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ハルハレル

作者: 朝日菜
掲載日:2018/03/10

 どんより雲。予想できるこれからの天気。


みお、帰んないの?」


「ちょっと部活があって……」


「嘘つけ帰宅部」


 友達だから、私が帰宅部だって知っている。


「違うの! そのぉ……見学だから!」


「一年の冬に部活動見学する人います?」


「ここにいますぅー」


 頬を膨らませて、私は「またね」と手を振った。

 こんな天気の日に私と帰ると、絶対に雨が降る。だからみんなと時間をずらすって決めてるんだ。


 ただぼーっと時間が過ぎるのを教室で待つ。空よりも地面を見た方が気が晴れるかもしれない。そう思って、湿った地面に視線を向ける。


「あれ?」


 芝生になっている場所、そこにあるベンチの上に男子が寝ていた。


「何してるんだろ」


 不審に思って、次の瞬間私が外に出た途端に雨で濡れてしまうと思った。


「お、起きて〜……」


 叫ぶことが恥ずかしくて、三階から小声で声をかける。当然彼が起きるわけもなく、帰ろうと思っていた時間なんか忘れて私は彼の動きを食い入るように見つめていた。





 結局彼は起きなかった。時計を見ると、もう七時を過ぎている。

 これ以上帰りを遅らせるわけにもいかず、いつものように傘を持って彼がいる場所へと向かう。ベンチまで行くと、彼の目が開いていた。


「わ?!」


 彼は視線を私に移す。


「なんで傘を差してるの」


 それが彼の私に対する第一声だった。


「なんでって、雨が降るから……そこにいると濡れちゃうよ」


「俺は濡れないよ」


 体を起こして、私を見据えながら彼は言う。


「ううん。貴方は濡れるよ」


「なんで?」


「なんでって……」


 私が雨女だからなんて、言えない。


「……なんでも。いい? 私の予言は当たるんだからね!」


 彼はそれでも不思議そうな目で私を見ていた。


「ふぅん」


「ふ、ふぅんって!」


 彼は空を見上げる。釣られて私も見るけれど、空は相変わらずの曇天だ。

 彼は眉を潜めて、首にかけてあった望遠鏡を覗く。


「……見えない」


 だって曇ってるし。


「何を見ようとしているの?」


「星」


「今日は雨だよ」


「降水確率は五十パーセントだった」


 彼はベンチに座り直して、空を指差す。

 確かに今はまだ降ってないけれど……そこまで思って、私は目を疑った。


「まだ、降ってない?」


 そう。本来なら、悲しいことにもう降ってもいい時間なのに。


「まだって何?」


「う、ううん! なんでもない!」


 奇跡だ。大げさでもなんでもなく思う。


「……まだ晴れない」


 感動で棒立ちをする私を見もしないで、彼はそう呟いた。彼はしばらく空を見上げていたけれど、諦めたのか校舎の方に体を向ける。


「あ、待って!」


「まだ何か用?」


 彼はちょっぴり面倒くさそうに尋ねた。


「私もついて行っていい?」


 けれど私は遠慮なく言った。「別にいいけど」と言った彼の後を、私は傘をたたんでついていく。


「私は東郷とうごう澪。貴方は?」


北条透ほうじょうとおる


 透くんは私の方を見ずに答える。

 ミステリアス――というか自分のことをあまり語らないタイプみたいだ。だから黙って透くんの後を追うと、透くんは教室ではなく空き教室の中へと入っていった。


「ここは?」


「天文部の部室。散らかってるから転ばないで」


 透くんは特に転びそうな部分を指差す。


「ありがとう。透くんって天文部なんだね」


「一応」


 背を向けて、透くんは本格的な望遠鏡を覗いたり本を読んだり自由に動いた。そんな彼の背中を見て、私は首を傾げた。


「帰るんじゃないの?」


「帰らない」


「えぇ?!」


「今日は泊まる。もちろん許可は貰ってるから」


 今日は金曜日だし、透くんは天文部だから泊まりもあるのかもしれない。


「学校にお泊まりなんてすごいね」


「いつものことだし」


 透くんはどこからかカップ麺を持ってきて、中にお湯を注いでいく。部屋にその香りが充満してきた頃、透くんは真っ直ぐに私を見つめた。


「いつまでここにいるの?」


「あ、そうだよね。そろそろ帰るよ」


 何故か私も一緒に泊まるような気分になっていた。けど、部員でもないし親に連絡もしていないんんだから泊まれるわけがない。


「お邪魔しました!」


 扉に手をかけると、透くんが割り箸を割るところだった。


「ねぇ透くん」


「何?」


「次泊まる時は、私も泊まっていい?」


 透くんは麺を冷ます口を止めた。


「……来週」


 それは、いいってことなのかな?


