試験管より生まれし完全生命体。その体に宿る力は、街を焼き、山を砕き、海を乾かす。そんな私にも理解のあるカレくんがいます。
『緊急事態発生。コード203。研究員はただちに行動を――』
けたたましいサイレンと無機質な音声が脳を揺さぶる。
コード203。それは実験体の脱走を意味する。
それがマウスやラットやモルモットであったなら、俺もここまで詰められずに済んだのだろうが。
「どういうことか説明してもらおうか。枯野くん」
速水室長ほど白衣の似合わない人間はいないと思う。
無造作に見せかけて計算しつくされた髪型、細身の体と軽いノリ。どう見ても白衣を着たホストである。
博士課程で一体何を学べばそんなふうになれるのかぜひ教えてほしいものだ。
そんな速水室長の顔にいつもの軽薄さがないことが事態の深刻さを物語っていた。
まぁそれも無理はない。この騒動を引き起こしたのは俺なのだから。
「なぜ実験体002K号を逃した?」
「……彼女に振られたんです」
「は?」
それは俺にとってまさに青天の霹靂であった。
ことの発端は昨夜彼女からかかってきた一本の電話。
絵に描いたような別れ話である。
しかし俺は納得できなかった。なぜなら俺は絵に描いたようなそんじょそこらの男とは違うから。
仕事の忙しさを言い訳にはしない。
彼女の取り留めのない愚痴を一言一句聞き漏らさず親身になって耳を傾け、その解決策について3万文字で纏めたレポートを提出。
二人の間に問題が起きた際はすぐさまミーティングを開催。双方が納得するまでとことんディスカッションを行う。
彼女が記念日に料理を失敗したとしても決して感情的になったりはしない。失敗作はすぐさま破棄し、即座に代替品を用意。さらに失敗の原因究明を行い、再発防止に努める。
お陰で仲は良好――そう思っていたのは俺だけだったと気付いたときには遅かった。
『あなたは私のことをなにも理解していない』
その一言ですべて終了。
その後何度かけ直しても彼女が電話に出ることはなかった。
「酷いと思いません? 先週一周年記念のお祝いを二人でしたばかりなのに」
「いや、そりゃそうなるでしょ……っていうかそれ今回のことと関係ある?」
「ここからです」
で、昨日の今日だ。
当然仕事は手につかず顔面は蒼白で目は血走っている。
どうしたんだと話しかけてきた同僚に昨夜の惨劇を語って聞かせると、彼はただ悲しげに微笑んで飴玉を1つくれた。
しかしそんな砂糖の塊程度で心に負った深い傷が癒えるはずもなく、俺は研究所内を徘徊することにしたのだ。
そこで見つけたのが彼女だった。十代半ばくらいの女の子。
研究員の家族かなにかだろうか。しかしあたりには保護者らしき人はいない。
「ここは研究フロアだから入っちゃダメだよ」
と、彼女にフロアから出るよう促すも返答なし。こちらを警戒しているようだ。
そこは特に機密性の高い研究を扱う部屋だった。危険な薬品もある。放置はできない。
とはいえ無理矢理つまみ出すなんてこともできないし……と、そのときポケットの中で転がっている飴玉を思い出した。
俺は飴玉を差し出し、彼女のご機嫌を取ることに成功。二人で機密研究フロアを出たのだった。
相変わらず言葉は発さないが、飴玉を口の中で転がしながら俺の後ろをピッタリついてくる。
よく見ればなかなか可愛い子だった。
白い肌、こぼれ落ちそうな大きな瞳、腰まで伸びた長い髪、黒い毛に覆われた手。
「え?」
なにかがおかしい。気付いたときには遅かった。俺はいつもそうだ。
小柄な体に似合わない丸太のような腕を一振り。それだけで壁がぶっ飛び、サイレンが響き、頭が真っ白になった。
「というわけです」
「というわけです、じゃないだろ……どう考えても前半の話いらなかったし……」
室長はぶつくさ文句を言いながらズラリと並んだ監視カメラの画面を眺めている。
