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エッセイ一覧

地元の宗教秘密結社:隠れ念仏の仏飯講

作者: +1

具体的な描写はしませんが、題材の性質上「拷問」「死罪」等の話題にちょこっとだけ触れます。

残酷表現ではなく歴史上の出来事として取り扱っているため、R15キーワードの設定はしていません。ご了承ください。

 秘密結社と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。

 世界的に有名なのはフリーメイソンやイルミナティ、金色の夜明け団、等々。 中にはコーサ・ノストラやKKKなどの反社会的なものもあります。有名な秘密結社とは矛盾していないか? 誰しも一度はツッコミを入れたはず。

 それら結社ができた理由は様々ですが、大別して「政治秘密結社」と「宗教秘密結社」に分かれるようです。

 もちろん、どちらの属性も持つ結社もあれば、どちらでもない秘密結社もあります。あくまで大別です。


 現代日本では憲法で結社の自由が保障されているため、法律上は秘密結社は存在していないようです。ですが、かつては日本にもいくつかの秘密結社が存在していました。

 そして私の地元にあったのは、「隠れ念仏の仏飯講」。


 ◆ ◆ ◆


 隠れ念仏と仏飯講はそれぞれ別の物を指します。性質上、密接な関係にありますが。

 似たような名前の隠れキリシタンは有名です。彼らはキリスト教が禁止された江戸時代に、ひそかに信仰を守っていた人々です。

 長崎の離島などで信仰を守り続け、独自の形態による儀式を今も続ける、潜伏キリシタンという方々もいます。世界遺産登録となりましたね、大変おめでとうございます。

 潜伏キリシタンの“再発見”と、ローマがその存在を認めた経緯等、宗教史としてもかなり興味深いものです。


 江戸時代のキリスト教弾圧は全国的なものでしたが、一向宗、現在の浄土真宗が弾圧されていた地域があります。薩摩藩(鹿児島県)と人吉藩(熊本県)です。

 一向宗は阿弥陀如来にすがり念仏を唱えれば徳のない一般人でも死して後は極楽浄土へ行けるという、他力本願&悪人正機説の教えの宗派です。(一部宗派や地域では観音菩薩や勢至菩薩にも祈ります)

 ちなみに犯罪者でもOK! というのは字面から来る誤解。

 法律用語の「善意」が一般の用語と違うように、「悪人」とは出家したお坊さんではない人々、という意味です。まあ元罪人だった信者もいたとは思いますが。

 戦国時代、一向宗は各地に根を張り強固な信仰組織を形成します。そして頻発する一向一揆。

 ある意味最強な無敵の人々ですよね。老若男女問わず、死んでも救われると武器を手に取る。まさに死兵。


一向宗は加賀をはじめとして各地で一揆をおこし、大名たちも対応に苦労します。

 あの織田信長も石山合戦で長島や越前で苦渋を舐めたほどのヤベー奴らです。この辺は、なろうの歴史ジャンルでも人気の題材ですね。

 あと、戦国BASARAのいつきちゃんカワイイ。彼女は神道系?一揆の主導者なので無関係な気もしますが、どうしても言いたかった。

 いつきちゃんカワイイ。


 薩摩藩というか島津家は、こういった一揆を防ぐために一向宗の信仰を禁止します。時は1597年。江戸幕府が始まる直前。

 隣の相良氏(後の人吉藩主)はそれより早く、40年ほど前の1555年に禁止。どちらの藩も江戸時代が終わるまで続き、九州南部では300年ほどの間、一向宗が弾圧されることとなります。

 なお人吉藩での一向宗禁止がどんなものだったのかは、詳しくは知りません。本エッセイは小中高であった地元学習と身近な事例を基にしているため、薩摩地方の話が中心になります。


