歪んだ普通と変わらない隣人
次の日の朝は、心なしか体が怠かった。
いつも通り、じいやが起こしに来て、髪をとかしてくれる。
「なぁ、じいや」
「何でございましょう?」
「俺ってカッコいいか?」
「それは、勿論でございます。じいやは世界で五本の指に入ると確信しております」
よく考えると、じいやは小さい頃から俺と過ごしている家族同然の存在なので、孫と大して変わらんぐらい評価が甘いのは当然だった。
「それはそうと、じいや」
「何でございましょう?」
「朝、いつもじいやが髪をとかしてくれるのに、なんで俺にはアホ毛があるんだ?」
「…………」
えっ? だんまり?
「……誰から、そのことを」
すごーい、こんなシリアスなじいや見たことない。
「いや、頭触ってたら気付いたんだ」
掛宮の事を出すと面倒くさいし、適当な嘘をついておこう。
「……ついに、私の口からそのことを話す時が来ましたか」
何? そんな真剣な話なの? なんか怖くなってきたな。
「……実は、坊ちゃまのアホ毛は、……私の生涯のライバルなのです」
何を言っているんだ、このじじぃは?
「最初にこいつに出会ったのは、坊ちゃまが三歳の頃でした。初めは少し手ごわい寝癖だなと思った程度でした。でも、しかし、こいつはどうやっても無くならないのです。いや、亡くなると言った方が正しいですかね」
何の話をしているんだろ? 歳かな?
「こっそりワックスやボンド、接着剤を使ってみたこともありました」
後半おかしいよね?
「鋏で切ったこともありました。でも、その日その部分が禿げ上がるだけで、次の日には、また何食わぬ顔で奴がいるのです」
何してくれてるんだ!
「ご主人様、奥様に相談したこともありました。でも『その内、髪質も柔らかくなるからほっとけ』とのことで、お嬢様も『チャーミングだから残しておいて』とのことで」
あっ、やっぱり家族みんな知ってたのね。
「でも、私はそれではあんまりにも坊ちゃまがお可哀想で、日々、奴と死闘を繰り広げていたのです」
「つまり?」
「今日は何と、岩をも砕くと言われているエクスカリバー櫛を使用してみようかと」
しばらく、じいやには休みを上げないといけないと、心に強く誓った。
いつもならなんてことのない登校も、昨日のことがあってから、足が重い。
「はぁ~」
下足箱で溜息をついていると、後ろから聞きなれた声が、俺を見つける。
「どうしたよ、溜息なんてついてさ。男前が台無しだぜ」
「春菊か」
こいつとは、長い付き合いだが、俺のことが本当はどう見えているのだろう?
「なぁ、春菊」
「ん? なんだ?」
春菊が抜けた声を出す。
「……いや、何でもない」
冷静に考えると「俺ってかっこいいか?」って聞くのってすごい恥ずかしいな。
いや、あの人物画を見る前だったら、もしかしたら厚顔無恥にも聞けたかもしれないな。
「おいおい、歯切れが悪いぞ。らしくない」
もしも、俺の容姿が掛宮の昨日の絵の通りとしよう。それなのに、俺がカッコいいと今までで持ち上げられていた理由はなんだ?
