◇冬 『彼と彼女のこと』
殺人者としての自負はある。
殺人者としての十字架はある。
殺人者としての力はある。
捕まるのも、
死ぬのも、
覚悟の上でこの道を選んだ。
「君が戦わなければこの子が死ぬぞ」
……そんな『平成の切り裂きジャック』でもこれに挑むのはかなり心が折れそうだった。
なんだかわかる。というか殺人者と明かされて気づく。
この人は違う。
坂北 カオルとは、葛西 義人とは、須藤 南とは、または東条達人とも。
僕が会ってきたどんな異質とも違う。
ナチュラル・ボーン・キラー(生まれついての殺人者)
そんな言葉を連想させる。
ぶっちゃけ超恐い。
僕は数歩後ずさって壁に背中を預けた。一瞬でも油断すれば首が無くなりそうな気さえした。
頭の6割5分程度を逃げることが占拠している。
そんな僕に冬季さんは余裕を持った笑みで告げる。
「逃げるのかい? この──、人でなし」
……なんだよ、あんたのほうがずっと多く人間なんて殺してるクセに。新庄を人質に取ったのだってあんたのクセに。
僕のことを人でなしだって……?
プツン と僕の中でなにかが音を立てた。スイッチが切り替わる。懐に手を入れて僕はナイフを──持ってきていないことに気づいた。
「っ……」
やっべ どうしよ。この人を相手に素手?!
「ん? その顔はもしかして、武器がないのかな?」
「……実は」
「まったく不用心だなぁ いつ人を殺さなきゃいけないともしれないのに。いいよ、僕のを貸してあげよう」
スッ…… と静かに広げた上着の裏には数十本のナイフがあった。
「あ、動かないでね」
そのうちの一本を引き抜いて、投げた。
僕は動けなかった。反射よりも速くそれは飛来した。
僕の数ミリ横の壁に浅く突き刺さる。……この壁ってコンクリ製だよな?
引き抜いて右手に握る。いつもの物より大きく長いダガーナイフ。しかもコンクリの壁に突き刺さる威力。
「その気になったら投げナイフだけで僕を殺せるんじゃあ……?」
「もちろん。けど組織が欲しがるほどの君の殺人術を味わう前に殺すなんて勿体ないじゃないか」
……なんというか。
ともかく警察が証拠を掴んだなら必然的に これを最後の殺人になるんだな と、いつもより少し心が軽くなった気がした。
冬季さんは上着を脱ぎ捨てた。ナイフを一本引き抜くのを当然忘れない。似た形のダガーナイフだ。
少し厚みのある黒いロングのTシャツだとかそんなこともどうでもいい。
もうスイッチは入っている。
──殺す僕の時間。
「行くぞっ!」
それは恐怖だった。あるいは殺意だった。実質的には鼓舞だったし、また決意以外の何でもなかった。
「いいね……心地いい」
突撃と共に突き出した僕の必殺は、
ガキィン
防がれた。冬季さんは僕の刃を流して返す刀にそのまま振るう。頸動脈を狙った一撃を僕は首を傾けてかわす。
刃物自体の扱いにかけては冬季さんが数段上なことはたった一合で理解できた。
「…ゃ」
ならば刃物以外を使えばいい。僕は後ろ向きに強く跳ねた。テーブルを飛び越えて片足を掛け、逆の足が地面に着くと同時に蹴り出す。僕から見てやや室内の右側に陣取っている冬季さんは左にかわすと見て僕は始動を始める。
だけど冬季さんはその場で小さく跳躍した。寸分のタイムラグもなくテーブルの上に着地した冬季さんは刹那の隙もなく僕を捕捉する。僕は足を止めざるを得ない。
冬季さんがテーブルに端に足を掛けて跳躍する。壁に接地したテーブルは床に擦れることもなく直線的に僕に向かう。
片手を刀身に添え支えることでその一撃を防ぐ。両手ならばなんとか支えきれるが、重い。苦し紛れで真似事のように受け流し、攻撃を繰り出すがそれはやはり苦し紛れに過ぎず冬季さんはそれをいとも簡単に避ける。
力を扱い切れずに流れてしまう僕の身体。晒される急所。伸びる冬季さんの腕、先端のナイフ。やけにゆっくりに見えた気がするが走馬灯に近いモノだったのかもしれない。とりあえずナイフを向けてみたが間に合うはずもない。
……ちなみに僕は別段上のようなことを考えながら戦っていた訳ではない。
僕はほとんど何も考えていなかった。条件反射のような、危ない、や、殺れる、すら考えていなかった気がする。
標的に対して集中していたんだと思う。
だから僕には、
「いやぁぁぁぁっ!!!」
