◇秋 『悪意くらいは信じてる』
自作でない、他人製の死体を目前にしたとき僕はなにを感じるだろうか。
おそらく哀悼だと思う。
僕はその死を大勢が僕の起こした事件を見るのと同じようにわずかに嘆き、わずかに憤る。
ちなみに僕が以前他人製の死体を見てみたいと願ったのは効率的な人の殺し方を学びたかったに過ぎない。
ナイフで急所を一閃するやり方は迅速かつ的確ではあるが一点に特化したやり方はときに盲点を生むものだ。
「……なんだかなぁ」
携帯電話を開く。受信ボックスから今日の1時13分に届いたメールをもう一度呼び出す。
『できるだけ早く××公園まで来てください。あなたの望むモノを捧げてあります』
件名はなく本文はこれだけ。当然、送り主は不明。
それで僕はいま深夜の公園に居たりするのだが、
「なんだかなぁ」
僕は溜め息を吐いた。代わりに吸い込まれた空気から新鮮さが消え失せているのは夏の名残のせいではない。
どうやら世間一般での認識と僕の実像には限りなく大きなズレが存在するようだ。例えば僕はよく「殺したい」だとか「いつか殺そう」とか思うけどそれは思春期によくある「ぶっ殺す!」や「法律に咎められないなら殺したい」などと等価のモノで本物の殺意ではない。……ということにしておく。
別に「人間を見ると殺すことしか考えられない」というほど異常ではないのだ。
あー……なにかというと、
『あなたの望むモノを捧げてあります』
それは効率とは無縁にズタズタに切り刻まれた小学生の死体だった。『ボロ雑巾のような』という直喩がよく似合う。
撒き散らしたような血が一面だけに黒い赤を塗りたくっている。
まったく、紅葉にはまだ少し早いというのに。
何気なく観察してみた。
致命傷は、パッと見ではわからないが中央から2つに開かれた首か金属片の覗く側頭部に開いた穴が本命だろうか。大穴で四つの部品に解体された右足の小指。
流石に下腹部から縦に裂かれて小腸が引きずり出されたのは死後だろうな。生前だったらとりあえず合掌。
何かを踏んだ。切っ先のない包丁だった。隣に申し訳程度にレインコートが捨ててある。
メールの送り主は別に送信先を間違えたわけではなさそうだ。
ほんとどうするかなぁ これ。
……うん、決めた。放っておこう。
僕は死体に背を向けた。市民だが一般じゃないので通報の義務はないのである。
帰宅して僕は自室のベッドに入った。目を閉じるとそこには闇がある。
……当たり前だ。にも関わらずファンタジー小説以外で闇だとか光だとかが関わると真新しく感じるのはなぜだろうか。あと風もか。こう感じるのは僕だけかもしれないが。
「……」
寝れん。妙に神経が昂っている。
「あーくそ」
僕は同世代の人間逹と比べて頭のいいほうではない。ちょっと神経の一部がイッちゃってるだけでその他はだいたい同じようなことを考えるだろう。
例えばとある頭が大人で体が子供な探偵(高校生は子供じゃないだろうか)が推理と主張して犯罪を暴き半ばその生き方まで間違っていると決めつけるように、
例えばとある魔術な幻想殺しがよく知りもしない他人の考え方(なぜかペラペラ喋るんだよな、戦闘中なのに)までその右手でぶっ壊そうとするように、
僕が考えたのは先ほどの死体に対する絶対の、否定だった。
だいたいあんなものを見せて僕になにをしろって言うんだ……?
