①喪(うしな)いし者
この作品は「王都の決闘士」スピンオフ作品です。
その男は、自分でも直ぐに野垂れ死にするだろう、と覚悟していた。
己の不手際の償いは、自らの命を代価として贖うつもりで居た。姑息と思いながらも痛みを少しでも軽くしようと酒を煽り、やがて訪れるその時を待ったのだが。
結果はどうだ? 命を差し出すつもりで臨んだ断罪の場での決議は、延命の果ての放逐。罪を不問と処す代わりに野に放たれる事となったのだが、無論全てを赦された訳ではない。
しかし、そのような事は既に過ぎて無意味……と考えてから、何処とも知れぬ荒野で身を横たえたまま、男は寝返りするように仰向けになり、草間に寝転んだ。
星が見えた。荒野を照らす明るい月も出ている。頬を撫でるように涼しげな風がそよぎ、身を投げ出した下草は柔らかく包み込むように彼を支え、青々とした夜の香りを運んで来る。それは生の実感として彼の五感を強く刺激する。
……様々な艱難辛苦が訪れはしたが、結果として落命だけは免れた。毒蟲が詰め込まれた檻に落とされたり、火の燃える油壺に投げ込まれた訳でも無い。彼は、生き延びる事だけは出来た。
暫し身を横たえて居たが、やがて時間を掛けて立ち上がると、よろけながら荒野を一歩進み、また一歩と繰り返しながら月の光に照らされつつ歩いて行った。
明けぬ夜は無い。当然だが男とて例外ではない。やがて彼の身は朝焼けの紅い光に包み込まれ、夜通し歩いて疲れと睡魔に負け、岩の上に腰掛けた彼を照らす。段々と高くなる陽の光は穏やかさを維持し、季節が秋から冬に至る事を肌身で感じさせる。
と、不意に何か気付いた男は、慣れた素振りで甲高く口笛を鳴らした。
高く高く澄んだ雲一つ無い空に、ポツリと茶色いシミが浮かんだと思うと、それは見る間に大きくなり、遂にはっきりと姿を顕にする。
緩く弧を描くように上空を旋回しながら、少しずつ高度を下げて加速し、やがてキリキリと空気を切り裂きながら圧倒的な落下速度を得ると、大地を貫く勢いで男目掛けて一気に接近してくる。
それは、大きな翼を持った一羽の鷹だった。
彼に向かって飛来した鷹は、そのままやや離れた荒野の真ん中に着地する。そして背中を向けて翼を畳んでからくるりと振り返り、跳躍するように身体を躍らせながら近付いて来る。
そして真っ直ぐ向けていた男の視線が鷹の眼と交わると、その場で鷹は左右に首を傾けて様子を窺った後、まるで何かを悟ったかのように翼を広げて飛び立った。
人の通わぬ荒野の真ん中に、一人置き去りになった男はそのまま座り、風に身を任せたまま待ち続ける。
やがて、何処で捕まえたのか獲物の兎を足で掴みながら、先程の鷹が彼の元へ戻ってきた。
鷹は彼の足元に兎を落とすと、嘴と足の爪で皮を剥ぎ肉を幾片か千切り丸飲みにした後、再び空に向かって羽ばたき飛び去った。
男は空腹だったが、生の兎の肉を貪る程ではない。数本の小枝を集めて積み上げた上に足先で突ついて兎を載せると、何かを呟いて小枝の束に意識を向ける。すると小さな炎が小枝を包み、やがてパチパチと音を立てながら兎を炙り焼きにしていく。
鷹がある程度細かくしてくれたお陰で、食べやすくはなっているが、男は焼けた兎を前にして暫し考えた末、屈んで獣のようにかぶり付く。充分に火の通った兎の肉は、歯で噛み締めるだけでほろほろと口の中で解れ、やや獣肉特有の臭みを残しながら胃の中へと消えていく。時折、毛が口の中に入りはするものの、魚の小骨を出す要領で吐き捨てながら、狼のように焼けた兎の肉を噛み千切り続ける。
生のままで塩味すら無い焦げ目の付いた兎肉だったが、鷹が内側から開くように嘴を入れて肉を割ってくれたお陰で毛皮を剥ぐ手間は無く、口の中で骨と肉を隔てながら獣肉を選り分けて噛み締め、ぷっと器用に骨を吐き出してはまた、火の通った兎の肉を前歯で削いで咀嚼する。
……彼には、両腕が無かった。それが落とし前という訳である。命の代償としては高いかもしれぬが、五体満足で命を落としても仕方がない。今はただ、こうして生きていられるだけで十分であった。
やがて兎を焼いただけの簡素な食事を終えて彼が立ち上がると、何処からともなく鷹が再び現れて彼の両腕が失われた肩の上に停まり、先を促すように小さく羽ばたいた。
しかし、男は自分が何処に居るのか全く判らない。夜に見た星の位置は彼が知る場所から北に居る事を示していたが、位置を完全に理解は出来なかった。
ならば、西に行こう。
東の地は魔に飲み込まれ、完全に人を拒絶する地と化している。踏み入れれば命は無い。
一度は無い命と諦めた割に、再び死の影が身に迫るとなると急に生きたくなる。人間とは誠に勝手なものだと皮肉に考えつつ、彼の足はやはり東へと向いた。
潮の匂いに気がついたのは、幾つも丘を越え、荒野から平坦な草原を抜けて、鈍色の雲が頭上を覆う空の下が海と面して波の煌めきと接する景色が見えた時だった。
急ぐでもなく緩やかな歩で進む彼の眼に、海岸に沿って疎らな家屋が幾つか並ぶ、漁村が見えた。
砂浜に打ち寄せる波の音と、岸際に掛けられた漁網が風に揺れはためく音が混じる中、数人の漁師らしき姿が垣間見え、久方振りに人間の姿を目の当たりにした男が安堵した瞬間、鷹が肩から飛び立つと同時に緊張の糸が切れたからか、彼の意識はぷつりと途切れた。
男が再び意識を取り戻した時、何処からともなく人の声が聞こえた。
(……身なりはともかく、あんな怪我をして……)
(……罪人か、或いは野盗に襲われたか?)
(……さあなぁ……)
自分の事か、と気が付いた時、唐突に顔の上にべちゃりと濡れた布が被せられた。
「……ッ!? ……いぎが……っ!!」
ぴったりと鼻と口を覆う布で息が詰まり、どうにか除けようともがいていると、
「あっ、起きた」
やや間の抜けた声と共に布が取り払われ、漸く息が出来るようになる。
「寝てるうちに顔、拭いてあげようと思ったから」
男が眼を開けて確めると声の主は、まだあどけなさが残る娘だった。しかし、見た目に反して言葉通りに甲斐甲斐しく世話を焼いてるつもりなのだろう。彼の掌に五指が収まるような小さい手でごしごしと顔を拭う布は絞りが足らず、耳元まで滴が垂れてくる。
「……んしょ、んしょ。ま、こんなもんですか」
べちょべちょと濡れた布が顔を行き来する内に、久方振りの清潔感をそれなりに得られた男が礼を言おうと口を開きかけたが、
「判ってます、つたない手際で申し訳ないと思ってます。すぐに着替えを持ってきますから、少し待っててください」
まるで悟られでもしたかのようにそう言われ、開きかけた口を思わず閉ざしてしまった。