灰島の悲鳴がほとんど聞こえなかった。なにか言ってるのがわかった程度だし内容はまったく耳に入らない。
対して冬季さんはそうではなかった。僕よりも遥かに熟練した殺人鬼ゆえか。あらゆる奇襲、強襲に意識を払えるようにどこかに余裕を持っていたんだろう。テーブルの奇襲を最短の形でかわせたのはおそらくその賜物だ。
だが彼に取って灰島 冬美は特別だった。だから彼は刃を止めて振り向いてしまった。
だから彼に、
僕のナイフは突き刺さってしまった。
硬い、と僕は思う。本物の殺人鬼たるもの筋肉の鍛え方も常人とは違うのだろう。
「あああああっ!」
だから僕は全力を持って刃をその胸に捩じ込んだ。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……、」
血が浅く噴き出して倒れる。殺した、と思う。
僕は冬季さんを跨いで新庄を棺桶みたいな袋から出してやろうと手を伸ばした。
ファスナーを開くと、
新庄 見事は首から下がなかった。
「っ……、」
僕は冬季さんを振り返ろうとした。怒りだったかも知れない。沸騰するほどの。それにはつい先ほどまでの集中力は欠けていた。
「残念。1秒遅い」
足元に衝撃を受けて身体が横転する。足払い。咄嗟に片手をついて受け身を取る。
それが愚策だと気づいたのは目前に刃が迫ってからだった。軌道にナイフを差し出す。が、
(片手……っ……)
両腕が使えればダガーナイフをキチンと支えることもできただろうが、片手の僕にはまるで不可能だった。
ガキン、
遠心力と腕力を総動員した斬撃が僕の右手からダガーナイフを弾き飛ばす。
指先に痺れの走る。右手はもう役に立たないだろう。僕はそれの首に逆の手を走らせるが受け身を取った際に痛めてしまったらしいこちらも思うように動いてくれなかった。
あっさりとかわされ、足払いで体勢を立て直し切れていなかった僕は肩口を蹴られて床に倒される。それから動きを拘束、踵で右腕の間接が踏み砕かれた。付け入る隙なんて僅かにもない。
「悲鳴をあげても構わないよ。とある兄妹が一昼夜泣き叫んでも隣にはなんの音も通らなかった実績があるからね」
ゆっくりと首筋にナイフが添えられる。
足掻こうにも足掻けなかった。自身の命が天秤に掛かれば怒りは薄れてしまう。沸点よりも低く落ちて行く。確実な死を目前に晒されれてしまえば怒りは動機としては弱すぎる。
(人でなし、か……)
僕は自嘲気味に溜め息を吐いた。
「……まっ 誇っていい」
冬季さんは楽しげに笑ってくるくると回しながらナイフを引いてしまう。
「君は『捕食者』を傷つけた。これは誇っていいことだ」
「よく言いますよ…… 防刃繊維に血糊のフェイク。硬いな、とは思いましたが完全に騙されました」
よくよく考えればコンクリに刺さるナイフが人肉なんかで止まるはずがないんだよな。Tシャツの妙な厚みはこのせいか。死んだふりまで咄嗟じゃなくて戦略の一環かよ。
「いやいや 君の得意分野で勝負したとはいえこれがなければボクは無理に身体を捩って肋を三本ほど犠牲にした上で相討ちに持ち込むしかなかった。君の技術を組織が欲しがるのもわかるよ。
ただ心臓を狙ったのはいただけない。人体で最も狙いやすい急所だ。防備を固めていないやつなんていないだろう?」
暗殺者の常識で語られても殺人鬼には参考にならないんだけど……
「さっきの悲鳴がどうこうって言うのは、」
「僕らはここに監禁されてたのさ。実の両親にね。手錠で繋いで交代で見張りをして、空腹で死なない程度の『餌』を与えてストレスの解消に使った。ほとんど生殺しさ」
「……」
「あるとき雪見──あぁ、ボクらの母親だ──は手錠の鍵をちらつかせて遊んでいた。しかし目測をわずかに誤った。口で鍵を奪取してなんとか錠を解いた。絞殺して、極限状態だったボクらはそれを食料にすることに決めた。あれは、本当に美味しかったよ」
そんな状態で食べたらなんだって美味く感じるだろうな、そりゃあ。
……灰島の死体愛好癖はそのへんから来てるのか。
「ボクはそこで逃げたが冬美はもう動けなかった。妹のことはずっと気にかけていたんだけど、忙しくてね」
チラリと灰島を見た彼の目付きはたしかにどこか優しい気がした。
「さて、ボクはそろそろ行くよ」
「…… え、」