「ありがとう! またね!」


 扉を閉める直前、手を振る私に透くんが手を振り返したような気がした。





「あんた何したの?!」


「え?」


 月曜日。学校に到着すると友達にそんなことを言われた。


「何って……何?」


「金曜日あんな天気だったのに、全然雨が降らなかったんだよ?!」


「え、そうなの?!」


「気づかなかったの!?」


 私は茫然とその場に立った。言われてみれば、雨音を聞いていないような気がする。


『降水確率は五十パーセントだった』


 不意に、透くんの言葉を思い出した。


「透くん!」


「誰それ。ていうか澪、部活動見学は……」


「ちょっと行ってくる!」


 友達を置いて、朝のHRが始まる前の教室を私は飛び出す。辿り着いたのはあの天文部の部室だった。


「透くん!」


 扉を開けると、透くんが散らかった部屋の中のソファで眠っていた。


「透くん、透くん!」


 注意しながら駆け寄り、彼を揺さぶる。すると、透くんはゆっくりと目を開けた。


「何しに……」


 まだ半分寝ている透くんに、私は「金曜日!」とだけ伝える。


「うん……」


 透くんは眉間にしわを作った。


「金曜日の降水確率って」


「五十パーセント。でも、晴れなかった」


「雨は?」


「降らなかった」


 天気の話になると言葉を多く出す透くんは、のそのそと起き上がる。寝癖がついた頭で「それが何?」と尋ねた。


「ううん……それだけ」


「そう」


 透くんはかけてある時計を見て、猫みたいにあくびをする。その仕草を見て、私は疑問に思ったことを尋ねた。


「透くんはずっとここに泊まってたの?」


「うん」


「え、ご飯は?!」


「カップ麺」


「お風呂は?!」


「そこの温泉」


「歯磨きとか」


「そこの水道」


 なんというか、透くんは意外とたくましかった。


「すごいね、透くん」


「別に。ていうか君、そろそろ予鈴が……」


 瞬間、透くんの言う予鈴が鳴る。透くんは私を見て見ぬ振りし、カップ麺にお湯を注いだ。


「透くん?!」


「俺、君が遅刻した責任とかとれないし。だから関わらないで」


 私が遅刻したせいで目が覚めたらしい透くんは、本当に私と目を合わせない。


「せ、責任なんてとらなくてもいいよ!」


 ていうか話がぶっ飛んでいる気がする。遅刻した責任をとるなんて初めて聞いた。


「本当に?」


 全身鏡越しに透くんが尋ねる。私は鏡の中の透くんと目を合わせて、全力で頷いた。


「……君を信じる」


 透くんはようやく私と向き合う。そして、三分経ったカップ麺をもしゃもしゃと食べた。責任とか信じるとか、ちょっとカッコいいことを言うくせに透くんは全然決まらない。


「あ、ありがとう?」


 一応そう言っておく。けど、透くんは食べることに夢中だった。本当なら今すぐ教室に戻るべきなんだろうけど、何故か透くんから目が離せない。

 それは、私の常識を越えた面白いことをしてくれる人だからかもしれない。


「透くん、私、もう少しここにいてもいい?」


 こくんと透くんは頷いた。しばらく部室を観察して、思ったことを口にしてみる。


「天文部って、透くん以外の部員はいるの?」


「いない」


 透くんを見ると、この数秒で完食したのか容器をゴミ箱に捨てるところだった。だから口を開いたのかと早くも納得してしまう。


「一人だけなんだ」


「三年がいたけど、そろそろ卒業だから」


「あ、そっか。そうだよね」


