③漁師町のナスターシャ
「……貴方様は、何処かで名を馳せた、魔術師で御座いましたか?」
そう来るか、とインノチェンテは思う。
腕を失い此処にやって来た直後の衣服は、黒い一般的な意匠の物で、魔術師らしさの欠片も無かった。
しかし、両腕を失いながらも死なぬまま、独り現れた異質な来歴と首から提げた紅玉の首飾りは、彼の過去を物語っていた。止血せずに両腕を失ったまま歩き回れるのは、高度な身体治癒能力を有した魔族か、人並み外れた何かを持ち合わせた魔術師位である。
自分が王都に居た事、そして国の根幹に食い込むだけの力を有する組織に属していた事は、言い触らして良い事とは思えなかった。漏れた話が伝わる内に尾鰭が付き、予期せぬ面倒に巻き込まれるかも知れない。そう危惧すれば、彼は自分の過去を秘密にしておきたかった。
「……いえ、誰しも言い難い事は有りましょう。余計な詮索はお互いに避けるべきとは存じております。しかし……」
ゴロゾフはそう前置きしながら、言葉を続ける。
「……インノチェンテ様に、お嬢様がご執心であられる事が、問題なのです」
母親の美しさ、そして父親の凛々しさ。今は亡き二人の面影をその身に受け継いだナスターシャ。まだ十五歳と若々しい身ながら、彼女の肩には豪奢な屋敷の所有権と、屈強な漁師達を束ねる権限がいずれ訪れる。今は後見人の村長とゴドロフ翁の二人が分担し処理してはいるが、十六歳になったら自立して屋敷の権利を相続し、荒海を渡って漁を行う漁師達の長にならなければいけないのだ。
そんな彼女が何を思ったのか、突如現れたインノチェンテの介護を買って出て、屋敷に引き取ると何やかやと世話を焼こうとしている。その理由をゴロゾフにも話していず、後見人の村長も表面上は口にしていないが、変な心移りが生じやしないかと心中穏やかでないだろう。
無論、一月も居れば余程の朴念仁でもない限り、自らが置かれた状況は理解できる。しかし、インノチェンテも我が身の置き場が他に無い故に、それでは去らばと言って出ていけもしないのだ。
「それなら……ゴロゾフ殿は俺に何を期待しているんだ」
正直に聞くしかないインノチェンテだったが、ゴロゾフの口から出た言葉は、彼の予測の範疇を大いに逸脱していた。
「……この際、ナスターシャ様と一緒に暮らして頂くのは、如何かと思いまして」
「……ゴロゾフ、今あんた何と言ったか」
「いえ、ナスターシャお嬢様といずれ夫婦になる為、このまま暮らして頂くのはどうかと」
インノチェンテは意味が判らなかった。いや、彼の言葉が判らない、という訳ではない。ただ、何処の誰とも判らぬ者に、一廉の身分有る子女を嫁に貰えとは、流石に酔狂が過ぎる。悪い冗談ならば傑物のゴロゾフ翁(酒癖の悪い漁師を海に叩き込んだ事もある)らしくもない。
しかし即答を避けたインノチェンテを責めるでもなく、彼はいずれ伺えれば宜しいので、と話を切り上げた。
歩けばシラユリ、座ればスズランと言われる程のナスターシャだったが、好いた相手の名は出ず。まだ若い身にて当然と言えば当然と言えよう。しかし、インノチェンテから見ればやっと幼女の域を出た娘にしか見えない。三十路も近い彼には……
……一体、何だと言うのか。
俄に降って湧いた縁談紛いの話に、インノチェンテは戸惑いを隠せなかった。
それから暫し後、海岸に打ち寄せる波に氷塊の粒が混じるようになったある日、漁師達を束ねる船頭のマカゾフがインノチェンテに声を掛けた。
「……インノの旦那、ちょいとお話がありまして……」
この屋敷には離れが在り、そちらは漁師達が住んでいる。向こうと此方は別棟になっている為、余程の用事が無い限り漁師達はインノチェンテが居る屋敷の此方には現れない。そんな彼が用が有ると言って話し掛けて来たのだ。
何か有るな、とは思いつつ、捨て置くのも憚れると彼の後に付いていくと、マカゾフは波止場に泊められてある一艘の船を指差し、
「お時間が宜しけりゃ、一漕ぎ……お付き合いしてもらっちゃあ呉れませんかね」
海に生きる漁師が船に乗れと言うのである。インノチェンテは暫し考えはしたが、無言で頷くと船縁を跨ぎ越した。
まだ日の高い時間とは言え、冬の気配が直ぐ其処まで近付いた海の上。船はマカゾフの漕ぐ櫓で身を切るような冷たい風を裂いて進んで行く。鉛色の空と薄く棚引く雲が頭上を過ぎ、遮る物の無い海の上。波を乗り越えながら疾る船に身を任せるインノチェンテが船頭を務めるマカゾフの顔を見ようと振り返った。
マカゾフは真っ直ぐ海原を睨みつつ、インノチェンテと視線を合わせぬまま、閉ざしていた口を開いた。
「……インノの旦那。申し訳ねぇが俺は……あんたを海に投げ込んで殺すつもりで、連れて来た」
「……そうかい」
互いの言葉を噛み締めるように暫し黙った後、再び口を開いたのはインノチェンテだった。
「だが、どんな理由か聞かずに、黙って殺されるつもりも無い。どうしてなのか教えてもらいたいがな」
「……ナスターシャお嬢様がね、不憫だったからでさ」
有る意味予測通りの答えだった。しかし、彼女が不憫だと思う事だけで、自分が殺されるのは堪らない。妙な事だと思いもするが、一度は捨てたつもりの命を簡単には手放したくないから、なのかは判らぬ。
(……折角拾った命なら、最期まで跑くのも悪くないが、……それよりも)
四方を冷たい海に囲まれた上、頑強な肉の壁と言いたくなる身体のマカゾフを相手に、足場の悪い船上でインノチェンテが勝てる要素は一切無い。だからこそ悪足掻きと笑われようと、諦めたくなかった。
(……俺が死ななかった事に意味が有るんなら……)
巌の如きマカゾフの顔を眺めつつ、彼は湧き上がる感情に抗えず微笑みを浮かべる。そんなインノチェンテにマカゾフは眉を潜めたが、些細な事だと気にならなかった。
目の前に居る、マカゾフの都合も理由も関係無い。九死に一生を得た自分が、もし運命で生かされたのならば……その先に何が待ち受けているのか知りたい。インノチェンテは自らを翻弄する運命の向こう側に何が有るのか確かめたかったのだ。
(だからこそ……そいつを見極めてやろうじゃないか)
じっと動かぬマカゾフとインノチェンテの間を寒風が吹く。やがて焦れたようにマカゾフが手を伸ばした瞬間、穏やかだった海に白波が立ち、船が大きく揺れ動いた。
「くそ……こんな時にッ!!」
慌てながらマカゾフが毒づき、伸ばしかけた手を引き戻すと突如、波間から潮が立ち上ぼり、青々とした生き物の背中が露出した。そして鋭い背鰭を有した何かが姿を現した。