけれど―――


「疑っていたの? 私が直美ちゃんにワザと診察に来させるようにしていたって」


疑問をぶつけたら先生が憮然として言い放つ。

自分が疑われたことが大いに不満らしい、強い調子で否定してくる。

「だって・・・もう手術は1年前に終わりましたし、もう発作も起きずに調子がいいのに」

手術をする前とは大違いだった、いつ発作が起こるかどうかも分からない状態で私はいつもビクビクしていて発作が起きたら起きたで、死んでしまいそうなくらい衰弱した私はすぐに病院に運ばれ、処置、検査等々を受けて生き延びてきた。

その私が手術をしてその心配がなくなったのだ、身体も楽だし。

自分自身がそう感じている。

「手術後のアフターケアは必要なのよ、公私混同はしていないわ」

プリプリと怒る。

その様子に言い過ぎたと思い私は謝った。

「すみません・・・」

「ま、直美ちゃんと病院で会えるのは嬉しいけど」

「・・・・・」

余計なことは言わなきゃいいのに―――と思いながら私は服を着る。

今日も問題無し、普通に生活できていることが嬉しかった。

「ねえ、直美ちゃん」

「はい?」

「この間のこと、家に帰って色々と考えたの」

「この間のことって?」

はて、なんだろうか。

首を傾げた私のことを戸倉先生は呆れたようにして見ている。

「・・・それ、真面目に言っているのだったら天然中の天然よね」

「分からないんですけど」

「私の告白の話よ」

「ああ、あれはお断りしたと思いますけど」

もう、すっぱり、きっぱりさせたと思っていた。

私は。

好きな人の好きなところを具体的に言えない人が、本当に私を好きだとは思えなかった。

「もう一度チャンスを頂戴」

「ダメです、もうお断りしました」

好かれるのは嬉しいけど多分、私は先生の気持ちを持て余してしまいそうな気がする。

「えぇ―――ダメ?」

いつものシャキッと凛々しい戸倉先生の態度が変わって、私にしがみついてくる。

「・・・ダメです」

一度、決めたことだしと急に変わった先生の態度によろめきつつ断った。

「普通の顔とか、小さい胸とか、時々Hそうな声を出すところじゃダメ?」

「本当に私を好きなんですか? その、私の好きな所って変です」

確かに私は並みの顔だし、並みのスタイルだし、胸は小さいですよ。

何もそれを強調しなくたっていいじゃないの、今度は私がプリプリ怒る番だった。

「―――もう帰ります、また1か月後に。じゃ」

私はつかまれている手を振り払って立ち上がった。

「直美ちゃん」

「他の人を当たって下さい、戸倉先生に声を掛けてもらいたい人はたくさんいるでしょうし」

「直美ちゃん―――」

「そんな顔をしてそんな声を出したってダメなものはダメなんですから、諦めてください」

先生がこんなにしつこいとは思わなかった、もっとあっさりしているかと思ったのに。

「じゃっ」

振り払って診察室を出た。

出てから廊下を歩きつつ、ため息を付く。

何でまた、私のなのだろうと思う。

そんなに固執するほど、私は特別なのだろうか。

考えるほど分からなくなる、戸倉先生なら相手なんて選び放題だろうに。

また来るのは1か月後、しばらくは迫られることは無いので安心だ。

もう1か月すれば私への気持ちも薄れてゆくだろうし、好きな人も出来るかもしれない。

私はそれを期待したのだけれど――――




「はあ・・・」

私は何故か通っている病院の院長室に呼ばれた。

あの診察の3日後に。

目の前には病院の入り口に飾ってある写真の人と似ている小太りの男性。

少し汗をかいていて、ハンカチで額の汗を拭っている。

隣には長身の同じくらいの年齢のメガネをかけた男性が立っていた。

「日室さん、お願いします」

小太りの男性はここの院長先生だった。

向かい合った椅子に座って私に頭を下げている。


「困ります、頭を上げて下さい」


なんでこんなことになったのだろうか――


「私からもお願いします」


となりのメガネさんは、秘書の方らしい。

いつも院長と歩いているのを見かける、小さくないまでも巨大病院でも無いので病院内を歩いていれば見つけることが出来た。

「私、なんの力もありませんよ?」

先ほど、私が院長に言われたこと、頼まれたことに対して。

「いやいや、日室さんしかできないんです」

下手したら絨毯の床に額を擦り付けそうなくらい私に頼み込んで来る。

「そりゃあ、戸倉先生とは長い付き合いですけど・・・他にも先生の患者さんは多いじゃないですか」

なぜ、私にこんな依頼が来たのか。

「確かに、数多くの患者さんを見ておりますが日室さんが一番仲が良かったと聞き及んでおります」

どこをどう見たら私と先生の仲が良かったと思ったのだ。

喧嘩とかはしなかったけれど、話す口調はいつもツンケンだし、私も言いたいことは言った。

「彼女が戻って来てくれないと業務が圧迫されて大変困っておるのです、どうしてもあなたのお力を借りたいのです」

ぎゅうっ。

「は・・・ぁ・・・」

私は両手を握られて懇願される。

戸倉先生は出来る先生なので、ひとりで他の先生の二人、三人分ぐらいは働いているのだろう。

それだけの仕事が、戸倉先生が仕事に戻らないと他の先生に回り、負担になるのか。

「お願いしますっ、彼女に戻ってくれるよう説得してください!」

再度、院長は私に頭を下げたのだった。



渡されたメモを見る。

そこには住所が書かれており、その住所に住んでいるのは戸倉先生だ。

結局、渋る私は院長と秘書に拝み倒されて出勤拒否をしているという戸倉先生の自宅に向かうことになってしまった。

 出勤拒否な上に、仕事を辞めるって―――

多分というか、そうかな、というか原因の察しは付く。

私は自惚れ屋でも、自意識過剰でもないけど、原因は私が告白を断ったこと――-―それくらいしか思い当たらない。

普通の会社ならクビになっていてもおかしくないのにクビにならず、院長に頭を下げさせて復帰を望まれる優秀な人材なのだろうなと思う。

でも、それくらいで出勤拒否とかありえなくない?

あの戸倉先生がそんなに柔なメンタルをしているとは思えなかった。

「・・・1の4、――――――マンション」

メモを見て足を止め、上を見上げた。

ここら辺は高級マンションが立ち並ぶセレブまたは成功者が住んでいる地域として名高い。

私たちは憧れるだけで、住むことも近づくこともできないだろう。

見上げているだけで首が痛くなりそうなくらい高いマンション、いや億ションか。

その何階だって? 50階?

目の前のビルは52階建てだ、あと2階で最上階じゃないかと驚く。

戸倉先生は一体どれくらい稼いでいるのだろうか(汗)

こんなところに住んでいるとか、普段の診察室でのやりとりでは想像も出来なかった。


 ほんとに私の説得で辞めると言ったことを撤回してくれるかなあ・・・


不安しかない。

任せてください、とは返事はしなかった。

説得に失敗したらすみません、と謝ったくらい。

マンションの入り口に防犯のためのインターフォンがある、来客はそこにあるインターフォンから部屋の住人と連絡を取り、住人の了解が出たら自動ドアを開けてもらうようになっているらしい。

私はインターフォンの装置の前に立ち、戸倉先生の部屋番号を押した。

ほどなくして、音声の出て来るスピーカーから気怠そうな先生の声が聞こえて来る。

「―――どなた?」

聞こえて来た声には張りが無い。

だらけているような、緊張感も無い。

「こんにちは、戸倉先生、日室です」

少々、ガッカリしながらも自分の仕事を思い出してスピーカーに向かった。

その瞬間、ガタッ、ガタガタと凄い音がした。

「・・・大丈夫ですか、先生?」

応答が無い。

「戸倉先生?」

「・・・何、なんで直美ちゃんがうちを知っているのよ」

落ち着いて話しているように聞こえるけれど動揺が伝わって来る。

余程、だらけていたのだろう(笑)