そう、秋篠の家の力だろう。
別にそれはいい。
仕方のないことだ。
俺がみんなの立場でも、同じことをしてたかもしれない。
でも、エスカレーター式のこの学校では小学校からの付き合いの者も多い。
例えば、目の前の春菊。
長い付き合いだ。
こんな奴らまで、今まで俺と心のどこか距離をとって、おべっかを使っていたなんて思うと、一抹の寂しさを覚える。
教室までの春菊との会話は、どこかぎこちないものになってしまった。
「……おはよう」「はよーッス」
どこか朝の挨拶にも力が入らない。
「秋篠君、おはよ~」「秋篠、はよー。今日もかっこいいな」「オッス、秋篠。相変わらずイケメンだな」「おはよう。朝からオーラ放ってるね」
そんな俺にも、クラスのみんなはいつも通りの明るい挨拶をしてくれた。
でも、どこか空々しく感じてしまう。
俺は、窓側の一番後ろの席に目をやった。
そこは、掛宮の席だ。
教室内での彼女は、いつも通りの触れるなオーラを放って、俺には一瞥もくれない。
あいつが人物画を書いてるのを見つけた時、かなり頭を悩ませた。
しかし、そこから更なる悩みを作ってくれるとは忌々しい奴だ。
俺は掛宮の方を、忌々し気に睨みながら、自分の机に通学鞄を置く。
「おはよう、秋篠君」
隣の席から橘が挨拶をしてくれる。
「あぁ、おはよう」
「ん? なんだか元気ないね?」
俺の小さな異変に気が付いたのか、橘が心配そうな声で聞いてくる。
「そうかな? 気のせいじゃない?」
心配を掛けまいと強がっては見たが、その声は弱弱しかったかもしれない。
「後輩たちも秋篠君と遊びたがってるし、今日の放課後どう?」
この間は、掛宮のことで頭がいっぱいだったので、誘いを断ってしまったが、気分が落ち込んでる時に将棋はいい気分転換かもしれないな。
「そうだね、今日の放課後お邪魔しようかな」
そう言うと、橘の顔はパァァと明るくなり嬉しそうに手を合わせた。
「本当? 約束だよ?」
その顔を見て気付いたのだが、もしかして元気がないのは橘もだったかもしれない。
「アッキー先輩、いらっしゃい! よく来てくれました」
将棋部の部室に入ると、元気いっぱいに一学年後輩の田中 金次が出迎えてくれる。
「……超絶お待ちしてました。ささっ、早く中へ」
控えめな口調ながらも、俺の袖を引き部室へ招くのは、これまた一学年後輩の早川 銀子だ。
それに加え、俺の後ろに立っている橘で将棋部の全メンバーだったりする。
まぁ、太古の人間の遊戯、それも一部だけを研究するマニアックな部なので仕方ないと言えば仕方ないが。
それも、将棋とは盤を挟み、一対一で、それも一試合がそれなりに時間を使う遊戯なので、三人しかいない状態では必然的に一人余ってしまって退屈になる。
だから、俺がいると余りが出なくなるので、必然的にこの後輩たちからは引っ張りだこになる。
「アッキー先輩、今日は新戦術を編み出してきてるんです。明日からはアッキー全敗と呼ばしてもらいますよ」
「いつも全敗してるのは、お前だろ、田中後輩改め田中全敗」
ちなみに俺は両後輩には負けたことがなかったりする。
後輩たちは正部員の自分たちが勝てないのが悔しいようだが、こちらとしては一年の時の橘がこの部を発足した当初より、ちょくちょく相手をしていた身だ。
始めたのは後輩たちより速いのに、負けるわけにはいかないというプライドがある。
更に、ちなみになんだが、橘と俺の戦績は俺が十回やって一、二回勝てるかどうかだ。はっきり言って格が違う。
将棋盤という正方形の全八十一マスの板の上に、互いの駒を並べる。全八種類の駒があり、それぞれ性能が違う。その性能差を生かして、互いに一ターンに一度ずつ駒を動かしあい、王と書かれた大将駒を倒す。
人間が考えたにしては割と奥深い遊戯だ。
最初は、俺対田中後輩 橘対早川後輩となった。
「いきますよー」
田中後輩は、飛車という最も移動範囲の広い駒を中央に動かす、それに対して俺は角という飛車の次に優秀なコマの移動経路を作る。田中後輩は、更に中央に金や銀と言った優秀なコマを集結させ、王様の周りを要塞と化す。
「どうです! 中央に戦力を集めた攻防一体の最強の戦法。名付けて無敵囲い!」
田中後輩はドヤ顔で俺を見ると、もう勝ったと言わんばかりに腕を組み、胸を張る。
俺は、その無敵囲いとやらを一瞥すると、溜息をもらす。
「はぁ、田中全敗。その囲いには決定的な弱点がある」
俺は、ひょいっと王を左に逃がす。
「まず、上下左右と機動力のある飛車の上下左右を囲んでしまうやつがあるか。俺が王を逃がしても、それじゃ追ってこれんだろ」