 透くんは、歯ブラシを持ってふらりと出ていく。今さら朝の準備をしているなんて、本当にマイペースというか。

 反面、部室は散らかってるけれど生活面はちゃんと綺麗にしているんだという安心感もあった。


 十分後、かなり長く歯磨きをしていた透くんが戻ってきた。


「お帰り透くん」


「……ただいま?」


 透くんは辺りを見回して、茫然と戸口に立ち尽くす。


「ど、どうかな? ちょっと掃除してみたんだけど」


 透くんの反応がちょっと怖くて、私はおずおずと尋ねた。

 十分前、透くんが出ていった直後に私は掃除をし始めた。正直何がゴミで何がゴミじゃないのかがわからなかったけれど、埃なら箒でなんとか掃ける。


「綺麗だね」


「本当? 良かったぁ」


 透くんに怒られなくて良かった。息を吐いてソファに座る。瞬間、また予鈴が鳴った。





 放課後になり、思いきり部室の扉を開ける。予想通り透くんがいて、大きな望遠鏡を弄っていた。


「澪、もっと静かに開けて。部品が暴れる」


「あ、ごめん」


 すぐに私だとわかって、しかも初めて名前で呼んでくれた透くんの周りには小さな部品が散らばっていた。


「また散らかしてる」


「澪が綺麗にしたおかげ」


「散らかす為にやったんじゃないよ!」


「掃除ってそういうものだよね」


「全然違うよ!」


 肩で息をする。来たばかりなのにどっと疲れた。


「……透くん、今日の活動は?」


「望遠鏡の解体」


「それ私できないよ」


「じゃあ見てて」


 透くんの背中は楽しそうに望遠鏡に触れている。なんで解体しているのかはわからないけれど、楽しそうだから何も聞かなかった。

 ソファーで丸まったまま、徐々に効いてきた暖房に眠気を誘われる。そのまま寝てしまうのに時間はかからなかった。





「……お、澪」


 透くんが私を揺さぶる。目を開けると、暗くて何も見えなかった。徐々に慣れてくると透くんが私を見下ろしている。


「俺、もう帰るけど澪は泊まるの?」


「と、泊まらないよ!」


 何故か消えている電気のせいで手探りに鞄を探し、私は立ち上がる。窓の外は星も見えない曇り空だった。


「ていうか透くん、帰るんだ」


「曇ってるし」


 それって私のせいなのかな。でも、雨が降ってないから決めつけるのは早いかな。


「何?」


「なんでもないよ」


 鍵を持つ透くんと部室を出る。

 一応折り畳み傘を用意して、首に下げている望遠鏡に触れる透くんの隣を歩いた。


「今日の降水確率は三十パーセントだよ」


 私の方を見もしないで、透くんは今日の降水確率を告げた。私の折り畳み傘が気になったんだろう。


「そうなの? 知らなかったなぁ」


 三十パーセントでも私がいると降るんだよって言ったら、どんな反応をされるのかな。


「天気予報は見るべき」


「だね!」


「でも、最近晴れないよね」


 透くんが、小さく呟いた。


「嘘つき」


 音がしたと思ったら、それは透くんが爪で望遠鏡をつついた音だった。


「透くんは……晴れてた方が好き?」


「うん」


「曇りとか雨は?」


「嫌い」


「どうして……」


「星を隠すから」


「それは、透くんが天文部だから?」


「違うよ」


 透くんの隣を歩けなくなって、一歩後ろを歩く。

 透くんの背中は何故か寂しそうで、彼の言う通りただの天文部だからという理由ではなさそうに見えた。


 互いに無言になって、それでも帰り道が同じだったから一緒に歩く。


 曇りや雨が嫌い。


