チチキトク スグカエレ チチヨリ
第一章:届いた「凶報」
その晩、玲奈は箱根の老舗旅館で、冷えた月光を浴びながら一人、懐石料理を突いていた。名門写真家一家に生まれ、若くして新進気鋭のフォトグラファーとして注目を集める彼女にとって、この休暇は唯一の安らぎになるはずだった。
しかし、部屋の静寂を破ったのは、仲居が盆に乗せて持ってきた一通の電報だった。今どき電報など、よほどの非常事態でなければ使われない。
チチキトク スグカエレ チチヨリ
「お父様が……危篤?」
玲奈の手から箸が滑り落ちた。父・正造は、かつて「光の魔術師」と呼ばれた伝説のカメラマンであり、同時に玲奈に「真実を切り取る冷酷さ」を教え込んだ師でもある。ここ数年、創作意欲を失い隠居していたはずの彼に何があったのか。
だが、混乱する頭の片隅で、プロとしての違和感が疼く。「父より」という結末……。死の淵にある人間が、わざわざ電報を打ち、自分を呼び寄せるだろうか。あの合理性の塊のような父が、情緒的な最期を望むはずがない。
「まさか……」
嫌な予感がした。玲奈はスマートフォンを取り出し、ダークウェブの深淵、特定の「美学」を持つ者だけが集う匿名投稿サイトへと指を走らせた。そこは、父がかつて「究極のリアリズム」を追求するために、密かに心血を注いでいた場所だ。
第二章:画面の中の「確信」
サイトのトップページに、一時間前にアップロードされたばかりの動画が鎮座していた。タイトルはない。ただの無機質なシリアルナンバー。玲奈は震える指で再生ボタンを押した。
画面に映し出されたのは、どこかの名湯の露天風呂、その湯気の中に浮かぶ、ある「乳」の曲線美だった。
「……あ」
玲奈は息を呑んだ。
それは単なる盗撮動画ではなかった。被写体を侮辱するような粗野なアングルではない。水面に反射する月光の計算、肌の湿度を感じさせる微細なピント合わせ、そして、肉体の重力さえも芸術へと昇華させる構図。
この、背徳と美しさが紙一重で同居する「不謹慎な傑作」を撮れる人間を、玲奈は世界で一人しか知らない。
「間違いない……。これ、お父様だわ」
電報の言葉が、脳内で別の意味を持って再構成される。
チチ(乳) キトク(既得)。
それは死を告げる悲鳴ではない。この道数十年の「職人」が、ついに最高難易度の獲物を仕留め、その美しさを「既に得た」という凱旋報告。そして、その成果を誰よりも早く、唯一の弟子である娘に見せびらかしたいという、歪んだ自慢の咆哮だったのだ。
第三章:暗室の再会
玲奈は夜汽車を飛ばし、夜明け前の都内にある父の屋敷へと戻った。
家中を漂う現像液の匂いと、電子機器の熱気。奥の暗室の扉を開けると、そこには病床に伏せっているどころか、三枚の大型モニターの光を浴びて、狂気のような笑みを浮かべる正造がいた。
「帰ったか、玲奈。サイトは見たな?」
正造は振り向きもせず、モニターの一点を指差した。そこには、先ほどの動画が一時停止され、一ピクセル単位での執拗な修正が施されていた。
「お父様……。危篤だなんて嘘をついて」
「嘘ではない。私の創作意欲は、この一枚に出会うまで死んでいたも同然だ。いわば『危篤』だったのだよ」
正造は、獲物を仕留めた老いた豹のような目で、画面を凝視した。
「だが、見て見ろ。この『乳』の質感を。私はついに、レンズ越しに肉体を魂ごと盗み出すことに成功した。スグカエレと言ったのは、この現像に、お前の『現代的な感性』が必要だと思ったからだ」
玲奈は呆れ、同時に激しい嫉妬を覚えた。父を案じた涙は、一瞬にして「負けたくない」というライバル心へと変貌した。
「……甘いわね、お父様。この左側のハイライト、少し飛ばしすぎよ。肌の生々しさが死んでいるわ。もっとシャドウを沈めて、観る者を窒息させるような暗がりを作るべきよ」
正造は、一瞬驚いたように目を見開き、そして満足げに喉を鳴らした。
「……フッ、やはりお前は私の娘だ。チチキトク(乳・既得)の喜びを分かち合えるのは、世界でお前しかいない」
「チチヨリ(父より)」という暗号に従い、娘は父の隣に座った。
二人のマウスをクリックする音が、呪いのように暗室に響く。
外では朝日が昇り始めていたが、この窓のない部屋では、歪んだ父子の、終わりのない「美の解体」が続いていた。
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2幕
