◇冬 『君が戦わなければ』
「はい、そうですか…… お話頂いてありがとうございました。
はい、お伺い致します。え あぁ、わかりました。ですがガラス越しでも構いませんので顔の確認だけでも…… はい。申し訳ありません。お願い致します」
通話が切れたのと彼女が溜め息を吐き出したのはほとんど同時だった。白く残る吐息に彼女は訳もなく感傷を覚える
「……意外と呆気なかったですね。須藤くん」
どこかおもしろそうでなく呟く。彼女の職種から考えればそれはとんでもなく不謹慎な発言であったがそれを趣味でやっていると思っている彼女は半ばもそうは感じていない。
『木谷千夏 自宅』
液晶画面にはその六文字と11桁の数字が映し出されている。
携帯電話を折り畳んでポケットに直す。もう一度溜め息を吐く。
「さて、任意同行でもお願いしに行きましょうか……」
あとはアパートに残っていた指紋と彼のそれが一致すれば詰み──、
席を立とうとした彼女はふと自分の机におかしなモノを見つけて止まる。掴む。それは小型の集音機だった。盗聴用の、と付け足しても別段おかしなところはないだろう。
無論、巧妙にカモフラージュされていたそれを見抜けたのは彼女がその手の機械に関する知識を豊富に有していたからだ。
彼女がスッ……と思考を巡らせたのは以下のようなことだった。
──この場所に聴いて得になるようなことがあるだろうか。
──これは長月 秋水という個人を狙ったモノだろうか。
──あるいは単なる愉快犯だろうか。
それはどれも少しずつ正しく少しずつ違う。
仕掛けた人物にはこの場所を盗聴して得るモノがあった。
仕掛けた人物は長月 秋水にこれを仕掛けたが個人ではなく対象は他にもいる。
仕掛けた人物は愉快犯でこそあるが単なるではない。
彼女は一先ずこれを無視しようと決めた。後回しで構わない、そう思った。手錠と拳銃、それに警察手帳の在処を確認し同僚の安永 峰雪に声を掛けた。
彼女らがその狭い一室を出ようとした──その時だった。
バリィン!
というなにかが壊れる音に彼女は全速力で振り返る。ホルスターからいましがた確かめたばかりの銃を抜き標的を銃口に捉えるまで一秒はかからなかっただろう。
「っ……、」
だが咄嗟に彼女は撃てなかった。
窓をぶち破って飛び込んできて机上に着地した、フルフェイスのヘルメットで顔を隠している侵入者。その手から チュン、 あまりにも少ない音で何かが鋭く空気を切り裂く。
サイレンサー付きの拳銃。 と彼女が断ずるころにはすでに安永が足から血を流して尻餅をついていた。
ほとんど同時に男の手から銃が吹き飛ぶ。秋水の手から硝煙が上がる。が、第二射はない。
「俺ヲ撃ツか?」
銃口を向けたまま停止していた彼女は声を掛けられて初めて我に返る。自分の手元から飛んだ弾丸が正確に銃器を破壊できたことをいまさら確認する。
これ以上の弾丸を撃つか──?、問われた彼女の答えはノーだった。
男が全身を一目で爆薬とわかる筒で埋めていたからだ。
捨テろ、という指示にも逆らわずにチューブを外し拳銃を床に置く。そのさいに身体を少し斜めにして死角を作り出し片手をポケットに入れて素早く操作する。液晶が視界にないにも関わらず操作は的確で『東条 友也』と表示された番号に電波が発信される。
幸い男はそれに気付かなかったようだった。
「……何者ですか? 要求は?」
少し考えて彼女は状況を打破するために先ず言葉を選んだ。
銃器に頼れない。とはいえ彼女に男を組伏せる自信が無くはない。
窓をぶち破って侵入してきたあたり衝撃で炸裂する類いの爆弾ではないだろうとは思う(もっとも拳銃の弾丸のように高熱を帯びていれば即ドカン、だろうが)。
しかし全身を隙間なく埋めている爆弾は軽く見ても周囲一帯を吹き飛ばすに充分だろう。
彼女が一番恐れているのは組伏せてからの自爆だ。だが相手もまた言葉による交渉が手段だと一目で理解できる。爆薬だと理解させるために表面の防水さえ行っていないほどそれが火薬であることが明確だったからだ。単なる殺戮が目的ならばあの爆薬を所内に投げ入れればいい。
鬼が出るか蛇が出るか── 安永を一瞥して彼が命に別状のない箇所を撃たれていることを確かめる。同時にふとなぜ自分は撃たれていないのだろうと思い至ったが、女である自分は安永より与し易いと思ったのだろうとなんとなく結論付けた。
