Prelude
東西に伸びるリュヌ通りには、程々に歴史を感じさせるアパルトマンが立ち並んでいる。洒落た革靴、無論本革のそれの踵を打ちつけると、踏みしめられた石畳は挨拶かはたまた抗議か、硬質な声を上げる。この通りを東に抜けるとビザール街に辿り着く。
ここはいつ来てもおかしな街だ、と彼は歩調を緩めることなく考えた。塗料で塗りたくることを憚ったのか、素材本来の、といえば聞こえはよかろうが、石造りの街並みは灰色に淀んで見える。陰気なようで活気はある。それでいて、やはりなにか秘密を隠しているような雰囲気をも持ち合わせている。細い横道や入り組んだ裏小路が比較的多いからなのかも知れないが、彼はこの街を訪れる度に“ちぐはぐ”という単語を思い出すのだった。
どこか雑多な印象を受ける目抜き通りを大股に、しかし決して粗暴にはならない歩みで進む。三月の無遠慮な風に煽られ、カシミアのマフラーが彼の肩口ではためく。春が近いとはいえ、露になった顔の表面を撫でる空気はまだひんやりとしている。
昼下がりと呼ぶには少し遅いが夕暮れと称すには些か早い、帰路やら往路やら行き交う人々のざわめきをすり抜け、彼は車を拾うべきだったか再度自身へ問いかけた。拾うべきだったかも知れぬ、擦れ違う数多の女が纏う香りは、その大抵が彼の趣味には合わないのだった。彼は整った眉根が微かに寄るのを自覚した。
一方的に押し付けられた“約束の時間”は、既に二十一分も過ぎていた。気に入りの懐中時計にちらと目を遣り、彼は小さく舌打ちをした。彼はそれほど時間に几帳面なわけではない。一刻前、突然かかってきた電話によって呼び出されたことに苛立っているのだ。年下の恋人と過ごす時間を邪魔されたのだから、それも無理からぬことである。
分かれ道を左に曲がり三分、ようやく目的地に辿り着く。彫刻の施された樫の木製の扉を押し開き、店内に足を踏み入れる。途端、身はすっぽりピアノの調べに包まれた。控え目に鼓膜を揺らすのはサティであろうか、書店と理容店の間に佇むこじんまりとしたカフェーは大賑わいこそしていないが、煩過ぎず静か過ぎず、ほど好い品のある隠れた名店だった。
香ばしい珈琲の匂いが冷えた鼻先をくすぐる。暖かな室内の空気にほっと息を吐き、彼はコートに手をかけながら待ち合わせの人物を目で探す。
程なく、奥まった窓際の席に見知った顔を見つけた。渦を巻く金茶色の髪が壁に貼り付けられた鏡に映り込んでいる。
「やあ、こっちこっち」
向こうもこちらに気が付いたらしい。笑顔で軽く片手を挙げ合図をする待ち合わせ相手に顔を顰め、彼は憤然と卓に歩み寄った。
革張りの椅子に納まった青年は恐らく二十歳を幾つも過ぎてはいないだろう、ややもすると実年齢より幼く見える顔はお世辞でなく彫刻並に整っている。甘い目元といい柔らかな微笑を湛える口元といい、流石“美男”と渾名されるだけのことはあろう。鑑賞には最適なのに……という、青年を眺め遣る彼の密やかな独り言には、常に溜め息が混じった。人間には外面の他、内面というものがあるのだ。
青年は呼びつけた彼を見上げ、六月の空のような瞳をくるりとさせた。
「遅かったじゃないか」
「今日、君と会う予定はなかったからな」
