④ 両腕の秘密
最初、海の中から吹き上がった潮を見たインノチェンテはハクジラが出たのかと思ったが、鋭い棘が並ぶ背中は鯨では無い。ならば、それは何者なのか。
「インノの旦那の件は後回しだ!! シーサーペントが出やがった!!」
マカゾフが叫びながら船縁に置かれた投げ銛を掴み、波を隔てて見え隠れする巨大な生き物を睨みつつ、インノチェンテに座るよう促す。
「……この辺りにゃ、アザラシを追っかけて湾奥までシーサーペントがやって来るんだが……」
投げ銛を構えながら、マカゾフは投擲するタイミングを待つ。鋭い銛の穂先は返しが付き、どんな海の生き物と言えど身に突き刺されば、容易く逃げられるとは思えない。
だが、マカゾフの額に滲む汗と波間を睨む目付きに、余裕は見られなかった。
シーサーペントは、北の海でも時折見られる大型の魔物で、その姿は竜の頭と海蛇の身体を混ぜたように見える。無論、胴回りは人より太く、身を伸ばせば今乗っている船より遥かに長い。おまけに厚い鱗は容易く銛を弾き返し、唯一銛が通る箇所は眼と鼻の周りだけなのだ。
「……潜ったか……しかし、シーサーペントは一度姿を見られたらしつこく追って来る」
マカゾフは手にした投げ銛を降ろすと、インノチェンテに向かって悔しげに呟いた。
「だが、この船に積んだ銛の数では……到底太刀打ち出来ねぇ」
船縁に投げ銛を戻し、合わせて三本だと数えながら苦笑を浮かべる。
「……済まねぇな、旦那……こんな事に付き合わせちまってよ……」
先程までの勢いは何処へやら、まるで悪戯を咎められた子供のようなマカゾフの表情を見たインノチェンテは、彼が本気で自分を殺そうとしていた訳ではないと気付く。きっと軽く脅せば命乞いでもするだろう、そして後は適当に理由を付けて、離れた場所に放り出せば良いと踏んでの狂言だったのかも知れない。
「今はいい。それよりシーサーペントを何とかすればいいんだろ?」
船の真ん中に腰掛けたまま、容易げに言い放つインノチェンテの顔をマカゾフはまじまじと見つめてから、
「旦那ぁ……何を言ってんで!? 相手は海の魔物じゃねぇか!! 腕の無ぇあんたが勝てるような奴じゃねぇぞ!!」
語気荒く吐き捨てるように叫ぶ。しかしインノチェンテはすっと立ち上がると、波の立つ海面を見ながら意識を集中させる。
白い波と鈍色の空を反射した暗い海面の中に、強壮な海の魔物が潜んでいる。そう考えただけで背筋が凍るような気になるが、構っていられない。
更に、更に意識を深く……次第にマカゾフの声が遠退き、吹き荒ぶ風も聞こえなくなり……
やがて、低く、くぐもるような……狼の遠吠えを更に低くしたような鳴き声が、彼の耳に木霊する。
その一息の長さは、自らが知り得るどんな生物より長く、深い海の底から湧き上がるように響き渡る。
(……成る程。縄張りを荒らされて、苛ついているって訳か)
インノチェンテの思考によって紐解かれた結論が当たったのか、シーサーペントの鳴き声が船の底に反射して深い海の中に消えていき、その余韻が消えると同時に再び鳴き声が海中を貫く。
「よし、マカゾフよ……俺の身体を頭から海に沈めてくれ」
「……旦那、気は確かか!?」
シーサーペントの気配を捉えきったインノチェンテが、不意に振り向きながらマカゾフに懇願すると、当たり前のように驚いて血相を変えるが、
「マカゾフ……今まで黙っていたが、俺は王都で調教師組合に居た。魔獣ならば、シーサーペントだろうと何だろうと操れる」
そう告白するインノチェンテを、複雑な表情で眺めていたマカゾフが、漸く問いかける。
「ふむ、魔獣使いか……しかし、失敗したら、俺と旦那はどうなるんで?」
