②漂泊のインノチェンテ
びゅうびゅうと肌を切るような冷たい風が海の上を渡り、小舟を漕ぐ漁師の肌を容赦なく打ちのめす。しかし、北海で生きる術を見出だして来た彼等は、意に介さず漁に出る。
漁師達は氷塊が岸辺を埋め尽くす冬までの間、様々な獲物を求めて海へと漕ぎ出して行く。
小魚を飽食し肥え太ったタラや、南に下る為に餌を求めて岸辺まで近付くハクジラ。毛皮の下に脂肪を蓄えて冬を越す準備を始めるオットセイやラッコ達。そして……それらを追って湾奥までやって来る様々な魔獣すら、彼等の獲物となるのだ。
漁村の波止場から出港する小舟を見送りつつ、ごつごつした岩場を慎重な足取りで進み、身を寄せている家屋に近付く。
漁業で生計を立てる寒村、と聞くと華奢で小さな建物と思いがちだが、北の海は豊穣な恵みを充分に与えてくれる為、その造りは豪奢である。しかし、与えもするが同様に奪いもする。
腕を失った男、インノチェンテを介護した娘のナスターシャは、この漁村で暮らしていた両親と死に別れ、残された家財と年老いた使用人、そしてお抱えの漁師達と共に暮らしている。無論、後見人は村長が務めている為、幼い彼女が路頭に迷うような事も無く、いずれ成長すれば婿でも取って平穏な暮らしを営むだろう。
……そこに、彼がやって来た。
当然だが、今まで彼女に関わっていた者から見れば、心中穏やかではない。年老いた使用人のゴドロフ以外の漁師達や、後見人の村長も、互いに自身の嫁として、或いは息子(彼女より十五も年上だが)の嫁として彼女の成長を心待ちにしてきた者から見れば、傍迷惑な闖入者である。
しかし、彼には両腕が無く、漁師として生計を立てられるとは思われない。男達は十五歳のナスターシャが暇潰しに介護しているだけで、彼女が飽きればインノチェンテを追い出すだろうと思っていた。
だからこそ、一ヶ月過ぎても彼がまだ、ナスターシャの屋敷に居続ける事に不安を抱き始めたのだ。
(まさか、既に籠絡されたのでは……)
(そんな、腕の無い男にそんな真似が……)
各々が、そう勘繰りはしても、まさか直接聞く訳にもいかぬ。歯痒い思いで二人を監視していくが……当の二人に全くそんな事は無かった。
「インノさんは器用ですね」
ナスターシャが見守る中、使用人手製のカーシャ(蕎麦の実の粥)を啜るインノチェンテだったが、彼の口元に近付くスプーンは宙に停まり、両手の無い筈の奇妙な食事が、今のナスターシャのお気に入りの一つだった。
「……器用と言われても、大層な事とは思わんが」
元は名の有る魔獣使いだったインノチェンテにとって、初歩的な魔術を用いて何かを行う事自体は、有る意味で必然だった。
最初に彼が自らの着衣を変えようとした時、ナスターシャが着替えさせると言い出して逃げ回った際、必死になって念動の類いを会得しなければ、沽券に関わると気付かされた。流石にうら若いナスターシャに自らの下の世話までさせるのは、遥かに歳上の彼から見れば、恥辱の極みでしかなかったからだ。
魔術使いとしての素地は有った。だからこそ、日を跨がずズボンを一人で穿き替えられるようになった時、彼は自分の才能と努力に心底感謝したものだ。人間、必死になれば出来るモノなのだ、と。
「いや、大丈夫なんだよ!! いや大丈夫ですから!!」
「そう仰有らずに強情ですね開けなさいな」
その時トイレの扉一枚を隔て、インノチェンテとナスターシャの攻防が続く中、彼は下半身は裸だった。入り口で待ち構えていたナスターシャに危うく全て降ろされかけ、何とか立て籠ったまでは良かった。だが、出る間際まで扉の外で待ち構えていたとは思わなかったのだ。
「大ですか小ですか拭きますか」
「いやだから……言わせるな!!」
腕を失って一日目、まさか自分の身がここまで不自由なのだと自覚したのは、ナスターシャに介護される段になってからだった。
幸いにして小だったが、それよりもうら若いナスターシャに世話になるのは最低限で良い。況してや下の世話は御免被るインノチェンテだったが、
「貴方も強情ですね早くここを開けてくださいませ」
そんな彼の心情など意に介さず、強引に扉を開けさせようとするナスターシャ。苦し紛れで自らの魔力を手繰り寄せ、今まで挑戦した事もなかった念動系魔術を会得すべく、必死に術式を組み立てるインノチェンテ。
本来有った腕のイメージを強く意識し、その形と同じような魔力の流れを少しづつ形成。その形を維持したまま足元に引っ掛かったままのズボンと下穿きをたくし上げ……
「……っと、では早速……あら」
「……はあ、はぁ……だ、だから大丈夫……だ」
瀬戸際のタイミングで、彼のプライドは何とか維持された。たかがズボン、されどズボンで、だが。
そうした日々の積み重ねが有り、インノチェンテとナスターシャの介護関係は、彼の絶え間無い努力とナスターシャの一風変わった観察眼的興味が加わり、やや斜め上を目指しつつ変化していった。無論、インノチェンテ自身にナスターシャへの感情の変化は無い。
そんな二人の動静を、間近に見ていた者がもう一人居た。
古くからこの家に仕える、ゴロゾフ翁である。
食事を終えたインノチェンテからナスターシャが離れると、見計らったようにゴロゾフが近付き、彼を誘い屋敷の遊戯室へ向かう。
そして室内へ入り扉を閉めて二人だけになると、恭しく一礼してから切り出した。
「……インノ様、不躾ながら御尋ね致しますが……」
やや勿体ぶった物言いに、インノチェンテは少しだけ身を強張らせる。
「……貴方様は、何処かで名を馳せた、魔術師で御座いましたか?」