 弾圧は仏具の焼却に始まり、拷問や処刑までも行われる厳しいものでした。キリシタン弾圧と遜色がないほどだったと言われています。

 とはいえ簡単に改宗するわけにも行きません。心の支えですし、村や一族がまるごと一向宗なんて場合も多かったわけで。

 これは勝手な想像ですが、同調圧力や相互監視で改宗を許さない雰囲気があったのではないでしょうか。


 一向宗は弾圧下もひそかに信仰を続けます。

 私の実家近くには、「隠れ念仏洞」という洞窟があります。洞窟と言いつつ、地下にできた小さな穴倉みたいな場所でしたが、そこに密かに住民が集まって念仏を唱えていたようです。

 2000年ごろに落盤の恐れがあるとして立ち入り禁止になりましたが、以前は普通に中に入ることが出来ました。入ったところで観光地化しているわけでもなく、何かあるわけではないのですが。(一応、町の史跡には登録していたようです)


 隠れ念仏について軽く調べてみたところ、タンスに偽装した仏壇に祈っていた地域もあるようですね。中には本願寺との繋がりを断ち、山岳信仰を取り込んで独自の信仰形態となっていった所もあったようです。

 どちらの風習・信仰も現代に残っている様子。隠れ念仏は地域間の繋がりが難しかったのか、独特の形にそれぞれ進化したようで、調べていて楽しいです。


 ◆ ◆ ◆


 続いて、仏飯講について。

 「こう」とは行事の相互扶助を行う末端組織のこと。結社と言い換えても良いでしょう。

 有名どころは、庚申の日に徹夜をして神を祀る行事「庚申待」のための庚申講、伊勢神宮に参拝するため集まった人々が作った伊勢講あたりでしょうか。

 宗教以外では無尽講というのもありました。会費を徴収し、そこから会員にお金の貸付を行うというグループ。地方銀行や消費者金融は、無尽講にルーツを持つ場合も多いようです。

 一向宗にも弾圧以前から講があり、各地に根を張っていました。当然、まだこの段階では公然のものです。

 この講を単位に、弾圧下での隠れ念仏が行われていたと言われます。こちらはバレると命に係わるので、秘密結社として活動していました。


 私の地元は特に信仰心が篤かったのか、あるいは単に藩の境界線が近かったからか、「仏飯講ぶっぱんこう」と呼ばれるタイプの講でした。

 仏飯。ぶっぱん。京都にある本山に寄進する米のことを言います。これを寄進するための講なので、仏飯講ですね。

 先祖たちはどうしても寄進したかったようで、表向きは別の目的をで京都へ向かう許可を得たり、最終手段で関所破りをしたりと、命がけでこの仏飯を運びます。

 まあ実際は米を隠し持つのは困難で、運んだのはお金だったこともある様子。そのお金で現地で米を買って寄進したり、志納金としてそのまま納めたり。

 米にせよ金銭にせよ、目的が露見すれば実行者は死罪です。家族にも塁が及ぶというか、家族も当然一向宗なので芋づる式に捕まります。


 「仏飯」という宗教的な目的を有し、「隠れ念仏」であるが故に秘密でなければならない「講」=結社。宗教秘密結社そのものとなったのです。


 ◆ ◆ ◆


 ここからは、その仏飯講があった地元の風習について。

 ※注:本エッセイは江戸時代以前では一向宗、明治時代以降では浄土真宗と呼称させていただきます。


 明治時代になり藩が廃止され、晴れて信仰の自由を取り戻した隠れ念仏信徒は、廃仏毀釈で既存の寺が消滅したのを幸いに浄土真宗の寺に帰依します。

 浄土真宗側も布教と寺院建立を推し進め、結果的に南九州は浄土真宗一色になる逆転現象が起きました。

 戦前・戦中の隣組で再度強化された面もあったかもしれません。明治、大正、昭和と時代が進んでも、仏飯講の繋がりは強固に残り続けます。

 そして平成の時代になっても。


 親鸞上人没後750年だった2011年などは、普段は「交通安全」や「挨拶運動」と書かれたノボリがある場所は「大報恩講」のノボリに差し替えられていました。

 公道上だったらその手の旗はアカン気もしますが、許可はとってたのでしょう。たぶん。

 あるいは歩道に見えて、道路沿いの家の敷地内だったのかもしれません。その辺は曖昧なあたりが田舎です。

 なお参考までに、報恩講はグループとしての講ではありません。親鸞上人の命日に行う法要のことで、浄土真宗で最も重要な法要とされています。もちろん地域的なものではなく、全国一斉に行われます。浄土真宗の中でも宗派によって、微妙に時期が変わってくるみたいですが。


