⑤秘伝の味
黙ったまま、ぎい、ぎいと櫓を漕ぐマカゾフの脇でインノチェンテは海を見ていた。
内陸部で育ち、王都の中に足を踏み入れた頃から長く時が経った。その間に加入した調教師組合で自らの才能を頼りに駆け上がり、やがて肩書きとしての爵位と見合うだけの財力を手に入れた。
……しかし、彼は全てを失った。
ある事件で手放した娘に関わる些細な見落としを契機に、組織内を纏める三頭目と呼ばれる長から何度も失態を補うよう強く命ぜられ続けたが、幾度もしくじりを繰り返し、漸く掴んだ挽回の機会を手痛い敗北と共に逃してしまったのだ。
両腕を切り取られ、爵位を剥奪された彼は追放刑に処せられた。何処とも知れぬ荒野の真ん中に放逐されたインノチェンテは、我が身の不甲斐なさと失ったものの大きさに押し潰されて、独りただただ泣き続けた。
失意と失望、そして落胆で深く打ちのめされた彼は脱け殻のようになりながら荒野を彷徨い、いずれ行き倒れて死ぬ筈だった。
……しかし、彼は死ななかった。
時には自らの得た地位や権力を振りかざし、傲慢な態度で人に当たった彼ではあるが、両腕を失い地位も財貨も持たざる者にまで落ちたにも関わらず、運命の糸に導かれるように漁師町へと流れ着いた。
それまでの暮らしは当たり前のように高価な調度品や傅く使用人に囲まれていたが、その裏では地位を維持する為に意に沿わぬ服従を強いられ、末期は命を削ってまで強大な竜を支配し復権を果たそうと踠き続けたが……結局、全てを失った。
そんな彼を荒々しい北海に面する港で拾ったのが、港に従事する漁師達の綱元の娘、ナスターシャだった。
……しかし、何故なのか。
ナスターシャは、少し変わっている。無論、両腕を失くしたインノチェンテを拾う位なのだから、多少は変わっていて当然と言えよう。だが、怪我をした野良猫等ならともかく、自分より遥かに年上の人間、しかも両腕の無い欠損者を、である。少々変わっているにしては過ぎやしないか?
うーむ、とインノチェンテは海を眺めながら、独り考えてみる。
……しかし、びょうびょうと寒風が吹き荒み、肩から先が空っぽのせいで上着の袖がばたばたと鳴り、五月蝿くて堪らない。
まあ、いいか。考えても仕方なかろう。
何かを失った後、代わりに何かを得るのも当然と言えば当然なのだ。今まで様々な些末事やしがらみに囚われて雁字搦めになっていたインノチェンテは、自覚こそしていなかったが凝り固まって他者を寄せ付けなかった思考も、憑き物が落ちたように軽くなった気配がある。
「……インノの旦那、何を考えていなさるんで?」
櫓を操るマカゾフが傍らに座るインノチェンテの表情を見ながら訊ねると、うーむと暫し考えてから答える。
「なあ、マカゾフ……その呼び方を変えてくれないか」
「旦那って呼び方を、ですかい?」
いや、違うんだと続けながら彼はさらりと軽く、こう告げた。
「いや……昨日までのインノチェンテは、もう死んじまった事にして、今日からは違う名前を名乗ろうと思ってるんだが、どうだろうか?」
王都から遥か北の僻地、アイスランドに程近い港町に、その豪奢な屋敷は在った。古く遡れば雄大なロシアを礎とする地に、長く繁栄したカプリコーンの都が魔族の手に堕ちた敗北の過去へと辿り着く……それ程の歴史を誇るアレクサンドロブナ家を名乗り、港を出入りする船を操って北の海へと漕ぎ出す、命知らずの漁師達の大綱元の屋敷である。
大きな屋敷は玄関と応接間を境に置いて一辺を欠いた四方形に似ていた。家主が住む西棟と近しい漁師達が住む東棟が、中庭を挟んで向き合うように建っている。
その屋敷の西棟の外れで、十六歳になったナスターシャ・アレクサンドロブナは向かいに座る男の顔を眺めていた。
「……ターシャ、俺の顔に何か付いてるか」
「いいえ、違います」
やや堅苦しく答えるナスターシャだったが、その顔は円やかに微笑みを浮かべ、満足げである。