「院長からお聞きしました、今日はその件で来たんです」

「・・・・」

またしても無言が少し続く。

「辞めるって言ったら辞めるのよ、どこの病院にも行かないわ」

院長は戸倉先生が他の病院に移るかもしれないとも言っていた。

それを戸倉先生が否定する。

でも、辞めるというのは取り下げるつもりはないようだった。

「入れて頂けませんか?」

「直美ちゃんには関係ないでしょう、なんで院長の手先をしているのよ」

「手先って―――戸倉先生に辞められると困る患者さんが沢山出るんですよ?」

「私の代わりくらい居るでしょ、私を追い出したい先生もたくさんいるみたいだからいい機会じゃない」

ぶすりと言う。

もう、ヤケになっているようだ。

「それに私も先生に辞められると困りますし」

「―――そんな事を言っても取り消さないんだから」

グッと私の言ったことに一瞬だけ、詰まる感じになる。

「私の手術後の経過を見てくれるんじゃないんですか?」

「そんなの、引き継いでおくわ」

「責任放棄です」

「辞める、辞めない、は私の自由でしょ、とやかく言われる筋合いはないわ」

それは一理ある―――って、違う。

「もうちょっと大人になってください、先生」

「十分、大人よ。直美ちゃんに振られたことが人生見つめ直すきっかけになった事は確かね」

「先生」

「私のことは放っておいて、戻って院長にも早く退職届を受理してって言ってやって」

これはかなり強い意志で辞める気だ。

「とにかく、私の話くらいは聞いてください」

「いや」

プチン

「・・・まるで子供ですね、先生のこと見損ないました」

こんなに話の通じない人だとは思わなかった。

「もういいです、先生なんて辞めてしまえばいいんです。はるばる説得に来ましたけどバカバカしくて会う気も失せました、失礼します」

私の中ではかなり怒っていた部類だ。

声が恐ろしいほど低くなって、淡々と話す口調になる。

「あ・・・なお・・みちゃん?」

予想外の反応だったのだろう、インターフォン越しから戸惑う声が聞こえて来た。

私の方もいい加減、怒りが湧いてきているのですぐその場から去ろうとする。

「ま、待って!」

けれど、慌てたような戸倉先生の声が私を引き留めた。

「話を―――聞いてくれますか、戸倉先生?」

・・・ぐ・・ぬう・・・

葛藤があったのだろうことは想像に難くない、ちょっとの間があってから先生が口を開いた。

「負けたわ・・・入って来て、直美ちゃん」

カチャン

解錠音がすると、目の前の自動ドアが開いたのだった。



エレベータは住人の階にしか止まらない、防犯対策はバッチリだった。

一気に50階まで昇ったので耳が痛くなったけれど、降りると痛くなくなった。

先生の部屋番号に向かって歩いてゆく、どの部屋にも番号しかなく表札は一つも無い。

「・・・・あ、った、ここだ」

メモの部屋番号と、扉の部屋番号を照合すると呼び鈴を押した。

ブー、ブー、ブー

初めて来る場所だし、滅多に来られない場所なので緊張する。

先生とも病院以外で会うのは初めてだった。

カチャリ。

玄関が開く。

「戸倉先生」

「・・・いらっしゃい、直美ちゃん」

髪はボサボサ、ほぼすっぴんらしい戸倉先生が私を出迎えてくれた。

それに、驚きはバスローブ姿で。

今、お昼過ぎですけど?と言ってやりたいくらいの酷さだった。

「こんな格好で悪いわね」

「・・・もしかして、ずっとですか?」

玄関に入れてもらいながら私は聞く、想像以上の荒れ具合でびっくりした。

「呆れた?」

「と、いうより、驚いています」

「私も完璧人間じゃないのよ、人がどう思っているか分からないけど」

先生の後を付いてゆく。

玄関から豪華な内装なのは分かったけれど、戸倉先生の方の印象が強くて見惚れる余裕もない。

「何か飲む?」

「いえ、大丈夫です」

「遠慮しなくていいわ、お茶なんて急須で出さないから」

と、言って戸倉先生は500mLペットボトルのミネラルウォーターを私にくれた。

「・・・ありがとうございます」

散らかってはいないけれど、一番大きな部屋の床に酒瓶が転がっている。

そう言えば、先生からお酒の匂い。

ドサッ

戸倉先生は今まで寝そべっていたであろう、革張りの高級そうなソファーに座った。

近くのテーブルにはお酒が並んで置いてある。

ヤケ酒なのか・・・

足取りははっきりしていたので酔ってはいないようである。

とはいえ、床の放置酒瓶と、テーブルの上の酒瓶の量は半端ない。

「―――で、話って」

どうでもいいような態度の戸倉先生。

「院長が辞表は撤回して欲しいと言っていらっしゃいました」

「しないわ」

「先生のことを必要としている人が居るのに辞めてしまうんですか? 現状、なにも不自由はないじゃないですか」

「不自由は無いわ、でも熱意が無いの。分かるでしょ、熱意が私に仕事をさせるのよ」

確かに、今の先生は抜け殻としか思えない。

「熱意ってそんなに失われるものなんですか」

「そうそう無いわね。でも、私の場合は・・・困ったことに直美ちゃんのことが発端なの」

戸倉先生の口から教えて貰う。

「私だって付き合う人を選ぶ権利はあります」

「分かっているわ、だからどうにもならないのよ」

先生の手がガラステーブルの上の瓶ビールに手が伸びる。

「ダメです、先生」

「ヤケ酒くらい飲ませてよ、ずっと我慢していたんだから」

「戻って来られなくなりますよ、先生は良く知っているじゃないですか」

お医者様なのだし、やっていられないのは分かるけれど。

「いつからあなたは私にそんなことを言えるようになったの?」

キツめに言われる。

確かに私は先生にそんなことを言える立場ではない。

けれど、院長にあんな風に頼まれたからには少しでも戸倉先生の気持ちを変えたかった。

「差し出がましいことは重々承知しています、院長さんだけじゃなくてその他の患者さんたちも先生がいなくて心配しています」

「・・・言ったでしょ、熱意が無いのよ。いくら周りが私を求めても本人にその気が無いんだから」

掴んだビール瓶を離す戸倉先生。

「先生の熱意って―――」

先生が私を見る。

「あなたに振られたからって当てつけじゃないのよ? そんなに子供じゃないわ。でも――今の状態で仕事をしてもミスをするだけだから辞めるのよ」

「戸倉先生」

「病院だって不祥事を起こされたら困るでしょ? 院長が私の転職を考えていてのことだったら違うと言ってやって」

「それは先生が言うべきです」

「私はきちんとするべき手続きをしたのよ? それで終わりでしょ」

これでは延々とずっと押し問答になってしまう。

「私は・・・戸倉先生に辞めて欲しくありません」

それは本当だ、引き留めるつもりで言っているわけではなかった。

「情に訴えようってこと? 院長もやるわね」

「そういうことも考えていらっしゃったと思いますけど、私自身もそう思っている事です。折角、活躍の場があって医者として患者さんを助けることが出来るのにしないのは・・・戸倉先生のこと見損ないました」

「・・・・・」

「先生のこと説得できるとは思っていなかったのでこのまま正直に院長には話しをします、私の先生は川上さんになるそうです」

ピクリ。

先生の手が反応した。

「・・・川上ですって?」

「え、あ、はい、川上先生です」

男性の歳は30半ばでまだ独身だけど、美男子とは言わないまでも見た目が普通よりいいし、往診の対応良いので女性からも人気があった。

「あの、川上よね?」

「あの病院には一人しか居ないじゃないですか」

何を言っているのか。

「ダメ!!」

戸倉先生はいきなり立ち上がって叫んだ。

「せ、先生?」

私は驚いて固まってしまう。

戸倉先生がそんな風に叫ぶことは滅多に無かった。

「あの川上でしょう? 絶対にダメよ!あれはダメ!」

私の方を向いて熱心にダメだと言う。

何がダメなのだろうか、いい先生だと思うのに。

「先生、何か知っているんですか?」

だからの、否定なのだろう。

「な―――にも、知らないわ」

口を噤んだら何か知っているとしか思えないじゃないですか(苦笑)

「辞表撤回」

「えっ?」

先生はテーブルの上に酒瓶と一緒になっていたスマホを取り上げるとどこかにかけ始めた。

長めの呼び出しがあってやっと相手が出て、先生は勢いがついたように話し、ぶつりと切ってしまった。

その間、1分も無かったと思う。

「はあ―――」

ドサリと、またソファーに座って大きな息を吐いた。

「先生・・・・」

「病院を辞めるのを撤回してやったわ、これでいいんでしょう?」

いきなりの急展開、どういう心境の変化なのだろうか。

「それはいいですけど、急な辞表撤回というのは―――」

「直美ちゃんには関係ないわ、とにかく私が辞めないのだからいいじゃない」

と、強引に幕引きを図る。

川上先生の名前が出て来てからの辞表撤回、何かあるのは確実だった。

「それはそうですが・・・」

あんなに熱意が無くなったから辞める、って言っていたのに急な180℃転換の理由が知りたい。

「あんまりしつこいと本当に辞めるわよ?」

「それは困ります」

折角、辞表を撤回してくれたのだ、振り出しに戻るのは困る。


「・・・誰があんな奴に私の大事な直美ちゃんを任せられるかっての」


ボソリと戸倉先生が呟く。

余程、川上先生が気に入らないのかその言い方は怨念がこもっているようだった。

私は2人が喧嘩をしたり、険悪な雰囲気でいたところは見たことが無い。

ただ、いい大人だから素顔と内心を隠して笑顔で接していたりしたのかもしれない。

「先生は川上先生のことが嫌いなんですか?」

「嫌いよ」

即答される。

「嫌いなんですか」

「直美ちゃんは好きなの?」

逆に聞かれる。

「好きというか、嫌いではないですけど。いい先生ですし」

人当たりがいいというのは医者としてポイントが高いと思う、むっつりしながら診察されるよりは親しみやすいし。

「騙されているのよ、みんな。あの、ニヤケ面にね」

と、手厳しい。

美人は、イケメンに手厳しいのだろうか。

「―――とにかく、目的は果たせましたので帰ります」

理由は聞けなさそうだけど、戸倉先生が辞めないと分かったのでそれだけは収穫だ。

「帰るの?」

「はい、私お酒の匂いはちょっと・・・」

気にはならなかったものの、ずっとこの部屋に居ると酔いそうな感じだった。

私は飲まないので匂いだけでも悪酔いするのである。

「窓、開けるわ。部屋も片付けるし、ちょっと寄って行かない?」

急いでソファーから起き上がって窓をガラッと開け、床に転がっている酒瓶を拾い集めはじめる戸倉先生。

「私、帰りますから――先生」

「折角、来たんだしね? ね?」

慌てたように言う。

「・・・・・」

ついさっきまでの態度はどこへやら、腰が低くなってしまう。

そこまでして私に居て欲しいらしい、私は軽く息を吐いた。

「片付け、手伝いますから。戸倉先生は着替えて来て下さい」

「直美ちゃん」

パッと先生の表情が明るくなる、実に正直(笑)

