それが普通の現実です
次の日も俺は、同じ時間に同じ場所へ行った。
「よう、誰にも言ってないだろうな」
そこには、昨日と同じように、スケッチブックに人物画を描いている掛宮がいた。
「言ってないが、お前をとめに来た」
「昨日のを見ても?」
掛宮はニヤリと笑う。俺は視線を昨日の何の罪もないえぐられた地面を見る。
「大体、なんで、そんな物騒なこと始めたんだよ」
「えー、何でだったかな。私の本能が描けって言ったんだよ」
どんな本能だよ。「血を吸え」とかなら分かるけど。
俺がジト目で睨むと、彼女はポツリと溢した。
「……いつか、私は私を描きたい」
彼女の声色が真剣なものに変わる。こっちが本当の理由なんだろう。
「昔、蔵で人間の人物画を見たんだ。その後、その絵はすぐに処分されちまったが、私は、私たちより圧倒的に弱いはずの人間に圧倒された。
その絵の中の人間は、私より、凛々しく、美しく、生命力にあふれていた。
私は、生まれて初めて誰かに敗北したよ」
「才女様は完璧主義だな」
逆接的に、兄ちゃんは全敗してるのか。ご愁傷様。
「だろ? いつか私の絵が上達して、顔を触っただけでそっくりな絵を描けるようになったら、私は私を描いて、あの絵の女には負けてないって証明するんだ」
今気付いたが、ここでの掛宮はよく笑う。
その姿を見るだけで、人間の女になんて負けているとは思えないが、これは彼女自身の問題なのだろう。
周りの言葉は関係ない。自分自身との戦いなのだろう。
「いつか、その絵を世界に発表すれば、人物画も悪くないってなるさ」
完全なる自己で、周りの意見さえも捻じ曲げる。
それは、今の世にはない考え方だった。
次の日の放課後。
「秋篠君、今日、放課後暇? 久々に将棋部に遊びに来ない? 後輩たちも、寂しがってたし」
橘が部活に遊びに来るお誘いをしてくれたのだが、視界の端で掛宮が教室から出ていくのが見えてしまった。
「悪い、橘。また、今度な」
次の日の放課後。
「逸鬼―、今日サッカー部休みなんだけど、放課後どっかよってかねぇ?」
春菊が、珍しく部活が休みで、遊びに誘ってくれたのだが、視界の端のそそくさと教室から出ていくのを目にしてしまった。
「悪い、春菊。今日はちょっと用事がある」
次の日の放課後。
「秋篠、今日バスケ部の助っ人に来てくれないか?」
桜木が ―以下略―
次の日の放課後。
「秋篠君、ちょっと今日の放課後、こないだの薔薇を見に来ない?」
辻が ―以下略―
「お前、最近皆勤賞だな。いい加減、説得は諦めろよ」
掛宮が少しうんざりしたような声を出す。
「暇なんだ。別にいいだろ」
と言いながらも、もうこいつに何を言っても無駄だということは十分に分かったので、俺はただ単に絵を見に来ているだけになった。
「まぁ、ばらさないんなら、何でもいいけどよ。あっ、もしかして、私の人物画が上手すぎて、ファンになっちゃった?」
「いや、他の奴の作品を見たことないから、上手いかどうかが分からん」
「なんだ、つまんないな」
心底つまらなそうに俺を見ると、一瞬何かを思いついたように神妙な顔になった。
そして、俺のことをジロジロと見回すと、予想外のことを口にする。
「ばれたついでだ、お前、絵のモデルになれよ」
「……は?」
こいつは、本当に何言ってるんだ?
「なんで、俺がそんな屈辱的なことをしなくてはならないんだ?」
掛宮は「そんなこともわからないのか、こいつ」みたいな顔をして、好き勝手なことをぬかす。
「いや、だからついでだって、私もモデルなしだと、いまいち上達してる実感が湧きにくくってさ」
「……お前だって、吸血人が吸血人に絵を描かれるなんて、どの位の屈辱か知らないわけじゃないだろ?」
「……お前、いつまでそんなつまらない常識に囚われてるんだよ? 心配すんな、いずれ私が変えてやるよ」
掛宮は、教室にいる時では、考えられないような屈託のない笑みを溢した。
「いや、しかし」
その笑顔に納得させられそうになるが、そういった問題か?
