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56.「」

 あの子、もう街にいないよ。

 いおは気になったから残ったけどねー。

 だから、ここにいる「イオリ」はいおだけ。……尾崎さん、ちゃんと旅立ったし。




 ***




「ロバートくん、しっかり」


 混沌とした意識に呼びかける声。


「大丈夫、落ち着いて。これは練習」


 肩を包み込むように、潰れた豆だらけの手が触れる。


「彼女も残留思念だよ。……もう、片が付いた出来事のね」


 片が付いた? 解決したってこと?

 なら、どうしてこんな


「表向き解決したとしても、痛みや苦しみは決してなかったことにならない。禍根は大きければ大きいほど、他者を容易に巻き込み後々まで尾を引き続け、やがては思想や信仰と化していく。宗教的なシンボルになったり、社会へのアンチテーゼになったりね。……それを産むのが、人を害するという行為さ」


 もうちょっとわかりやすく言って!!!


「えっ、分からない?」


 えっ、じゃないから!

 あ、ちょっと待って、また引き込まれ


「私、何度も夢見たんだ。外国に行ったら悪い人にさらわれて、でも、優しい人に助けて貰って人生をやり直せる……そんな、マンガみたいな話あるわけないのに……そうなって欲しかった」


 そんなことしなくたって、楽しそうに生きられる子が同じ名前をしていた。


「城島さん? 文化祭の出し物、あの子が考えたんだよねー。修学旅行のレクも企画出してたし」

「誰と話してるのー?」

「違うクラスの子ー。あ、名前何だっけ?」


『いいな。

 同じ名前なのに、全然違う。

 僕の人生と全然違う。』


『死んだらあの子みたいな子に生まれ変わりたいな。

 僕が死んでも誰も悲しまないけど、あの子は死んだら悲しんでもらえる。いいなぁ、あの子はいいなぁ。』


 手首を切ってブログに上げた。やってる時は気持ちよかった。

 病んでるとか馬鹿にされた。悪いことじゃないのに馬鹿にするなんて、いじめっ子と同じだ。世の中みんなみんないじめっ子だ。

 見て見ぬふりするあいつもそうだ。

 道を歩いたら笑うあいつもそうだ。

 笑ってる。くすくす笑ってる。うるさい、うるさい、うるさい。


 記憶が、思念が流れ込んでくる。

 助けなかったすべてを呪うように、責めるように。

 苦しい、首が締められてる、苦しい、死にそうだ、何これ。

 死にたかったわけじゃないんだよ。逃げたかっただけ。苦しかっただけ。誰も助けてくれないから、死ぬしかないの。


 ひどいよ、みんな。

 私だって修学旅行行きたかったよ。でも、みんなが怖いよ。学校なんか行きたくないよ。生きたくないよ。


 ……城島さんは、今頃、楽しんでるんだろうなぁ。いいなぁ。


「……つらかったね」


 カミーユの声が響き渡る。


「でも、もういいんだよ。君は苦しまなくていい」


 少女の姿が、幻のように消え去った。

 目の前に再び広がる、夜の路地裏。背後に変わらず存在する「寂れた医院」。


「よし、これで分かったよね?」

「何が!?」


 今のでわかる人いる!? 何を分かれって!?


「実演してたんだろ。お前もすぐに飲まれるから」


 呆れたようにロー兄さんが歩み寄ってきた。


「他人のことは他人事にしとけ。同調したって何もできないし」


 淡々と語り、あたりを見回す。

 何度も同調してきたからこそなのか、それとも、他意のない本音なのか。……少なくとも、しっかりとした助言だった。


「……もちろん、俺のことも」


 小さくぼやかれた言葉が、一種の許しにも思えた。

 うまく答えられない。……どう、話せばいいのかわからない。


「……まあ、僕は苦痛に同調し自我が幾度も殺され切り刻まれていく感覚って最高にたまらないんだけどね? 今は趣味より優先するべきかなって」


 カミーユさん、ありがとうオンオフをわきまえてくれて。

 ……あと、流れも変えてくれて。


「こういうのをどんどんくぐり抜けて必要なもの拾って、少しずつ進んだらいいんだよ。簡単簡単」


 確かに本人は余裕そうに左手のマニキュアを気にしている。

 ……簡単ではないと思う。


「は? 何ノエル? 自我保つのくらい余裕じゃないの?え、無理?」


 禿げた部分を堂々と塗り直す。たまに小さく「うるさいな」とか言ってる。

 ……うん、余裕だったらみんな苦労してないと思うんだ。


「気にしない方がいいよロブ。殺しにくる相手に対しても無防備な能天気バカには通用しない理屈だし」


 にっこりと昔のように笑って、兄さんは猛毒を吐いた。えっ、何? 怒ってる?


「殺しにくる相手にくらい警戒しろってことだよね、それ」

「黙ってろ変態」


 ニヤニヤ笑うカミーユさんと、不機嫌そうに距離を取る兄さん。

 ……もしかして、


「兄さん、レオさんが死なないように何とかしてくれるって」

「……良かったね。人徳はそこそこあるからな、お前」


 じわじわと、軍服に血の染みが滲んでいく。

 表情も、縫い付けた笑顔に侵食されていく。


「…………また何かあったら呼べよ。今更遠慮とかして死なれても困るから」


 その言葉を残して、兄さんは姿を消した。


「……えっ、まさかあのゴリラと合流?」


 そういや2人って仲が悪かったんだっけ。

 ……それにしても、レオさんなかなか来ないな……。




 ***




「……お、いたいた。げ、あのゲージュツカもかよ」

「どうやって見てんだよ。なんも見えねぇぞこちとら」

「見えんじゃん普通によ、ほら、あっこの隙間」


 厳つい腕が指し示す先にははるか遠くの路地。

「見晴らしのいい場所」を求め、男は即座に医院を飛び出した。

 とっくに顔見知りとなった警察官は横でため息を噛み殺している。


「…………どんな視力だよ」

「大丈夫だアドルフ、俺にも頑張らないと見えない」


 視線を逸らした隙に、男の姿は別人のものとなっている。


「……頑張っても見えねぇぞ……?」


 サングラスを外そうが目を凝らそうが、金の瞳には人影など捉えられない。


「レヴィはかっこよくなったなぁ。俺と違って分別もある」

「あ? アンジェロもイケメンだろうがよ。さすがオレの息子」

「おい、なんで息子自慢大会になってんだ」


 世の不条理を許せず死んでいった男と、世の不条理すら蹴倒して生きてきた男は和気あいあいと語る。

 流され続ける男は、ついに観念してサングラスをかけ直した。


「アドッさん、タバコ貸して」

「……返す気ねぇだろ」

「ライターもくれたらあれ、ボディーガード一回分負けとくぜ」

「…………」


 アドルフは欠けた自分の右腕をちらりと見やり、無言でライターとタバコの箱を差し出す。あんがとよ、と笑い、レオナルドもタバコに火をつけた。

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