小さな太陽(読了時間2分)
これは高1の終わり頃に書いたヤツです。何気ない日常って、いいですよね。
寒い、と中年サラリーマンは呟く。
心も体も、芯から冷え切っている。そう感じたサラリーマンは、震える寒さを堪えるように体を縮込ませ、帰りの歩を速めた。
人工的な灯火が喧騒に満ちた都会を包み込む中、その乾いた空気は確実に冷気を帯び始めていた。
季節は、降雪積もる真冬。辺りを薄霜が張っていることから、例えコートを身に纏おうと寒く感じるのは当然のことだった。
しかし、原因はそれだけではない。
彼の務める会社にて。普段真面目なこのサラリーマンにしては珍しく、本日は大変なミスを犯してしまったのだ。首の皮一枚繋がったといっていいほどの、人生初めての大失態だった。
彼の通勤時間は、およそ一般的な人物と比較しても十分に短い。会社から電車で乗り継ぐこと5分、徒歩10分で彼の自宅に到着する。転職先の中規模会社が、彼の住むアパートに近いという話だけだった。
ふう、とサラリーマンは、希望の欠片も感じられないため息をついた。その際に上がった白い息を気にする様子も無く、彼は沈黙を保って歩いていく。
そんな中、彼がふと弱音を漏らした。
「辞めようかな……」
普段なら想像もできないようなことを、彼はついつい口にしてしまう。しかし次の瞬間には首を全力で横に振る。寒さで思考力が低下している、などと無理に理由をこじつけて、その考えを無意識下に押し込んだ。
息をする度に、冷気が肺に入り込む。それは呼吸の度に、容赦なく彼から熱を奪い取っていく。しかし意気消沈の様子の彼は、同時に自分の持つ世界への熱気すら失われるように感じて、紛らわすようにその歩を速めた。
自分の住む寂れたアパートに到着すると、重い足取りで階段を上り始める。端に設けられた郵便受けには溢れんばかりの広告紙が押し込まれているが、彼は気にする様子もない。他の住人の郵便受けも似た状態だった。
彼が住むのは5階。毎日のこの階段の上り下りが、彼の唯一の運動といってもいい。冷気を吸う周期を増やしながらも、彼は階段を足早に上る。途中で多少息があがるが、気にする様子もない彼は、体を圧して上っていった。
上り終えたら、彼の部屋はすぐそこだ。
階段に隣接した部屋、そのドアの前に到達した彼は立ち止まり、ポケットをまさぐる。そこで彼は、はっ、と目を見開いた。
「鍵が、無い……」
道中で落としたのだろうか、と彼はそのささやかな失態に、大きく肩を落とした。
つくづく今日はついてない、泣きっ面に蜂とはまさにこのこと、と半ば自嘲気味にうすら笑う。
仕方なしに、錆の付いたインターホンを押そうとすると。
ガチャリッ、と。
彼がインターホンに触れるかどうかのところで、目前のドアがゆっくり開く。
重たそうな金属ドア。取っ手にぶら下がるように手を伸ばし、何とかドアを押し開いて出てきたのは、一人の少女だった。
「あっ、やっぱりパパだ!おかえり~!」
「……うん、ただいま。良い子にしてたか……?」
「うん!」
元気な様子の少女。その対極にいる彼自身の意気消沈具合に、思わず苦笑いを浮かべる。
少女はドアの取っ手から手を離すと、彼の足下にしがみついてきた。そして、パパのズボンつめた~い!と、きゃっきゃと騒ぐ。
「……風邪ひくぞ。ほら、早く入りな」
「うん!」
彼の言葉に素直に従った少女は、満面の笑顔を浮かべて中に入る。引っ張られるようにして、彼も中へと入っていった。
おかえりなさい、と台所の方から聞こえてくる、妻の声。ただいま、と返答をしてから、少女に引っ張られるまま居間に案内される。
「パパ、聞いて聞いて!今日ね、学校でね――」
満面の笑顔で話しかける、元気な少女。その無邪気な声を聞きながら、彼はスーツの上だけを脱ぎ、その後畳の床に腰掛けた。ただでさえ広くない部屋だが、元気いっぱいな少女の存在は、それをさらに狭いものとしている。
彼は膝の上に座ってくる少女の言葉に耳を傾けながら、ふぅと安堵のため息をついた。いつもなら思わず頬が緩んでしまう彼だが、仕事の失敗のせいか頑な表情を崩せないでいる。
そんな中。
「おかえりなさい、アナタ」
先ほどと同じ迎えの言葉をかけながら、台所から妻がやってくる。両手にコップとビール缶、枝豆などのおつまみを携えて、彼の近くまで運ぶ。
「今日は寒かったわね」
「……うん、さっき鍵無くしちゃってさ……」
「あら?」
と小さく反応した妻は、視線は机に向けたまま、慣れた手つきでお酒の類を用意していく。
「それで、大丈夫だったの?」
「香奈が開けてくれた」
そう微笑を浮かべた彼は、膝の上に座っている少女の頭をぽんぽんっと叩く。それだけで少女は気持ちよさそうにする。
「助かったよ、ほんとに。香奈がいなかったら、パパ寒い思いをするところだったぞ」
その彼の言葉に、ちょこんと座る少女が見上げた。
「パパ、寒いの~?」
「ん? いや、今は別に……」
と、彼が言い終える前に、少女は行動に移る。
私が暖めてあげるね、と無邪気に笑った少女は、両手で彼の右手を握った。
「――――」
何気ない、いつもの行為。普段ならば気づかないような些細なことでも、今日の彼は敏感に掬うことができた。
小さい、柔らかい手だった。ちょっと握ってしまえば、簡単に折れてしまいそうな。
しかし、この少女から伝わる温もりは、冷え切った彼の全身に染み渡った。まるで小さな太陽が、凍った彼の心をゆっくり溶かすように。
ああ、敵わないな、と彼は思った。
どんなに辛いことでも、どんなに泣きたくなるようなことでも。
この一人の少女の、弱々しい小さな手一つに、絶対に敵わない。
目の前で一生懸命彼の手を握りしめる少女と、その様子を微笑ましく見る一人の女性。
先ほどから張り詰めていた彼の表情が、ゆっくりと緩んでいく。
そして今日一日の嫌なことが、この小さな少女の、小さな太陽に掻き消された。
「――――温かい」