結局眠れずに朝を迎えて簡単な朝食を取って学校へ向かった。僕の通学路からあの公園はかなり離れているが心なしか行き交う人々がざわめいている気がする。
面倒な坂を登りきって野球部が青春の汁を流すグラウンドと逆側の置き場に自転車を停めた。
教室に向けて歩き出そうとしたら不意に肩に手が置かれた。振り返る。指が頬に刺さった。
「おはよう、須藤くん」
……意外なことにそれをやったのは灰島だった。最近馴れ馴れしくなってきた新庄か倖田あたりだと思っていた僕は作りかけの笑顔を引きつらせる。
逆に灰島は満面の笑み。
死体を前にしたとき以外に僕が知らない表情だった。
「……なんだか機嫌いいね」
「いいものが見れたから」
鼻歌でも歌い出しそうなくらいに、上機嫌。
きっと僕と同じものを見たからだろうとあたりをつけた。これだから人間はおもしろい。同一の事象を前にしても反応が全然違う。
「きみはなにか知ってるの?」
先に行こうとしていた死体愛好家は振り返って微笑んだ。
「そんなことどうだっていいでしょう?」
まったくだ。
◇
この地方とだけ言われていたテレビの中の殺害現場が自宅からほど近い場所だと気づいたのは6月頃、あるニュースの特集番組を見たときだった。
報道されているだけで三件もの殺人をノーミスで成立させた殺人鬼が身近にいる──、
実際に殺害現場に赴きそれを実感した刹那、俺を襲った感情の波は恐怖ではなく強烈な憧憬だった。ただひたすらに、憧れた。
普通からの脱却、日常を異端へと変えた、実在する恐怖。
彼は──、いやあの方はどんな人間なんだろうか。もしかしたら人間ですらないのかもしれない。霧のように実態のない怪物であっても俺は驚かない。だがしかし、いいや『やはり』、あの方は人間だ。
だからこそ人間を惹き付ける。
だからこそ人間を殺す。
きっとあの方はまだまだ殺すことを決めている。そのために本当にやりたいことをグッと堪えてただ殺すことに甘んじている。現場に長く留まることをしない。
俺はあの方の代わりにあの方が本当にやりたいであろうことをやってみようと思う。
レインコートと数本の包丁
大事に取っておいたお年玉を使って揃えたそれを眺めながら夏休みを過ごし、秋の初め、あの方の4件目の殺人が露見したとき俺は夢想に過ぎなかった妄動を現実にすることに決めた。
俺になついていた近所の小学生がそのターゲットだった。
そいつの家で飼っていた犬が4、5ヶ月ほど前に行方不明になっていることを俺は知っていた。
ちなみにその犬は誘拐されたような痕跡があった。いまころどこか人目につかない場所で腐っているかもしれない。
あの犬を見つけたかも、公園に居るから確認しに来てくれ。
ぬか喜びさせたくないから家族には言わないほうがいい。
そう言ってそいつを深夜に呼び出した。
ガキは無防備に立っていた。忍び寄る。気づかれる。掴み掛かり押し倒す。年下のはずだが体格にあまり差はなく少し苦戦した。最近のガキは発育がいい。口にガムテープを貼り付ける。ベルトに差した包丁を抜く。
ガキの顔に明確の恐怖が映る。
ブレーキはかからなかった。
手のひらを串刺しにした。声のない悲鳴。
腕の肉を開いた。動かないノタウチ。
脹ら脛に切れ込みを入れた。意思のない反撃。
胸を十字に裂いた。心のない絶叫。
頭。
眉間に突き刺すつもりがガキが悶えた拍子にこめかみあたりに刺さってしまった。
バキリ
切っ先が折れる。同時に一切の反応が消えた。死んだ。
あ タンスにぶつけたときに痛い場所No.1の称号をもつ足の小指に包丁を突き刺されたとき、どんな反応を示すかを確かめるのを忘れた。
いまさらだが損壊させてみる。
適当にいろんな箇所に突き刺してみたが切っ先が折れたせいでやり辛い。刃の部分だけを使って物を斬る練習のために、比較的柔らかい性器から少し上の辺りの包丁を深く突き立てた。腹を一気に開く。途中で筋肉の筋みたいなものが引っ掛かったが無理矢理に力を込めるとブチりブチりと音を立てて切れた。
ふとなにかが足りないような感覚に囚われる。ドラマで見るような殺人のシーンを思い出してきっと悲鳴だと合点した。ガムテープはなしでやったほうがよかっただろうか。
開いた腹の肉を押し広げると内臓が少し見えた。内外の血で真っ赤に染まって形を把握できない。右手を腹の奥に突っ込んでそれを掴んだ。グニャリとした柔らかい感触。引きずりだしてみるとどんどん出てきた。小腸らしい。
ああ あの方はせっかく人間を殺しているのにこの程度の遊戯に浸ることも出来ないのか。
「──あら」
ひどく間抜けな声に俺は振り返った。街灯の下に女がいた。長い黒髪が影を産み出していて光がそいつの闇に吸い込まれているような暗さがある。
「こんばん、」
女までは二足と少し。足元で血が跳ねる。俺が間合いに入るよりもわずかに早く女は片手を突き出した。何かを握っている。人差し指が動く。
「ばーんっ」
冗談じみた奇声と同時に霧状のそれが噴霧された。ラベルが少し見えた。