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第一章:最強の潜入員
霧深い名湯「白鷺の湯」。その老舗旅館に、一人の若く美しい女性、玲奈が降り立った。
彼女の端正な顔立ちと気品ある振る舞いは、どこから見ても裕福な家の子女そのものだったが、その瞳の奥には、獲物を狙う鷹のような鋭さが秘められていた。
彼女には、男には逆立ちしても不可能な任務があった。
「女湯への正当な潜入」。
彼女の持ち物の中には、最新のナノテクノロジーを駆使し、ボタンや髪飾りに偽装された超小型高精細カメラが仕込まれていた。それは、彼女の父であり、裏の世界で「視線の蒐集家」と恐れられる写真家・大蔵が心血を注いで開発した芸術作品でもあった。
「……今夜が勝負ね。あの『伝説の美肌』を持つ令嬢が、今夜この宿に来る」
玲奈は浴衣に着替え、しなやかな足取りで大浴場へと向かった。彼女にとって、湯船は癒やしの場ではない。最高のアングルを計算し、光の屈折を読み、誰にも悟られずに「真実」を切り取るための戦場だった。
第二章:死の淵からの呼び声
戦場へと足を踏み入れようとしたその時、仲居が血相を変えて駆け寄ってきた。
「失礼いたします、佐藤玲奈様! お電話……いえ、至急の電報が届いております!」
玲奈は眉をひそめ、差し出された紙片をひったくった。湯気に濡れた指先で開いたその文面には、無機質なカタカナが並んでいた。
チチキトク スグカエレ チチヨリ
「……お父様が?」
玲奈の脳裏に、数日前まで元気にシャッターを切っていた父の姿が浮かぶ。なぜ「父より」なのかという疑問を抱く暇もなかった。父は自分にとって唯一の理解者であり、この「美の追求」という名の狂気を共有する戦友だ。
「……作戦は中止よ」
彼女は誰にも聞こえない声で呟くと、着替えもそこそこに宿を飛び出した。深夜の山道を、父の待つ都内の古い現像所兼屋敷へと車を飛ばした。心臓の鼓動が、ワイパーの音に合わせて速くなる。「間に合って、お父様!」
第三章:暗室の聖母
屋敷は、重々しい沈黙に包まれていた。
玲奈は荒い息を切らしながら、地下の暗室へと駆け込んだ。薬品の匂いが立ち込める中、赤い電球だけが灯るその部屋に、父・大蔵はいた。
彼は、介護ベッドに横たわっているどころか、巨大な高精細モニターの前に陣取り、狂気じみた手つきでキーボードを叩いていた。
「お父様! 無事だったのね……! 電報には、危篤だと……」
大蔵は振り向きもせず、モニターの画面を指し示した。そこには、玲奈がまさに今夜狙おうとしていたターゲット――あの「伝説の美肌」を持つ令嬢の、信じられないほど鮮明な入浴映像が映し出されていた。
「遅かったな、玲奈。お前が現地で足踏みしている間に、私が仕掛けておいた隠しセンサーが、完璧なデータを吸い上げてしまったよ」
大蔵の声は、興奮で震えていた。
「チチキトク……。すなわち、**『乳・既得』**だ。お前が狙っていた最高の被写体の『乳』は、既に私のハードディスクの中に得た。もはや、お前がその身を危険に晒してまで、湯船で潜入を続ける必要はなくなったのだよ」
第四章:血は争えない
玲奈は、呆然とした。父を心配して流した涙が、頬で冷たく乾いていく。
だが、モニターに映し出されたその「完璧な構図」を見た瞬間、彼女の瞳にも、父と同じ濁った光が宿った。
「……なんてこと。このライティング、この質感。私の隠しカメラでは、ここまで鮮明には撮れなかったわ」
「そうだろう、玲奈。スグカエレ(直ぐ帰れ)と言ったのは、この最高の成果を、お前と分かち合うためだ。これこそが、我ら佐藤家が追い求めてきた『真実の美』なのだからな」
大蔵は、娘の肩を抱き寄せた。父と娘、二人の影が、赤い暗室の中で異様に長く伸びる。
「『チチヨリ』――これは、父としての誇りだ。お前に、これ以上の苦労はさせたくなかったのだよ」
玲奈は、そっとモニターに触れた。その指先は、まるで聖遺物を撫でるかのように震えていた。
「……お父様。次のターゲットは、あのお方ですよね? 政界の……」
「ククク、分かっているな。次は、お前の『女としての武器』を、もっと大胆に使うことになるぞ」
赤い闇の中で、父と娘の笑い声が重なり合った。
「チチキトク」の報せは、死への誘いではなく、さらなる深淵へと足を踏み入れるための、祝杯の合図だった。




