死の逡巡
「死にたい」という状態は、未来への盲目的な希望に未練があって死ねないということもあるが首を吊る、飛び降りる、そういった痛みへの恐怖で動きが取れなくなっている状態のことである。誰も自分の重みを首一本に預けるのも、頭がつぶれ自分の鮮やかな鮮血に浸る姿を、ましてや電車によりてろてろとした長い腸をまき散らし肉となっていくのは想像したくない。僕の脳は頸動脈が圧迫され死ぬことを認識したら無意識になってくれるのか、私はこの高さからニュートンが見つけた法則に従って落下したとき死ねなかったら生きるのも死ぬのも怖くなってしまうだろうと考え、恐怖に抱きしめられてしまう。睡眠薬のオーバードーズで死ぬことは楽に死ねるが現在、睡眠薬はちょっとやそっとじゃ“死ねない”ように作られているため死ぬ量の薬をかき集めるのは困難である。
そういうわけでシンヤも「死にたい」状態で生きていた。しかし、自殺とは高度に意識的な逡巡を行う行為であると誰かが言っていた。この言葉を聞いたときシンヤはあることを思い出した。それは祖父の死である。祖父のことはあまり知らず、ありふれた祖父と孫の関係であったと思う。祖父の葬式では親戚の人々が泣いていた。だからシンヤも泣いた。少しではあるが悲しかったのは事実だったので泣こうと思えば泣けた。泣いている人を見ていると祖父への思いの逡巡が渦を巻いていた。シンヤは死人に対してこれまでに人のことを考えてくれるのはさぞ気分がよく死んだのがもったいないように感じていた。だが同じ死への逡巡でも被害者と加害者の関係性があるとまた違うのであろう。シンヤは被害者であった。人に見捨てられたというただそれだけの被害者である。
シンヤはその裏切者Aを死を逡巡させて生きていく渦に沈めることに決めた。家にあったひもをドアノブに括り付け反対側を首にくくりドアの上にひもを流し椅子の上に立ち睡眠薬を飲んだ。この方法は自分の意識がどれだけ希釈されるのか分からないため使いたくはなかったが死への逡巡に興味があったシンヤは自分の死の逡巡を行いつつこれから自分を渦の中心に起こる死の逡巡を思い意識を無意識に流していった。意識が薄れ立っていられなくなりシンヤの立っていた椅子がたおれた。首は自身の重みを受け止めた。シンヤは睡眠薬によって希釈されているのかわからないうっすらとした意識の中でこれからおこる渦を想像しながら死んだ。
シンヤの死体が発見されて数日後、葬式が開かれた。シンヤの葬式には母、祖母、兄や数人の知り合いがいた。それとシンヤを裏切ったAもいた。Aは必死に泣いて後悔していた。その様子をシンヤは死んでいたにもかかわらず見ていた。感情を言葉にできなかった。言葉になっても届かないだろうが。Aに対して憎悪しかなかったわけではなかった。それは知っていた。しかしシンヤは死んだ。自殺を終え死の逡巡も終えたシンヤも再び自ら作った死の逡巡の渦に巻き込まれていった。