普通に人生の転機ではないかしら
「昨日は、どこに行ってたんだよ?」
掛宮は、仏頂面で鉛筆を動かしながら聞いてくる。一応、用事があるとは言っておいたが、ご機嫌斜めらしい。
「知り合いの部活に顔を出してたんだよ」
「それが、私との用事より大事だってのかよ?」
なんだ、こいつ? 一日こなかっただけで怒り過ぎだろ。彼女? 彼女なのか?
「まぁ、何でもいいか。……もう来ないかと思ったぜ」
掛宮はこちらを向かずに、スケッチブックに目を落としたままだ。
「……俺にとって誇れるものというのは、本当に少ないんだ」
「はっ、御三家様が良く言うぜ」
茶化すように掛宮は笑う。
「お前も御三家なんて何の誇りでもないことがよく分かってると思っていたが」
「…………」
その沈黙は肯定だ。
「何でもいいが、どれでもいいわけじゃないんだよ。自分の中にフッと落ちてくるものじゃないと意味がないんだ」
金持ちの誇りが金とは限らないように、学者の誇りが頭とは限らないように、名家の人間が全員それを誇って生きているかと言えば違う。
贅沢な話かもしれない。
でも、生きてる限り、みな、何か自分だけの支えが欲しいのだ。
他人ではなく、自分を認めさせるための何かが欲しいのだ。
寄る辺、背骨、アイデンティティ。
考えすぎる生き物は厄介だ。自分の存在について考えてしまう。それさえ考えなければ安穏と生きていけるのに。
ポッキリ折れない為の何かを探す。
他の生き物が見ていたら笑うだろうが、俺たちには必要なんだ。
「それが、俺にとっては容姿。お前にとってはその絵だ」
だから、それに気づいてしまった俺は、もう彼女からそれを取り上げるつもりはない。
「まぁ、そうかもな」
掛宮はぶっきらぼうな返事をする。
「ほら、出来たぜ」
掛宮は完成した絵を俺に見せてくる。
相変わらずの酷い顔した男が、そこには描かれていた。
俺は深いため息をつく。
「帰っていいか?」
「私だって、この絵で納得してるわけじゃねぇよ」
掛宮は頬を膨らまし、不満そうな顔をする。
その後、何枚か違うポーズを指定され、描いた絵は結局酷い顔ばかりだった。
学校まで戻る帰り道、少し気になってたことを尋ねた。
「お前、カッコいいと思うタイプの顔どんなだ?」
こいつは、そもそも俺の顔が気に入らないから、こんな酷い絵ばかり描くのではなかろうか?
「少なくとも、お前じゃないな」
掛宮はストレートに傷付く言葉で返す。
「クラスの奴で言うと誰だよ」
「私がクラスメイトの顔と名前を一致させてると思うか?」
「無駄に説得力あるんだよなぁ」
掛宮はニヤニヤしながら俺の顔を覗く。
「なんだ? 惚れたか?」
「それはない。絶対ない。金輪際ない。今後もない。ゴリラあぽっ」
掛宮のボディーブローが腹にめり込み、口から空気が漏れた。
内臓落ちてないよね?
「最後のは完全に悪口だろうが」
フンッと鼻を鳴らすと歩調を早め、俺を置いて先に行ってしまった。
まぁ、俺の自業自得だけどな。
今日も今日とて学校裏の池まで足を運び、俺はモデルをしている。
そろそろ五月も終わりかけようとしていた、そんなある日、掛宮は口から信じられない言葉が飛び出す。
「なんか、男ばっか描くの飽きたな」
絶句である。ただですら、人物画を描いていることを黙ってやって、モデルまでしてやっているのに、言うに事を欠いて飽きただぁ?