催涙スプレー、なんて生易しいモノのはずはなく。
殺虫剤
「ッ……、……、ッッ」
左目は間に合わなかった。
眼球が捩られているような痛みに俺はただ悲鳴を圧し殺す。
コツコツ、足音が二歩。
とりあえず女が俺から遠ざかったようだ。俺と違い殺傷が目的ではないらしい。
「こんばんは。そのコートと刃物から察するに『彼』の模倣犯かしら?」
「彼……? 彼だと?!」
涙で保護されて右目だけは開くことができた。
「あの方のことを彼?彼?彼? ふざけるな何様のつもりだお前死んで詫びろ死んで詫びろ死んで詫びろ死んで詫びろ死んで詫びろ死んで詫びろ死んで──、
「はいこれ」
差し出された右手には紙切れが乗っていた。その手に包丁を振るう。しかし二歩の距離は遠く、簡単にかわされて手を掴まれる。女が手首を動かした。関節が捻れる。
「ぎぃぁ……っ……」
「虫っぽくて素敵な声ね」 女は俺の右手を掴んだまま逆の手で紙を握り直して俺に差し出す。
「『彼』のメールアドレスよ。おもしろそうだからあげるわ」
「あ、」
ああ、ああああああああああああああああああああ
女に百万回ほどありがとうと言いたかったが顎が震えて言葉にならなかった。
紙を握り締めて目を閉じた。
祈るように、膝をつく。
どれくらいの時間そうしていただろうか。
女は消えていた。思い出したかのようにレインコートを脱ぎ包丁を置いて俺は帰路についた。
平凡な集合住宅をボヤけた視界に映る街灯の灯りを頼りに足を動かす。
死んだような静寂がざわめく心に心地いい。不意に地面が揺れた。否、電柱に寄りかかったあとで俺は俺が揺れたのだと気づいた。口端に妙な湿り気があった。嘔吐していた。
「……ははっ」
妙に晴れやかな気持ちだ。あの方もおそらくこれを味わったのだろう。いま吐き出されたのは俺の中の不純物だ。切り捨てられて当然の感情や倫理だ。
「この人殺しが」
なにかが込み上げてきた。胃ではなく今度は頭の芯からだった。歓喜だと気づいた。
鍵を回して玄関を開けると外よりも一層暗い闇があった。俺は自室に行き着衣の全てを脱いで押し入れの奥に押し込んだ。
着替えを引っ張りだして風呂場に向かう。シャワーの栓を捻り瞼を開けたまま温水に瞳を晒す。左目にわずかながら光が蘇った。一応無事らしい。
殺虫剤の女を思い出す。あれはなんだったんだろう? 全てが現実だと思える空間であの女だけが冗談じみていた。あの方と繋がりがあるのだろうか。少なくとも人間相手に平静に殺虫剤を向けることを躊躇わない異常者──、
顔を打つ水の熱さに表情をしかめた。シャワーの設定温度が44度になっている。あのグズめ。
風呂場を出て自室に戻り女からもらった紙を取り出す。少々血で見えにくくなっていたが文字そのものは無事だった。クセのない綺麗な字で読みやすい。メールアドレスを打ち込む。
文面を考えるのに少し手間取ったが俺が最も伝えたいことだけを簡潔に打ち込むことに決めた。
ベッドに潜り込む。
いまから戻ればあの方に会えるだろうか。
会いに行きたいと思ったが勇気が出なかった。
睡魔がスッと俺を取り込んだ。気持ちよく眠れそうだ。
いつも通りの朝がきた。目覚まし時計とグズの声が頭に痛い。両方の目覚ましを止めるためにベッドから起き上がる。
リビング。
「早く食べなさい」
グズの分際でえらそうな口調で言うと食パンとジャムをテーブルに置いた。グズは新聞を広げる。
滑稽。お前の息子が今日なにをしてきたか教えてやろうか? 心中の優越感に震えながらグズを見た。
「……なに?」
不機嫌そうに顔を歪める。これもまた、滑稽。
部屋に戻る。
「食べないのね?」
無視した。制服を着替えて重いバッグを片手に玄関で立ち止まった。血のついた靴を処分し忘れていた気づいた。あまり使っていない下駄箱に放り込んでおく。
これを見つけたときのグズの反応を想像して笑った。外に出る。いつもと同じ道のりだが足取りがかすかに軽い。が、学校に近づくに連れて同級生達のキショイ面々が目に入って不快だった。
校門を過ぎたあたりで誰かに背中を押された。
「よぉ 葛西」
無視した。
拳が頬に刺さった。口中に血の味が広がる。甘い。
ズキリと口内が傷んだのは舌先が触れたあとだった。
笑い声が耳をつく。
「やへぇ 触っちまった。手ぇ腐る」
卑下た醜い笑みを浮かべながら上崎が遠ざかる。そのうち、殺そう。
教室に入ると俺の机は逆さまにされていた。椅子の上には花瓶が乗っている。俺は誰かに死ねと思った。自分だったかもしれない。
花瓶を蹴り飛ばして机を元に戻した。誰かの机にあたって短い悲鳴が挙がるが心の底からどうでもいい。教科書とノートの入った鞄を下ろす。そのまま机に突っ伏した。
誰を殺すどれを殺す彼を殺す君を殺すお前を殺すあんたを殺すあれを殺すそれを殺すこれを殺すこれも殺すそれも殺すあれも殺すあんたも殺すお前も殺す君も殺す彼も殺す誰も殺す。
繰り返す。
