普通の医者がいい
俺は心身ともに疲れ切った状態で、送迎の車に乗り込んだ。
俺の疲れを察したようで、じいやが労いの言葉を掛ける。
「坊ちゃま、今日も学業に励まれていたようで、お疲れ様です」
じいやは「お水はいりますか?」と聞くと、俺はそれに弱弱しく頷く。
じいやは、車内の冷蔵庫から冷えた水を取り出すと、それをコップに注いで渡してくれる。
俺は嫌な汗を掻いたので、その分の水分を取り戻すために喉を鳴らして一気に飲み干す。
じいやは俺から空のコップを受け取ると、世間話ぐらいの軽さで質問をしてきた。
「……最近は、いつも帰りの時間が遅いですが、何か夢中になれるものがありましたかな?」
「いや何、最近図書館で面白い本を見つけてな。つい、夢中になって読んでしまったんだ」
掛宮の事を伏せるためとはいえ、少し苦しいか?
「なるほど、お借りになったりはしないのですか?」
「楽しみは少しずつの方がいいだろ?」
「それもそうですな」
それで、じいやは納得してくれたようで、それ以上その話題にはならなかった。
だが、嫌な事とは重なるもので、じいやが思い出したように俺に報告をする。
「そう言えば、今日は榎本様がいらっしゃる日ですよ」
「げっ、そう言えばそうだったな」
うちには、週に一度、秋篠家御用達の医者が来る。
ああ見えて繊細な父は、家族には週一で問診の延長のようなものを受けさせる。
俺は何度か、せめて月一にしないかと提案したのだが、父は頑として譲らなかった。
ただの医者でも、週一での健診はやり過ぎでうんざりするのに、榎本という男は変人の類である。
腕は確かなのだが、何せこの世界で数少ない整形外科をメインとしている奴だ。もちろん、それ以外の腕も超一流なのでうちの御用達なのだが、どれだけ他の科から転科を望まれても整形外科をメインにして譲らない男である。
外科や小児科に行けば、助けた命の数が二桁は変わると言われている。
そもそも、整形しようにも自分の顔の長所と短所がよくわからないのに、誰が顔をいじってもらいたいのだ。
そして、いじったところで実感は皆無だと言う二重の無意味さだ。
客も相当の変人しか来ない。
俺はそんな変人と幼い頃より接してきたおかげで、掛宮や辻とのわけの分からん事態に遭遇しても最低限の取り乱しで済んだのかと思うと、皮肉だけど。
それに、榎本に今日会いたくない理由はもう一つあるのだ。
俺はそのことを思い、深く嘆息する。
「やぁ、いらっしゃい。一週間ぶりだね」
「…………」
俺は冷めた目で榎本を見る。
何故かって? それは榎本が全身に真っ黒なゴスロリを纏ってるからだ。
これが、俺がうんざりする要因の一つだ。
一応、言っておくが彼は男だ。
片目にかかった藍色の髪をゆらし、もう片方の目の下には妖しい泣き黒子、そして明らかに女性でないと分かる肩幅。
ツッキーの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいもんだ。
「あっ、これかい? 中々似合ってるだろ?」
「医者が死を連想させる色を着てくるなよ」
「細かいことは気にするなよ。ただの健診じゃないか」
「目の前にゴスロリ着た男がいることが細かいなら、この世に細かいことはなくなるな」
榎本は「やれやれ」と言って肩をすくませる。
「君もしつこい男だ。いつからの付き合いだい? いい加減慣れてくれよ」
「どれだけ見ても、慣れたくはないものはある」
「そのしつこさはまるで女性のそれだな。そうだ、いっそ女装したらどうかな?」
まるで、名案でも思い付いたように人差し指を立てる。
「……女装なんてするはずがないだろ、一生縁がないことだ」
「いやいや、君程の逸材はなかなかいないと思うんだけどね」
これである、この男は事あるごとに俺を女装仲間に引き入れようとする。
今日のツッキーの周りの反応を見るに、こいつの審美眼もあながち捨てたもんじゃなかったようだがな。
「そんな、おかしな格好してて恥ずかしくないのか?」
この男、残念なことに女装しなければ、そこそこイケメンなのである。
「……周りの目を気にしすぎるのは、君の昔からの悪癖だよ」
痛いところを突かれたと思った。
「普通だろ、世の中、自分の目より他人の目の方が多いんだぞ?」
ならば、どちらが信用できるかなんて決まっている。
俺は熱くなって、ついつい饒舌になる。
「世界の正しさってのは、多数決だろ? 百人の村で九十九人が正しいと言えば同族殺しですら正しくなる」
その意見に榎本はフッと鼻で笑う。
「長い付き合いだと言っただろ? あんまり心にもないことを言うもんじゃない。その内心が勘違いして本当になってしまったらどうするんだ」
こいつのうんざりするところ二つ目は、こうやって相手を見透かしたような発言が多いところだ。
その後も憎まれ口を叩きあいながら、簡単な健診が終わる。
「よし、少し疲れは見えるけど、特に問題はないようだね」
「お前に会ったからだよ」
あと、辻だけどな。
「そうかい? いつも僕と会う時よりさらに疲れえ見えたんだが、帰り道に女装でもしたんじゃないか?」
「……そんなわけないだろ」
俺は全力で隠さなくてはならないと名演技をかました。
冷や汗を垂らしながら榎本の方を見ると、特に何かを感じ取った様子は見られず、普通に話題を変えた。
「そうか、残念だな……あっ、あとこれ僕とおそろいのゴスロリおいてくね」
「頼むから持って帰ってくれ」
こいつのうんざりするところ三つ目は、いつも自分の着てきた女物の服を俺のサイズも持ってきて置いて帰るところだ。
それを見つけては、美鬼が「お兄様、着られないのですか?」とキラキラした目で聞いてくるから困る。
……これ裁判したら勝てるよな?
こうして、いつもの二倍疲れた一日がようやく終わったのだった。