「ほら、そんな恰好で動かないでください。目の毒です」

私は袋を先生から奪い取る。

「ありがとう、すぐ着替えて来るから!」

先生のマンションに来た時には考えられなかった笑顔になると寝室に着替えに行った。

私はその後姿を見送ると、袋にゴンゴンと瓶と缶を入れてゆく。

一体、何本飲んだのか・・・いくら熱意を失ったからってヤケ酒し過ぎ。

窓を開けたとはいえ、まだアルコールの匂いが空気中に残っていた。

身体がぽわぽわするのでそう感じる。

全部を片付け終わる頃には私は酔ってしまい、フラついてソファーに座りこんだ。

「ごめん、大丈夫?」

だらけていた戸倉先生はいつの間にか、着替えるといつものようにシャキッとしている。

こっちの方が断然いいのに(笑)

お湯も沸かして、急須でお茶も入れてくれた。

「大丈夫です」

寒い風が心地よく感じ、いかに部屋の中が淀んでいたか分かる。

「何も用意しなくていいですから、帰りますし」

「直美ちゃん」

はしっと腕をつかまれ、引き留められた。

「・・・私、お断りしましたよね?」

「う、うん」

ただ、私に居て欲しいだけなのは分かる。

その為に一生懸命、私を引き留めている姿は可愛く思えて笑ってしまった。

「なによ、笑う事ないじゃない」

「全然、病院と違いますね、戸倉先生」

「仕事中は仕事モードなのよ、ここは家なんだからプライベートモードで誰にも気を使わなくてもいいから気を抜いているの」

ぶすっとして言う。

「オンオフは大事ですからね」

「そうなのよ、直美ちゃんと居る時は素が出そうになるから困るわ」

そう言いながらもそんな場面には遭遇したことは無い。

上手に隠しているのか、ギリギリで押しとどめているのか。

「・・・・・」

「なに?」

自分の事を私がじっと見ているからか聞いてくる。

「先生って美人ですよね」

前々から思っていることを言ってみる、実際に言うのは初めてだ。

「――-――いやあね、何よ、今更」

私が真面目にそんなことを言うものだから先生の方が表情を崩す。

「私、会った時から美人ってこの世に存在するのかって思いましたもの」

「おだてているの? 私のこと」

「おだててじゃなくて、正直な感想です。美人って得ですよね」

私がそう言うと先生は顔をしかめた。

「そんなわけないじゃない、損よ、損。男からは嫌な目で見られるし、女からは羨望より妬みの視線を感じるし、足を引っ張られるし散々よ」

一番、嫌なのはブ男と爺のさり気ないセクハラらしい。

こんこんと私に美女のデメリットを話す戸倉先生、次第に熱を帯びてゆき、お昼を食べていかない?と聞かれる時間になってしまう。

私は先生が出した辞表を撤回してもらうために来ただけなのに・・・(笑)

「先生、私―――」

「帰るの?」

そんな風に聞かれると、帰りますとは言えなくなる。

これが先生の作戦なのかもしれない。

「辞表の撤回を頼みに来ただけですので」

「直美ちゃんシビア・・・」

「ご飯で懐柔しようとしても返事はNOのままですからね」

「・・・・」

そのまま黙る戸倉先生、そのつもりだったのか(呆)

「―-――まあ、せっかくなのでお昼は頂きますけど」

美人の手料理は気になる。

あ、でも逆に酷いかもしれないとも思う。

先生の場合は予測が難しい。

本当に―――


ドン、ドン。


丼、丼。


「毎度ありがとうございました―――」


オカモチに入れて持って来てくれた若いお兄さんが爽やかに言った。

戸倉先生は、代金と残りのお釣りを彼にチップだと言ってあげる。

お釣りをチップとしてあげたことなど無い、さすが儲けている人は違う。

とはいえ、お昼は出前の天丼だった。

自分で作るわけじゃないんだ(笑)

私も出前を取らないわけじゃないけれど、人が来てもほとんど自炊なのでちょっと残念。

どんなものを作ってくれるか楽しみにしていたのに。

「料理? あまりしないわね」

私が料理について聞くと、当然のように答えてくれる。

「なるほど」

「なるほど?」

美人=パーフェクトと思うのは私の固定イメージだったようだ。

美人だから料理上手とか、スタイルが抜群だとか、頭がいいとか何から何まで文句が無いわけではないのだ。

人間だし。

何かしら欠点はあるものだ、私にも先生にも。

「先生のこと、少し分かりました」

「もう、5年くらい経つのにね」

ぱかっ

天丼の蓋を開けた。

「お医者さんと患者ですから仕方がありません」

「私は直美ちゃんの個人ドクターになりたかったな」

まだ、私のことを諦めていないのかふと話を振ってしてくるから先生は侮れない。

「とっとと諦めて下さい」

「天丼は温かいのに、直美ちゃんは冷たいわ」

しくしくと泣きまねをしながら天丼にかぶりつく先生。

とはいえ、天丼は久しぶりで先生の奢りなので遠慮なく頂くことにする。

ひとの奢りは実に美味しい、目的も達成したので美味しく食べられる。

「先生はズボラなんですね」

「知らなかったの?」

と、来た。

「知りませんよ、先生のプライベートなんて」

病院でしか会っていないし、知るすべもない。

今日、すっぴんでバスローブ姿の先生がお酒のビンに囲まれているのを初めて見た。

それだけでも相当ショックなのに色々と私の知らない先生を見てしまった。

「直美ちゃんにはもっと知って貰いたいんだけど・・・」

「諦めが悪いですよ」

私に考え直させようとしているのか、しつこい(苦笑)。

「私、こう見えても諦めが悪いの。メンタルも弱いし」

「病院では虚勢ですか」

戸倉先生は食べるのを止め、私を見て苦笑した。

「―――痛いとこ突くわね、半分くらいかな。病院ってね、働いている人は女性が多いけど男性社会なの、特に学歴が高い女には風当たりは強いのよ。直美ちゃんにはそういう影の部分は見えないかもしれないけれど」