誰を殺すどれを殺す彼を殺す君を殺すお前を殺すあんたを殺すあれを殺すそれを殺すこれを殺すこれも殺すそれも殺すあれも殺すあんたも殺すお前も殺す君も殺す彼も殺す誰も殺す。
もう一度。
誰を殺すどれを殺す彼を殺す君を殺すお前を殺すあんたを殺すあれを殺すそれを殺すこれを殺すこれも殺すそれも殺すあれも殺すあんたも殺すお前も殺す君も殺す彼も殺す誰も殺す。
リピート。
誰を殺すどれを殺す彼を殺す君を殺すお前を殺すあんたを殺すあれを殺すそれを殺すこれを殺すこれも殺すそれも殺すあれも殺すあんたも殺すお前も殺す君も殺す彼も殺す誰も殺す。
誰も殺す。がなんとなく気に入った。そう誰も殺すのだ。上崎、進藤、高槻、桐原、中村。
誰も殺す。最初は誰にしよう。やはり上崎か。
けど直接殺すのも芸がない。
上崎の惚れてる女から殺すのはどうだろう。その次は友人、その次は家族。どんどん本人へと近づけていく。
導火線が迫るように。
これで行こう。
他のやつらの順番も考えているうちに6限目が終わった。バッグを取って教室を出ようとして、倒れ込んだ。
──またあの方にメールを打とう。死体を挟んでゆっくりと話してみたい。
あの方に俺を知って欲しい。あの方の殺す理由を知りたい。あの方とわかりあいたい。同じ殺人者。グズな大人達が答えられない真理でもきっとあの方は答えてくれる。
自分の呼吸が乱れているのがわかった。蹴られた肺が痛むせいじゃあない。
「ははっ」
息苦しくて柱にもたれ掛かった。軽い呼吸困難に陥っているらしい。殺害からたった1日で順調に狂ってきている。俺は壁に顔を隠して笑おうとした。が、うまく笑みにならなかった。視界が揺れて膝が折れた。
呼吸が戻るまでこのまま居たかったが意図せず肩が持ち上がった。
「だれか手伝って!」
耳障りな甲高い声が鳴る。グズに似た声だと思う。あまり共通点はないはずだがなぜかそう思った。
目だけを動かして横を見るとだれかが俺に肩を貸していた。触るな、と言おうとしたが声にならない。
「っ……、これだから中学生って」
まるでそいつが中学生じゃないみたいな口調のぼやきが妙に可笑しかった。誰かは半ば引きずる形になって一人で俺を保健室のあるほうへ運ぶ。
顔が目に入らない。栗色の髪の毛だけが見える。触れている肩の感触が細い。──女、か?
「離……、せ」
ようやく落ち着いた呼吸でそれだけを言う。肺が軋んだ。
「嫌」
断言する女だが一段ずつ階段を下る足取りはひどく危なっかしい。
「……ごめんね」
なぜか女は謝った。
「上崎達があんたの席を逆さにするのも椅子に花瓶を置くのも見てたのにあたしなにもしなかった。恐いから」
女の口調は独白に似ていた。少なくとも俺に向けて話しているのではない。
「あたしはなにかをしたいと思う」
だから俺も心中だけに返答を留めた。
(そりゃそうだよ。そんなやつらがいまこの世にはごまんとしてるんだ。無関心がかっこいいと思って傍観者を気取ってる連中が、な。そんなやつに限って当事者になれば声高に『どうして誰も助けてくれないんだ』とか泣き叫ぶんだ。お前だけがそうじゃないし、お前が悪い訳じゃない)
例えば常識が正義だとすればむしろお前は悪だよ。
「離せ……」
「嫌」
「もう、歩けるよ。ありがとう」
無理矢理肩を外しぎこちなく動かしていた自分の両足でコンクリートを踏み締める。地面の感覚が遠かった。崩れそうになって手すりを掴む。
「無理だよ。やっぱり保健室まで……」
「なけなしのプライドまで粉砕しようとするな」
自分の都合を優先して告げることで返答を制した。反感を買いやすい言い回しだがそれで構わないと俺は思う。
「ありがとう」
女の顔に視線を合わせてもう一度言った。
これから俺が殺そうとしている女だった。
「……、どう致しまして」
女は来たばかりの階段を逆走する。後ろ姿を目で追って俺は、
いつ、
どこで、
どうやって、
彼女を殺そうか考え始めた。
保健室には入らずに逆側の階段を登る。彼女とスレ違わないためだ。教室に戻りバッグを取って校門に近い側の階段をできる限りの早足で降りる。
彼女の後ろ姿を見つけることができた。保健室のほうを気にする素振りを見せたがドアを開けはしなかった。俺は息を吐く。校門のほうへ歩き始めた彼女を追う。
どうやら一人で帰るようだ。そういえば春に1週間ほど学校を休んで以来、彼女はあまりクラスに溶け込んで居ない気がする。
門を抜ける。
彼女は大通りからどんどん遠ざかっていった。どこに向かっているのだろう。誘い出されているような錯覚が頭を過る。なんの意味があるのか。思考を握り潰す。彼女が足を止めた。
妙な場所だった。彼女のような人間とは明らかに縁がなさそうな、暗い場所だ。
歩き出す。中へと入っていく。
日が落ち始めたことが幸いで距離さえ保てば見つかることはないだろう。
少しだけ開けた場所まで来て彼女の姿が消えた。目を凝らすと地面に横たわっているようだった。表情こそわからなかったが手足は力なく投げ出されており隙だらけだった。
──殺るか?