だが次の瞬間にそんな考えは消し飛んだ。
「何者カと問ワれれば我々ワ組織トしか解答ヲ持タない」
(“名前のない組織”?! いったいこんな片田舎になにを……)
「要求ワ…… そうだな、なにもするな」
「なにもするな……?」
「そうだ。なにもするな、あと三時間ホど俺ニ付キ合エばいい」
新たな銃を抜いた男がヘルメットの下で笑っているのが彼女にはわかった。
◇
爆弾魔が立て籠りを起こしている外では大型車に2人の男女が待機していた。
車の外観は引っ越し用のトラック、と言ったところだろう。どこかにありそうでだけどやはりどこも採用していないマークが描かれているがそんなことにどこの誰が気づけるだろうか。少なくとも通行人の中にトラックに疑問を抱けるほど模様に精通する人間はまだ一人もいないようだった。
「……ふぁーあ」
運転手を勤める男は後ろで作業する女を振り返りながら大きくあくびする。そして女を見るのをやめた。
複数の液晶画面を見ながら目まぐるしい速度でキーボードを叩く女を見ているとこの心地いい気だるさが吹き飛んでしまいそうになったからだ。
視界に過ったなにかに妙な感覚を覚えた気がして恐る恐る、もう一度振り返る。
液晶画面の一台には片膝をついて銃を置く制服姿の婦警が映し出されていた。『弾倉』と組織から呼ばれる男のヘルメットにつけられた小型カメラからの映像である。
(あれ、この女…… どっかで見たような……)
彼は液晶画面をよく見ようとしたが一心不乱にキーボードを叩く女の姿が視界の端に入れてしまい慌てて膝元の雑誌に目を落とした。
◇
新庄 見事が行方不明になる3日ほど前の話だ。
父親が殺人鬼に殺されたということで私はにわかに注目を集めていた。ひまな上級生だとかが私を一目見ようとうちのクラスまで押し掛けてきたりもした。
「今日休みッスよ。ってか当分こないんじゃないですかね」
と、いつも須藤くんといるなんとかくんが飄々と嘘をつくと残念そうに帰って行った。あんなのが何人こようが無視するだけなのだけど無視する手間が省けたので私は軽く頭を下げてみたがよく考えたら彼からは髪が邪魔でそうは見えないだろう。
始業のチャイムが鳴る。担任の佐内先生は数学の宿題を回収する、と言ったあとに私を見た。「灰島、授業終わったらちょっと職員室まで来てくれ」
声質から少し苛立っているように感じる。須藤くんが少し心配そうにこちらを見た。大丈夫、という意味合いを込めて表情を作ったがやはり伝わってはいないようだ。
ふむ、少しは切ろうかしら? キズも目立たなくなってきたことだし。
終業のチャイムと共に私は席を立った。
佐内先生のあとについて職員室に向かう。
職員室内にある埃っぽい個室に案内されて佐内先生が出てから私はくしゃみを一度した。
佐内先生が教頭を連れて戻ってくる。
先生は自主退学を勧めてきた。いろいろ大変でしょう?というのが先生の言い分だったが、私は『いろいろ』が何を指すのかいまいちよくわからなかったので「やめませんよ?」と小首を傾げた。
教頭の表情が引き吊る。
「親戚とかいるのか? 住む場所の宛は?」
と先生が訊いてきたので私は、
「父の兄弟の義孝という人がいまのアパートの保証人になってくれています。あそこに一人で住みます。お金も出してくれるそうです」
そう答えた。義孝は私を近くに置きたくないと考えているから金で済むならそれで済ましてしまおうと思っているらしい。
教頭は苦虫を噛み尽くす。話題沸騰中の殺人鬼に本校生徒とその父親が殺された、なんて話になればせめて片方だけでも省いて置きたいと思うのも当然か。
そんな教頭とは裏腹に佐内先生はなんだか笑みを堪えていた。
そして突然、バンッ と机を叩いた。
「よし、わかった。1人暮らしなんか辞めてあたしのとこに来い!」
先生は豪快に言い切った。
後ろで教頭がポカンとしていた。
「あ、でも1週間ほど待ってくれや。部屋の……掃除とか、あれだから」
繊細 という言葉とまるっきり縁のない佐内先生が気にするほどだから相当ひどいのだろうな。と私は思った。
「……ってことがあったんだけど、」
5日後に私は帰り道に須藤くんを引き連れていた。
荷物の整理とかいろいろあるんだけど手伝ってくれない?、と言ったら快くOKしてくれたのである。