メンタルが弱いのは分かる、私に振られて仕事への熱意が無くなったっていうくらいだから。

でも、それにしたってそれくらいで・・・と思わなくもない。


「それくらいで、と思っているでしょう?」


あ、顔に出ていたかな?と焦る。


「私も大変なのよ」


そう言ってふと小さく笑った戸倉先生にドキリとした。


あ、れ? 今の――――


そんなつもりは全く無いのに。

私は天丼を食べながらドキドキしている。

まったくミスマッチな状況。

「お茶、注ぐわね」

「あ、はい、ありがとうございます」

湯呑というよりはコーヒーを飲むようなカップに緑茶が注がれる。

それを見ながら戸倉先生は大ざっぱな性格なんだろうな、と思う私。

色々と、固定概念を捨てないといけないようだ。

とはいえ、私は先生に言ったことを変えるつもりはなかった。

女性である先生と付き合うという事が想像できない、好き嫌い以前に。

「先生って、どんな人と付き合ったんですか?」

だから聞いてみた、興味本位で聞かれるのは気分的に嫌だろうか。

ぶっ

戸倉先生が飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。

いや、吹き出したか。

「―――直美ちゃん?」

「共通点があるのかなと思って、興味本位だけど・・・話すのが嫌なら別に答えなくてもいいです」

「共通点? ないかも。直美ちゃんみたいに大人しくないもの」

「大人しいですか?」

「そう、もうね猛禽類が獲物を狙う感じに貪欲なの」

「・・・・・」

例えが伝わりづらい。

「直美ちゃんはピュアね、だから好きになったのかも」

貪欲・・・ピュア・・・ワードで何とかイメージをする。

そんな私の状態を戸倉先生は見て笑う。

「6人くらいかな、今まで付き合ったひとの数」

「全員、女性なんですよね」

「そうよ、私は男が嫌いなの。ゴツゴツしているし、毛があるし、乱暴だし、気が利かないしets」

色々、出たけど長くなりそうなので割愛。

「いつからなんですか、自覚したの」

自分が女性を好きなのだと思い始めたのは。

「そうね――もう、小学生の時には自覚していたわ。周りにも親にも分かって貰えなかったのは切なかったけど」

「それは随分と前なんですね」

「直美ちゃんと同じようにダメだった人もいたけど」

それについてはノーコメントで。

同情で決意を揺らがせたくなかった。

「でも、恋人にはなれなかったけど今でも友人して付き合っている人はたくさんいるわ。もちろん、私のことを知って去って行った人も居るけど・・・」

最後の言葉は少し寂しそうに言う。

「直美ちゃんは前者ね、部屋の片づけをしてくれて、心配して家に来てくれて一緒にご飯を食べてくれているから」

「院長に頼まれましたので」

とはいえ院長に熱心に頼まれたこともあるけど、それ以上に戸倉先生に病院を、医者を止めて欲しくなかったということもある。

医者になるのにはすごく勉強をして、難しい国家試験を受け、何十倍もの倍率を通過して初めてなれるものだと聞いた。

それに、医者になると言ってもすぐには医者らしいことをさせてもらえず何年かは辛抱のインターン生活と聞く。

それを終えてようやくなった医者をあっさり辞めてしまうのは勿体ない。

患者さんだって寂しいと思うはずだし、いきなり他の先生になっても不安しかないだろう。

「ありがとう」

「お礼を言われることは何も」

「それにごめんなさいね、朝のこと」

あの、朝玄関を開けての私への態度のことだろうか。

「いいものを見られましたから」

「直美ちゃん」

呆れたように戸倉先生。

「でも、無防備すぎます」

いくら完全防備のマンションだとしても、絶対的信頼にも穴はある。

「心配してくれるの?」

「一応、あんな格好で人は迎え込まないように」

動くと合わせ目から零れるような胸が見えるし、裾から下の生足が艶めかしい。

「あ、もしかして、ドキドキした?」

先生が調子に乗って来る。

「していません」

ドキドキはしなかったけれど目を逸らしてしまうことはあった。

「ドキドキしたんだ――」

「していません」

再度の否定、きっぱりと。

付き合うつもりはないのである。

「ふうむ」

そんな私を見ながら戸倉先生はなにか、決心するように頷いた。





それから月一の診察は勿論のこと、私のスマホの番号をどこで知ったのか数日おきに戸倉先生は電話をかけて来ては私のことがいかに好きか、どこが好きかを報告するようになった。

「個人情報の漏洩、犯罪です。先生」

私は月一の診察で強く抗議する。

「証拠は? 漏れるわけが無いじゃない」

聴診器を私の胸に当てながら先生はしれっと言う。

「じゃあ何で先生が私の電話番号を知っているんですか、教えてもいないのに」

「教えて貰ったの」

としか言わない、出所も。

「それに、終わったことを蒸し返すのは良くないです。あの件に関してはお断りしたはずです」

猛アタックに近く、迷惑している

「好きなところを言って欲しいんでしょう?」

「あの時にです、お断りした後ではありません」

静かな言い合いをしていたら少し体温が上がってくる。

毎日、感情の起伏の少ない生活をしているので月一の診察の時はいつもより興奮してしまう。

聴診器をひたひたと当てながら戸倉先生は私の好きなところをひとつず上げてゆき、私は否定か抗議しかしない。

お互いにムキになってそんなやりとり。

「―――何個言っても遅すぎますので、お断りします」

チクリ

「うっ」

「なおみ直美ちゃん?」

先生が軽口を叩くのを止めて私を見る。

「・・・大丈夫です、何でもありません」

気のせいだ。

ずっと何もなかった、発作も。

「痛みがあるの?」

「無いですよ、ぴんぴんしています」

私はブラジャーを付けながら笑って答える。

さっきはチクリと痛みが走ったけれど今はもう無い。

「本当? 黙っていないでちゃんと話してくれないとダメよ」

そこは真剣な表情で私に言い聞かせる戸倉先生、さすがに切替えはきちんとしていた。

「大丈夫ですって、そんなに心配しないでください」

人の心配がうざったいと思うことがある。

自分を心配してくれているのは分かっているけれど、大丈夫?という言葉が何度も繰り返されて人に迷惑をかけているんじゃないかと思うのだ。

声を掛けられなくても自分の身体のことは分かるし、大丈夫ですと答える労力も私の心を蝕んでゆく。

人の好意が苦痛になって段々、嫌な自分になってゆく。

「何かあったら―――」

「ありがとうございました」

私は戸倉先生が言っているのにも関わらず、遮るようにお礼を言うと診察室から出たのだった。





家に帰って2日おきに電話が来る、先生から。

忙しいのにいつ、電話をかけてきているのだろうか。

この電話攻撃の代わりにメールかLINEを教えたら少しはマシになるかもしれない、と最近は思うようになった。

電話の来る日の最後には私は出るようにしている、さすがに可哀想に思って。

そういうことをするから電話がずっとかかって来るのだろうな(苦笑)

今日は昨日電話が来たから来ない日だ、来ない日はブーブーマナー音が鳴らないので平和だ。

静かに本を読めるし、集中して自分のしたいことが出来る。

いつもどおりお夕飯を食べて、しばらくしてお風呂に入る。

お湯には全身浸かってよく暖まることにしていた。

至福の時。

お湯に浸かっていると日中の嫌なことを忘れることが出来るので嬉しい。

胸には手術の痕がある。

これでも目立たないようにしてくれたけれど、お風呂に入ると体温が上がるので手術痕が浮き出てはっきりと分かってしまう。

「・・・・」

手のひらで触れると、とくとくと心臓の鼓動が聞こえる。

今は正常な鼓動。

これが酷くなると乱れ、締め付けられるような激しい痛みを伴う。

手術前はしょっちゅうだったのに今は全くない、直ったんじゃないかと両親も周りも言うけれど戸倉先生はまだ観察は必要だと言う。

 それは先生の個人的な――――

先生は即座に否定して私を怒った。

怒りは本物で、私が手術後の経過を軽く見たため。

それ以降は、私も月一の診察は真剣に受けている。

チクリ

「うっ」

まただ。

刺すような痛みが一瞬だけある。

でも、その痛みはすぐに無くなってしまう。

先生には言っていない、ただの痛みだけかもしれないから――



私は夜中に起きた。

寒さよりも喉の渇きが酷かったから。

いつもよりやけに喉が渇く、寝る前に喉が渇くものは食べなかったし、白湯も飲んだのに。

ゆっくりとベッドから起きてキッチンに行く。

起きた時に時計を見たらまだ2時過ぎだった、朝まで十分に寝られる。

ミネラルウォーターを取り出すとそのまま持って寝室まで移動した。

ひとくちふたくちでは喉の渇きが収まりそうもないので、ベッドの近くに置いておいてチビチビ飲もう。

暖たかった身体はキッチンと寝室を移動しただけで体温が下がった気がする。

ベッドに入る前にペットボトルの水をふたくち飲んだ。

ごくり

冷たい水が喉を通り、胃に落ち込む。

一瞬にして渇いた喉に水は吸い込まれた。

ふうー

キャップを良く締めて私はベッドサイドに置き、布団に入ろうとした。


ズキッ


チクリ、ではない痛みが私を襲った。

ズキズキと心臓が締め付けてくるように激しい痛み。


「あ――――・・・くっ」


私はベッドに胸を押さえて倒れ込む。

痛みのせいで呼吸も出来ず、ヒューヒューという音しか出ない。

激しい痛みに布団を強く握りしめるも、痛みは収まりそうもなかった。


「・・・・っ」


呼吸が出来ないのが辛い。

この痛みは完全に心臓だった。

片手で私は胸を押さえながら空いている手でなんとかスマホを取ろうとする。

手の届く場所においたはずなのに、苦しんでいる時はすぐに見つけることが出来ない。

手が何もない場所を動く。

 は・・・はやく・・・

痛みと、しづらい呼吸とで苦労しながらなんとかスマホを掴むことができた。


ズキンッ


「く、ぅっ!」


心臓が潰れるかのような大きな痛みが来た。

私はスマホを強く握ったまま、動けない。

痛みに抵抗するのではなく、痛みが小さくなるまでそのままでいる。

動くことができないのでそうするしかなかった。


ぜー、ぜー


呼吸が乱れ、息が出来ず、ぼうっとする。

少し痛みが収まって来たので、握っているスマホを操作した。

手が震えていたので上手く操作できない、突発的に痛みがやってくるので普段なら簡単な操作にてまどってしまう。

電話帳から戸倉先生を呼出し、通話ボタンを押す。

 早く、早く―――

いつ大きな痛みが来るか分からない中、すがるように暗闇に浮かび上がる明かりを頼る。

何コールか目で先生が出てくれた。


「もしもし、どうしたの? こんな夜中に」


夜中の電話にも関わらず、怒っていないようだった。


「あ、せんせい―――ぐっ」


ようやく繋がった先生と話そうとした時、また激しい痛みが襲ってきた。

今度はかなり激しかった。

スマホを取り落としてしまう。


 ぐっ・・・・は・・っ


顔を布団に押し付けるほど耐え難い痛みが心臓を締め付てきた。


「直美ちゃん?!」


先生が私を呼んでくれるけれど私は答えることが出来ない。


「ぐ・・・・っ」


十分な空気を吸うことが出来ず、ゼエゼエと息をする。


「直美ちゃん?何かあったの? 大丈夫!?」


「せ・・・んせ・・・い」


何とかスマホを手にして声を出した。


ズキン!!