 そう言う透くんの側さえ歩けなくなると、透くんは立ち止まって歩幅の狭い私を待ってくれた。待たせたくなくて小走りに駆け寄ると、進行方向を見ていた彼が息を呑んだ。


「……なんで」


 掠れた声を出す。釣られて見ると、スーツを着た女性が街頭に照らされながら立っていた。


「今まで何をしていたの」


 口調や見た目からして、透くんのお母さんだろうか。でも、隣を見ると顔色が悪い。


「今日は仕事でいないんじゃなかったのかよ」


「貴方が家に帰らないから、キャンセルしたのよ」


「社会人のくせにそんなことしていいの?」


 普段よりちょっと喋る。けれど冷たい口調の、相手を蔑むような目をする透くんは見たくなかった。


「跡継ぎの為ならね」


 女性の言葉を受けた途端、透くんは拳を握り締めて女性に近づいた。嫌な予感がして、慌てて透くんの服の裾を握り締める。


「待って透くん!」


「離して」


「やだ!」


「貴方誰?」


 さっきよりも冷たい声に、私は思わず口を閉ざした。


「透の恋人?」


「違う。天文部に遊びに来る子」


 透くんにとって私は、天文部に遊びに来る子だったらしい。確かにそうだけど、友達……程度には言ってほしかった。


「天文部? 貴方まだあの部活にいたの?」


 彼女の視線は、透くんの首にかけてある望遠鏡で止まる。


「まだ持っていたのね。捨てなさいってあれほど言ったでしょう」


「捨てるわけないだろ。これが兄さんの形見だって知ってるくせに」


「形見なんて他にあったでしょう。授業のノートや参考書や医学書。祐一ゆういちの形見はそれで充分じゃない」


「そんなのは形見じゃない!」


 透くんは私の手を払って女性の方に行こうとし、踏み留まって逆方向に駆け出していった。

 部外者の私は何がなんだかよくわからなくて、上手く状況を飲み込めないまま女性の方に視線を向ける。


「私、部外者ですけど、私もそんなのは形見じゃないと思います」


 そう言って透くんの後を追う私の背中に、女性の声がかかった。


「透に言ってくれる? 『早く家に帰りなさい』って」


 その言葉が引っかかって足を止める。


 透くんは、天文観測をする為に学校に泊まっていたはずだ。


「透くんのお母さんですか?」


「そうよ」


「お母さんなのにあんなひどいことを言うんですか?」


「家に帰れの何が酷いの? 伝言、頼んだわよ」


 けど、もし学校に泊まっていた理由がそれだけじゃなかったら。このお母さんに会いたくなくて学校にいたなら。


「嫌です!」


 叫んで、もう見えなくなってしまった透くんの後を追った。行き先は悲しいことにわかりきっていた。





 学校の裏門に辿り着くと、閉ざされた門の前で透くんが蹲っていた。一瞬躊躇って、私は口を開く。


「透くん」


 反応なし。


「冷えちゃうよ」


 真っ先に出てきた台詞がこんな台詞で、自分で自分が嫌になった。でも、二月の夜なんだから冷えるのは当然で。


「何も聞かないんだ」


 透くんはちょっぴり安心したように呟いた。「冷えちゃうよ」は間違ってなかったけど、それが無性に悲しかった。


「私からは何も聞かない」


 素直に言うと、透くんは顔を上げる。

 泣いてはいなかった。ただただ悲しそうな顔をしていただけだった。


 そんな透くんになんて声をかけていいのかがわからず、無意味に口を開けたり閉めたりを繰り返す。すると、手の甲に冷たい何かが落ちた。それは勢いを止めることなく強まっていき、やがて雨になる。