「インチェの顔を眺めているのです」
堅苦しい口調は相変わらずだが、しかし幸せそうなナスターシャにやれやれと言いたげな彼だったが、その名前はよしてくれと釘を刺した。
インノチェンテと言う名前の男は、やがて流れ着いた港町のアレクサンドロブナ家に仕えるゴドロフ翁の養子となり、名前を改めたのだが……ナスターシャだけは相変わらず彼を【インチェ】と呼んだ。
可愛らしく幼かった印象のナスターシャは、月日が経つに従い美しさが際立つ十六歳の誕生日を迎えた。そして自らの伴侶を選ぶ事になったその日に、後見人の村長や漁村の銘々を呼んで宣言した。
結局彼女が選んだ相手は、やはりインノチェンテだったのだが、ざわめき立つ周囲の反対を抑えたのはアレクサンドロブナ家に長く仕えたゴドロフ翁と、漁師頭のマカゾフだった。村長はナスターシャの事を妹のように扱ってきたマカゾフが、よもやインノチェンテを推すとは思っていなかったのだが、
「旦那にはな、俺達が束になっても敵わん力が有る。そいつを知らんお前らが、ごちゃごちゃ言うんだったら……俺が叩きのめすが相手になるか?」
小さな頃からナスターシャを見守ってきた二人、しかもナスターシャの良き理解者で漁師頭のマカゾフまでもがインノチェンテを推したのである。更に言葉を裏付けるようにマカゾフが彼の過去に触れぬまま異議を捩じ伏せたせいで、
(どうやら新しい旦那は、俺達が思っている以上に恐ろしく、漁長が認める程の強さらしいぞ)
と、噂に尾鰭が付いて知れ渡り、結局ナスターシャの意志が全て優先される事になった。但し、ゴドロフも村長に(ならばお前の息子がお嬢を押し倒そうとして俺に叩きのめされた事を触れ回ろうか)と脅した事は、ナスターシャが十歳だった頃の話だが、それはここだけの秘密である。
「なあ、ターシャよ。どうして俺だったんだ」
出会った時から何度考えても答えの出ない謎を、その時初めて彼は尋ねた。すると今まで感情を剥き出しにして来なかったナスターシャが、初めて頬を赤らめながら答えたのだ。
「……そ、それはですね……は、恥ずかしいんですが……聞いてくれます?」
「ああ、勿論だとも」
「……父様は、シーサーペントの漁で右手首を失ってました。でもそんな姿の父様の事をですね……母様はとても愛していました。それで、食事の時には必ず父様の好物だったピロシキ(ロシアの代表的な具入り揚げパン)を……いつも自ら介添えして、食べさせていたんです……」
(……つまり、そんな二人の姿に憧れていた、って訳か。しかし、まさか両腕が無いのが惚れた理由だったのか?)
と、言いながら恥ずかしげに身を捩りつつナスターシャは、物思いに耽るインノチェンテの口にぐいぐいとピロシキを押し付ける。
「……やっ、だからやめてくれって……ち、ちょっと待てって!」
「だ、か、ら……あーん、してくださいインチェ様ほら、あーんって」
「だから待てって! それに答えになってない!!」
ぐいぐい、ぐいぐい、と更に強くピロシキを押し付けるナスターシャに、インノチェンテは激しく困惑する。
アイスランドに程近い港町。その町に名を馳せて栄える漁師の綱元がある。時には迫り来る漁師達を返り討ちにする、荒々しいシーサーペントを狩る漁で有名な港を長く牛耳って来たアレクサンドロブナ家である。
漁師の銛を弾き返す程の硬い鱗を持ったシーサーペントだったが、アレクサンドロブナ家に伝わる秘伝の漁法で狩られたシーサーペントは、王都を始め様々な場所で時折見受けられるが希少な肉として、高値で取引されている。
……因みにシーサーペントの肉は強壮効果が高いと噂され、秘かに好事家の間で評されているのだが、
アレクサンドロブナ家のピロシキに、昔から隠し味としてシーサーペントの肉が入れられている事は、ゴドロフ翁だけの秘密である。