新しい包丁をバッグに確認する。少し考えて俺はこの場から離れた。なんのための行動かは検討がつかなかったが暗い道を迷いのない足取りで歩く姿はこの場所に来るのが初めてではないと確信できるモノだった。
ここでならいつでも殺せる。ならばあの方を交えて話したい。
それから数日彼女をつけたが学校帰りの決まった時間帯に彼女はあの場所に向かっていた。
俺に気づいた素振りはない。俺はあの方にメールを出した。
『明日の午後5時、××××でお待ちしています』
物事とは重なるモノだった。
「義人」
グズは部屋に戻り着替えたばかりの俺を呼んだ。無視する俺の腕を掴む。
「これは、なに……?」
グズが持ち出してきたのは靴だった。グズの格好は年甲斐もなくワンピースだ。外に出るのに洒落た靴を出そうとして、ついでにあれを見つけたんだろう。
「これはなんなの?!」
ヒステリックな叫び声に俺は微笑んで見せた。
「拾ったんだ」 ああ、
「公園の近くに捨ててあってさ。そんなの珍しかったから、拾ってきたんだよ」
ああああ。
それと同じ意味のない単語の羅列を発音する。
「本当、なのね……」
グズは目の端に涙を溜めて憑き物が落ちたような顔になった。俺はグズの単純さがひたすら可笑しかった。
鞄を掴んだ。中に包丁が入っている。
「ウソだよ」
振り返らずに家を出た。なにか後ろで叫んでたけどなにを言っているのかわからなかった。
さて、どこに行こうか。目的地もなく大通りをフラフラと歩く。見知らぬ制服の高校生が向かいから歩いてくる。
グズは通報しただろうか? もししていたら、俺は高校生にはなれないだろう。
「あら?」
気づいたのは向こうのほうが早かった。高校生は例の殺虫剤女だった。
「誰かを殺した帰りかしら?」
「いや、まだだ」
「殺す予定は?」
「明日の午後5時頃。暗い場所で」
「覚えておくわ。ところであなた捨てられた猫みたいな顔をしてるけど」
こいつは猫の表情がわかるのだろうか。
「行く場所がない」
「ふーん……」
女は妙な笑みになった。
「風雨を凌げるだけのだけの場所でいいなら心当たりがあるわ」
女がなにを考えているのか俺にはわからなかった。ただ感じたのは普通の人間が殺人行為を目の当たりにしたときに感じる否定が女のなかに存在しないことだ。
甘える、ことにした。
あの方と繋がりを持つ人物が俺を陥れるはずがないという確信もあった。
特に会話に興じることもその必要性もなく、俺は川沿いの廃墟に案内された。女はそこから一番近いコンビニの場所だけを伝えると踵を返す。
血の跡を見つける。1ヶ月ほど前に死体が見つかった廃墟というのはここのことだろうか? 血のあとに重なる位置に自分の体を置いた。
あの方と対峙した死体はなにを思っただろうか。
恐怖。
執着。
甘受。
拒絶。
怨み。
妬み。
絶望。
希望。
甘い死。
辛い生。
おそらくは人生で最も長い数瞬だっただろう。
その中に善意はあっただろうか。
その中に悪意はあっただろうか。
不意に訪れた微睡みに身を任せた。
床の冷たさがやけに心細い。
感情を廃した生き物になりたかった。
なにも痛くない。なにも考えない。なにも辛くない。なにも幸せじゃない。
そんな風に思いたかった。
そんな俺にも、
悪意くらいは信じざるを得なかった。
浅い眠りから覚めた。なにか物足りない気分だった。目覚まし時計の鳴る日常の朝は俺に取ってそんなに尊いモノだっただろうか。
時刻を確認しようとして携帯電話を開いた。9時を越えていた。自分ではあまり眠っていないつもりだったが普段の起床時間を2時間以上越えている。
午後5時までは、あと7時間。
俺は時間潰しにコンビニに向かった。床が固かったせいか節々が痛む。いかにもやる気無さそうな店員が俺を一瞥して興味なさげに膝元に目線を移した。漫画雑誌でも乗っているのかも知れない。