「君を待ってる間、三人に声を掛けられたんだぜ」
「流石はベロミ様。私も君と会う暇があったら三人に声を掛けたかったね」
「まあそう怒るなって」
如何にも待たされた、と言いたげな巻き毛の青年へ彼も皮肉たっぷりに応酬する。不機嫌な彼をベロミと呼ばれた青年はおかしそうに見つめ、向かいへ座るよう促した。仏頂面の彼も逆らわずに腰を下ろす。
それなりに憤慨しつつも彼がこの青年との付き合いを優先させたのは、同僚というだけでない打算もある。忌々しいことではあるが、年下なれど家柄、社会的地位という点では彼よりベロミの方が上なのだ。だからといってこの青年に傅くつもりはないが、どうせくだらないであろう話を仕方なく聞いてやるくらいには腐れ縁だった。
彼が腰掛けるや否や、金茶の髪の青年は給仕を呼びつけると、勝手にカフェ・オ・レーを注文し彼へと宛がった。彼が憮然とした眼差しを向けても青年は気づいていないのか気にしていないのか、お門違いにもさも気が利くだろうと得意気な顔をするものだから、腹立たしい限りである。
彼を待つ間に頼んでいた蜜がけのクレープをナイフとフォークを巧みに操って攻撃しながら、ベロミはこう切り出した。
「今日呼び出したのは他でもない、実は君に折り入って頼みがあってね」
「頼み? 私に? 君が?」
彼は胡乱な目つきで青年を見遣った。金銭的にも人脈的にも恵まれているベロミだ、そんな青年がわざわざ彼に「折り入って頼み」たいことがあるなど、実に不穏ではないか。試しに彼はこれまでベロミが持ち込んで来た「頼み事」を思い返してみたが、どれもこれも碌な記憶でない。
不審感満載の彼へ青年は殊更に愛想よく笑って見せた。
「君に、少女を一人、預かって欲しいんだ」
「……なんだって?」
予想の範疇をあまりに軽々と飛び越えた言葉だったので、彼の反応は一拍も二拍も遅れた。遅れもするだろう。
少女を、一人、預かる? なぜ? 誰が? 私が? もしや聞き違えたのかもしれない、否そうだ、そうに違いない。
早急に断じ問い返した彼であったが、青年は先程と全く変わらぬ調子で繰り返した。
「だから、君に女の子を預けたいんだって、お、ん、な、の、こ。わかる? 十七歳。ピッチピチ」
噛んで含めるような物言いは正直癪に障るのだが、今はそれどころではない。彼は努めて冷静に青年の顔を見つめた。冗談だと言われるのを待つが、ベロミはクレープを優雅な手つきで切り分けては口に運ぶ作業を繰り返している。
彼は短く息を吐き出し椅子に深く身を預けると、その均整の取れた肩を竦めて見せた。
「私に? 少女を? 預ける? 意味がわからないね」
「意味なんてそのまんまじゃないか。君のだだっ広ーいご自宅に、女の子を一人、住まわせてやるだけのお話さ。簡単だろ?」
「気は確かか?」
ようやくそれだけ返した彼にベロミは少しばかり意地の悪い笑みを浮かべる。
「我らがヴィクトワール様のご意向だけど、そう言っちゃう?」
「……」
思いがけず上司の名前を出され彼は口を噤んだ。女の子を預かれと言われただけでも意味がわからないのに、それが上司の依頼だとはなお不思議である。
どうして少女を? 上司とどういう関係の? なぜ私に?
