普通に見えた世界は
今日も今日とて、いつもの湖前、いつもと違うのは今が昼休みということだけ。
湖面は、夕方とは違った陽の角度の違いから、いつもと違う顔を見せる。
のどかな春の陽気も手伝い、俺は大きなあくびをしてしまう。
「おいおい、気の抜けた顔するなよ、これ以上抜けた顔になられたらさすがに私も苦労するぜ」
急に昼休みに呼び出しておいて、掛宮はあくび一つ許してくれない。
鬼である。まぁ、俺たちの先祖は鬼かもしれないけど。
「体育のあとなんだ、あくびぐらい許せ」
というか、こいつも体育だったんだが、スタミナは無尽蔵なのか?
「まぁ、悪かったよ。今日は放課後、新御三家の方の集まりがあるみたいで、私も顔を出せって言われたんだ」
「ほぉ、旧御三家の人間にばらしても大丈夫な話なんだろうな?」
実は秘密の会合とかで、知ってしまった俺が消されるなんてあったら怖いんだが。
完全に妄想とも言えないラインなのがなお怖い。
「いやいや、完全に自分とこのガキどもの顔見せだよ」
掛宮は顔の前で手を振って、苦笑する。
「そうか、ならいいんだが」
「将来的には、どっちかと私をくっつけたいんだろうな。そっちはそんな感じのことないわけ?」
「特別そんなのは、なかったような気がするな。男は俺一人だから、慎重になってるのかもな」
「そうか、なんにしても昼休みじゃ時間が短すぎて、ツッキーが描けないな」
掛宮が、さも当然のように俺に女装をさせる話をしているので、くぎを刺しておく。
「おい、あれは特別だぞ。もう二度としないからな」
「そんな冷たいこと言うなよ、相棒。こないだ完成したやつ見せてやっただろ? ツッキーは私の技術を格段に上げてくれるんだよ」
確かに、色まで塗られたツッキーの人物画は美しかった。
三日月のような、儚さと、芯の強さを感じさせる幻想的な絵だった。
明らかに筆のノリが違うというやつだろう。俺だって手伝うと決めた以上、出来るだけ力にはなってやりたい。
くっ、でも女装はなー。
ツッキー、なんて憎い女!
「…………週一回だぞ」
「……お前、結構甘いよな」
「なっ、そんなわけないだろ」
月一にすればよかったか?
そういえば、クラスで話すことがほとんどないから、忘れていたが、こいつも同じクラスだよな。
一応聞いてみるか。
「それはそうと、話は変わるんだが、最近クラスの雰囲気おかしくないか?」
掛宮はスケッチブックに目を落としたまま、本当に興味なさげにフッと鼻を鳴らし、逆に質問をしてきた。
「クラスメイトの顔もふんわりとしか覚えてない私に、雰囲気なんて感じ取れると思うか?」
「いや、一応聞いてみただけだ」
だよなー。
本当、我が道を行っているこいつはカッコいい。
掛宮にギリギリまで付き合っていたせいで、昼休みの残り時間が少ないが、トイレだけは済ませたいと、バタバタ近くのトイレに駆け込んだ。
「ふぅ」
トイレを済ませ一安心して、教室に戻ろうと階段の方に向かうと踊り場の方で女子たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。
粘りつくような、陰湿さが見え隠れする、決して気持ちのいい部類の話し方ではない。
「ってか、あいつの顔見た?」「マジで澄ましてる顔、ブスだったよね」「聞いてませんアピールひどいよね」「あー、マジでブスだわー」
誰か容姿批判か。
この世界じゃよくあることだ。
もし、俺たちが鏡に自分の姿を映すことが出来るなら、自分と比べた容姿の優劣がはっきりわかって、こんな無駄口も叩けきずらかっただろうな。
俺は時間もないし、誰かの悪口を盗み聞ぎする趣味はないので、その場から立ち去ろうとした、その時。
「ほんっとブスだよなー
『橘』
ってさぁ」
聞き逃すことの出来ない単語が飛び出した。
俺の足は、思わずその場に縫い付けられた。
俺は、きっと聞き間違いだと自分に言い聞かせ、ゆっくり息を吐き、聞き間違いだったことを祈り、再度耳を澄ませた。
「ってか、前々からあいつ勘違いしてたよね」「それな、なんかノリ悪いし」「橘ってさ、確か部活もなんかわけわからないやつ、やってたよね?」
そこで、その集団から下品な笑いが起こる。
足音を立てずに、ゆっくりと声の方を覗けば、見覚えのある顔ばかり……つまりクラスメイトだ。
伊波 血冷、彼女が中心のグループだ。
伊波はクラスでも中心的な存在で、コバルトブルーのセミロングの髪と涼しげな瞳が特徴的な子だ。
何というか、味方なら頼もしいけど、敵には回したくないといったタイプだ。
いったい、何があったんだろう?
橘はあまり積極的にコミュニケーションをとるタイプではないが、こんなに悪口を叩かれるほど、クラスメイトとの関係が悪化していたとは知らなかった。
これ以上は聞くに堪えられず、俺は教室へ回り道をして戻った。
これが、クラスの違和感の正体だったんだ。
教室に戻り席に着くと、そこにはいつもと変わらない橘がいた。
俺は、どう接していいものかわからず、結局、放課後まで心ここにあらずだった。
授業が終わり、意を決して橘に声をかけようとする。
「なぁ、橘」
俺の声に反応した橘がこちらを向く。
「んっ、何? 秋篠君?」
何と声をかけるのが、正解なんだ? 声をかける前には、いくつか考えていたはずの言葉が全く浮かばなくなっていた。
「……いや、なんかさ最近……」
歯切れの悪い自分にイライラする。
俺は「何かあった?」その言葉がでない。
そんな俺を見て、橘の表情が変わった。
「……ごめん、部活でなきゃだから、もういくね」
そして、そそくさと教室を出て行ってしまった。
……今の表情、悲しげな橘の表情、悟られたんだ、俺が橘の現状に気が付いてしまったことを。
俺は馬鹿だ。気を遣わなきゃいけない相手に気を遣わせるなんて。
何が、いつもと変わらないだ。
皮肉なもので、問題とは正解が出た後に、そこまでに散りばめられたヒントに気が付く。
いつも、先に笑顔で挨拶をしてくれていた橘が、あの日は俺に気が付くのが遅れて、俺から先に声をかけていたじゃないか。
「顔に何かついてる?」その言葉は、俺がたった数分前に辻に使った何かを誤魔化す為の言葉じゃなかったか?
それ以外にも、今になっておかしな点に気が付いていく。
いつだって、俺は何も見えていない。
見えていないんだ。
誰も見ていない、誰かにどう見られるかばかりを考えている。
俺は今日まで、自力で見抜けていたものがいくつある?
掛宮の秘めた情熱を。
桜木のクレバーな計算家ところも。
辻の性癖も。
そして、橘の苦しみも。
全て、耳で聞いて……聞かせてもらって、体験してやっとのことで気が付いた。
亀やナメクジにも劣る圧倒的な遅さだ。
……俺には何も見えてなかった。