「―――ぐうっ!!」


「直美ちゃん!!」


上体が反るくらいの痛みがきて私はのけ反るとそのまま意識を失った――――――






私が次に目を覚ましたのは病院のベッドだった。

腕、口、鼻にはチューブが刺され、ベッドの周りには機械が物々しく置いてある。

目を覚ましても最初は視界がぼんやりとしていて良く分からない。

徐々にピントが合って行くと白い天井だと分かり、隣に看護師さんが居るのが分かった。

「日室さん、お目覚めになりました?」

基本的に看護師さんは優しい、私はその問いに頷いて答える。

口には酸素吸入器がついているので話す事ができないのだ。

「今、ご両親をお呼びしますからね」

私は助かったらしい。

戸倉先生は病室に居ない、いまは診察だろうか。

先生に電話したから助かったのだろう、会いに来てくれたらお礼を言わないと・・・

そう思っていると両親が泣きはらした顔で病室に入って来た。


聞いた話によると夜中の私の電話に異常を察して戸倉先生は救急車を手配して、私のアパートにやって来てくれたらしい。

先生が着いた時には私の心臓は止まっていたので急きょ人口呼吸で何とか蘇生を施してくれた。

私の心臓は圧迫、衝撃には弱いのでAEDが使えなかったので大変だったと思う。

「本当に良かったわ、もう!戸倉先生には感謝しないとダメよ!」

お母さんが泣きながら言う。

「そうだぞ、夜中の2時に起こされたのに異変に気付いてくれたんだからな」

ごめんなさい―――

マスク越しに言う。

しばらく両親は病室に居たけれど、私が疲れるからということで看護師さんに追い出されてしまった。

ひとりになると部屋の酸素吸入器の動きと電子音だけが部屋に響く。

とりあえず心臓は痛くはないし、呼吸も出来ている。

昨晩のあの痛みは何だったのか――――

痛くて胸の上から心臓を覆った。

呼吸も出来ず、死ぬのかと覚悟もした覚えがある。

手術をしても痛みは無くならないのかと涙が滲んできた。

この心臓のせいで運動を諦め、ずっと静かに暮らしてきた私。

また、病室に籠る日々になるのか。

キイっ

引戸が開く音がした。

私は視線だけドアの方に向けると白い白衣が見える。


「直美ちゃん、気分はどう?」


戸倉先生だった。

少し疲れているように見えるのは気のせいだろうか。

私は大丈夫と言う風に頷く。

先生なら私のコミュニケーションは分かるだろうと察して。

「そう、良かった」

ベッドのすぐ側に立って私を見る。


 先生、ありがとう


「よく電話をくれたわ、あの状況で大変だったのに。痛かったでしょう?」


先生の顔がゆがむ。


先生のこと、信じていたから―――


私は動きづらい右手を動かす。

思ったようには動かず、プルプルと震えて上がった。


「身体の機能が戻っていないの、ちゃんと元通りになるには少し時間がかかるわ」


私の手を先生は取って、握ってくれた。

温かな感触は伝わって来る。


「ほんと、あなたを見つけた時は死んでしまったのかと思ったのよ。でも、死んでほしくないからできるだけのことはしたの。直美ちゃんが死ななくて良かったわ」


戸倉先生は腰を落とし、私の手を自分の口もとに持って行く。

何をするのかと思っていると私の手の甲にキスをした。


先生・・・


「良くなるまで私が診るから安心して」


先生の気持ちが本当だと分かる。

偽物だと疑ったわけじゃないけど本気じゃなくて、からかっているのだと少しは思っていた。

私は女性だし、先生も。

冗談の延長だと。

私は先生のことは好きだ。

でも、先生が私のことを好きだという好きとはちょっと違うけど。

――――少し疲れた。

先生を見ているだけなのに、それだけのことなのに疲労が激しい。

瞼が下りてきてしまう。


「よく休んで」


優しい声が聞こえて来る。

眠ることに不安はない、胸の痛みはないから。

それにここは安心できる病院で、戸倉先生が居る。

私は微睡の中に引き込まれて行った。





手術をして発作は無くなったかにみえたけれど、やはり私が倒れた時のような状況は今後も起きるようだった。

発作の回数が減っただけでもいい、と思わなければならないだろう。

戸倉先生を含めて偉い先生たちが集まって会議をしたけれど原因は不明。

元気に暮らしていただけに今回のことは私も両親もショックだった。

この世に存在する病気には原因が分からない、治療方法が分からないものも多数存在する。

人類はそれを根気よく、ひとつひとつ撲滅して来た。

私の病気もこのあと何年、何十年、何百年経って分かるのだろうか。

ショックではあったけれど私は悲観してはいない、余命を宣告されたわけではないのだ。

死ぬと言われたわけでもないのだから悲観する必要も無い。


「気分はどう?」


今日は朝から戸倉先生の回診、入院して1か月経った。

身体の調子はいいというのに検査のために私はまだ退院できない。

「大分、いいです」

「そう、今朝も採血させて頂戴」

先生がそう言うと側に居た看護師さんが採血の準備をする。

毎日のことなので私も慣れて看護師さんに腕を出す。

その間は私と看護師さんが話をするか無言の時間、先生が私に話しかけることは無い。

看護師さんが居るから―――

でも、先生は私を黙って見つめている。

それだけで私の身体は熱くなる。

今までだってそういうことはあったけれど今は・・・先生を変に意識してしまう。

戸倉先生に告白されても心境の変化は無かったのに。

トントントン

血が試験管に抜かれる。

濃い赤い血。

「痛くないですか?」

「はい、大丈夫です」

この看護師さんは注射が上手なので、痛くなることはなかった。

採血をし終わると、それを持ってすぐに出てゆく。

あとは先生に任せて。

戸倉先生はそれを待っている、扉の向こうに看護師さんが消えると私に声を掛けて来た。

「体調はいいみたいなのにこんなところに引き留めておいて悪いわね」

「仕方が無いです、病気なんですから」

自宅に帰して、病院としてもまたあのようなことが起きたら困るのだろう。

原因も分からないままだし。

「手術をしたらもう起きないと思っていたんだけど」

「人間の身体ですから」

私の方が前向きで、先生の方が落ち込んでいる。

「今は休養だと思っていますから、大丈夫です先生」

「直美ちゃんは前向きね」

「そりゃあ、余命を宣告されたわけじゃないし、すぐ死ぬわけでもないじゃないですか」

発作が起きなければ、だ。

今のところその確率は低いような気がする、手術をして回数も減ったし。

「直美ちゃん」

先生の綺麗な手が私の髪に触れる。

「ダメですよ、戸倉先生」

公私混同、贔屓は。

「いいでしょ、誰も見ていないわ」

私が強く拒否しないので先生は止めない。

「なるべく早く退院できるようにするから」

「楽しみにしています」

流れで指が髪から私の頬に触れた。

「―――やっぱりダメなの?」

「ダメです」

そこは断る。

毎日、戸倉先生の回診があるけれどその度に先生は私に告白の返事の再考をさせる。

諦めが悪い。

見た目、態度からしてクールであっさりしているように見えて先生は意外と真面目で一筋らしい。

「そもそも、私に女性は恋愛対象外です」

好き、といってもバナナが好きとかそういう風な意味合いの好きであり、付き合うという感じの好きではない。


でも、今はそれが揺らいでいた。


先生が揺さぶるのだ、私を。

毎日、単調なことだけどそれを繰り返しているだけで私は意識してしまう。

倒れて運ばれた病院で目を覚ました時の先生を思い出す、その姿は私に決意を揺るがせるくらいの印象があった。


「好きよ、直美ちゃん」


「先生」


私は強く先生の名を呼び、ダメだと言い聞かせる。


「倒れていたときね、ショックだったの。直美ちゃんが死んでしまったんじゃないかと思ってすぐに動けなかった・・・その時、強く思ったわ。あなたが好きなんだって」


私はため息を付く。

朝からテンションの低くなるようなことをお医者さんが言ってもいいのだろうか。

私のことを思ってくれるのは嬉しいけれど、私は先生の気持ちを受け取ることは出来ない。

揺らいでいるとはいえ、まだ女性は対象外なのだ。

「とにかく、ダメなものはダメです。他を当たってください」

先生なら選び放題だろうに。

なんでこんな、心臓にトラブルを抱えている私が好きなのだろう。

「意固地よね」

戸倉先生は肩を竦める。

「意固地じゃありません、恋愛対象の問題です」

ブルルル

「おっと」

先生のポケベルがバイブ振動した。

「呼び出しだわ、まったく。じゃ、何かあったらナースコールで呼ぶのよ?」

戸倉先生、ひとりの患者に時間をかけすぎ(苦笑)。

いくら私のことが好きだとしても。

呼び出されても後ろ髪を引かれるのかなかなか扉から手を離さない。

「先生―――」

私が呆れたように言うとやっと戸倉先生は扉から手を離して出て行った。






キイッ

微かな音がする。

私の居る部屋はひとり部屋なので、迷惑をかける人は居ない。

ただ、誰かが入って来て何かあった時にどうにかできるのは自分自身しかいなかった。

本を読んでいた私は顔を上げる。

「誰?」