その姿を捉えているのは食堂のカメラである。腹が減ったのか、厨房の中を物色している。
「一体なんなんですかあの子。どこの子です? 親は?」
「親なんていないよ」
室長は液晶に向けた目をすっと細める。
「実験体002K号――あれはこの研究所で作られた人工生物だ」
「……人工生物って。それ、倫理的に大丈夫なんですか?」
「だから外に助けを呼べないんだよ」
にわかには信じ難い話だが、信じないわけにもいかない。
液晶に映し出された少女の形が変わったからだ。
黒い毛に覆われた、巨大な狼の姿。彼女はその鋭い牙で、調理前の生肉を貪り食っている。
「アレは環境に合わせて姿形、生態すら変える。魚でも鳥でも、その気になればゴジラにだってなれるかもね」
「えっ、そんなのどうやって倒すんですか……?」
「倒さなくても良いよ。アレが元いた研究フロア――あそこに戻せばヤツの変身を停止させられる。そういう設備がついてるんだ」
「だとしてもあんな猛獣をどうやって」
「なんで他人事なの?」
ぽん、と俺の肩に手を置く。
室長は軽い調子で、酷く重い言葉を吐いた。
「枯野くんが逃したんだから枯野くんが捕まえるんだよ」
*****
いくらなんでも無茶ぶりが過ぎるのではなかろうか。
そんな俺の訴えはあっけなく却下された。
飴をあげた際の反応から、彼女が俺に好印象を持っているかもしれないと判断されたらしい。
こちらからすれば「そんなこと言われても……」でしかない。飴をあげた程度の好意でこれがどうにかなるとは到底思えない。
「や、やぁ実験体002K号ちゃん……さっきぶり……」
焦げた匂いが鼻をつく。
狼に姿を変えただけにとどまらず、彼女は口から火すら吐いていた。
引き裂かれ、床に散らばった生肉が炭に変わっている。
思わず息を呑む。この作戦が失敗すれば、次に炭に変えられるのは俺かもしれない。
「さぁ2Kちゃん、これをあげるよ」
意を決し取り出したのは丈夫な鉄の箱である。その底に先ほど彼女に渡した飴玉を固定してある。
しかしこの箱、取り出し口は人の手も入らないような小さな穴だけ。飴玉を取り出すためにはリスなどの小動物に変身して中に入る必要がある。
つまり罠だ。彼女がここに入ったら素早く口をしめて捕獲。もといた研究フロアへ連れて行く。
最先端技術が生み出した生物をこんな原始的な罠で捕まえられるのか甚だ疑問ではあるが背に腹は代えられない。
「ほら、さっきあげた飴玉だよ。これ好きでしょ?」
飴玉の匂いを嗅ぎつけたか、あるいは飴をくれた人間として俺のことを覚えていたのか。
彼女はこちらに興味を示した。
すっくと立ち上がる。尻尾がわずかに揺れている。
しかし彼女は肉への執着を忘れていない。焦げた肉片をくわえようとしている。
俺は猫撫で声で彼女を呼んだ。
「そんなの放っておきなよ。そんな焦げ焦げのヤツよりこっちの方が美味しいよ」
瞬間、彼女の姿が変わった。
茶色い体毛、つぶらな瞳、キュートな丸い耳、大きな手。
そう、熊である。
「アシッ!!!」
毛むくじゃらの丸太のような腕が繰り出す一撃により、俺の体はやすやすと宙を舞った。
受け身も取れず地面に叩きつけられ、目の前をお星さまが瞬いている。
「作戦失敗! 撃て!」
合図の声と銃声。
俺が失敗した場合のB作戦。
2Kへ鉛玉をブチ込み、研究そのものを闇へ葬り去る最終手段。
我々の研究所が作りあげた貴重な作品ではあるが、仕方がない。これが研究所の外に出てしまえば、さらなる甚大な被害が考えられる。
――が、その作戦もうまくいきそうになかった。
銃声が止む。水を打ったように静まり返る。
「嘘だろ……」
誰かが呟いたその言葉はここにいる全員の総意だったろう。
どう考えても致死量の鉛玉をぶち込まれた。にもかかわらず彼女の動きは止まらない。