 慌てて傘を開いて透くんに傾けると


「……降水確率、三十パーセント」


 消えそうな声で透くんが呟いた。


「……『ですが、一部地域では夜になると七十パーセントになるでしょう』」


 透くんに続くように、お天気お姉さんの台詞を言う。


「今日は透くんが嫌いな雨の日だよ」


 泣きたくなった。どうしてこんな時に限って降ってくるのか。


「これ以上ここにいても学校には入れないよ」


 だからと言って、今の透くんをあの人がいる家には帰らせたくない。私はありったけの勇気を振り絞ってこう言った。


「もし良かったら、うちに泊まりに来ない?」





「た、ただいまー」


 恐る恐る家に入る。一軒家で、透くんの家に比べたら多分ごくごく平凡な家が私の家だ。


「お邪魔します」


 緊張感のない、けれどどこか遠慮がちに聞こえる声が後ろからする。


「おかえり。それといらっしゃい、北条くん」


 リビングからお母さんが顔を出した。

 適当に理由を並べてあらかじめ了承を得ていた透くんは、「お邪魔します……」と言いながら瞬時に表情を強ばらせる。


「ご飯食べる? 着替えはお兄ちゃんのを使っていいからね」


 お兄ちゃんという単語が出た刹那、透くんはお泊まりセットが入ったコンビニ袋を強く強く握り締めた。

 蘇ってくる記憶を辿ると、多分透くんのお兄さんはもうこの世にはいない。この家に連れてきて、結果透くんに辛い思いをさせたんじゃないかと肝を冷やす。


「あのさ」


 振り返ると、透くんが玄関を見回して「先に言っとくけど、嫌な思いをさせたらごめん」と言った。


「何?」


「お父さん、いないの?」


 透くんが見ていたのは、玄関に飾られた家族写真だった。私とお母さんとお兄ちゃん。お父さんは映っていないし、靴だってない。


「小さい頃離婚したんだって」


 努めて明るく言った。嫌な思いはないけれど、意識しないと透くんを傷つけてしまいそうだった。


「……うちも」


 視線を外さないまま透くんは言った。


「うちも父さんはいない」


 とても普通の表情だった。

 私にとっても透くんにとってもお父さんがいないのは当たり前で、こんなことが共通点だなんて嬉しく思って私は俯く。


「二人ともー、早く来なさーい」


「あ、はーい!」


 お母さんに呼ばれて、透くんはようやく靴を脱いで家に上がった。すると、側にある階段から下りてきたお兄ちゃんが「うわっ?!」と声を出して足を止める。


「お兄ちゃん」


「誰だこいつ!」


「透くん。うちに泊まることになったの。泊まる部屋はお兄ちゃんの部屋だから」


「急すぎだろ!」


 嫌がるお兄ちゃんを睨むと、お兄ちゃんは渋々だったけれど「わかったよ」と言ってくれた。





 お母さんとお兄ちゃんと少しずつ打ち解けてきた透くんは、お風呂から上がった後誰もいないリビングのソファに座っていた。

 体育座りで、首から下げている望遠鏡に触れている。そしてカーテンで閉まっている窓に視線を向けていた。


「透くん」


 顔を上げた透くんと目が合う。


「何かあったら言ってね」


 わからないことや必要な物を尋ねたつもりだった。


「いい家だね」


 けれど、そう言った透くんはずっと自分の家のことを考えていたようだった。


「羨ましい」


 その言葉に、ささくれに触れたような痛みを感じる。


「俺の家開業医でさ、あの人が院長やってるんだ。星が好きだった兄さんは星の仕事がしたかったらしいんだけど、家の後継ぎとして育てられて。去年、耐えられなくなって自殺した」


 透くんは首から下げていた望遠鏡を外して、私の方に向けたレンズを覗く動作をした。


「そんな兄さんを一番近くで見てたから、代わりに後継ぎにされた俺は反発した。星が好き過ぎて星になった兄さんをまた近くで見たいって思ったから、俺は形見を持って天文部に入部した」