「なら、お前は知りたくないのかよ。お前自身の顔を」
それを聞いて、俺は黙ってしまった。
それは、俺が長年知りたかったことだ。
でも、吸血人として生まれたからには、知らずに生きていくしかないと思っていた。
だからって、こんな方法で、知るなんて許されるのか?
自分の欲求の為に、ルールを犯すのは誰だって知ってる禁忌だろ。
「描いてて思ったよ。これは悪いもんじゃない。それに、誰に、迷惑かけるわけじゃねぇ。私とお前の問題だろ」
「俺も、お前も、家の名に傷がつくだろ」
掛宮は小さく口角を上げ笑う。
「意外だな、お前はそんなこと気にしてるタイプじゃないと思ったが?」
掛宮は続けて「もちろん、私は気にしてないぜ」と言った。
「俺だって、そこまで気にしてはいない。だが、家名が傷付くことで、迷惑を掛ける家族がいるだろう」
俺は、何一つ間違ったことは言ってない。そのことには自信がある。
「おうおう、カッコいいね。でも、顔色見りゃ分かるぜ? お前、自分の顔を見てみたいんだろ?」
意外にも、この女の観察眼は鋭い。
「気にするなよ。そのうち私が、こんなしょうもない常識をひっくり返してやるよ」
スケッチブック片手に仁王立ちする彼女の顔には、自信があふれだしていた。
「常識なんてもんは、誰か最初に作った奴がいるんだ。空気、雰囲気を作り、流れを作り、その内明確なルールを作る。
駄目なことだから、しちゃいけないと言われてるからしないんじゃ、理由としてはあまりにお粗末すぎるぜ。
脳みそあるなら、考えろ。何がいけない? どうしていけない? 私は、それを考えた末に、これが悪い事なんて思えなかった。
今やってることを正当化するつもりはねぇ。だが、いずれ正当化して見せる。
私の腕でな」
彼女は、拳で自身の胸を叩く。
「……」
俺は考えた。
何故、同族を描くことが禁止になったんだろう?
色々聞いたことがある。
鏡、水面、金属、カメラ、何にだって俺たちの姿は映らない。それが、吸血人のあるべき姿で、俺たちは己を正確に知る術はないのだと。
そんな生き物なのだと。
絵は、真実を歪める。
正確に伝えることができない必ず描く者の主観が入る。悪意を持って描けば、醜くなり、好意を持って描けば美化されてしまう。
とどのつまり、正確ではない。
そんなものに、意味などない。期待を持たせた分、悪なのだと。
この世は、この世界はその理屈を受け入れた。
ならば、この世界で生きる俺たちは、それを受け入れる必要があるのではないか?
でも、彼女は言った。
三度も言った。
変えると、ひっくり返すと、正当化させると。
彼女の真っ黒な瞳の中には、ただ漫然と生きているものにはない光がある。
戦っている眼だ。
再度、彼女の眼を見る。
「どうだ? 私と一緒に、世界を驚かせてやらないか?」
四度目だ。
俺は、彼女の眼に騙されてあげることにした。
「よーし、そのままだ。動くなよー」
掛宮が、鉛筆をこちらに立て、片目を閉じ、観察している。
何の意味があるんだ?
「どのくらいかかるんだ?」
「知らん。私だって、モデルを見て描くのは初めてだ。日頃は、クラスの特徴的な奴の顔を覚えて、思い出しながら描いてたからな」
喋りながらも、掛宮の手はすいすいと進んでいく。
俺はしばし無言で完成を待つことにした。
「よし、出来た」
結局、完成まで十分ほどだった。
俺は思ったより早くできるのだなと感心しつつ、心臓はどくどくと今まで聞いたことのないような速さで動いていた。
「ん? 見るか?」
掛宮は何てことなさそうに、俺にスケッチブックを差し出す。
それが、どんなに異常事態か、わかってないのか?
自分の顔を見るのだぞ?