「君はおもしろいから生かしておくことにした、って組織には言っとく。組織自体『皇帝』の私物みたいなもんだから、あの人わりと適当だしボクは結構重要な位置にいるからね。見逃してもらえると思うよ。ボクは君が気に入った。
あぁ、そうだ。ボクの仲間がいま警察署で交渉をやってると思うけど荒っぽいやり方をするやつだからなにか手を打った方がいいかな。
というかあいつ、引き入れに失敗したって言ったら僕になんていうかなぁ……」
「僕が自首する、って言ったら諦めるんじゃないですか?」
「あぁ いいね、それ。それで行こう。じゃあ、」
と言って冬季さんは足早に去って行った。
後ろ姿にまで隙はなかった。
「……ったく、なんだあのバケモノは」
僕は大の字になって寝っ転がった。
天井の模様がなにかに見えたりしないかなぁと思ったけど生憎と何にも見えなかった。
◇
組織から『弾倉』と呼ばれている男のヘルメットの内で声が鳴った。
「──やぁ、『弾倉』」
「『捕食者』カ。首尾ハどうだ」
「失敗、自首するそうだよ」
「……、」
この場で問い詰めたいことはたくさんあったが『弾倉』は一先ずそれを呑み込んだ。
「了解シ、 っ?!」
彼は油断していなかった。実際会話に割いていた意識は2割にも満たなかった。机の上に立つ彼はその下の僅かな死角にまで注意を払う必要はないと考えていただけの話だ。
女はその死角から全力で机を蹴り飛ばした。大型の物が幾つも重なったここの机はそんなことではびくともしない、──はずだった。
グワン、と
『弾倉』の体が揺れた。
否、机全体の『列』が奥に向かって滑った。
咄嗟に女に向けて銃を構えようとするが銃口が定まるはずもない。
女は床の拳銃を取ると一足で机の上に登り男の元に辿り着きヘルメットを顎の部分から縦に2発、撃ち抜いた。外側からの衝撃には優れているが内側の対衝撃ジェルを直接撃ち抜かれては一堪りもなく、吹き飛んで落ちる。
ほとんど同時に女は肺に掌打を加えた。中の空気が吐き出される。半強制的に口が開く。女はそこへ銃口を突っ込んだ。
「起爆装、置は口内がセオリーで、すか」
『弾倉』は気づいている。彼女が銃を口に突っ込んだのは口を閉じさせないためだ。起爆装置は誤爆しないように相当妙な噛み方をしなければ発動しないように仕掛けている。この状態では起爆できるはずがない。
(この女…… 何者ダ……?)
机を蹴り飛ばし、揺れるそれに飛び乗ってヘルメットを撃ち抜くまでの一連の動きはほとんど超人的だった。組織の殺し側のエースである『捕食者』さえ連想させる。
「爆発物を外しな、さい」
「……、」
殺されはしないだろう、と『弾倉』は思考を初めていた。こんな状況とはいえそれでも爆薬はカードとなっている。女は起爆装置の位置を口内以外にまだ僅かに疑っている。
女にとって状況はあまり好転していない。生かして捕縛し問い詰めたいことも多いはずだ。結果として『弾倉』の読みは甘かった。
「!!?!?」
口内で獣が火を噴いた。右頬に穴が開く。悲鳴をあげたかったが口に突っ込まれた銃がそれを許してくれない。
「っ、かっ……」
彼には汚い唾液と血液をただ吐き出すことしかできない。
女はもう一度だけ言った。
「爆発物を外しなさい」
前兆はなかった。
所轄署がトラックによって横殴りに押し潰された。
「……、!」
彼は女が机の影に飛ぶのを見た。舞い散る硝子の破片から逃れる。自分には真似の出来ない反応速度だった。
「おっス、『弾倉』。迎えに来たべ」
運転手の男──組織からは『敗北者』と呼ばれている──はサブマシンガンを取り出した。
「出てこないでくれ。今回は殺しはなるべくなしって言われてっから」
女はさすがに諦めたのか、何のアクションも起こさない。『弾倉』は安堵の息を吐いた。頬の傷に息が擦れて顔をしかめる。
「済マない」
「いいから早く乗れって……」
と『敗北者』に促されてトラックの荷台に転がり込む。中に居た女が応急手当をしてくれたが既に痛み以外の感覚はない。
「……んじゃ、さいなら」
『敗北者』は運転席に乗り込もうとして、
「『皇帝』に伝えてく、ださい」
ふとその声に耳を傾けた。『皇帝』のことをただの警察官が知っているはずがなかったからだ。
「……、」
「『高潔』は いまでもあなたの心臓を狙、っている と」
そちらを一瞥もせずに『敗北者』はトラックに乗り込んだ。クラッチを操作してバックする。
(『高潔』……ははっ ブルータスだって……?)