 顔の前で望遠鏡を弄る透くんの表情は、見えない。紡がれていく透くんの物語は悲しくて、私も表情を見せないようにそっぽを向く。


「けど、最近おかしいんだ」


 透くんの声が一瞬震えた。


「見上げた空は今までずっと晴れてたのに、最近は曇り空ばかり。今日なんてどしゃ降りだ」


 透くんは、望遠鏡をカーテンの方に向けてその先を見透かす。

 私は強く唇を噛み締めた。透くんの晴れ渡った世界にどしゃ降りの雨を呼んだのは、私だ。


「もしかしたら、兄さんが怒ってるのかもね」


 私のせいだと言いたかった。けれど、そう言って透くんに嫌われることが怖かった。


「お兄さんは怒ってないよ。悲しんでるんだよ」


 でも、こうも思っていた。

 透くんのお兄さんは、透くんの生き方に怒っているんじゃない。居心地のいいはずの家に、側にいて安心できるお母さんを避けて帰れない弟の生き方が悲しいんだ。


「もう寝よう? 上でお兄ちゃん待ってるよ」


 私のお兄ちゃんが透くんのお兄ちゃんになれたらいい。そう思っていたけれど、その願いは崩れ去った。


 雨女の私は透くんの側にいてはいけない。


 密かに芽生えた恋心に蓋をして、私は二階へと駆け上がった。





 平日の今日も学校はあって、私の家に泊まっていた透くんは当然私の隣を歩いていた。

 互いの傘と傘が触れ合う。心なしか、昨日よりも強い雨が降っているような気がした。


「傘も貸してくれてありがとう」


「気にしないで」


 赤い傘で彼の視線を遮る。


「澪?」


 私の行動を不審に思った透くんは、不安げな声を出した。私は雨音で聞こえなかった振りをして、先を急ぐ。


「澪!?」


 透くんの世界が一秒でも早く、一秒でも長く晴れるように。

 透くんが何度も私の名前を呼んでくれるのは、私が生み出した幻聴かもしれない。


 雨女でも、恋愛ができれば辛くないって思ってた。なのに恋することさえも許されない。


 頬を伝う涙を不器用に拭う。雨音がうるさい。声に出して泣いたら掻き消されてしまうだろうか。


「待てって言ってるだろ!」


 腕を強く掴まれた。雨音のせいで上手く拾えない声だけど、言葉はわさる。そのせいか一瞬だけ誰に呼び止められたのかわからなかった。

 マイペースで穏やかな口調ではなく、特定の人にだけ聞かせるキツめの口調。


「……透くん」


 透くんは私を後ろから抱き締めた。背中がじんわりと濡れていく。


「と、透くん?」


 名前を呼ぶと、透くんは体を強ばらせて「ごめん」と小さく謝った。それでも腕は離さない。


「……澪まで俺を置いていかないで」


 肩に重みを感じた。

 雨の匂いに混じって彼の匂いがする。透くんの髪が頬を擽って、私は自分がしたことにようやく気がついた。


「俺があんな話をしたから?」


 お兄さんを探していた透くんの晴れた世界に現れた私。ほんの少しの間だったけれど二人だったのは確かで、今この瞬間に私が去れば透くんはまた一人になってしまう。


「うん」


 透くんの力が抜けたような気がした。仕方がないと諦めたような感じだった。


「透くんのせいじゃないよ。悪いのは雨女の私のせいだから」


 透くんはどんな反応をするんだろう。知りたいような知りたくないような。耳を塞いで逃げてしまいたい。


「雨女?」


 肩から透くんの重みが去って、透くんが雨を見つめる。


「じゃあ、雨が降らなきゃ俺の側にいてくれる?」


 ぎゅっと腕に力が篭った。心臓が跳ねて、蓋をしていた想いが溢れる。


「いたいよ。私だって透くんの側にいたい」


 雨のように涙が零れた。でも、私が透くんが嫌う雨を呼び寄せる。


「だったら側にいてよ」


