28.「顔のない男」
夢を、見た。
「ロー兄さん、あのね、笑わないでね……」
「……また怖い話を読んで、トイレに行けなくなったの?本当に仕方ないな、ロブは」
あの日、寝る時間をとっくに過ぎても寝れなくて、8つ年上のロー兄さんに泣きついたんだっけ。
「ロー、お前、幽霊が苦手だったんじゃないのか?」
「……心配するなら、兄さんが行ってくれると助かるんだけど」
「何を言っているんだ。私もあのくらいには、一人で肝試しすら完璧にやってみせたとも」
ロジャー兄さんは僕より12歳も上だから、この時はもう軍に所属していたかもしれない。
「あら、でもこの子、まだ6歳じゃない。6歳なら、あなたも充分に怖がりだったんじゃなくて?」
「……ふん、そんな昔の話、いちいち覚えていられるか」
ロジャー兄さんには既に妻がいた。もっとも、制度がややこしいという理由で事実婚か……婚約の段階だった気もする。
ローザという名で、家族のように育った幼馴染……といった感じだ。その家とは家族ぐるみの付き合いがあるから、ロジャー兄さんが久しぶりに帰ってきた時は、僕が夜に起きてきてもホームパーティーのように賑やかだった。
「レイ、君の息子は随分と立派に見えるね。時代が時代なら、ナポ公でも吹っ飛ばせたのではないかい?」
「おいおい、ロイ。流石に誇大広告すぎる。私の息子だ。せいぜいが3世の軍勢に遅れを取らないくらいだ」
「まあ、たかがあの国の将軍だがね。知っているかい?豚に奴の名前を付けると罪に問われるんだとか!」
父さんたちはとっくに酔いが回っているらしく、母さんは確か、呆れたようにため息をついていた。
「ロッドは寝てるの?」
「ロッド兄さんは、なんか……すねてた」
「ロデリック、よっぽど悔しかったのねぇ。チェスには自信があったのかしら。まあでも、あなたも大人げないわ」
「何を言うんだ。子供のうちから厳しさを知らせておくのも、優しさというものだよ」
「……俺にもその優しさを向けてるってことだよね?」
「勿論だ。なかなか飲み込みが早いじゃないか、ロー」
そこで、黙って見守っていたーー兄さんが、声をかけてきた。
「私がついて行ってあげようか?」
「……! いや、俺が行くよ。ーー兄さんも久しぶりに妹たちと会えたんだし」
「その割には、ロデリックは素っ気ない。まるで僕よりローランドを兄扱いしてるみたいじゃないか」
どうしてだろう、和やかな風景だと記憶しているはずなのに。
どうして、どこか恐ろしく感じているんだろう。
そう言えば、
ーー兄さんって、どんな顔してたっけ?
「ーー、拗ねているのはむしろ、お前のほうだろ」
「そんなことはないよ。ローランドが好かれるのは当たり前だからね」
再現された記憶の中、顔がわからない男が一人いる。
ローザ姉さんの兄で、ロッド兄さんは忘れがちだけどそっちの家の血筋で、だから、顔自体は簡単に思い浮かべられる、はずなのに……
この人、どんな顔してたっけ?
……あれ? ロッド兄さんって元から僕らと同じハリス家だったっけ?
ローザ姉さんは、一番上の兄さんの妻で、
……あれ、一番上の兄さんの名前ってなんだっけ。なんで突然忘れたんだろう。ああ、そうだ、さっきまでちゃんと覚えてたじゃないか。
ロナルド兄さんって。
***
まずいことになった。
この身体の本来の持ち主、ロバートになにか起こったらしい。
「……君、どっち?」
目の前の男……カミル、いや、カミーユだったか?とにかく彼は、状況を察せたようだ。
「キース……いや、コルネリスの方だよ」
「ロバートくんは?」
「突然、反応がなくなって……」
「…………そう」
すると、唐突に彼は銃を突きつけてきた。
「何を……」
「「殺人絵師」なんて噂になってる僕が、君に何もしないって保証、ある?」
真顔だ。海の底のように暗くて冷たい瞳が、こちらを見ている。
「だから、逃げてもいいって言ったのに……」
「何を考えて……!」
「いいから。その肉体を、使いたい人がいるみたいでさ」
信用できない男だと、ロバートもわかっていたはずで、それなのに絆されて油断をーー
「いつから隠れてたの?…………ハリス……いや、本名は違うんだっけ?」
その瞬間、足元で何かが蠢いた。
影だ。僕の……違う、「ロバート」の影……でもない。
重い。まるで足を引っ張られているみたいだ。
いや、まるで、じゃない。
僕の足を引っ張って、「そいつ」は立ち上がった。何事も無かったかのように人の形を成して、それでも真っ黒な何も無い顔で、 確かにニタリと笑った。