俺も漫画雑誌を手に取ることにした。
適当にページを開くと普通の人が異常な人と戦っていた。あ、刺された。口端から血を流しながら普通の人は最後にカッコつける。ははっ、いい様だ。でも、まっ どうせ制服を対刃仕様にしてあるとかそんなんじゃないかな。
この漫画の登場人物の中ではスーパーボールの人が好きだった。一番共感できた。有名なライトノベルの作家さんらしいから機会があればそちらも読んでみよう。
「……機会があれば か」
ないよ。
お前はもう殺人者。
この漫画風に言うなら『異常』だ。客が入ってきたので忍び笑いを止めた。まばたきをすると商品の雑誌に涙が垂れた。放っておくことにしよう。
グズは通報しただろうか。
あの方はメールを見てくれただろうか。
彼女は今日、林に行くだろうか。
小学生は天国に行っただろうか。
俺は地獄に行くだろうか。
息苦しくなったので呼吸を止めた。だけどやっぱり自分で呼吸を止めたぐらいじゃあ死ねなかった。
二度目に目を覚ましたときは雨音が外を支配していた。運が悪いけれどそれもまた一興か、時刻を確認すると4時半。
頃合いだ。
廃墟を出た。彼女は来ないかもしれない。自棄を自覚すると不意に可笑しさが込み上げてきた。顔中の筋肉が緩む。声に出したくなった。
「あ?、カサイじゃねーか」
遮られた。上崎 勇樹。お前はあとでゆっくり──、殺す時間はもうないのか。
前言撤回。運はよかったようだ。いま殺せるのだから。
「丁度よかった。コンビニ行きたいんだけど財布忘れたんだよ。金かしてくれねぇ?」
胸ぐらを掴みあげられる。
その腕を、刺した。
「は……、ぇ ぁ」
怯む上崎、包丁を抜き取る。血が溢れる。
「うわぁっ?!」
心臓目掛けたけど腕を盾にされた。
だからもう一度、
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
──気がつけば一面が赤かった。虚脱感がある。けどまだ彼女を殺さないといけない。
……あれ そういえば俺はなんで彼女を殺そうと思ったんだっけ。
「まあいいや」
グニャリと足元に柔らかい感触があった。上崎のどこかだった。そのまま踏みつけて歩いた。
ひどい雨で全身がずぶ濡れのはずなのに冷たさも水を吸った衣類の重たさも感じなかった。
学校からあの場所までの道程を辿る。上崎にとられた時間は何分ぐらいだっただろう。確認する動作が面倒だ。
……見つけた。
立ち止まる。 と同時に俺の足が水溜まりを弾いた。
鋭い水音に女が振り返る。俺を見て驚いた顔になった。包丁を握ったままだったことに気づく。舌打ち。
女が持っていた傘が風に乗って飛んできた。避けられずに片手を翳して受け止めたが足は止まる。
女が走り出す。追走する。
死体は引きずってあの方に会いに行こうと決めた。
追走劇は五分ほど続いた。足を縺れさせて女が倒れた。片手の携帯電話が水を滑る。電話をかけていた感じではなかった。女は一度も声を出して居ないからだ。
うつ伏せに倒れる肩を踏みつける。栗色の髪を掴んで喉笛を露出させる。そこに包丁を添えた。
悲鳴があがらないのがつまらなかった。首を捻って横顔を晒させてみると舌が縺れて声が出せないらしい。思えば大声で助けを求められなかったのはそのせいかもしれない。
まあいいや。殺そう。
「──、」
女の肩を見て俺は自分でも驚くことにひどく躊躇った。目を閉じて、顎を上げる。
いまさら人間ぶってどうするんだ……? 目を開ける。俺は思わず包丁を落とした。
カキン、雨音に小さな金属音が混じる。
俺の視界に入った、
それはレインコートを着ていた、
それは右手に銀色の殺意を持っていた、
それは暗い影で雨を切っていた。
「あ、ああぁ」
あの方? あの方がここにいる。俺の前にいる。
「ああ、あ、あなたがあの──」
「うるさい」
ドスッ
えっ……?
「死ねよ……」
どうして?