更なる困惑に陥った彼をよそにベロミは悠々とエスプレッソで喉を潤し、なめらかさを取り戻したらしい舌を再び動かし始めた。
「跡目争いについては知ってるだろ?」
「ああ」
さる有力者の子である上司が、兄弟と次期当主の座を巡ってのお家騒動の真っ只中にあることは、周知の事実である。兄弟が多いだけでなく家族関係が複雑なだけに揉めているらしい、とは社交界でも専らの噂である。
頷いた彼へ内緒話をするように青年は含み笑いを洩らした。
「じゃあ、先代の隠し子の話は?」
「隠し子? ……ああ、なるほど」
彼は合点がいった。地位、権力、財力のある者が正式な配偶者の他に恋人を持つことはさほど不思議なことではない。政略結婚も少なくないだけに、外聞の良し悪しこそあれど女や――時には男を――囲っている有力者も少なくはないのだ。結果として嫡子以外の子が出来ることもある。
となると、件の少女というのも上司の腹違いの妹だということだろうか。しかし、それを彼に預からせる意図がやはりわからない。
彼が再度首を傾げると、ベロミはこう説明をした。今は亡き上司の父に正妻の他に女がいたことは家族も薄々知っていたことだったが、その間に子供があったことが知れたのは先代の死から三ヵ月後、遺言が公開されてからだったという。
「詳細は省くけど、愛人はかなり昔に死んでたらしくてね、その愛人の生んだ子の行方はわからなくなってたらしいんだ。で、かつて愛した女の忘れ形見を見つけて欲しい、そして保護してやって欲しい、それを成し得た者に家督を譲る、っていう面倒臭ーい遺言をしてくれちゃったワケ」
「その少女をヴィクトワールは見つけたのだろう? なら彼が新当主の座に納まってめでたしめでたしじゃないか」
「ところが、そうはいかないんだよねえ」
ヴィクトワールと兄弟達は、それぞれが愛人の子と思しき少年少女を見つけて来たのだから、話がまとまる筈もない。上司一人でそれらしい青少年二、三人に目星をつけているのだ、ヴィクトワールの六人の兄弟達が挙げる「腹違いの兄弟候補」たちと合わせるとかなりの人数である。
調査は続行中だが、遺言のポイントの一点目は「忘れ形見を見つけること」、二点目は「保護すること」なのだ。仮に忘れ形見を見つけても、それを他の兄弟に奪われてしまえば、家督を掻っ攫われることになりかねない。
クレープを綺麗に平らげたベロミは薄く笑みを浮かべた。
「ご兄弟に出し抜かれない為にも見つけた弟、妹候補は真偽がはっきりするまではこっそり保護するのがよい、ヴィクトワールの自宅は避けた方がいい、別荘だって怪しい、となると、後は信頼の置ける部下に預けて守らせるのが無難、というわけだ」
「ではその少女が本当に腹違いの妹かどうかも不明、と」
「今のところはまだ、ね」
彼が冷静に呟く傍ら、エスプレッソのお代わりを注文した青年は悪戯っぽく瞳を瞬かせた。
「でも「かもしれない少女」の一人であることには変わりない。我らがヴィクトワール様が当主になるかどうかで、部下であるこっちの境遇も大きく変わってくる。ほら、喜んで協力したくなって来ただろ? なかなか可愛い子だよ」
「事情はわかった。だが、それがなんで私の家なんだ? 君の“お屋敷”でだって構わないだろう」
唸るように彼が言う。
しかし青年は軽い調子のまま首を振った。
「そうだね。……と言いたいところだけど、残念。こっちはフィアンセがいるわけ」
誤解されるのは好ましい事態じゃないんだよね、と言いながら青年は二杯目のエスプレッソのカップに唇を寄せた。彼が睨みつけてもどこ吹く風である。自分が恋人に誤解されてもいいのか、とは言ったところで無駄であろうことは想像に難くなかった。
ここまで来れば彼にも、なにゆえ彼が上司の「腹違いの妹候補」の保護者役に選ばれたのか察せられた。ヴィクトワールには彼やベロミの他にも優秀な部下が沢山あったが、恐らく彼は彼のその性癖ゆえに白羽の矢を立てられたのに違いない。
わかったからといって忌々しさは変わりようがない。彼はさして飲みたくもないカフェ・オ・レーをぐいと半分ほど呷った。ぬるいそれに、苛立ちを抑えるどころか掻き毟られ、やや乱暴に茶碗と受け皿を抱擁させた。