「なっ、なにぃ」
田中後輩は大袈裟なリアクションで自分の戦法の穴に驚く。
俺は、次に飛車や角で、田中後輩の左右に配置された駒をとっていく。
「さらに言えば、中央に戦力を集結させ過ぎたせいで、左右が薄い」
「ばっ、馬鹿なぁー」
田中後輩はまたもや大袈裟に頭を抱える。
「お前の一点突破したがるのは悪いとは言わんが、もうちょいバランスを考えろ」
と、話してるうちに俺の兵士たちが田中後輩の王を捉える。
「中々やるな。だが、俺を倒したとて、いずれ第二、第三の俺が現れるぞ」
「……何体来ようと、お前は全敗なんだが、田中全敗」
なんで、俺がちょっと苦しめられたみたいに言ってんだよ。
俺が呆れていると、隣から声を掛けられる。
「どうやら、超絶に速攻で負けた様ですね。田中」
そこには、ムンっと鼻息を荒くした早川後輩がいた。
「超絶頂上決戦といきましょうか。アッキー先輩」
「……勝ったの、私だよね? 銀ちゃん」
勝者の風格を纏っていた早川後輩に、橘は困惑気味だった。
なお、その問いかけを華麗にスルーして早川後輩は続ける。
「お見せしましょう、アッキー不戦敗。橘先輩を苦しめた私の超絶奥義を」
「なんで、俺戦わずにして負けてるんだよ。て言うか、負けたんだよな? その奥義?」
「細かいことはいいのです、アッキーミートパイ」
「なんで俺は調理されてるんだ」
早川後輩は胸を親指で指しながら、普段無表情気味の癖に煽り顔をする。
「超絶細かい男ですね。なんでも、いいでしょう。それとも自信がないのですか? なんなら私が負けたら早川後輩改め早川ぺちゃぱいと超絶呼んでもいいですよ」
「逆に何でこいつは、今負けたばかりの戦法でここまで自信があるんだ」
早川後輩は胸に指を突き立てるが、その指は沈まない。……沈まないんだ。
仕方なく、その自信を確かめてやろうと俺は移動する。
「さぁ、見晒すのですよ」
俺は、早川後輩のあまりもの自信に、息を呑む。
「ちぇい」
可愛らしい掛け声とともに、早川後輩は王を右に逃がす。
「ちぇい」
また、逃がす。
「ちぇい」
また、逃がす。
「あっ」
逃がすのに、必死になっているところで、ガラガラの部分に俺の角が炸裂する。
「うー」
それでも諦めずに、何か金や銀をかき集めて何か作っている。
「でっ、出来た。美しい金銀の菱形に守られた囲い、名付けてダイヤモンド美濃囲い!」
「おー、おめでとう。でも、逆サイドのお前の駒全部なくなったぞ」
「……ダイヤモンド美濃囲い」
「聞いたよ。正直田中全敗よりひどいよ、何かカッコいいのは分かるが、相手の攻撃も受けながら作ろうな」
その後、削った戦力を投入して俺の勝ちとなった。
「中々手こずらせてくれましたが、超絶面白かったですよ、アッキー酸っぱい」
「なんで、俺の味を知ってるかは知らないが、ちょっと勝った雰囲気出すの止めろ」
なんだ? アッキーミートパイは酸っぱいのか?
いよいよ、真の頂上決戦だ。
隣では、田中全敗がうなだれている。
「さぁ、秋篠君。私の『藤井システム』の餌食になる時間だよ」
柔らかな笑顔は教室と何ら変わらないが、将棋を指しているときのそれは、相手が勝手にプレッシャーを感じてしまうのだ。
「どっから来たんだ、藤井は」
「そう言えば、なんでかな? きっと神の思召しだよ」
橘はよく新戦法を考えては『早石田』とか『塚田スペシャル』『阿久津流急戦矢倉』みたいに謎の名前を付けることがよくある。
全部、神の思召しらしい。
俺と橘の試合は、熱戦を要した。
正直、ここまで橘に食らい付いていけた記憶はあまりない。
ならば、少し欲が出る。俺は蜘蛛の糸ほどの僅かな勝機を見出し、そこに渾身の一手を打つ。
「ここだ!」
その一手を見て、先ほどまでサクサクと指していた橘を逡巡させる。
そして、手に持っていた駒を置く。
「参りました」
橘はぺこりと頭を下げた。
「勝った?」
「そうだよ。橘先輩ならぬ橘完敗だよ」
橘は自分で言ったギャグに、ちょっと顔を赤くしてはにかむ。
部活が終わり、橘が部室の鍵を閉めているとこちらを見ずに話しかけてくる。
「元気出た?」
「……だから、気のせいだって」
「何かあったんでしょ? 伊達に隣の席はしちゃいないよ」
……隣の席するってなんだよ。
「まぁ、アイデンティティの崩壊的な?」
俺は照れくさくて、指で頬を掻いた。
「ふっふっ、なにそれ」
橘は鍵を閉めると、こちらに向き直る。
「秋篠君はどんなになっても秋篠君だよ」
そういって微笑んだ橘は、陳腐な言葉だが、世界一綺麗に見えた。