「そうだな……船をひっくり返されて、仲良くシーサーペントの腹の中に納まるだろうね」
「くそ……どっちにしろ同じって訳じゃねえか」
そう言い合いつつ、覚悟を決めたマカゾフはインノチェンテのベルトをがっちりと両手で掴み、軽々と持ち上げて肩に担いでから船縁へと近付き、海面すれすれまで彼の顔を降ろしてから、
「……息が続くのは一分が精々だろうから、何があっても引き揚げる! それでいいかい!?」
「ああ、それで構わない……さあ、やれ」
互いに言い合うと、マカゾフは何かに祈りを捧げるように口の中で呟いてから、インノチェンテの上半身を海の中へと突き込んだ。
……刺すような冷たい海水が彼の顔を叩く中、髪を揉みくちゃにされながら海中へと身体が沈む。
ぎゅっ、と心臓が縮み上がり、頭の芯が痺れる程の冷たさに意識が遠退きかけながら、インノチェンテはシーサーペントの気配を探った。
と、仄暗い海底から蛇のようにのたうちながら、大きな塊が上へ上へと目指すように上昇してくる気配を察し、意を決して眼を刺すような海水の刺激に耐えながら見開いた彼の視界に、赤銅色の鱗に覆われたシーサーペントが姿を現す。
波打つように尻尾の鰭を振りながら、北海の魔物が彼に向かって牙の並ぶ顎を開き、船ごと丸飲みにでもするかのように襲い掛かるが、インノチェンテは怯まなかった。
魔獣を従える杖も無く、況してや両腕を失ったインノチェンテがシーサーペントを制御出来る筈は……
いや、杖に値する物はある。我が身から流れ出る血ならば、どうか?
魔力は血の中にも含まれる。その血液を僅かに噛み切って流れ出させながら、インノチェンテは意識を束ねる。その時、首に掛けていたネックレスが鈍く輝き、彼の口から流れ出た血液を固めて留める。
そうして海中に漂う筈の血液が固まると、それはまるで深い海底に育つ赤い宝石と呼ばれる、紅珊瑚に似た稲妻のような杖と化した。
奇しくも偶然の産物として出来上がった即席の杖を咥えながら、インノチェンテは失った両腕で術印を描くように意識し、息が上がる苦しさを押し殺しつつ、仕上げとばかりに呪文を脳裡に印す。
(……【知に欠けし野獣の僕よ、我を主として共に主従の道を歩むべし】……っ!!)
こうして彼は刮目と共に、魔獣を操る制御の術式を完成させた。
「……もう無理だっ!! これ以上は旦那が死んじまうっ!!」
マカゾフの叫びと共に、勢い良くインノチェンテの身体が引き揚げられた瞬間、海面を割りながらシーサーペントの頭が高々と伸び上がり、船の直ぐ傍に屹立する。
「……だ、旦那……奴は、どうなんで……」
「はぁ、はぁ、はぁ……ふ、ふふ……はははははははははっ!!」
荒く息を吐いてから、髪から海水を滴らせたインノチェンテが狂ったように笑い始め、引き揚げるのが遅かったからかと訝しむマカゾフだったが、
「……は、はは……ああ、シーサーペントか。あれはもう、無害だから心配いらんぞ」
「……し、心配いらん……ですかい?」
落ち着いたインノチェンテが太鼓判を押した瞬間、それまで二人を値踏みするように首を揺らしながら眺めていたシーサーペントが鼻から潮を勢い良く噴くと身を捩り、ゆっくりと海面目掛けて身体を沈め二人の視界から消えていった。
「……な、大丈夫だろ?」
「た、確かに……はあ、助かったんですかい……」
インノチェンテの言葉に不承不承の体で首を振りながら、マカゾフは諦めたように船の後ろに据えられた櫓を掴み、
「だったら帰りましょうや。お嬢様が心配しなさるから……」
そう言うと、櫓を巧みに操りながら岸に向けて船首を向けた。