忍び込んでくる人間の心当たりがない―――あ。

「戸倉先生?」

面会時間は終わっているし、ひとりしか思い当たらなかった。


「なあんだ、バレた?」


明るい声がしてベッドのカーテンが開かれると戸倉先生が顔を出した。

「何しているんですか、こんな時間に」

呆れてしまう、いくらなんでも―――と。

「直美ちゃんこそ、もう消灯の時間は過ぎたわよ」

眠れなくて小さなライトで私は本を読んでいた。

「少し眠れなくて本を読んでいただけです、先生こそ用も無いのに患者の部屋に来るのはどうかしています」

「冷たいわねえ」

ほう、と一息。

「冷たいも何も戸倉先生は私の先生で私はその患者です、それ以外のなにものでもないじゃないですか」

私がそう言うと戸倉先生は切なそうな表情をした。

「まあ、そうなんだけど――ね」

ベッドの縁に腰かける。

「毎日、言っているけど直美ちゃんのことが好きなの」

「私も毎日言い返していますけど、お付き合いは出来ません」

それの繰り返し。

「―――諦めないから」

「私が退院するまでその気なんですね」

パタンと本を閉じる。

ここまで思われているのは嬉しいけど、少々・・・面倒くさい。

「直美ちゃんの気が変わるまで」

「変りません、って」

「変えてみせるから、私がね」

ニャリと先生が顔を近づけて来て笑う。

私に強引にキスとか出来そうなのに、してこないのは先生のプライドなのだろうか。

「これ」

チョコレートバーを渡される。

「少しなら糖分摂取もいいみたいだから、ちょっとずつ食べて」

プレゼントらしい。

「・・・ありがとう、先生」

食べるもの制限されているので病院では好きなものもあまり食べられなかった。

「明後日、検査があるから頑張って」

「ああ、はい」

本当は励ましにきてくれたのだろうか。

検査は1日がかりで、朝体調がよくても終わるころには疲れてしまう一大イベントだった。

「じゃ、帰るわ」

「―――先生」

「うん?」

「もう少し―――居てもいいですよ」

私がそう言うと一瞬、驚いた顔をしてそのあとにすぐに笑顔になる戸倉先生。

「いいの?」

「チョコに免じて、ですけど」

励まし、チョコ。

戸倉先生は私を安心させてくれる。

その心の中には私のことが好き、という感情もあるのだろうけれど。

女性が好きだという感情はどういったものなのだろうか。

私は実際に女性を好きになったことがないから、先生の気持ちが分からない。

男性と同じ感覚で、好きになった人が単に性別が女性だというだけなのか。

「今・・・不安はある?」

先生が聞いて来た。

手が伸びて来て、私の手を握っている。

これくらいの接触なら全然構わない、髪に触れることも。

さすがに性的なことは困るけど、先生はそういったことはして来ない。

「もう、1か月ですからね・・・いつ退院できるか」

仕事は休業中になっているけど、きちんと戻れるか分からなかった。

「検査次第よ、良かったら退院できるわ」

「―――悪かったら?」

私は握られている手を見る。

「大丈夫よ、大丈夫」

握られている手にもう片方の手が乗せられ、私は言い聞かせられる。

「本当に?」

「本当に。直美ちゃんは私を信じないの?」

「信じていますけど・・・」

「大丈夫、私を信じて頂戴」

にっこりと先生が笑う、作り笑顔ではない笑い。

そして戸倉先生はいつもの如く握っていた手を自分の口元に持って行き、指に口づける。

癖なのか、それとも私の鉄壁の意思を懐柔するつもりなのか。

「先生・・・」

「なに?」

「それって・・・癖なんですか?」

「―――これ?」

私の手を持ったまま私を見るとふふふと微笑む。

「癖じゃないわよ、こんなこと誰にもするわけないじゃない。直美ちゃん限定」

「本当かなあ――」

「失礼ね、信じないの?」

「本当に私だけですか?」

信じていないわけじゃないけれど聞いてみた。

そうしたら先生は私を見て言った。

「直美ちゃん、キスって言っても色々な意味があるのよ。知っている?」

「そういえばそんなことを聞いた事はありますけど、よくは知らないです」

「今度、調べてみて」

「えっ、教えてくれないんですか?」

「それくらいは自分で調べて頂戴」

「えっ」

あっさりそう言うとベッドから降りる。

「おやすみなさい、直美ちゃん」

先生は投げキッスをして部屋から出て行った。






「――――――」

私は身体をベッドに横たえる。

物凄い疲労感が私を襲っていた。

少し、眩暈もする。

朝からの検査は14時過ぎまでかかり、やっと今終わったばかり。

疲れすぎて食欲も無いから、夕飯は点滴だろうか。

検査までの間に発作は無かった、胸の痛みも。

時々でもあれば、治っていないと思えるのに全く無いのが困る。

検査結果は2.3日かかるようなのでそれまでは落ち着かない。

いい結果だといいのだけれど―――

悪い結果だと退院が延びてしまい、いつ退院できるかわからなくなる。

コンコン。

扉がノックされた。

「はい―――」

答えるのが億劫だったけれどノックされた以上は応えなければと思って返事をした。

まだ眩暈がするので入って来た人の方は見られない。


「気分はあまり良くないみたいね」


戸倉先生の声、入って来たのは先生らしい。

私の病室に入る時にノックをするとか珍しい、いつもズカズカと入って来るのに。

「すみません、ちょっと眩暈がするので・・・」

「別にいいわ、気分は? 吐き気とかある?」

声が近づいて来る。

気配から先生だけで、側には看護師さんは居ないようだった。

「今のところは疲労感と眩暈だけです」

「検査で疲れたのね、よく休むといいわ」

私は腕をどけて先生を見上げると心配そうな表情が見て取れる。

「・・・こんなんじゃ、検査結果も良くないですよね」

「単に疲れただけよ、問題ないわ」

「でしょうか」

「そうよ」

弱気の私を怒るように強く言う。

「疲れているから弱気なのね、一晩寝て英気を養って。抵抗がない直美ちゃんはつまらないから」

そう言われて私は苦笑する。

「そうします、万全の体調じゃないと先生の告白攻撃に耐えられませんから」

「あのね・・・さすがに直美ちゃんの今の状態では私もしないわよ」

余程、今の私は酷い状態なのだろう。

先生がそう言うくらいだから。

「―――私・・・寝ます、先生」

話す事も億劫になってくる。

「そうね、お邪魔したわね」

ベッドのすぐ側で話しているはずなのに先生の声が遠くに聞こえる。

私の手に何かが触れるのが分かる。

多分、戸倉先生の手。

必ず先生は退出する時に私に触れてからだから。

手の次に髪の毛が触れた、さらりとしてこそばゆい。

「・・せんせい・・・」

意識が無くなりながらそれでも身体が感じる小さなことを気に留める。

「おやすみなさい、直美ちゃん」

最期にあれは唇だろうか――――

以前、キスの意味を調べてみたら?といわれたことを今思い出す。

でも、私は疲労感と睡魔に押し流されてゆっくりと意識を失っていった。





3日後、検査結果を両親と先生から病室で説明を受けた。

両親もどうなるか凄く心配をしていたけれど、結果を聞いて喜んだ。

もちろん、私も。

検査後のあの状態ではあまり良くないと思っていたのに良好と出た。

けれど、経過観察は必要との事でまた戸倉先生に会いに来なくてはならない。

まあ、それは別に良いのだけれど。

「ありがとうございます、先生!」

両親ともに、先生に感謝している。

検査だけなので先生に感謝してもしょうがないのに・・・と思いつつも、下手なツッコミはしないことにした。

両親には心配と迷惑をかけているのだから。


「良かったわね、直美ちゃん」


先生が横に立つ。

両親は早速、退院の手続きを行いに行った。

ベッドは次の人のために開けてあげなければならない。

「はい、退院出来て良かったです」

「毎日、顔が見られないのは残念だけど」

「それは先生だけです」

私がそう言うと戸倉先生がフッといつもの調子で笑う。

「その調子、そうじゃないとね、直美ちゃんは」

「また、1か月毎の来診です逆戻り」

延々と繰り返すのか。

私の心臓とは一生そういう付き合いをしないといけないのだろうか。

いや、死なない分だけマシということだろうか。

「私は嬉しいけど」

「先生・・・・」

「ホントはそんな風に思っちゃいけないんだろうけどね」

「そんなこと言っていたら私、一生病院通いじゃないですか」

それは困る、それでなくてもお金がかかるのに。

「だから、ね」

「だから・・・ね、ですか?」

「私が面倒見るって言うんじゃない」

先生がそう言うのを聞いて思い出す。

「もういい加減諦めたらいいのに――」

あれだけ私に断られているのだから、いかんともしがたいと思ってもよさそうなものなのに戸倉先生は私のことを諦めていないという。

「そんなに妄執することですか?」

「直美ちゃんは人を好きになったことないの?」

逆に聞かれる。

「それは―――」

好きになった事はある、付き合ったこともある。

でも、先生のような猛アタックや思いをぶつけられたことは無い。

その反対も。