 故郷で最も特徴的なのは、おそらく納骨堂の運営を町内会で行っていることかと思います。

 納骨堂は墓地ではなく建物内に遺骨を納める施設で、入ってすぐにはお寺にあるような大きな仏像があります。お参りに来た人はまずそこで仏像に線香を上げてから各家のお参りに行くのが習わし。

 掃除や鍵の開け閉めは各家庭持ち回り。鍵の開け閉めは負担が大きいのと、開け忘れがあって早朝に参拝しに来た人が入れない事故が続いたため、少し前から機械警備に業務委託して自動化したみたいです。


 各家に割り振られているのは、50cm×50cm×腰の高さ程のサイズの石造り?の納骨用スペース。その上に仏壇が作られています。銀行のATMや、コンビニのチケット販売機っぽい形と言えば伝わりやすいでしょうか? 全く同じ形の物が、線香の煙で霞む室内にずらりと並んでいる光景。なかなか壮観です。

 余談ですがあのチケット販売機、調べてみたらマルチメディアキオスク端末が正式名のようです。このエッセイを書かなければ、おそらく知ることは一生なかった。


 作り付けで全く同じデザインの納骨スペースということは、代わり映えがないのも事実。一般的なお墓のようなデザインの差異はありません。

 通路は狭く入り組んでいるため、小さい子が親を見失うと迷路に迷い込んだように感じて大泣きすることも。私も小さいころは怖かったものです。 

 また、全部同じということは家紋もついてません。先日「うちの家ってどんな家紋なの?」という疑問を親に聞いてみました。結果は「知らん。無いんじゃね?」。


 納骨堂のメリットは、何より墓参りが楽な点ですね。室内なので雨が降っても濡れないし、雑草が生えたり砂埃で汚れたりもしません。パッと行って、線香を立てて帰るだけ。

 下手すると、納骨堂に入ってからお参りして出るまで1分かからないんじゃないかと思います。

 お供え物もいりません。というか昔はしてたのですが、禁止になりました。お供え物が腐ると室内なので臭いや汚れの被害が酷いことになりますし、お供え物泥棒が入り込んだことがあったから、とのこと。

 とはいっても、何もなしでは物寂しいので各家で色々置いています。花は造花、乾菓子はプラスチック製のサンプル限定で体裁を整え、それにロウソクと線香置き(立てずに横置きする家庭がほとんど)。

 飴玉や缶コーヒー、タバコやワンカップ酒あたりの腐らないものなら、供えるのも目こぼしされている感じです。ただ、数年間そのままで賞味期限切れになっている家も。


 お盆になると必ずお参りします。でも初盆でない場合は灯篭を持ってお参りすることはなく、家に灯篭を飾るだけ。 精霊馬の風習もないですし、迎え火・送り火もなし。家にお坊さんを呼ぶようなこともありません。もしかしたら家庭ごとの違いが大きいかもしれませんが。

 初盆の家は灯篭を1本の竹竿にいくつも括り付けて、家族総出でかついで納骨堂に持って行きます。

 でも納骨堂は狭くて危ないので、竹竿はもちろん灯篭も室内持ち込み禁止。参拝中は納骨堂の外にある物干し台みたいな所に竹ごと置いておきます。


 納骨堂はスペースが限られているため、住人が増えると古いものから順に骨壺をまとめていきます。入り切らない場合は各遺骨の重要な部分だけ残して、ほかは手続きに従って廃棄。

