第18話 夜十時、梟の灯り――“呼び戻し”は、店が眠ってから始まる
20:00。閉店。
暖簾を下ろしても、胸の奥がまだ熱い。
今週も一乗寺ラーメン戦争、通常運転。
――“通常”が一番しんどいって、ここで働き出してから分かった。
「ふぅ……」
まつが息を吐くと、たけ子が笑う。
「ほら、ため息吐いたら脂落ちるで」
「脂は落ちへん。魂が落ちる」
「落とすな。拾え」
妹二人は、先に風呂へ行った。
「さくら、うめ、ちゃんと髪乾かしや!」
「はーい!」
「うめ、頭から湯気出して戻ってくんなよ!」
「出さへんし!」
元気な声が裏口から遠ざかっていく。
店内は片づけの時間。
たけ子とまつが、食器を洗い、床を拭き、調味料を整える。
「今日も海外の人多かったなぁ」
たけ子が伝票を揃えながら言う。
「プアール茶、めっちゃ受けてた」
「父ちゃんの福岡仕込みの“おもてなし”な」
「そうそう。油の後味が軽くなるんやて」
「科学的に言うと、発酵茶は――」
「理論、今はいらん!」
たけ子が即ツッコミ。
「片づけの手止まる!」
「うちの理論は手ぇ動かしながら出るタイプや!」
その頃、慶三は表で最後の仕事をしていた。
暖簾を畳み、名残惜しそうな客に、ひとりずつ頭を下げる。
「ありがとうございました」
「また来ます」
「おおきに」
声は大きくない。
でも、背中がちゃんと“店”を背負ってる。
(父ちゃんのこういうとこ、ずるいわ)
まつが少しだけ見とれていると、たけ子が肩をぽん。
「見とれてる場合ちゃうで。次は換気扇」
「現実に戻すな!」
22:00。
店の外。
慶三が、玄関横に小さな梟の置物を置いた。
ライトを当てる。
梟の影が、壁に落ちる。
「……出た、梟」
まつがぽつり。
「合図や」
たけ子が当たり前みたいに言う。
「この灯りがついたら、“ほんまの常連”の時間」
「こわ」
「京都はそういうとこある」
数分もしないうちに、
静かな足音が近づいてきた。
最初に入ってきたのは――
「よっ」
吉岡爺さん。
昼間と同じ顔。
違うのは、今の店が“表の顔”を終えているってことだけ。
その後ろに、ぞろぞろと――
近所のラーメン屋の大将、女将さん。
一乗寺の“戦友”たちが、夜の顔で入ってくる。
「お疲れさん」
「いやぁ今日も回ってたな」
「梟見えたから来たわ」
たけ子が笑って迎える。
「いらっしゃい。今日は“裏”やで」
「裏のほうが本番やろ」
「言うな言うな」
注文は決まってるみたいに揃ってる。
「瓶ビール」
「久留米羽根餃子」
「あと、呼び戻し。二十までやろ?」
慶三が、短く返す。
「二十杯までや」
その一言で、空気が締まる。
今夜の主役は――
久留米呼び戻し、ド豚骨ラーメン。
まつは、思わず息を飲んだ。
昼の鶏白湯の“柔らかい湯気”とは違う。
呼び戻しの湯気は、重い。
骨の記憶が立ち上る匂い。
「……父ちゃん、これほんまに出すんやな」
「出す言うたやろ」
「言うたけど、現実になると怖いわ」
たけ子が小声で笑う。
「怖いって言いながら目キラキラしてるで」
「してへん」
「してる」
慶三は黙って寸胴の蓋を開け、
スープをすくう。
一杯、一杯、丁寧に。
近所の大将が、腕を組んで言う。
「京都で呼び戻し出す店、ほぼ無いで」
「そら、扱い難しいからな」
「せやけど……ロマンあるわ」
吉岡爺さんが、瓶ビールを置いたまま言う。
「ロマンちゃう。原点や」
短い。
でも重い。
まつの背中が、ちょっとだけ伸びる。
「羽根餃子、焼けたでー」
たけ子が出す。
パリッとした音が、静かな店に心地いい。
女将さんが目を細める。
「この羽根、福岡の匂いする」
「修行時代の借りや」
慶三がぼそっと言う。
ラーメンが出た。
丼から立つ湯気。
白濁。
脂。
骨。
火。
すすっ――
店内が静かになる。
ラーメン屋の人間が黙る時は、だいたい本気でうまい。
「……やっぱり、呼び戻しは裏で食うもんやな」
近所の大将が言う。
「表で出したら、戦争が変わる」
女将さんが頷く。
慶三は、笑ってない。
でも、その背中が少しだけ楽そうに見えた。
(父ちゃん、ここが居場所なんや)
まつがそう思った、その時――
外で、うろうろする影があった。
ガラス越しに見える。
暖簾は出てない。
でも、店の前から離れへん。
「……おるな」
まつが言う。
たけ子が覗いて、吹き出した。
「京大生のラーメンフリークや」
「まじか」
外では、眼鏡の京大生が独り言みたいに言うてる。
「梟……梟……?
これ、合図?
でも暖簾ない……
入っていいのか……?」
まつが思わずツッコむ。
「君、理論派のくせに勇気ないな!」
吉岡爺さんが、箸を置いた。
「放っとけ。
“察する”のが京都や」
「いや、察するにも限度あるやろ!」
まつが言うと、たけ子が笑った。
「せやなぁ。ほな、ひとつだけ“おもてなし”しよか」
たけ子が裏口を少しだけ開けて、外に向かって言う。
「今日は終わりやでー。呼び戻しは、また今度なー」
京大生が固まって、深々と頭を下げた。
「……承知しました!」
「律儀すぎる!」
店内、笑いが起きる。
でも笑いの奥には、ちゃんと緊張がある。
二十杯まで。
呼び戻しは、特別や。
深夜のカブキモノ。
梟の灯りの下で、
一乗寺の“表の戦争”とは別の、静かな戦が進んでいく。
まつは、丼の湯気を見つめながら思った。
(来週の勝負の日……
うち、ほんまに大丈夫か)
けど答えは、もう分かってる。
大丈夫かどうかやなくて――
出すしかない。
この店の娘やから。