好かれるのは嬉しいけど、その思いを受け止めるには先生の思いは強すぎる。

「・・・私ね、困っちゃうくらい直美ちゃんのことが好きなの。自分がこんな風に人を好きになるとは思わなかった、いつも欲望優先で付き合うから破たんも早いのに――― 」

先生の過去の話についてはあえて聞いたことは無い、興味本位で聞くことでもないだろうと思っていた。

「欲望優先?」

「そ、手っ取り早く言うと直美ちゃん引いちゃうかもしれないけど、身体だけの関係ね」

「・・・・・・」

確かに引く。

その私の表情を戸倉先生は見て、苦笑する。

まあ、男女の関係でもあるのだからそれが女性同士で無いわけが無い。

想像できない話なのでどうしてもそういう反応を見せてしまう。

「先生も私のことをそういう目で見ているわけですか」

「否定はしないわ」

そこは言葉を濁さないではっきりと言うので清々しい(苦笑)。

「でも、手順があるからそれを踏んで直美ちゃんに告白しているの」

さすがに、もう何十回もダメですと断られているのだから諦めればいいのに。

戸倉先生には“諦める”の文字は無いのか、仕事中で“諦める”と困るけど。

「もう、いい加減ダメです――は疲れました」

「じゃあ、ハイって言ってよ」

「ダメです」

「むうう」

ほだされるわけにはいかない。

気持ちはまだ変わらないし。

「こんなに好きなのに―――」

病室で患者に告白するお医者さんはそうそう居ないと思う。

美人なのに女性しか好きになれないとか可哀想な気が。

「困ります」

私が相手でなければもうくっついているだろうに。

「やっぱりダメなの?」

「ダメです、先生のことは好きですけど先生の言う“好き”ではないので」

そんなやりとりはもう日常茶飯事。

先生がダメ?と聞いて私がダメですと言う、不毛なやり取り。

「来診の度に言ってやるわ」

「じゃあ、川上先生に変えてもらいます」

伝家の宝刀。

戸倉先生は川上先生に並々ならぬことがあるらしく、名前を出すだけで嫌な顔をする。

「ちょ・・・っ!」

「川上先生なら、しつこく言い寄ってきませんし、ちょっとだけハンサムですし」

患者さんの男女ともから信頼があるけれど特に女性からの人気はあった。

「ダメ、ダメ!」

バフン!と布団を叩く。

「何でダメなんですか、いい先生なのに」

「直美ちゃんは分からないのよ、あいつの本性が」

本性って・・・

戸倉先生、興奮しすぎて肩で息をする。

コホン。

そんな自分の状態を自覚したのか落ち着くように、ひと咳した。

「とにかく、あいつはダメ。アイツ以外なら直美ちゃんを譲るけど」

そんなに嫌っているとは思わなかったので理由が気になる。

「どうしてそんなに嫌うんですか、川上先生のこと」

「・・・どうして・・って―――」

珍しく口ごもる戸倉先生。

「もしかして先生も主義を曲げて付き合ったことがあるとか?」

「それは絶対に無いわ」

絶対、を強調して言われてしまう。

本当に女性一筋らしい。

「じゃあ、なんで・・・」

「理由を言ったら付き合ってくれる?」

「――――じゃあ、聞きません」

付き合う事を条件に聞くなんて割に合わない。

「ホントに嫌なのね、私と付き合うのが・・・」

「間違えないでください、嫌なんじゃなくてダメなんです。全然違いますからね、そこ」

嫌、というのは差別に当たると思う。

「私には同じように聞こえるけど?」

「言いましたけど先生のことは好きですけど、付き合う事が出来ないということです。恋愛対象として好きなのは男性なので」

「私と試してみない?」

「・・・妥協案ですか? 却下です」

ガックリ

先生がベッドに両手を付く。

「もう・・・直美ちゃん、手ごわすぎ――この百戦錬磨の私がこんなにてこずるなんて」

「先生、百戦錬磨なんですか?」

それは初めて聞いた。

「過去、私が口説いて落ちなかった子はいないのに――――」

それは凄い。

まあ、見た目から入るとほとんどの女性は釣れそうな気はするけど(笑)

「じゃあ、私が初めてのケースですね」

「ちょっと!」

「いくら口説いても無駄だってもう観念してください、戸倉先生」

「い・・・や、無理。諦めきれない!」

子どもか・・・呆

「どうしてもダメ?」

「ダメです」

それは揺るぎない。

倒れた時はクラっときてしまったけど、今は気持ちを持ち直している。

「じ、じゃあ!」

先生は顔をガバっと上げた。

「じゃあ?」

別の提案かな、諦めるための。

「き、キスさせてくれる?」

「いつもしているじゃないですか」

手に、指に。

私は振り払いませんけど。

「手じゃなくて―――くちびるに」

「させたら、諦めてくれるんですか?」

キスくらいなら、と思う。

倒れた時、人工呼吸をしているので抵抗は無い。

「あ・・・諦めるわけじゃないけど――」

「じゃあ、ダメです。そんなに安っぽくないですから私の唇は」

諦めてくれるのなら、とちょっとでも考えた私がバカだった。

「直美ちゃん―――」

「キスしたいなら諦めること前提です」

それくらいは先生に対価として求めてもいいだろう。

「うむ~~~~~~」

戸倉先生は唸る。

どうやら葛藤しているよう模様、さっさと諦めて次の恋に向かえばいいのに(苦笑)


「わ・・・・わかった」


先生は振り絞るように言った。


「えっ」


「諦める」


急に転換するとは思わなかったので私の方がびっくりする、私としてはいい方向だけど。


「直美ちゃんとキスして諦める」


ぐっと戸倉先生は顔を上げて私を見た。


「ほんとですか? 言ってないというのは無しですからね?」


先生の事だ、色々口八丁で私を言いくるめそうな気がする。


「も、もちろん」


はっきり断言しないのが気になるけど・・・

会うたびに蒸し返されるのは面倒くさいのでここら辺で手を打っておこうと思う。


「じゃあ、いいですよ。キスさせてあげます」


上から目線だけど仕方がない、私の意志の方が優先されるのだから。

戸倉先生は自分で言った事なのにしばらく動かなかった。

まだ葛藤しているのか、踏ん切りがつかないのか。

私も無理には進めない、こういうことは気持ちが大事なのは分かっているから。


「キス・・・しちゃったら、諦めないといけないのよね」


「はい、そうです」


私は譲ってやらない、これは先生の為だ。


「うぬ・・・う」


美人らしからぬ声を上げる。


まあ、悩むか――――


それくらい思われているのに私は先生の思いに応えてあげられない。

世の中、上手くいかないこともあるのだなと思う。

「する気になったら言ってください、本を読んでいますから」

私は直前まで読んでいた本を開く。

遥かなる天平時代の小説、華やかな蘇我氏の全盛期。

陰謀術数、勢力争い、女系婚姻、今の状態とはかけ離れている内容。

文字を追い始めるとすぐに入り込んでしまい、私は周りを気にしない。

先生にはよく考えて答えを出してもらおう、私を好きだという気持ちは本当なのだろうから。




ギシッ


ベッドが軋んだ音を立てて沈むのを感じて私は本から視線を上げた。

ちょうど目線の先に戸倉先生の顔がある。


「決心つきました?」


あれから結構経ったような気がするけれど時計は見ない。


「―――まあね、諦めるのは残念だけど」


先生は苦笑する。


「世の中にはどうにもならないこともあるんです」


「そうね、認めるしかないわ」


苦笑から少しばかり悲しそうな表情になる。

そんな表情をさせたくはなかったけれど思わせぶりなことはしたくなかった。


「目、つぶった方がいいですか?」


「直美ちゃん・・・キスしたことあるんでしょ? その時、目を開けていたの?」


笑いながら言われる、私がバカなことを聞いたからなのだろう。

そんなことを聞いたのは私が少し緊張していて、雰囲気を軽くしたかったから。

人工呼吸とキスは全く違う、それに女性とキスするのは初めてなのである。

「つぶってました」

「じゃあ、目をつぶって。まあ、見ていたいと思うんだったら目を開けていても構わないけれど」

ぐっと戸倉先生の顔が近づいてくる。

診察でもここまで近づくことは無かった。

胸も身体の中すらも見られているのに、近づく先生の顔を見たら恥ずかしさを感じる。

僅かに自分の身体が後ろに下がるのを感じた。

後ろは枕とベッドの枠しかないのに。

「逃げるの?」

「・・・逃げていません」

「大丈夫よ、キスは男とするのと一緒だから」

さすが慣れているのか言葉と口調で私を落ち着かせる。

私は目を瞑った。

先生の気配がもうすぐ眼前にあり、目を開けて現実を確認する気は起きなかった。


女性とキスをするのはこれで、最初で最後だろうし。


柔らかいものが私の唇に触れる―――先生の唇だ。

思ったより柔らかかった。

そのまま唇を重ねてキスをされる。

私は抵抗しない。

抵抗したら約束が反故になる、私も約束を違えるつもりはなかった。


「――――――」


重なった唇が何度も角度を変えてキスをしてくる。

私はキスをされながら、そういや、キスの時間は・・・決めていなかったなと思う。

先生が満足して止めてくれればいいか、そこら辺が私はアバウトだった(笑)