「私が狼にならない保障はどこにある? 私は女を抱けないわけじゃないんだぞ?」
威嚇するような彼の言葉をベロミは取り合わなかった。
「それって「可能」なだけで「希望」なわけじゃないだろ? 意固地になって上司の妹かもしれない女の子に手を出すなんて馬鹿げてるよ。ヴィクトワールの信頼、そして君自身の趣味、嗜好、美意識を、君に裏切れる?」
からかうような口ぶりで窘められて、全くその通りなだけになにも言い返せない。
押し黙る彼の向かい側で、青年は気楽に笑っている。
「君の女性嫌いを治すいい機会じゃない。本当にいい子だよ」
「別に女を嫌っているわけじゃない。ただ軽蔑しているだけだ」
至って平然と言い放った彼に、ベロミはやれやれと言いたげに首を竦めた。なにかあったのか無かったのか、その辺りは知らないし別段知りたいとも青年は思わないのだが、相対する彼の女性への視線は、性癖と比例するように偏見に満ちていた。だからこそ、少女を預ける相手に定められたわけなのだけれど。
不必要に親密になれとは言わないが、それなりに上手くやって欲しいとベロミは勝手ながら思っている。女嫌いの彼に苛められでもしたら少女が可哀想でならない。
飲みさしのカップを静かに下ろすと、青年は彼を見据えた。
「忠告しておくけど、この子を粗略に扱わないように。彼女はあの癇癪玉と無頼漢のお気に入りだからね」
「ほら吹き共の?」
少なからず意外の念を籠めて彼が問い返すと、ベロミは重々しく頷いて続けた。
「更に従兄は暇さえあればあの子に会いに来てたし」
「コマンダンが?」
「そ。そしてこの私も彼女を気に入っているわけ」
なぜか胸を張る青年を、彼は呆気に取られた顔で眺めた。その後もずらずらと知った名前を挙げられ、敵だらけじゃないか、と思う以上にその少女の存在が自分以外の同僚たちの間に既にして知れ渡っていることに驚いた。遺言の話も自分は今さっき聞いたばかりだというのに……。密かにむくれる彼だったが、君は在宅ワークが好きで最近は滅多に出社しなかったからね、と揶揄するようにベロミに告げられ、居心地の悪い思いをした。
兎に角、と青年が言う。
「あの子をちょっとでも傷つけてみろ、癇癪玉は喚く、無頼漢は切れる、うちの従兄は指を鳴らすとそれはもう大変な騒ぎに……」
知ったことか、と彼が切り捨てる前に、それに、とベロミが言葉を続ける。
「私は君を皮肉の矢で射殺す」
本当に射るのは言葉の矢だけか、と問い返したくなる程に冷え冷えとした響きだ。如何にも温室育ちの優男のように見せかけて、実際はかなり苛烈な男であるから、彼はあまり青年を敵に回したくなかった。
そんなに釘を刺すくらいなら自分などに預けようとするなよ……と彼は思ったが、彼の思考を読んだのかベロミは実ににこやかに笑って見せた。
「私が――私たちが、あの子を好き好んで君のような金銭感覚も無ければ能も無い、性的に倒錯したナルシストの癖に見た目だけはそれなりの男の元に預けるのだと思っているのだとしたら勘違いも甚だしい、懺悔でもして最後の審判の日まで起き上がらないでいて欲しいね」
概してこの美青年は、秀麗極まる唇から辛辣極まりない台詞を吐くのである。知っているからといって馴れているわけではないので、彼は閉口するしかなかった。
溜め息を吐き、彼は面倒臭そうに手を振った。
「わかったわかった、ヴィクトワール様の“妹君かもしれない御方”を預かって不自由させないように面倒を見る、これでいいんだろう?」
「親類だとか恋人だとか適当な関係ってことにしてね。別荘だとか別宅に押し込めて使用人を宛がうだけ、とかはナシだぞ」
「なんだって?」
「話を聞いてたか? 他の兄弟に奪われないように守れってお達しなんだぞ? 一緒にいないで攫われでもしたら君に責任が取れるのか?」
「ちょっと待て、攫うだとかまさかそんな馬鹿げた……」
「馬鹿げたことはない、って思うかい? 言えるかい?」
「……」
逆に問われて沈黙する。ヴィクトワールの家の血筋の古さ、培われた財、地位は、他とは格が違う。財力という点では彼の家も相当なものだが、家柄については上司には敵わない。当主になるとならぬとではその後の運命に天と地ほどの差がつくだろうことは想像に難くない。人生が「父親の愛人の子を捜して保護すること」で豊かになるとあらば、強引な手段を取る人物が出て来てもおかしくはないのだ。