バラすわよ? なんて脅すことは断じてしていない。私は彼のファンなのだから。
アパートのドアノブに鍵を差し込んで私は鍵がかかっていないことに気づく。
今朝閉め忘れたのだろうか。
深く考えずに扉を開くとそこには、いるはずのない人間が居た。
◇
肉はよく噛んで食う
骨は磨り潰して食う
臓府は洗って食う
血はできれば啜る
脳髄は掻き回して啜る
それがボク
その名も『捕食者』
そんな殺人鬼であることを自称する『捕食者』は道に迷っていた。ボクの捜している学校は複雑に要り組んだ道の奥にあるらしくどうしてもたどり着くことが出来ない。何度行っても同じ場所に戻ってきてしまう。
ゴルフバックに似たかなりの大荷物を抱えているだけにあまり外を彷徨いて目立ちたくはないのだが。
「んー……、」
困ったように多分に白の混じった髪をポリポリと掻く(そもそも若い男の白髪というだけでかなり目立っていることを彼はあまり意識していない)。
「……昔の住所にでも行ってみようか」
ボクは足を向ける方向を変えてみた。現在地くらいはわかっているので通りをいくつか行き、あるアパートに行き着くのはそう難しくない。
錠を壊さずに抉じ開ける技術ぐらいは得ている。
侵入までは約3秒ほど、ボクは『灰島』と表札の入った部屋に踏み込む。微かに日の光が入る薄暗い室内をボクは変わってないなと思う。
古いテーブル、唯一の娯楽だったテレビ、押し入れには寝具が敷かれている。
あのときと違う物のほうが少ない気さえするのは単なる感傷だろうか。
「……」
ふと鍵を閉め直し忘れたことに気づいてボクは玄関に戻ろうとした。
カチャン とノブが回る音がして反射的に息を潜める。そしてそんな必要はまるでないことに気づく。
「ッ……、」
むしろ相手のほうが息を呑んだ。面食らった、というほうが正しいかも知れない。
「冬美、『切り裂きジャック』はどこかな?」
「と……、冬季っ……」
ボクの妹の隣から平凡な容姿をした男が顔を覗かせるがまったく全然そんなことは気にしない。
「ボクのことはいいんだよ。切り裂きジャックは?」
「し、知らない」
知っているからこその狼狽なのか知らないからこその狼狽なのかボクには判断がつかなかった。だからボクはこれからボクが取る行動を明かしてみることにした。
「困ったなぁ 仲間からは冬美がなにか知ってるって聴いてきたんだけど、これじゃ道行く人達に彼のことを訊かなきゃいけなくなるや」
ボクは顎に手をやって、
「食べきれるかなぁ」
と口調を崩さずに言った。
冬美の顔に虚ろが映る。
「……僕ですよ」
放った一言は予想外の方向から回答を得た。
「僕が切り裂きジャックです。その呼び名、かなり嫌いなんですけどね」
「へぇ 君が」
別段驚きはしなかった。むしろあり得ることだと充分に思っていた。
「まあ入りなよ」
とボクが言うと冬美も少年も顔を見合わせて渋い顔をしたが冬美が頷くと諦めたように足を進めた。冬美は靴を脱いだけど少年はそうしていないあたり実にボク好みだと思う。
「冬季…… どうしていまさら」
「黙れ。食べるぞ」
「なにものなんですか。あなた」
少年は警戒を隠さずに問うてきた。ボクは楽しくて仕方がない。
「ふふっ、『何者かと問われれば我々は組織としか回答を持たない』って言うのがボク達のセオリーなんだけどここはあえて灰島 冬季と名乗らせて貰おうか」
「僕はそういうことを訊いてるんじゃなくて」
「ああ、ちゃんと答えよう。仲間内からは『捕食者』って呼ばれてる、れっきとした殺人鬼だ」
警察……じゃなさそうだから探偵とかか?、なんて踏んでいたらしい少年の顔に動揺が走る。
「ところで君もぼくという一人称を使うんだね? 君はボクという人称をどう思う?」
「……、?」
「ボクも一人称には『ぼく』を使うんだよ。だけどボクが思うにボクという一人称を使う人物は非常に少ない。物心ついたときには周囲が『俺』や『私』、または自分の名前を一人称として使い始めるからだ。大半がそれに、普通ってやつかな?、に隷属する。まっ 男で後者2つを使うやつはなかなか珍しいだろうけどね」
ちなみにこの与太話に意味なんかない。『ぼく』仲間を見つけて少々テンションが上がっているだけだ。