「とっ、当然だ」
俺は震える手を制し、スケッチブックを受け取った。
手に持ったスケッチブックが、今まで持った何よりも重いもののように感じる。
この裏側には、俺がいるのか。
大きく息を吐き、覚悟を決め、勢いよくひっくり返す。
「…………」
「どうだ?」
初めて、誰かから感想がもらえるからか、掛宮はワクワクしてるのが伝わるほど、目を輝かせている。
「…………」
「ん? 何か言えよ」
掛宮が今か今かと、感想を心待ちにしている。
「……描き直せ」
「へ?」
掛宮から気の抜けた声が出る。
「こんな、ブサイク、俺じゃなーい‼」
俺は、俺の顔が書いてあるスケッチブックのページを真っ二つに破り捨てた。
「あー、何すんだよ」
掛宮は、さほど怒って様子ではないが、明らかな不満顔をする。
「これは、誰だ。こんなブサイク生まれて一度も見たことないぞ」
「いやいや、そりゃ自分の顔だから、見たことないだろうな。言っとくけど、私は正確に描いたぞ」
掛宮は、二枚に引き裂かれた紙を拾うと、その中の人物画について解説を始めた。
「まず、この薄っすらとクマのできた不健康な目、次に尖がってる鼻、そして、吸血人の中でもやり過ぎてしょってぐらい出てる八重歯。とどめに、頭の先端から飛び出てるアホ毛。こんだけ、描きやすい特徴があれば、間違うはずないだろ?」
俺は愕然とした。
なら、今、掛宮の手の中にあるあれが、俺?
下手すりゃ、種の性質として美形の多い吸血人の中じゃ、かなり劣等な部類ではないのか?
「……本当に、それが俺のありのままの姿か?」
「だから、そうだって。何、落ち込んでるんだよ?」
掛宮は、俺が落ち込んでる理由がいまいち分からないらしい。
「いいよな、お前は生まれながらの美人だもんな」
「なっ、なんだよ。褒めても何も出ないぞ」
掛宮は褒められたと思ったのか、頭を掻きながら照れる。
「それにしても、モデルがいるとスムーズに描けるな。最近毎日来てたし、お前、部活やってないんだろ? やってないなら、これから放課後毎日ここ来いよ」
「誰が好き好んで、自分のブサイクな姿を毎日見にこにゃならんのだ」
俺はあまりのショックで、膝から崩れ落ちた。
「ま、まぁ、気にすんなよ。うっ、うん。よく見たら、そこまでブサイクじゃないぞ。多分、おそらく? 中の中? 下?」
「お前、今週で一番歯切れが悪いじゃねぇか」
いっつも、歯に衣着せぬ物言いだったのに。
「お前は、あまり興味ないから知らないと思うけど、俺はな、一応、校内有数のイケメンだって風潮があったんだよ」
みんながカッコいいって言うから、信じてそう振る舞ってたのに、明日からどんな顔して学校生活を送ればいいんだよ。
かつて、これほど哀れだったピエロいる?
「周りが言うなら、お前はイケメンなんだよ。うん、そう信じろ」
「うるさい、こんな時だけ優しくするな。多分、みんな俺が御三家だから気を使ってたんんだ」
「私も御三家だけど、そんな事言われたことないぞ?」
「お前は、教室でいつも『触れるな、危険!』みたいなオーラ出してるからな。それに、よくよく考えたらお前や桜木みたいな圧倒的美形は、わざわざ褒めるのも躊躇われるんだよ。どこの世界に、鳥は空飛ぶね、とか犬はワンって鳴くねとかいう奴いるんだよ。周知徹底の事実はわざわざ口にしないんだよ」
「いやー、褒めすぎだろ」
なんで、こいつは自分が褒められているところしか反応しないんだよ。今、問題はそこじゃないからな。
「とにかく、私の絵のクオリティもまだまだだ。そんなに気にするな。今日はちゃんと暖かくして寝ろ。そして、明日ちゃんと学校に来い。そして、放課後はここにきてモデルしろ。なっ?」
世の中には、知らない方がいいこともあるんだなー。
俺は、涙目で敗走した。