どうしてどうしてドウシテ奴兎死手DOUSITE
「どうして 俺だけがあなたを理解してたのにあなただけが俺を理解できるのに教室のくそどもやババアじゃ頭が足りなっ、」
グリュ
「……嫌いなんだよ。君みたいなの」
あっ、ぐ
「ひ、」
ああ。あの方が霞んで行く── あの方が居なくなる。もう嫌なのに、
もう──
「ヒトリハ…… イヤダ……」
◇
「……大丈夫?」
僕は動かなくなった彼の身体を真横に倒した。手袋を捨てて木谷 千夏を抱き起こす。
「……、……」
千夏はなにか言おうとしてるみたいだけど声になっていない。
レインコートを羽織らせて背を軽く撫でる。
「僕の家に行こう。すぐそこだから」
肩を抱いて手を引くと千夏はただ倒れないように足を動かし始めた。
あのときと同じ瞳をしていた。
殺される。助けて
と、簡潔な場所の情報だけのメールが入ったときは正直どうしようか大分迷った。
送信者が千夏で無ければ無視したかもしれない。
行かないつもりだった例の小学生殺しからのメールを連想して胸騒ぎがしたことも無視出来なかった一因だろうか。
千夏の身体がグラリと僕のほうへ傾いた。
ガチガチと震える身体は歩ける状態じゃないようだった。
背負う。
千夏は小柄なほうだが力の入っていないその身体はひどく重い。
「っ……」
腕が首に絡み付いてきた。びしょ濡れの腕は首筋にひやりと冷たくゆっくりと絞め殺されていくような錯覚に陥る。
僕の家の前についたポケットから鍵を取り出そうとして、そもそも鍵をかけて出なかったことに気づく。なんだか焦って飛び出したみたいじゃないか。
ドアノブを捻って僕は靴を脱いだ。千夏を風呂場で下ろしてシャワーの栓を全開にした。
熱くなるまで待って千夏の手に握らせる。彼女がコクンと頭を振ったのを礼と捉えて風呂場を出た。
……なんかおもしろいこと言えよ、僕。地の文がつまらないだろ。
くそぉ 何も思い付かない。つーか寒い。秋の雨は身体に堪えた。着替えよう。タオルは脱衣所だから、使ったまま放ってあったバスタオルを再利用して髪を拭いてテキトーに着替える。自分のズボラさに感謝したのは初めてだ。
で、千夏の分の服が必要なことに気づく。女物の服なんて直子さんが全部引き取ってったから僕ので我慢してもらうしかない。
コンコン、壁を二度と叩いて「着替え置いとくから」と声をかけた。脱衣所のカーテンを開けずに下から偲ばせる。
リビングに戻ってテレビをつけた。バラエティーらしきものをやっていたが内容なんか頭に入るわけがなかった。バスタオルで濡れた床を拭く。なんとなく冷蔵庫を開ける。閉める。あ お茶作ってあったっけ? あった。閉める。
……挙動不審とか言うな。
成り行きとはいえ自分の家で女の子がシャワー浴びてるんだぞ。高校生男子としてこれが正しい反応だ ガシャ 口から心臓が飛び出た(多分比喩)。
ちなみに風呂場のドアが開いた音だ。
「下着は、どうしましょう?」
……なんてこと訊くんだよ。
「ごめん、男物しかない。引き出しの上から二段目だけど……」
音で引き出しを開けているのがわかった。……あれは返せないでもらおう。
脱衣場のカーテンが開いた。
……冷静になれよ、僕。
人殺すときより遥かに動揺してるぞ。
僕が小さく頭を抱えると千夏はソファーに腰掛けて「すいません」となにかを謝罪した。
その発音がわずかな震えこそあったけどしっかりしたモノだったので僕は少し安堵する。
「んーっと、とにかく無事でよかったよ。コーヒーでもいれようか? 砂糖いる?」
「多めでお願いします。あ、ミルクも」
言いながら千夏は僕の傍に来た。僕はヤカンに水道水を流し込んで火にかける。陶器製のカップを2つ出してくれるよう、千夏に頼む。
インスタントコーヒーの粉を目分量で入れて砂糖を取る。
「もう少し多めにしてください」
少し足した。お湯をカップに注ぎ込み冷蔵庫を開けて牛乳を掴んだ。
注ぐとカップの内が黒から濁りのある茶色に変色する。ふとこれくらい簡単に人間も変われればいいのにと思った。
片方を千夏に渡してリビングに戻る。ソファーに腰掛け一口啜る。味は微妙。
千夏は両手の手のひらにカップを納めて俯いている。
「……なにがあったか、は聞かないほうがいいよね?」
「ありがとうございます」
小さな肯定に僕は溜め息を堪えた。
「ごめん、一応これだけ聞かせて。なんで僕だったの? 親とか、友達とか、さぁ?」
「真に受けてくれそうなのが南さんくらいだったから」