「まさか、女の協力者連れてこいとか言うんじゃないだろうな?」
掛宮は悩ましげに腕を組んで唸る。
「う~ん、出来ればこれ以上誰にも知られたくないんだよなぁ。でもなぁ、男ばっか描いても絵が偏るっていうか」
「何、一丁前の画家みたいなこと言ってるんだ、クソ学生が」
そんなこと言うのは、俺を男前に描いてからにして欲しいものである。
しばらく悩んでいると、ポンッと手も平を拳で叩く。
「名案が思いついた!」
「何だ? どうせ、くだらない事だろ」
「いいから、お前は湖の方見てろ。いいか、絶対にこっち向くなよ」
池でも、湖でも何でもいいが、一体何をしようってんだ?
俺は綺麗な水辺で、羽を休めている野鳥に心洗われているところに、後ろからは洗い物を洗濯機に入れる前のような音がする。
つまり衣擦れの音だ。
えっ? まさか、まさかですよ。これは俺が掛宮のヌードデッサンした絵を、さらに掛宮がデッサンするっていう禁断の手法なのでは?
いやいや、いくらなんでもですよ? いくら俺の心がサハラ砂漠より広いと言ってもですよ? よしんば掛宮自身が絵を描くのを許したとしても、秋篠の人間として自分が絵を描いちゃうのは、ちょーっとまずいかな。いやね、ほら秋篠の家に誇りがあるわけではないけどね? 一応、家名を汚すのは心が痛むっていうか、うん、まさにそんな感じなんだけど、けどだ。掛宮が頭を下げて、どうしても描いてくれっていうなら、その限りではないっていうか、その情熱に打たれてあげるっていうか、仕方ないかもしれない。
いや、掛宮パンチ痛いしね? いや、暴力に屈するって話じゃないよ?
あー、仕方ない。論理的、倫理的、哲学的に考えて仕方ない。
わかった。よく、わかった。俺も腹を決めよう。
俺が男らしく腹を決めたところで、掛宮に声を掛けられる。
「ほら、もうこっち向いていいぞ」
俺は期待に胸を、じゃなくて仕方なくげんなりしながら掛宮の方を向く。
……体操服だった。
「防御力が上がっているだと?」
「は? 何言ってるんだよ。早くこれ着ろ」
そういって差し出されたのは、うちの高校の制服だった。
俺は意味が分からないまま受け取る。
まだ、温かい。どうやら、この制服の持ち主はまだ近くにいるようだ。
俺が脳内で探偵ごっこをやっていると、掛宮が恐ろしい提案をしてくる。
「それ、着ろ。よく考えたらお前が女装すれば、一人二役じゃねーか」
は?
「は?」
あまりにも素っ頓狂な提案に、思考と口から出る言葉が同化する。
「いや、いくらなんでも無理がありすぎだろ。普通に体型的に無理だし」
「いや、お前細身だからいけるって、あと胸はこれにタオル詰めるから」
そういって、手渡されたものをまだ温かかった。
そっか、きっと犯人はまだ近くにいるなー。
これは、あれです。ブから始まってジャーで終わるやつだよ。
ブシレンジャーじゃないよ。
「おい、さすがの私もあんまブラじろじろ見られるのは恥ずかしいぜ」
「正常な恥じらいがある奴は、自分の制服を男に着ろなんて迫らん!」
こいつ、いろいろ捨て過ぎじゃないか?
「いや、ウィッグとかないだろ」
「あぁ、それなら」
そういうと、ペンケースから小さめのハサミを取り出すと、頭の後ろに手を回す。
―一閃。
掛宮のベリーショートバージョンの出来上がりー。
「じゃなくて、女の命ー!」
「気にすんなよ、ほら」
そう言うと、掛宮の髪はうねうねと気持ち悪く動いたかと思うと、切る前の長さまで伸びた。
「これが、私の力だな。心臓以外ならどこが無くなっても再生するぞ」
これは、能力と書いて力と読ませる類のものでは?
