2-3.18歳の私と36歳の彼女(3)
そうやって慌てすぎた後には浮かれすぎて、そして食べすぎた。
何か、同じようなことが続いてしまっている気がする。たとえば十二日前の夕食のとき。その日の日付も、その日から何日経ったかもはっきり分かるのは、私にとってそれだけ特別な日だったから。それは初めて入ったその店のせいではなく、何ヶ月か、あるいは一年以上の時間をそのために費やした試験のせいだ。もっと正確に言えば、それから解放されて、まだほんの数時間でしなかったから。
試験、といっても文章を読んだり書いたりというのと面接だったけれど、その試験の間も、緊張よりむしろ、わくわくしている気持ちの方が強かった。これでやっと終わるんだという期待のせいだったかもしれない。実際に終わってくれてよかった。自分の浮かれぶりを振り返ってみると、つくづく思う。
何にしても、見たことはあったけれど入るのは初めてだった広々としたキャンパス(ただし、もっとずっと広い大学をよく知っている)だとか、綺麗で大きな、でも中に何があるのか分からない大学の建物だとか、寒いけれど、普段過ごしている、そして今船で向かっている先よりはずいぶんと暖かい空気だとか、そういうものに夢中にならずにいるというのは、無理だったと思う。最後の面接まで終わって、小さな食堂のようなところで時間をつぶしていると、大学の先生が現れて(面接の相手ではなかったと思う)、何か私が訳知りで得意げに話したということにも。実際のところ、その先生にどう思われていたのかは別として。
そんな気持ちがまだ、余韻というには強すぎるほど残っていて(何しろ試験が終わって数時間だったのだから)、浮かれた気持ちで入った駅地下のレストランでも、注文しすぎてしまった。おいしかったし、食べきれる量だったけれど、伝票の金額を見て青ざめることにはなった。もらっていた小遣いというか旅行代(受験代?)のおかげで、たいして深刻にはならなかったにしても。
そんなときに、ふと、ある女の人に目が行った。少し離れた席に座っていた、髪の長い、眼鏡をかけた綺麗な人で、淡々とパスタを口に運んでいた。最初は、ひどくつまらなそうに食事をしているように見えた。でも私とは違って、その人にとってはいつも通りの食事なんだと思うと、何というか、大人の振る舞いとして適切で、その冷静さが、かっこよくすら感じられてきた。平日の夜、大きな駅の地下のレストランでの夕食という日常!
そんなお手本に促された反省を思い出したせいか、私はもう少し落ち着こうとした。でも、船の上で、延々とコンテナやら冷たい街灯(街?)が並び、それもすぐに流れていって、わずかな明かりが何もない場所を照らすだけになり、ついにはその明かりもずっと遠くのごく小さなものでしかなくなっていくという景色が見える中での食事が、私にとって特別にならないはずはなかったのだった。ついでに、携帯電話の電波メーターがどんどん少なくなっていくというのも、自分がどこにいるのかということを実感させてくれた。さらについでに、全く電波が届かない状態の表示を、初めて見た。
食堂を出て廊下を歩いていくと、窓際に並んだ椅子のほとんどに人が座っていて、私では思いつきもしないような過ごし方をしている。例えば、私にとっては大昔に口をつけて「ゲッ」となった記憶しかない缶ビールとお菓子を、椅子の間の机に広げていたり。
真っ白なピアノが置いてあったりもする。今は誰も演奏していない。私にも無理。技術的にもそうだし、他の意味でもたぶんそう。
劇場なんていう、信じられないものまである。映画かテレビで見たような光景がそこにあるのかもしれないと思えて、そんな想像だけで、私はうっとりとしていた。中に入った後もそんな気持ちが持続するかは分からなかったけれど(結局入らなかったので)。