「なら護衛の一人や二人……」
「付けるのは勝手だけど、仮に遠縁の子って設定にしても、護衛だけ付けて別邸に閉じ込める、ってのは不審だからね」
「…………」
先に釘を刺され天を仰ぐ。冗談でなく少女と同居させられようとしている。まるで悪い夢のようだと思いながら彼は残ったカフェ・オ・レーを飲むでもなく見つめた。すっかり冷め切った牛乳入り珈琲を口にする気にはなれなかった。もはや琥珀色とは呼べない濁った柔らかい茶色の水面には、自分の顔すら映らない。
「それで、その“お嬢さん”はいつ我があばら屋にお越しになると?」
投げ遣りに彼が訊ねる。肩肘をついて眺め遣る窓の外は夕暮れに染まっている。
二杯目のエスプレッソを上品に飲み干し、ベロミは人好きのする笑顔で答えた。
「今日」
「もう一度頼む」
「だから、今日」
短い応酬の後、彼は堪えるように眉間に手を当てた。そっと取り出した懐中時計を確認する。時刻は午後五時を迎えようかというところである。
彼は、彼にしては非常に忍耐強く、対面する青年へ問うた。
「今日、これからその少女を迎えに行かなければならないのか?」
「まさか。もう君の家に向かわせたよ。エスクワイアが道案内して」
「なんだって?」
とうとう彼が眦を決す。
彼が卓に掌を叩きつける。飛び跳ねた茶器が発した驚きの声が店内の注目を集めたようだったが、彼は衝動のままに声を荒げた。
「いい加減にしろ! 他人事だと思って勝手が過ぎるぞ!」
「そんなことを言われても、これは私の指示じゃないしー。怒るんならヴィクトワールにしてよ。それよりあの子、多分もうとっくに君の家についてると思うけど。いつまでもここで無駄話してて、いいの?」
彼の怒りの声もなんのその、ベロミはヘラヘラ笑うばかりである。無駄話だとかお前が言うなと苛立ちが募ったが、彼はカウンターへ代金を叩きつけるとコートを羽織りながらすぐさま店を出た。
彼が手頃な車を拾うと、ちゃっかりベロミも乗り込んで来た。運転手に自宅へ遣るように告げてから、彼は隣に腰掛ける青年を睨んだ。
「なぜ付いて来る」
「君に付いて行ってるんじゃなくてあの子に会いに行くの。そんな鬼みたいな顔した君と対面したらあの子が怖がっちゃう」
厭くまでも飄々としているベロミを見ていると、彼は段々と怒っていた自分が馬鹿らしくなって来た。何度目になるかわからない溜め息を吐き出し、額を押さえる。
青年は運転手と楽しそうに世間話に興じている。彼はリュヌ通りを逆走し西へ向かう車窓から灰色の街並みが流れゆく様をぼんやりと眺めた。朱から藍へのグラデーションを描く空が、美しくもなにやら物悲しく見える。
リュヌ通りを西に抜けた先に待ち構えるのはエトランジュ街、彼の家がある街だ。ビザール街に比べると幾分かモダンな街並みは、しかしながらやはり灰色の石造りである。
大通りの三本目の交差点を左に曲がり車を止めさせる。釣りを貰うのを面倒臭がって適当に運賃を支払うと、彼はさっさと自宅へ向かって歩き出した。その後を気楽そうにベロミが追いかける。
高級住宅街の一角、集合住宅の最上階ワンフロア全てが最近の彼の住まいである。昇降機に乗り込み待つこと暫し、扉が開くや否や駆け下りた彼の耳に飛び込んで来たのは、男の嘆き声だった。
「……どうしてっ!! どうしてですか、どうしてこんなことを……!!」
「ねえ、落ち着いて、人のお宅の前なのよ……」
「これが落ち着いていられますか!! ああ、こんなところを先輩方に見られたら……!」
聞き覚えのある声は案の定エスクワイアのものだった。淡い琥珀色の髪を掻き毟り煩悶するエスクワイアの、常ならぬ姿を訝しみながら、彼はその傍らにある人影に目を向けた。
フランネルのシャツと細身のチノパンツ姿の人物には見覚えがない。エスクワイアの方を向いているので顔は見えないが、恐らくあれが例の少女なのだろう。しかし、随分と髪が短い。後姿だけなら少年のようにも見える。少女と聞いていた筈だが、少年の間違いだったのだろうか……?