するり

唇と並んだ歯の隙間から先生の舌が滑り込んで来る。

「ん、んっ」

これもキス・・・ではある。

私は片腕を先生に掴まれ、逃げられないままキスを受ける。

忍び込んできた舌が私を絡め取った。

先生にキスをさせると言ったけれど、こんな濃いものだとは思わなかった。

軽い感じで言ったことを後悔する。

深く口づけられ、応えるにつけ私の呼吸が乱れてゆく。

心臓のことなんてすっかり忘れていた。

興奮することは厳禁なのに――――

それに・・・先生のキスは気持ちがよかった。

まさか自分がこんな風に感じるとは。

先生の白衣を私の手がキツく掴む。

しばらく先生は私とのキスを堪能するとゆっくりと離れた。

呼吸を乱したまま私は本に視線を落とす。

今、先生の顔は見られない。

多分、赤い顔をしているだろうから。

白衣を掴んでいる手はそのままに。


「これが最後だなんて残念―――」


戸倉先生が言う。

「約束ですから」

「そうね、約束だもの」

先生の声は消えるように小さい。

「・・・大丈夫? キツくなかった?」

まだ呼吸を乱している私を心配してくれる。

「キスで心臓発作を起こしたらシャレになりませんね」

鼓動はドクドクと跳ねている。


キスをした影響なのか、先生にキスをされた影響なのか。


「ごめんね、すっかり忘れて直美ちゃんにキスしていたわ」


「別にいいです、先生がこれで諦めてくれれば―――」


やっと私は掴んでいた先生の白衣を離す。

先生の手はすでに離れていたけれど、身体は私の眼前にあった。


「ほんとに残念」


今再び先生がつぶやく。


「約束は、約束です」


「うん、そうね」


そう言った先生はすぐにはベッドから離れずに惜しむようにしばらくそのままで居た。







1か月検診はまだ欠かさず受けている私。

もちろん担当の先生は戸倉先生。


「おまたせ、直美ちゃん」


少し遅れて診察室に登場の先生。

今日はテンションが高い、私が診察に来ているからだろう。

それでも一応、機嫌を伺ってみる。

「今日はいい事でもありました?」

「まあね、日常がバラ色」

「・・・・・」

先生の様子が浮かれすぎな気もしないでもない。

これは、私が原因ではなさそうな感じ。

「はい、脱いで」

「はい―――」

先生の様子に少し戸惑いながら私は診察のためにブラウスのボタンを外し始める。

「式はいつなの?」

「えっ」

不意の質問に私はびっくりして先生の顔を見た。

私の個人情報が・・・相変わらず駄々洩れ、どこからなのだろうか。

「うちは地域密着型の病院だから些細な冠婚葬祭情報は耳に入って来るの」

どこどこのおじいさん、おばあさん、おじさん、おばさんが診察がてら情報を落としてゆくのだろう。

本人は無意識のままに。

「隠していたわけじゃないんです」

「分かっているわ、私の事を考えてくれたんでしょう?」

先生の表情はいつもと変わらない。

私の事を好きだと告白してくれた戸倉先生。

その思いは本物で何度断っても、諦めなかった。

応えたいと思ったことは何度かあったけど、それはどうしても無理な相談で結局先生は私を諦めることに。

 諦めるきっかけとなった先生とのキスは、私はまだ忘れていない。

来月、元職場の男性と結婚する私なのだけれどそれだけは忘れることはできなさそうだった。

「もちろん、私のことを式に呼んでくれるわよね?」

「えっ」

「ちょっと、長年直美ちゃん診ていたのよ?それに難しい手術もしたし」

理由をつけて私の結婚式に来るつもりらしい。

忙しいだろうからと思って招待客から除いていたけれど呼ばないといけないようだ。

私もそれは嬉しいけれど。

「変なスピーチはしないでくださいね、戸倉先生」

「しないわよ、新婦さんと熱烈なキスしました―――だなんて」

「先生・・・・」

先生はこういう人だった・・・

「冗談、冗談よ。きちんと参加するから、直美ちゃんを困らせるつもりなんてないの」

ぺたり。

冷たい聴診器が胸に当てられる。

「終わらせたことだしね」

その言葉に私は胸が詰まる。

先生のことは好きだ。

でも、それは恋愛感情ではないもの。

「先生―――ごめんなさい」

「・・・いやだ、謝らないでよ。仕方がないじゃない、世の中そう上手くはいかないのよ」

残念だけどね。

先生はそう言うと聴診器を外す。

「直美ちゃんが悪いんじゃないの、色々と上手くいかなかっただけだから。私ももう吹っ切ったし、新しい可愛い恋人も出来から」

新しい恋人、それは初耳。

まあ、周りには隠しているから他の誰かからその存在を聞くことも無いだろうけれど。

「それで日常がバラ色、ですね」

私は笑って言う。

先生のテンションが高かったわけが納得できた。

私が来たからではなかったようだ。

「今度、紹介するわ」

「いいですよ、別に」

ラブラブ振りを見せつけられるのは何となく嫌だ。

「向こうも直美ちゃんに会いたいって言っているし」

「いやいや、なんで戸倉先生の彼女が私に会いたいって言うんですか。おかしいですよ」

まさか、先生はまだ私のことを好きだと言っているのではないだろうか・・・

「いやー、直美ちゃんのことが好きで好きで、何度も告白してその度に振られたって言ったらどんな人か会いたいって」

「―――――――」

あかん、それはあかんヤツじゃん!

なんでそういうことを付き合っている彼女に言うかな、戸倉先生・・・

「あ、この病院に勤めているから紹介する?」

「えっ、ちょっ!やめてください」

あり得ない!

なんでいらぬ波風を立てる必要があるのか。

「えっとね」

そう言うとPHSを手に取って電話をかけようとする。

「仕事中ですよ、先生!」

「大丈夫、大丈夫。院長も直美ちゃんには感謝しているから私に甘いの、これくらい怒られないわ」

ここで、あの時も事が関わって来るとは思わなかった・・・逆効果。

「あ、日奈子? 私、ちょっと診察室に来てよ。うん、うん―――」

などと話し始めてしまった。

彼女も仕事なのだろうに。

私の診察も途中だし、私もブラウスのボタンを外して前をはだけたままだし。

「今、来るみたい」

「はあ・・・」

仕方がないので着替えなおす、この姿ではどんな風に思われるか分かったものではない。

先生にはもう少し考えて欲しいと思う。

付き合っている人が居るならなおさら、私のことを出すのは止めて欲しい。

「直美ちゃん」

「はい」

「日奈子には内緒なの、あのキスは」

「それはそうでしょう、話す方がおかしいです」

「彼女のことは好きだけど――――」

先生の言い出した言葉に私はヒャリとさせられる。


「えっ」


「直美ちゃんとのあのキスは私にとって特別だった、日奈子とキスをしてもあれ以上の気持ちの高ぶりは無いし、あれ以上のキスはできない」


「それ・・・今、言うんですか?」


「私を振って男と結婚するっていうから、当てつけ」


ニャリと戸倉先生が笑う。

ひどく悪魔的な微笑。

それは決まっていた私の心を乱す。

コンコン

診察室の扉がノックされる。

彼女が来たらしい。


「先生、ひどいです」


「あら、知らなかった? 私ってひどいのよ」


笑って先生はやって来た彼女を平然と招き入れる。

私はつい先ほどまでの穏やかな心境では無かった。

顔が引きつってしまっている。


なんで先生はあんなことを今、言うのか―――

嫌がらせにしてはひどすぎる、それに彼女が可哀想だ。


戸倉先生は私の心境を知りながら笑顔でいる。

私は、今はっきりと分かった。

先生の真意が。


「こちらが直美ちゃん、話していたから分かるわよね」


先生に彼女を紹介されても顔を上げることができない。

私に彼女に対する害意や敵意はないのに、私に向けられる視線からそれを感じる。

彼女も分かっているのだ、先生の本当の気持ちが。


戸倉先生は本当はまだ、私のことを諦めていないのだと――――――


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