「ボクが思うに一人称にボクを使う人物は精神のどこかで成長を止めてしまった人間じゃないかな? ボク、ほら どこか幼い感じがするだろう? そしてそんな人間は滅多にいない。ボクという人称を使う人間が小説か漫画の中にしかいないように、ね」
「あなたはそうなんですか?」
「うん、そうだよ。ボクが精神の成長を止めたのはたしか10歳の頃だった。ボクらを産んだ母親を殺したときだね。この両手で絞殺した」
「……10歳」
「理由を聞きたいかい? ふふっ、『お腹が空いた』からだよ。あれは美味しかった。とてもとても美味しかった」
思わず溢れた口端の涎を舌で拭う。
「──なぁ、冬美」
冬美がペタンと床に力なく膝をついてポロポロと泣き始めた。まったくこの子はいまでも涙脆いのか。かわいいなぁ。
「あぁ 君が彼女の友達ならどうか誤解しないでやってくれ。あんな食べられて当然の食料のために涙まで流したんだからね」
一拍。
「さて、ものは相談だが君は捕まる」
「……はい?」
「これは仲間が警察を盗聴して手に入れた確かな情報だ。『定石破壊』だの呼ばれてる凄腕の情報屋でね。まあ彼女のことはいまはどうでもいい。
というわけで君、捕まるくらいなら組織に入らないかい? 身元は保証しよう、ボクが捕まっていないのがいい証明だろう?」
「……お断りします」
「即答か。素晴らしい。ボクは1も2もなくこの話に飛び付いたよ。では、」
ボクは荷物のファスナーを1/5ほど下ろした。
そこには新庄 見事が入っている。丁度顔だけが見える位置で止める。
「眠ってるだけだよ。組織から君のことは『同志に出来なければ消せ』と言われてるんだ。きっと情報の漏洩を避けるためだね」
「そんなことに新庄は何の関係も、」
「君を逃がさない自信はあるんだけど追いかけっこは面倒だからね。
さぁ使い古された台詞を言おうか。
『君が戦わなければこの子が死ぬぞ』」
◇
東条 達人はおそらくそれに対して最初に違和感を覚えた人間だっただろう。学校帰りに彼は父親からの電話を受けて長月 秋水の元へ行くように言われた。電話が通じないらしい。
用件について詳しく聴くことはできなかったが『イーター』という言葉を何度か口にしていた。
(『捕食者』ねぇ……)
なんらかの犯罪者の通称であることは彼にも読み取れたが、それ以上のことはなにもわからなかった。
ともあれ長月 秋水に会いに所轄署に向かっていた彼は、あるトラックを見つけて小首を傾げた。
そこに描かれたマークが彼の知らないモノだったからだ。
目立ちたくない、という理由でひけらかしこそしないものの雑学に関する彼の知識は並々ならないモノだ。
日本に存在する運送業者が用いる主なマークくらいはほぼ全て把握していると思っている。
彼の父親は彼を『相棒』に出てくる杉下 右京のような刑事にしたいらしい。
その彼が知らないマーク、彼は単純に好奇心から窓を叩いた。
膝の雑誌に目を落としていた青年がいま東条に気づいたように顔をあげる。
あれ?、と彼は思う。青年は東条が曲がり角に姿を現したときから気づいていたと思っていたのだが勘違いだっただろうか。
「なんだい?」
青年はパワーウィンドウを下ろす。それとなくこちらのポケットや袖の内に意識をやっていることに東条は気づいている。
「これ、どこの会社の車スか?」
東条は印象操作の一環としてなるべく裏のなく見える顔を作って言った。
「えーっと、君は……」
「運送とかそっち系の仕事に興味があって将来そういう就職考えてんですけど、知らないマークだったもんで」
彼は親指で後ろの荷台を差す。
あぁ、と青年は得心がいったように頷き商社の名前を告げた。
彼は礼を言い軽く頭を下げてトラックから離れた。しばらく歩いてから帯電話からwebサイトに接続しいま聴いた名前を打ち込む。
検索件数は、ゼロ件だった。
「……」
彼は一旦その場を離れた。イヤホンをつけてお気に入りの曲をかけ、一度頭を真っ白にする。それからここに来るまでにそうしてきたような『友達か彼女との待ち合わせ場所に行く高校生』のような上機嫌の気配を作る。そうすることでトラックに対する違和感を自分から完全に拭い去る。それは印象操作に最も大事なことは『忘れる』ことだと考えている彼だからできたことだろう。
道を2つほど曲がったところで彼は父親に電話を掛けた。
「……シュウは何に巻き込まれたんだ?」
東条 達人は第一声に切り出す。