第13話 五月、土曜、東山――天津の湯気と夏の匂い
五月の土曜日。
東山の路地は、昼の観光がひと段落して、夕方の静けさに差しかかる頃やった。
それでも、町中華まるちゃんの赤い暖簾は、相変わらず堂々と揺れている。
「……腹、減った」
前田利家、今日もそれやけど――
「声、弱ない?」
まつが横目で見る。
「……今日は、ちょいバテ」
珍しく素直や。
中間テストが終わった途端、サッカー部は本気モード。
夏の大会に向けて、練習は一段ギアが上がっている。
「午後、走り込みえぐかった?」
「えぐい。対人もきつい。最後、足つった」
「それは水分と塩分足りてへん」
「ちゃんと飲んだ」
「足りてへん」
即断。
「省エネ運転中やな」
まつが言う。
「今日はほんまに燃費悪い」
「そらガチ練やからな」
店に入ると、油と醤油と中華鍋の音が迎えてくる。
「いらっしゃい!」
まるちゃん大将の声は、今日も太い。
「お、利家。夏仕様の顔しとるな」
「はい、死にかけです」
「生き返らしたるわ」
注文。
利家、息を整えて。
「天津チャーハン、餃子、四川ラーメン」
「全部いくん?」
まつが即。
「いく。今日は回復優先」
「えらい」
まつは落ち着いて。
「天津チャーハン小、餃子」
「四川いかんの?」
「今日は利家の胃に譲る」
「優しい」
「管理や」
厨房から、鍋の音。
ジュワッ。
火柱が上がる。
隣のカウンターで、常連らしきおっちゃんが言う。
「大将、裏のやつ」
観光客が反応する。
「裏メニュー?え、何それ?」
常連のおっちゃんがニヤリ。
「あるんや」
「何が出てくるんですか?」
「出てからのお楽しみや」
「ずるい!」
まつが小声で利家に言う。
「どこ行っても“裏”あるな」
「京都の文化やろ」
「察する文化」
「俺、察するの苦手」
「知ってる」
天津チャーハンが運ばれる。
ふわとろ卵、あんが光る。
「……うまそ」
利家、スプーンを持つ手が少し重い。
「食べる前に、深呼吸」
「なんで」
「副交感神経入れる。消化モード」
「町中華でヨガすな」
「静かに」
利家がひと口。
「……ああ」
目が、少し戻る。
「卵は消化いい。糖も入る。今日はこれが正解」
まつは餃子をかじる。
「餃子はな、タンパク質と脂質のバランスええ。
でも四川は、刺激強いから食べすぎ注意」
「もう頼んだ」
「知ってる」
四川ラーメンが来る。
赤い。
香り、強い。
利家がすすって、汗が出る。
「……辛い」
「代謝上がるけど、体力削る」
「今日削られっぱなしや」
「それでも食うんが前田家」
「加賀百万石やぞ」
「その子孫が町中華でヒーヒー言うてるの、歴史どうなってんの」
「知らんけど」
二人、笑う。
その時。
「お、まつちゃんやないか」
常連ジジイが、ビール片手に近づく。
「今日も利家と?」
「はい、回復会です」
「明日、店立つんか?」
「……知らんけど」
まつ、即落とす。
「立つなら、行くで。限定またやるんやろ?」
「大将も行くぞ」
まるちゃんの大将が笑う。
「たけ子さんにも言うとこ」
まつ、ちょっとだけ困る。
「プレッシャーかけんといて」
「期待や期待」
利家が、小声で言う。
「まつ、人気やな」
「関係ない。明日は明日」
天津チャーハンを食べ終えた利家の顔色が、だいぶ戻る。
「……ちょっと復活」
「よし」
まつは真面目な顔になる。
「今日はな、“追い込む日”ちゃう。
削られた分、戻す日」
「夏、いけるかな」
珍しく弱音。
「いける。
でもな、無理して削れたら意味ない」
利家は、静かに頷く。
「プロ目指すなら、“休む勇気”も技術や」
「町中華でそんな話すな」
「どこでもする」
観光客が裏メニューを頼めず、少ししょんぼりしている。
「京都はな」
まつがぽつり。
「全部出さへん文化や」
「全部見せへんってこと?」
「せや。
味も、気持ちも、少し隠す」
「まつは?」
「うちは、ほぼ出てる」
「せやな」
二人、笑う。
店を出ると、東山の空気がひんやりしている。
「明日、どうする?」
利家が聞く。
「知らんけど」
「逃げた」
「考える」
夏は近い。
汗と、湯気と、町中華の灯り。
五月の土曜、
二人はそれぞれの戦場に向かう覚悟を、
少しだけ整えていた。