そう思った矢先、彼の背後で耳を劈く悲鳴が上がった。ベロミである。耳を押さえつつ抗議の為に振り返った彼は息を飲んだ。目を見開き喉を引き攣らせる青年の姿は、これまで彼が見たことがないものだった。
気圧されなにも言えなくなった彼の向こうで、もう一つ悲鳴が上がった。今度はエスクワイアだ。家主とベロミの到着に気付いたエスクワイアはなぜか絶望の色を滲ませながら、違うんですこれは事故なんです、などと譫言のように繰り返している。一体どうしたというのか。
戸惑う彼の鼓膜を第三の声が揺らした。
「あら、デュック!」
振り向いた人物の声を聞き、彼はようやくそれを少女と判じた。サンディブロンドと呼ぶには些か暗い色の髪が、エントランスホールの照明に淡く照らされている。彼女の顔立ちは整っていたが、取り分け美人というわけでも群を抜いて可愛いというわけでもない。しかし、なにか無視できない、惹きつけるものがあった。
彼女の灰色の瞳と目が合った刹那、なぜか彼は懐かしいような切ないような、奇妙な既視感に襲われた。だがそれも、ベロミの発した新たな悲鳴によって瞬く間に掻き消されてしまう。
「リス!! 君……!! 髪が……!?」
よろめきながらも彼を押し退け、少女に近付いたベロミが喘ぐように言う。少女の後ろでエスクワイアが、迎えに来たらもうこの髪型だったんです、と泣きそうな顔で呟いた。彼がどんなに凄んでも表情を変えなかったベロミが、顔を強張らせている。あんなに綺麗な髪だったのに……という青年の搾り出すような呟きで、彼はこの少女の髪が元は長ったことを察した。実に嫌な予感がする。
ベロミとエスクワイアの激しい恐慌の理由が今ひとつわかっていないのか、ああこれ、と少女は無邪気に自分の髪を摘んで見せた。
「ムシューは女性が苦手って聞いたから……ほら、こうして髪を短くしたら、少しでも気にならないかなって」
はにかむように笑った少女は気づいていないようだが、彼にはベロミの形相が変わったことがわかった。エスクワイアの恨みがましい視線も痛かったが、青年の無言の背中が怖すぎる。
「……そう、こちらのムシューの為に、ね……」
静かなベロミの声が逆に不穏である。私は悪くないだろう、そうは思っても、冷や汗が背中を濡らしていくのを彼は感じた。髪を切ったのは少女の勝手だ、しかし彼女に髪を切らせたのは彼の存在ゆえだろうと、どう弁明しようがベロミとエスクワイアは断じるに違いない。
彼は喚きたくなった。誰だ私が女を苦手だとかこの小娘に吹き込んだ奴は! なぜこの小娘は髪を切るだとか余計な気を回すのか! こちらは預かりたくもない少女を押し付けられた身なのに、どうしてこの少女の髪型一つで私が悪者にされねばならない!