 そんな優しい言葉は、単純なほどに嬉しかった。

 難しい言葉じゃなくていい。真っ直ぐに届いたらなんでもいい。


「俺、よく兄さんに晴れ男だって言われてた。もし俺が本当に晴れ男なら、これくらいの雨なんてすぐに晴れるから」


 両肩を掴まれて世界が回った。気がつけば目の前に透くんがいて、私の家の傘を地面に落としている。傘を少し上げれば、雨が弱まっていた。


「だから置いていかないで」


 透くんの想いが胸に浸透する。


「俺の側にいてください」


 改めて告げた透くんの、滴っていた雨水が消えた。心なしか気温が上がったような気がする。

 視覚的情報を抜きにしても、私は自分でもびっくりするくらい透くんの言うことが信じられた。


「はい」


 透くんに釣られて敬語で答える。ぎゅっと胸が締めつけられて、私ははにかんだ。


「ありがとう」


 照れ笑いながら、地面に横たわる傘を持ち上げる。


「ごめん、汚れたかも」


「あぁ、大丈夫だよ」


「弁償するね」


「え?! いいよそれくらい! っていうかどこが汚れてるの?!」


 他愛もない会話を続けながら通学路を二人で歩く。

 昨日も同じ道を辿ったのに、気持ちが違うと足取りが軽やかになった。





 二日かけて入部届けを作成し、それを顧問に提出すれば約束の金曜日になる。

 初めて学校に泊まることになった私は、心臓を鳴らしながら屋上への扉を開けた。そこでは透くんが例の望遠鏡を持って茜色の空を見上げていた。


 私に気づいた透くんはわずかに微笑む。隣に立つと透くんが小さな望遠鏡を私に持たせた。


「覗いてみて」


 言われた通りにすると、微かに星が見えた。もしかしたらこの中に透くんのお兄さんがいるのかもしれない。


「昨日あの人と話したんだ」


 目を凝らす私に、透くんは軽い口調で告げた。


「お母さんと?」


「そう。澪には色々話したから、言っておこうと思って」


 そう思ってくれていたことが嬉しくて、色々な言葉が出てきても上手く言えなかった。


「俺が思ってたこと全部言ったけど、理解してくれなかった。けど、天文部にはいていいって」


 屋上の柵に寄りかかって、透くんは空へと手を伸ばす。何かを掴む動作をした後はにかむように彼は笑って、私は透くんの言葉の意味を理解した。


「やった!」


「うん。根本的な解決にはなってないから、これからも話してみるつもり」


 一瞬だけいたずらっぽく笑う。びっくりするくらいマイペースで、星やお兄さんが大好きで、優しくて、時々見せる男らしさが心臓を掴む。


 私は本当に、この人が好きだ。


「透くん」


「ん?」


「あの、私……」


 透くんが言った通り、世界は晴れた。私の雨も、透くんの雨もどこにもない。


 残されたのは恋心だけだ。


「……私、透くんが好き。私と、つき合ってください」


 勇気を出して透くんを見上げる。


「え? 俺らってもうつき合ってるんじゃないの?」


 すると、透くんはびっくりした表情で予想外の台詞を吐いた。


「え?」


 徐々に顔を真っ赤にさせて、透くんは顔を隠す。


「なんで伝わってないんだよ……勘違いとか恥ずかしい……」


 耳も手も、見えている肌は全部赤い。


「え?!」


 私の表情で察したのか、「俺の側にいてって」と目を向ける。

 茜色が沈んだ。広がる紫色に輝く星々。目が慣れるのに数秒かかって


「俺も澪が好きだよ」


 唇に、唇が触れた。




 貴方と一緒なら、どんな雨でもいつか止む。綺麗な青空になる。


 これから訪れる春は――きっと晴れる。

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