第17話 午後三時、一乗寺――「呼び戻し」の一言で空気が変わる
開店から四時間。
時計は15:00。
昼ピークなんて言葉は、この店には存在せえへん。
一乗寺ラーメン戦争、今日も通常運転。
いや――
通常やのに、行列がさらに伸びてる。
「……これ、物理法則おかしない?」
まつが暖簾の内側で呟く。
「姉ちゃん、列は生き物や」
うめ(小6)が真顔で言う。
「増殖する」
「ホラーやめて」
さくら(中1)はオーダー票をさばきながら冷静や。
「姉ちゃん、あの人まだおる」
カウンターの端。
橋みたいな席に、今日も鎮座する存在。
吉岡爺さん。
瓶ビール三本目。
姿勢は変わらん。
仙人、継続中。
「……仙人、動かへんな」
まつが小声。
「動いたら売上落ちる説あるで」
さくらが言う。
「都市伝説やめ」
店内は、脂と笑いと湯気で満ちている。
観光客が写真を撮り、
常連が黙々とすすり、
慶三は寸胴の前で一切ブレへん。
その時。
吉岡爺さんが、ゆっくりビールを置いた。
「……そろそろやな」
まつがピクッと反応する。
「何が?」
吉岡爺さんは、厨房の慶三を見た。
「慶三さん」
慶三は手を止めへん。
でも、耳は向いてる。
「……なんや」
「呼び戻し、出せるか?」
空気が、止まった。
さくらの手が止まり、
うめが「え?」って顔をし、
まつの心臓が一瞬だけ速くなる。
慶三は、ほんの少しだけ間を置いて言った。
「……店終わればな。
二十杯までや」
ざわ。
店内が、ざわっと揺れる。
吉岡爺さんは、ニヤッともせず、静かに言う。
「ほな、また夜な」
立ち上がる。
ビール代を置く。
帰る。
それだけ。
でも。
店内の空気はもう、元に戻らへん。
「……え?」
一般客が口を開けたまま固まってる。
「呼び戻しって何?」
「え、呼び戻しって、あの?」
常連の中でも、ざわつきが広がる。
そこへ――
「ちょっと待ってください」
カウンター中央で、眼鏡の京大生が立ち上がる。
自称ラーメンフリーク。
こだわり強め。
今日もノート持参。
「今、呼び戻しって言いました?」
まつが腕を組む。
「言うたな」
「京都で?」
「京都やけど」
「久留米の技法ですよね?」
「せやな」
京大生の目が輝く。
「呼び戻しって、骨を継ぎ足して、
スープを捨てずに熟成させ続ける……あの……?」
「そう。
死なせへんスープ」
まつが淡々と答える。
周りの客が、ぽかん。
「え、スープ死ぬの?」
「死なんけど」
「言い方こわ」
外国人観光客が身を乗り出す。
「Yobimodoshi? What is that?」
うめがドヤ顔で説明する。
「スープ、ずっと生きてるやつ!」
「Alive soup!?」
なんかテンション上がってる。
慶三は、寸胴をかき混ぜながらぼそっと。
「扱いが難しい。
一乗寺では、普段出さん」
「なんでですか!?」
京大生が前のめり。
「香りが強い。
好みが分かれる。
覚悟がいる」
「覚悟……」
常連のおっちゃんが、餃子をかじりながら笑う。
「覚悟して並ぶわ」
「おっちゃん、軽いな!」
まつがツッコむ。
「でも二十杯やで?」
さくらが冷静に言う。
「夜やで?」
うめも続く。
一般客がざわつく。
「え、夜って今日?」
「今日やったら、もう並んだほうが……」
「いや、まだ営業中やし!」
たけ子がパンッと手を叩いた。
「はいはい、今は昼営業中や!
呼び戻しは夜の話!
昼は昼、楽しんで帰ってな!」
その一言で、店内が少し落ち着く。
でも、完全には戻らへん。
さっきまで“通常運転”やった行列が、
今はどこか“期待”を含んでいる。
「姉ちゃん」
さくらが小声で言う。
「これ、夜ヤバいんちゃう」
「ヤバい」
「完全に爆釣モード入ってる」
「入ってる」
うめがキラキラしてる。
「夜も戦争?」
「戦争」
「うめ、夜もおる!」
「宿題してからな」
まつは、厨房の父の背中を見る。
さっきより、ほんの少しだけ背中が大きく見えた。
(父ちゃんの原点)
呼び戻し。
福岡で修行して、
骨を足して、
火を止めずに、
繋いできた味。
それを一乗寺で出すってことは――
「覚悟やな」
まつが小さく言うと、慶三が聞こえるか聞こえへんかの声で返した。
「……覚悟や」
京大生が、ノートを閉じる。
「僕、夜来ます」
「まだ席あるか知らんで」
まつが言う。
「並びます」
「京大生、フットワーク軽いな」
外国人観光客も楽しそうに言う。
「Tonight! Yobimodoshi!」
「発音強い!」
たけ子が笑いながら言う。
「ほな夜も、プアール茶多めに仕込んどこか」
「父ちゃん、足りる?」
まつが聞く。
「……足りんかったら、切る」
「切るな!」
午後三時。
一乗寺ラーメン戦争は、まだ終わらへん。
むしろ――
“呼び戻し”の一言で、
戦場は夜へと、静かに広がっていった。




