◇序 『声にならない声』
ある雨の日のことだった。相原 希は傘も差さずに住宅街を走っていた。走りながら携帯電話を開いてちらりと時刻を確認する
19時25分。
門限の時間まで、あと5分。希の親は同級生達の“それら”に比べて少し厳しく、彼女はそれを内心で疎ましく思っていた。
例えばもし希が今日、門限を破れば1週間後に控えるバレンタインの日を家にくくりつけられて過ごすことになるだろう。
冗談じゃない。去年のバレンタインは渡そうとして結局渡せなくて悲しい思いをした。
もうあんな惨めな気持ちになって堪るか。
門限なんかに負けて堪るか。
「はぁ、はぁ」
住宅街を抜けると大通りに出た。希は立ち止まらずに左右を見渡すと赤信号を無視して道路を駆け抜けた。
通りの向こうにはマンションがガッチリと居を構えていて希を邪魔しようとしていた。携帯を確認する。あと3分。希は駐車場に飛び込む。
そこを通り抜ければ大幅なショートカットになることを希はこの前、同級生に教わったばかりだった。全力で走っていると向かいから大粒の雨がアスファルトを打つ音が聴こえてきた。同級生の言っていたことは正しかったようだ。
普通に行けばどんなに急いでも4分は必ずかかったけど、まだ1分も経っていない。
あと少しで通り抜けるところまできて希は奥のほうにビニール性の安っぽいレインコートを着た男が居ることに気がついた。さっきまでは多分、居なかった。どこかの車の陰から出てきたんだろうか? 一体なにをしていたんだろう?
疑問に思いはしたがいまの希に男のことを気にかける余裕はなかった。走ることに全精力を傾ける必要があった。去年と同じ過ちを犯したくはない。
せっかく彼の方から好きだと言ってくれたのに。
面食らってしまって咄嗟にバレンタインに返事をするって言ってしまったのに。
希の頭の中からレインコートの男のことは数瞬もしないあいだに閉め出されていた。
だから希は男のレインコートが乾いていることに気づけなかった。
だから希は自分が何をされているのかわからなかった。
気がついたときには希は仰向けに倒れていた。視界が赤く霞んでいてどこかに鈍い痛みを感じた。
希が考えたのは、終わった。ということだった。
今年も彼にチョコを渡せそうになかった。それは少しだけ間違っていた。
彼女は来年もチョコをわたせない。再来年も。その次も。
永遠に。
「え……?」
刃が彼女の喉を貫いた。男があまりにも一瞬に、激しく動いたので衝撃でレインコートのフードが外れた。
「どう……、して」
希は声を出したつもりだったがそれはヒューヒューというひどく間の抜けた音にしかならなかった。
彼女が最後に見たのはショートカットの道を教えてくれた同級生がレインコートを脱ぎ捨てたところだった。