吸血人が、個々で変わった力を要しているが、これはずば抜けて凄すぎる。
「吸血人やめすぎだろ」
「むしろ極めた結果なんだが?」
これは、兄ちゃん勝てなくても仕方ないね。ご愁傷様。
掛宮は特に気にした様子もなく、自慢げに親指を立てる。
「私は人物画の為ならしょうもないことは気にしない」
「流石に色々気にしろよ!」
その後も、俺は女装を拒み続けた。
しかし、押し問答してる中、恥ずかしくなってきたのか掛宮の顔が赤くなって、ついでにこめかみがピクピクしてくる。
「ここまできたら、もう引けねーんだよ。今すぐ着替えるのと、兄ちゃんを葬った必殺技、灰塵掌を喰らうのどっちがいい?」
彼女の拳に、何かオーラを纏っているように感じるのは気のせいだろうか?
俺の選択肢は消えた。
あのままいけば、確実に掛宮兄と同じ結末を辿っていただろう。兄ちゃん、生きてるんだよな?
父、母、そして美鬼。あなたたちの息子は娘になりました。
悲しいかな、少しきついがサイズが合ってしまう。ウエストも腹を少し引っ込めればギリギリファスナーも上がった。
……なんか、顔だけじゃなくって体型にも自信がなくなってきたな。
「…………」
あまりもの無様さにか、掛宮は声を失っている。
「おい、なんとか言えよ」
その声をガン無視して、掛宮は俺の全身を舐め回すように見る。
「……あれっ、結構可愛くね?」
「なっ、そんなわけないだろ」
おだてようたって、そうはいかない。
「いやいや、女子に置き換えれば、高身長で、垂れたどこか妖艶さを感じる眼に、筋の通った鼻、チャーミングな八重歯、大き過ぎず小さ過ぎない胸、そして、美しい黒髪」
「髪はお前のだよ」
あと、胸もお前の好みで詰めただけだ。
「これはすごい者を生み出してしまったかもしれねー」
掛宮は早速スケッチブックを取り出すと、凄い勢いで描き始めた。
「すげぇ、手が止まらねー」
いつもの俺を描くよりも早いペースで、絵は完成した。
そして、手渡される俺の人物画(女装時)
「……これが俺だと」
明らかに、いつもより気合が入っているのは見逃してやるとして、それを差し引いても美しい。
「私たちはとんでもない美の怪物を生み出しちまったようだな」
「合作みたいに言うのはやめろ」
認めたくはないが、これが本当に俺だとすると綺麗かもしれん。
「よし、今からお前は逸鬼改めツッキーだ」
地味に俺の名前を知っていたんだなと言った嬉しさよりも、設定を作っていっていることに恐怖を感じる。
「おい、細部を固めだすのはもっとやめろ」
その内、俺がツッキーに取って変わられたらどうするんだ。
「まぁ、しばらくそうしてなツッキー」
その後、小一時間ほど描き続けると、ふと手を止めた。
「あっ、やべー。織部のレポートって今日までだっけ?」
「あぁ、今日までだな」
俺は二、三日前に出したが、期限は今日までだった。
「急いで出しにいかねーとやばいな。今日はここで切り上げるか」
掛宮は手早く手元の物を片付けたかと思うと、一目散に校舎の方へ向かっていった。
「先帰ってていいぞー」
その声は山彦のように段々と小さくなっていく。
「仕方のない奴だな」
俺は元の男子の制服に着替えようとして、あることに気が付く。
そう、俺の制服はあいつのトートバッグの中だった。
身体中に戦慄が走る。
嫌な汗が首筋に伝う。
「……まずい、非常にまずい」
手元の時計を見れば、もうかなりいい時間だ。
掛宮が戻ってくる頃には日も暮れるだろう。
なにより、あいつが気が付くと言う保証もない。
どこか抜けたところがあるから、体操服のまんま変える可能性も捨てきれない。
何とか、目立たないように職員室前もしくは下足箱まで行き、掛宮と合流しなくてはならない。
人生で一番のミッションが今日訪れた。