――それだけならどんなによかったろう。
俺たちは彼女を舐めていたんだ。
実験体002K号が模倣できるのは、生物だけではない。
シルエットが変わる。
有機物と無機物のマリアージュ。
熊の巨体から萌え出たのは、研究員が持っているのとそっくりの銃身。
「逃げろ!」
あたりから情けない悲鳴が漏れる。それらを圧倒するような咆哮と銃声。
しかし俺にはそれが威嚇の怒声ではなく、癇癪を起こして泣いているように見えた。
泣き声。豚肉の焦げた匂い。
なぜだろう。こんな異常な光景なのに既視感がある。
朦朧とする意識の中で俺は走馬灯を見た。
先週、彼女と交際一周年の記念を祝っていたときのことだ。
もともと家事が得意な女性ではなかったが、それでも記念日だからと朝から準備をして料理を振る舞ってくれようとした。
しかし慣れないことをしたからか、彼女は料理を焦がした。
こうなることは予想できていたので、俺はすぐさま次の作戦へと移行した。
つまり、用意しておいたオードブルを並べ、手早く出前を注文し、そして手料理にいまだ執着を見せる彼女の手から鍋を取り上げて料理をゴミ箱に捨てた。
『そんなの放っておきなよ。そんな焦げ焦げのヤツよりこっちの方が美味しいよ』
肉の焦げる匂いの充満した部屋で、そうして彼女は静かに泣き出した。
昨晩から何度も何度も反芻した光景だ。
俺が間違っていたなんて思わない。“一周年記念のお祝い”を成功させるためのもっとも合理的な方法があれだった。
でも彼女が欲しがってた答えは違った。
彼女の気持ちを理解できていたなら、俺たちの結果は変わっていたのかもしれない。
「……ありがとう、俺のために頑張ってくれて」
焦げて床に転がった肉を手繰り寄せて口に押し込む。
案外スムーズに言えたのは、想像の中で何度もそうしたからだろうか。
「ちょっと苦いけど美味しいよ」
怒号にかき消えてしまうような小さな小さな声。
でもそれで十分だった。
銃声が止む。
目を開くと、狼も熊も銃もまるで夢でも見ていたように消えていた。
いるのはこちらを覗き込む少女だけ。
「落ち着いた?」
彼女はなにも答えず、しかし確かに笑顔を見せた。
*****
この事件のあと、俺はもう一度彼女に連絡をした。
復縁を迫ろうとしたわけではない。あのときのことをきちんと謝ろうと思ったのだ。
電話口の声は非常に落ち着いていて、優しげにこう言った。
『おかけになった電話番号への通話は、お客さまのご希望によりおつなぎできません』
そう、着拒である。
彼女に新しい恋人ができたと知ったのはそれからすぐのことであった。
ちょっと早すぎじゃね? 一年も付き合ったのにこれで終わり? 俺のことはもう良いの?
やっぱ女って分かんねぇわ。
軽い女性不信に陥りプライベートは絶不調であったが、仕事の方は順調であった。
実験体002K号捕獲作戦における活躍が功を奏し、別の研究チームに引き抜かれたのだ。
それも、用意されたのは我が研究所の誇る最先端極秘研究における重要なポジション。
あらゆる生物の器官を模倣し、あらゆる金属を体内で合成し、あらゆる傷を修復する不死性を持つ完全生命体の管理。
すなわち実験体002K号のお世話係である。
「どうして!!」
「仕方ないだろ。枯野くんに懐いちゃったんだから」
ずらりと並んだ監視カメラのモニターを背景にして、速水室長は犬の散歩でも任すみたいな軽い調子で言う。
「食堂で暴れて火を吐いてたのを“料理”って理解できたの枯野くんだけだよ」
「それはっ……たまたま元カノと似たようなことがあっただけで」
「えっ、元カノ怪獣?」
液晶モニターの向こうで実験体002K号が微笑んでいる。
まさかカメラ越しにこちらが見えるのか? いや、まさかな……
こうして人知を超えた完全生命体の“理解”を強いられることになったのだった。