 住人と言いましたが、遺骨のことですね。冗談でそう呼ぶことがあるんです。死んだ人の集合住宅地なんて呼び方もします。「あの家(納骨堂)の人口密度はスゴイ」と(笑)

 遺骨の整理は通常の墓地でもされていることでしょう。ただし納骨堂には墓碑がありません。誰々、何歳で何年に死去 と書かれた石板ですね。

 整理の際に誰が納骨されているかを確認するには、それぞれの骨壺に入っている埋葬許可証(の写し)だけが頼りです。


 以前、整理しようとしたら誰なのか分からない骨壺が出てきて、親戚一同顔を見合わせたことがあります。

 シチュエーションがホラーかミステリーの冒頭みたいで、不謹慎ながらワクワクしてしまいました。

 調べた結果、近くに住んでいた身寄りのない方の骨を50年以上前に引き取って納骨したらしい、と判明します。

 詳しい事情までは不明です。なんせ引き取った当人の遺骨を納める際に場所が足りなかったというのが、遺骨整理の理由でしたから。

 なぜか埋葬許可証が骨壺に入っていなかったので、壺の蓋の裏側に書かれていた名前だけをヒントに、役所の人が頑張って事情を調べてくれました。その名前も筆による手書きで、流麗な崩し字だったため読むのに一苦労。


 納骨堂に納める前、初七日の期間にも特徴があります。葬式があるとそれから一週間、親戚で集まってお経を上げる風習があるのです。お坊さんは呼ばずカセットテープの読経を流しながら、教本を手に親戚一同の皆で声を合わせて唱えます。

 ……いまいち教本に書かれている抑揚が分かりづらいのと、もうそろそろカセットテープからCDか音楽データに移行しないのか、と内心思ってます。自分から言い出す勇気はないのですが。


 この習慣があるのは町内会のエリア=仏飯講のあった地域だけのようで、隣町から引越してきた人たちからすると奇妙に思える模様。

 「最近夕方になると、近くの家の中から集団でお経を唱える声が漏れ聞こえてきて怖い」という事例が度々起きます。まるでホラーの一幕ですね。それもクトゥルフ系っぽい。

 いまでこそ葬式も浄土真宗式なわけですが、弾圧時代は葬式を表向きの宗派で執り行った後で密かに一向宗としての儀式を遺族のみで行った名残なのかな? と考えています。


 ◆ ◆ ◆


 先日、初めて浄土真宗式でない葬式に参加する機会がありました。道具やお経の違い、葬式の進め方の違いを観察できて興味深かった(不謹慎)のですが、お坊さんが読経だけだったことが一番衝撃的でした。

 浄土真宗だとお経の後に、お坊さんが説話を行います。葬式に限らず、●回忌の法要なんかでも同様です。

 お坊さんの負担も大きいようで、地域で葬式が続くと「あのお坊さん、この前の葬式と同じ話をしてる……」となることも。ネタを何年かで使いまわしているのか、話にすさまじいデジャヴを感じることもあります。


 幼少期に通っていた幼稚園は、そんな葬式に来るお坊さんのお寺が経営している所でした。

 でも園児たちはそんなこと分かりません。「園長せんせー(=住職)なんでハゲてるの~!?」とか言っちゃいます。それも集会(全校集会的なもの。幼稚園だと何と呼ぶのだろう……)で園長が前に立ち、話をするタイミングで。

