3-1.18年という鏡(1)
――うっわぁ、さっむい!
外に出てしまうと、風はあまりなかった。少なくとも、出る時のあの風というか風圧のせいで身構えていたのが、拍子抜けするくらいには。でも、猛烈に寒い。控えめな震動が足下から伝わり、中にいた時には全く感じることのなかった、低いうなりが聞こえる。絶え間ない水音も。
見えるのは無機質な明かりに照らされた甲板、手すりから覗きこんだ先の、船がかき分けて起きた、暗い海面の波、水面の形。遠くには何もなし。空も真っ暗。天気が悪いのか、甲板の明かりが近くて強すぎるからなのかはよく分からない。車か機械を連想する、変な匂いもした。
――何も見えませんね。
私の後に、あの人が続いていた。様子やその声音は落ち着いていても、髪はいくらか乱れている。私が開けたドアを、すぐに引き受けてくれたときにそうなった。それを手で整えながら、海に面した手すりにもたれていた私の方に歩いてくる。
――もう、かなり陸地から離れちゃったんですねぇ。ていうか、明かりとかもなんにも見えないって……
――港の夜景が見れる間は、綺麗ですけどね。
――あっ、部屋とか、食堂から見ましたよ!
――ここから見るのもいいですよ。街が明るくて、その明かりが空に反射してるのがはっきり見えたりしますし。それがだんだん遠ざかって。
――へえーっ、いやなんか、凄そうだけど……想像できないですね。
こうやって話しながら、私はその人の別の姿に思い当たった。今日の記憶だけではなくて。それは私に駅地下のレストランで大人の振る舞いの見本としての姿でもあったし、昨日の昼頃、母と一緒に、下見(何の?)という口実で街中を歩いていたときに見た姿でもあった。スーツ姿で、颯爽と私の前を通り過ぎていった。
なぜそれを、ごちゃごちゃした記憶の中から取り出せたのかは分からない。昼休みか何かで食事にでも出ていたその姿が、あの街に住み、生きている人の見本として印象深かった、ということかもしれない。まあ、それも後付けの気持ちなのかもしれない。でも私はその人のそんな姿を、確かに覚えていたのだった。
――向こうには、旅行ですか? お仕事とか?
――旅行と、あと……下見、ですね。
――引っ越しでもするんですか?
――まあ、そんなところです。
――私も、下見だったんです。大学が決まったんで、住むところを探しに。
――時期が早くていいですね。二次試験が終わってからだと、見つけるの、大変らしいですから。
やっぱり彼女は、駅で見かけたあの日に、私が思った通りの立場にいたらしい。たぶん私と同じように、AO入試を終えたところだったのだろう。今は呼び方が変わっているかもしれない。私が試験を受けた、コンクリートむき出しで底冷えする灰色の講義室も、今では綺麗で洒落た、真っ白な建物になっている。地下鉄ができたので、ぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、山の坂道をくねくね曲がるたびに揺さぶられて潰されそうになるバスも無い。十八年も経てば、それだけ変わってもおかしくないということだろう。しかしその中には、同じ場所にあったレストランで、同じような日に同じように私も食事をしたという記憶もあった。