「隠れてなんかない。そこいらにいたじゃないか」
「……そうだね。君の噂は確か、「どこにでもいつの間にか紛れ込んでいる大嘘つき」だし」
「はは、酷い言われようだ。……嘘を嘘だと見抜けない連中が多いというだけの話だよ」
得体の知れない何かの嘲笑。確かに、僕も死人だ。とっくの昔に亡霊だというのに、
「死」の恐怖を、感じる。
「僕には理屈はわからないけど……君、何かしたよね?」
「不用意に隙を晒すからだよ。……ロバートは中退だから、護身術すらろくに身につかなかったんだろうね」
こいつは誰で、何が目的で、ロバートはどうして反応しないのか。
身体が、動かない。
カミーユは、カチャリと引き金に指をかけ……何故か、そのまま銃を下ろした。
「…………聞いておきたいんだけどさ。何がしたいの?君」
「ああ……カミーユ。残念ながら、君には理解できないようなことだよ」
怖い。
正体も、目的も、手段も、何一つわからない。
何なんだ、こいつは。
「…………ロナルド兄さん?」
ようやく、ロバートが口を開いた。
本来これは「僕」……ああ、「ロバート」の身体だから、ええと、僕がロバートで、この影は……
『ロジャー・ハリスは、どんな男だった?』
不安そうに揺れる、翡翠の瞳を思い出す。
「久しぶりだねロバート。元気にしていたかい?」
黒髪でオールバック。優しそうな笑顔と、ヘーゼルの瞳。「兄さん」として、優しい声をかけられる。
「騙されてはいけないよ。この絵描きはね、過去に大きな罪を犯している」
「……ロジャー兄さんは、こういう時、「こんな胡散臭い男に絆されるとは、お前もつくづく子供だな」って言うよ」
「ロバート」の言葉で、何かに亀裂が入った。
「……君は、ロジャーのことを嫌っていたじゃないか」
「ロジャー兄さんの真似のつもりだったの? 全然似てな……」
「君はロジャーがどんな人間だったか覚えているのかい? 大して興味もなかったくせに?本当に「ロジャーの方が信用できる」なんて……どの口が言えるのかな?」
まくし立てるように、責められる。
「…………ロジャー兄さんのことは大嫌いだよ。でも、あんな腐った家から抜け出したのは正しかったと思ってる」
「何をバカバカしいことを……それは、自分にできなかったことをしたから兄を嫌っていると……自分の愚かしさを告白しているようなものだよ?」
「……え? そうだけど?」
どんな理由をつけたところで、僕がロジャー兄さんを嫌うのは、まあ……結局のところ、羨ましいからだ。尊敬していないと言ったら嘘になるし。
コルネリスは、変に補完してしまったみたいだけど。
「…………ああ、揃いも揃って気に食わない」
「えーと……何が?」
「思い通りに動かないところが、じゃないの?」
くす、と笑ったカミーユがまた銃を構え……空砲が、鳴り響いた。
瞬間、暗闇から現れた「何か」が、僕の背後に立った影を組み伏せる。
「……よくわかったよ……。……いつか、君も思い知るだろうね」
地面に溶けるかのように、「顔のない男」の身体が消えていく。
大きく舌打ちをしながら……殺意をあらわにした「そいつ」は体を起こした。
「……は?」
見覚えのある顔だった。しかも、会いたくない顔。
「なんで君がここに……」
「おめーよぉ……助けられたんならなんかあんだろ! ほら、メシおごるとか、かわい子ちゃん紹介するとか?」
「え、僕助けられたの?」
「知らねぇよそこのゲージュツカが呼んだから来たんだよ! でも成り行きだけどこれ助けてね!? なぁ……おい何笑ってんだよオカマ」
「……ん? 何? よく聞こえなかったかな。僕君と違って野生的な聴力もバカみたいな発想もないから」
「おう、いっぺん死んでくっか?」
何となく気が抜けたけど、コルネリスが何か言いたそうだったので、言わせておいた。
「……君……思ったより図太いだろ……」
「そんなことないよ……。あ、でも、実家絡みのことになると……まあ確かにそんなことも有り得るかもなぁって……」
「…………え、どんな家?」
……え、どんな平和な家で育ったの?コルネリス。
「ロバートくん、違う。たぶん君の方がおかしい」
うん、こいつにだけは言われたくなかった。
しかも幽霊よりおかしいって……。
…………いや、まあ、うん、確かに身内に自殺者とか殺された人がいる時点でおかしいか……。
***
もう、逃げる機会はない。
……残念だよ、ロバート。