内心で幾ら抗議の声を上げようが、それらは一つも彼の喉を通過しなかった。振り返ったベロミの口は笑っていたが、目は全く笑っていなかったのだ。
流石に剣呑な空気を感じ取ったのか、少女が不安そうに青年を呼んだ。
「デュック……もしかしてこれ、なにかいけなかったかしら……? 似合わない……?」
「まさか。ちょっと驚いただけ。短いのもいいね、リス」
少女を安心させるように微笑んでから、ベロミはついと彼を見上げた。青年の開き切った瞳孔が不気味で彼は喉を詰まらせた。
「君なんかの為に、わざわざ、髪を切ってくれたんだって。ね、いい子だろう? しっかり面倒みてあげて、ね?」
声音だけは至極明るく、一言一言突き刺すようにベロミが彼に言い放つ。有無を言わさぬ口調には、もはや彼も大人しく従うしかなかった。ここで逆らうほど愚かではない。
力なく首を上下させた彼を、少女が親しみを籠めて見上げた。
「よろしくお願いします」
「……こちらこそ」
再度デ・ジャ・ヴーが彼を包む。自分は、このシーンを、体験したことが、ある……?
だが、今度も彼の疑問は長続きしなかった。手にしていた鍵を青年に奪われ彼は我に返った。勝手に鍵を開けたベロミと、少女の持ち物であろうトランクを運ぶエスクワイアが彼の家の中へ入って行く。
呆れつつも後に続こうとした彼を、不意に少女が呼び止めた。
「ムシュー」
「……なんだい?」
「ムシューのことは、なんて呼べばいいかしら?」
灰色の瞳が真っ直ぐに彼を見つめている。角度によっては白くも青くも緑にも見えた、照明を受けて瞳の底が金色に光っても見えた。不思議な瞳だ。星のようだ、と彼は思った。いつか、こういう星を見た気がする。
少女は確かに少女であったが、髪型のせいか顔立ちのせいか、それとも身に纏う空気のせいだろうか、彼に“女”を感じさせなかった。未成熟ゆえであろうか、なんだっていいが、そこに性別ゆえの不快さがないことが、彼には新鮮だった。それにおびえもした。こんなことは今までなかったのだ。
つくづくと少女を眺めた後、彼は逡巡し、やがてこう言った。
「……そうだな、トローとでも呼んでくれ」
「Taureau?」
少女がおかしそうに頬を緩ませた。くすくすという軽い笑い声が妙にこそばゆい。笑われていることをさほど不快に思わない己が、彼はなんだか気持ち悪かった。
笑みを含んだ目で少女が彼を見上げた。
「あなたはトローって感じには見えないけれど」
「それは君が私を知らないだけさ」
澄まし顔で嘯く脳裏で彼は、この会話を知っている、と思った。そうだ、私は知っている。自分の中のどこかが囁くが、彼にはなんのことかよくわからない。
内なる声を鎮めるように、彼は少女へ問い返した。
「君のことはなんと? リス?」
「それはデュックが付けてくださった愛称よ。どうぞお好きなように」
自分を呼ぶベロミの声に応じ、少女は彼の家の中に上がってゆく。その背を目で追いながら、彼は少女の声を反芻する。リス……リス……Lis……Lis…………皮肉なことだ、運命だ、また百合だ、またも百合だ……今度は咲くのか、再び散るのか、それとも――?
本当になんのことだろうか、彼には彼の思考がわからない。自分の中の記憶がばらばらになるような、反対に一つになってゆくような、ちぐはぐの感覚が頭を、胸を、浸してゆく。快いのか、心許ないのか、わからない。この少女は自分にとって、よいものなのだろうか、悪いものなのだろうか、わからない。わからない。答えは出ない。はじまったばかりなのだ。
「……リス……Lis……Lilith……リリト……そう、君は、リリトだ」
呟き、自分が微笑んでいることに気付かぬまま、彼は同僚と少女――リリトが待つ彼の家へ、足を踏み入れる。あれほど抱いていた不快感は薄れていた。僅かな期待感すらいだいている己に、彼はいつ気が付くだろうか。
窓の外、日の落ち切った夜空では、二日の月が尖った爪を真白く光らせ浮かんでいた。