 園長もなぜかノリが良く、「昔火事があって、全部焼けちゃったんだよ!」などと言っていました。当時は信じていたけれど、当然剃っているわけで。

 たぶん冬場の一幕だったと思うので、火の用心的な話につなげたかったのかもしれません。普通に年齢のせいでハゲていた可能性もありますが。


 幼稚園の遠足(親も参加可)で遊園地に行ったときに園児たちにせがまれて、ジェットコースターやウォータースライダーに一緒に乗っている姿も印象的なお坊さんでした。

 お坊さんon絶叫マシン。なお園長として働くときは洋服だったので、パッと見ではスキンヘッドのオジサンです。

 私の場合は遠足に父親がついてきていて、その父が絶叫マシンが大の苦手でした。あと観覧車も。

 園長と一緒に絶叫マシンに乗ってみたい気持ちと、父を裏切るようで気が引ける思いとで迷っているうちに、結局一緒に乗る機会を失したので強く記憶に残っています。

 父がそのとき言った言葉が、「園長先生には仏さまがついているから、ああいうのに乗っても怖くないんだ。自分は無理だから絶対に乗らんぞ」。


 宗教系の幼稚園は教育や躾が厳しいイメージがありますが、のびのびと園児を育てる方針の園でした。ゆるさというかフリーダムさでは、地域で1,2を争います。

 でも園内放送で「お外遊びの時間は終わりです」が始まると毎回放送室の周りに園児が群がり集まって、放送している若手の先生をはやし立てる遊びをするのはどうかと思う……。楽しかったけれど。

 あ、お外遊びの時間とは言っても、室内で絵本を読んだり積み木をしたりもOKでしたよ。当時はまだWindowsもない頃でしたが、幼児教育用のゲームができるパソコンも1台ありました。

 一方で、隣町にあった別のお寺の幼稚園は勉強と習い事マシマシ。地域で1,2を争う超スパルタ式でした。あのゆるさは単に園長の好みだったのかもしれません。


 ゆるいとは言え、ちゃんと教えるところは教えています。

 特徴的だったのが園の歌(校歌的なもの)と別にお祈りの歌があり、毎日歌っていました。歌詞はお経の冒頭部分そのままで、メロディーは歌いやすいように単純化してある曲調の歌です。

 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と唱える幼稚園時代。いまだに何も見ずとも口にできます。

 また月に一度、浄土真宗式の儀式もしていました。お坊さん役も園児がやっていたので、おままごとみたいな儀式ですね。お坊さん役は立派な衣装を着て皆の前に出れるので、選ばれた子が羨ましかったものです。

 お坊さん役の重要な役目として、ロウソクの燭台を持って歩き、仏前のロウソクに火を継ぐというものがあります。

 そのため片手に物を持った状態(練習中は水の入ったコップ)で真っ直ぐに、ゆっくり静かに歩く練習は他の教育に比べて厳しいものでしたし、年長の中でも特に上手にできる子でなければお坊さん役ができませんでした。

 まあ本番では火を使うので、安全のためにも当然ですね。


 とりとめがあまりにも無くなってきたので、この辺でおしまい。


前回はじめてエッセイ(のような何か)投稿した後、いざ小説を書こうとして四苦八苦。

行き詰った時にちょくちょく書き進めていたこちらが先に出来上がる体たらくです。


具体的な年数なんかは軽く調べましたが、それ以外は小中高時代の地域学習や経験のみで書いているため、間違っている内容が含まれる可能性大。

同じ九州南部でも地域ごとに違いが大きそうですし、ご指摘・情報提供等ありましたら是非、感想にてお願いします。


ウィキペディアで見てみると、宗教「的」秘密結社、政治「的」秘密結社のほうが正式な用語っぽく思えますね。

個人的には「的」が無いほうが好みというか、響きに馴染みがあるので、宗教秘密結社と記載しています。


あとキーワードの「風俗」ですが、本来の風俗の意味は「ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など日常生活のしきたりや習わし、風習のこと」(ウィキペディアより)

いわゆる「フーゾク」は、性風俗店を略したものみたいです。

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そんな前回のエッセイ(のような何か)はこちら↓
家族の戦争体験(と戦後) : 台湾の教師は野砲隊長に / 妹代わりに嫁いだ軍属女性通信士 / しょつくれどん大工 / 実家に帰る(※夫と共に)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本当に勉強になります。
2019/07/17 19:28 退会済み
管理
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