……それもそうか。いきなり『殺される』なんてメールが来て本気にする人間がどれだけいるだろう。電話なら声の切迫感ってのは強いだろうけどあのとき彼女はまともに発声することさえ難しい状態だった。
「……まあいいや。あ 服、乾かすから」
出しといて、っていいかけて下着が混ざっていることに気づいた。ナイフを抜かなかったから返り血はないはずだけど……
「乾燥機に入れといて」
「南さん」
「ん?」
「今日、ここに泊まっていいですか」
僕は『あやしいひかり』も見せられてないのに混乱して目眩を覚えた(一番近いのは『ちょうおんぱ』か)。
「……あのさ、言ってなかったけど実は僕って一人暮らしなんだよね」
「知ってます。靴が一人分しかなかったから」
「じゃあこれは知ってる? 僕って男なんだよ」
「南ちゃんはそんな人じゃないって信じてます」
……だからだろーが。
「OK、わかった。善処するよ」
千夏は長月さんに似た性悪な笑みを作ってもう冷めてきたであろうコーヒーを一口啜り、
「……」
泣いた。
「……あれ、ぇ ちょ、ちょっと待ってくだ、……っ」
真下に顔を背ける。急に部屋からでて扉を閉めた。
ガラス越しに背中をもたれさせているのが見える。
「み、南さん」
「……ん、」
「ちょっと顔みながら話せそうに、ないんですけど、
このままでいいですか」
「うん いいよ」
僕も千夏と同じように背中を扉にくっつける。
「あ、たしってついてないですよね」
「……うん」
とてつもなく。
少なくとも別々の三人の人間にレイプされかけて死なされかけて殺されかけるなんて普通じゃない。
「そりゃあね、ノコノコ林まで京本くんについて行った、春のわたしはアホでしたよ。それで過食症になんかなって。でも、でもあたし変わろうとしたんだよ。好きの反対は無関心だって言うから。少しくらいは助けになりたくて。無関心で居たくなくて。なのに、なのに、」
声質があきらかに変わった。
「恐かった。恐かったです。もう嫌だよ…… なんでわたしばっかりこんな目に合うんですか」
グリグリと内臓をえぐられている気分だった。
千夏は嗚咽を漏らす。
それが木谷 千夏でなければ、僕は肩を抱いて頭を撫でてやりたかった。だけど自分にそうする資格がないことを知っていた。
僕は唇を噛んだ。
ただ側にいることが彼女の助けになればいいのにと思った。
そうでないことを理解しているのに。
「……もし千夏が、」本当のほんとうに「死にたいと思ったときは僕に言ってくれ」
きミのためナらばぼクはマた禁キを破ろウ。
アえて同ジあやまチを二ド犯ソう。
シぬほど後カいしたあのしン友ゴろしをサい現しヨウ。
「僕なら自殺するよりは苦しまないように君を殺せるから」
「そうじゃ、ないんです」
……本当に
「そうじゃないんですよぉ」
ただ側にいることができたら、
どれだけよかっただろうか。
その日の深夜、灰島から電話がかかってきた。
「どうして彼を殺したの?」
灰島はひどく不機嫌そうな声を出した。
「彼は私に死体を見せてくれたのに」
彼女は言った。
そりゃそうだよね。
君は死体さえ恵んでくれれば誰でもいいわけだ。
「ぼくはきみとはちがうんだよ」
僕は灰島とは違う。
僕はもう少しこの開かれた世界に居たい。
坂北 カオルの言う1m四方にも満たない世界に閉じ籠りたくは、ない。
一切の世界を否定して死だけを肯定した灰島とは違う。
「そんなに死体が好きなら一度自分でなってみたらどうだい?」
「……本気で言ってるわけ」
その言葉が彼女に相応しくない憐れさを含んでいたので僕は思わず吹き出しそうになった。
「もちろん、冗談だよ」
笑う。あれ、笑うってなんだっけ。
「だけど忘れるな」
自分に言い聞かせるように吐き出した。
「僕は人殺しだ」
「……っ」
灰島は言葉に詰まったようだった。丁度いいから疑問を解消しておこう。
「僕のメールアドレスをあいつに教えたのは君か?」
「いいえ」
と、彼女は答えた。
「彼に教えたのは坂北 カオルの携帯のアドレスよ。そこからわたしが打ち直して父親の携帯から送ったの」
「そうか」
履歴から足がつくことを危惧していたがどうやらそれはなさそうだ。
にしても坂北の家族、死んだ人間の電話代を払い続けているなんて連絡が来ることでも期待してるんだろうか。
「切るよ」
と僕は言った。
彼女は沈黙した。
パワーボタンに指を置いたところで、
「ビデオは見た?」
灰島の声が流れた。
「ビデオ? ……ああ」
春に渡されたあれか。
「まだだよ」
「見て」
灰島は通話を切った。
僕はベッドに倒れ込んだ。
埃が舞った。
今度、この部屋も掃除しようか。