命拾いした、と思う。
シェイクスピア気取りの『皇帝』が名付けた組織最強の裏切り者──、その名が『高潔』だったからだ。
たかだか数分後に彼は命拾いなんかまったくしていなかったことに気づく。
◇
東条 達人から特徴を聴かされたトラックを捕捉して彼はサラリーマンが持つような中型のケースを開いた。中には分解されたスナイパーライフルが収納されている。
手際よくそれを組み立てた彼はターゲットの車に向かって構える。
引き金を引くまでチャンスを5秒ほど待った。
彼はいま半径1.5km以内の人間の命を確実に掌握していることを自負している。
──バンっ
大きな銃声が鳴ったがあまりの高所から放たれたそれに下の人間が気づけるはずがない。
音速よりも速い速度で駆け抜けたそれは走行中のトラックのタイヤに寸分違わず命中した。
グラグラと揺れながらトラックが減速する。運転手は無能ではないらしく微妙にハンドルをコントロールして、横転させたり両脇の建物に突っ込ませたりはしなかった。彼はホッと小さく息を吐く。
無関係な人間をあまり巻き込みたくはない。
しかし彼は決定的に違う。
巻き込まれた人間がいたとしても彼は少しも心に留めない。
ナチュラル・ボーン・キラー
という物がもし居たなら自分がそうかも知れないなと彼は少し表情を崩す。自覚してしまえば楽な物だ。
「3……2……1、」
彼は自分の左手側に置いてあった無線機のボタンをパチンと人差し指で弾いた。
ドガァンッ!
爆音はトラックよりもさらに上から響く。
正体不明の狙撃手に対して車を捨て、『弾倉』と共に彼を盾に移動しようとしていた『逃走者』の二人に、爆発で破れた給水タンクの水が降り注いだ。
彼は悠々とスナイパーライフルを構える。手始めに『逃走者』と『弾倉』の足を撃ち抜く。『弾倉』の火薬は水気を内側にまで染みさせてまるで役に立たない。長月 秋水から聴いていた通り、表面に防水は施していないようだ。
「あとは指示待ち、かな?」
彼はそこで一度スコープから右目を外した。謀ったように無線機が鳴る。
『取り引きしましょう』
それは彼がよく知るいけすかない男の声ではなかった。透き通るような女の声──彼の同棲相手によく似た声──だったが合成音声かなにかだろうと彼は意に介さずもう一度スコープを覗き込む。
『あなたと同棲人の情報を上に伝えないでおいてあげますから、ここは見逃してください』
「……同棲人? 誰だい? それ」
『惚けるのはやめませんか。正体不明の「調停人」お抱えのスナイパーの偽名が代月 深墓だということはわたしでも知っています。そして“名前のない組織”ならそこから本名を突き止めるくらい容易なことはわかっているでしょう』
「わかってないな。ぼくはそれをわかられてることをわかってて言ってるんだよ」
『っ……』
「知らなかったのかい? 質ってのは相手が良心を持ってるときに初めて効果を発揮するんだ。ぼくに対して彼女もぼく自身も人質としての価値は零だね、踏み倒してやる」
少し本心で少し嘘だ。
彼は運転手をしていた男の頭に照準を合わせる──、そのとき不意に彼の携帯電話が震えた。メールの着信だった。面倒だと思いながらも彼は携帯電話を開く。
≪もういい。むしろそれ以上やったら減給≫
……まったく、あの人は。振り回されるほうの身にもなってくれよ。
彼は内心で悪態をついて携帯電話を畳む。
「と、思ったけどまあいいや。今回は見逃してあげる」
『……へ? こちらからカードを切っておいて言うのもなんですがいいのですか』
「ん、やる気なくした」
彼は素早くスナイパーライフルを分解するとケースに納めてその場を立ち去った。
目立たないところまで来て彼はもう一度携帯電話を開く。いけすかない男のところに電話を掛ける。
「──さんですか?」
『だからいまは姓が変わってるって何回言わせんだ、お前は』
「どういうつもりです? 見逃せ、なんて」
『無視すんな! って、は?』
「だからあんたが送ってきたメールですよ」
『俺はお前にメールなんか送ってねーぞ?』
「……はい?」
彼は大急ぎで自分がスナイパーライフルで撃ちまくった通りが見える位置に戻る。
血痕と車こそ残っているもののそこにあったはずの2人の人間は煙のように消え去っていた。
彼はトラックの中に居た人物が『定石破壊』と呼ばれる天才ハッカーでわざと防備を甘くしてある東条 友也のメールアドレスを拝借することぐらい簡単だったなんてことは知るよしもなかったが、騙されたことだけは理解できた。
「……はぁ、借金返済ならず か。まったくいつまであれのいいなりになればいいんだか」
彼は胸に吊ってあるロケットを開き、同棲人の顔写真に向けて浅く溜め息を吐いた。
手術後に初めて撮った写真の中の彼女は酔ってもいないのにとても砕けた笑みをしている。