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太った。さすがにその自覚はあった。だが人から、それも交際相手に別れを切り出す理由として挙げられるほどとは思わなかったから、別段痩せようとも運動しようとも思えなかったし、バイト中の賄いをおかわりしたり、なんならつまみ食いしながら働くなんてことを控えようともしなかったのだ。
「私もできれば、体型なんて気にしないで付き合ってたいなって思うよ。でもね、こないだ私に太ったかって聞いてきたでしょ?あれで、自分のことは棚に上げるんだな、デリカシーなさすぎだな、なんかもう無理だなってなったの。」
同じ大学に通う元交際相手はそう言い終えると、僕の目を真っ直ぐに見た。僕は女性経験が豊富なほうではないけれど、それでもこういった会話なんかでは女性側が泣くとか、目を伏せてみるとか、自分こそが被害者であると主張せんばかりに振る舞うものだと思っていたから驚いた。
元交際相手はかつて僕が好きだったように相変わらず毅然としているのとは対照的に、僕はあちこちと視線を旅させていたので、なんだか情けないなぁなんて思いつつも口がひらく。
「なんかもう無理?そんな抽象的な理由よりも、前に飲み会の二次会って言って二人で抜けていったあの先輩と付き合えそうだから、僕とは別れたいって言ってくれた方がすんなり納得できるのに。」
「あんたのそういうところが嫌って言ってるの!」
真っ直ぐ伸びた廊下に響く。そんなに大きな声ではなかったと思うから、もしかしたら周りが静かすぎるのかもしれない。そういうところって、どういうところだろう。後学のために知りたいけれど、思わず口をついて出てしまった言葉のフォローが先だ。
だが視界に入る範囲で人の姿はない。そもそも今は、六限が終わって随分経つ時間だ。皆各々の予定を消化するために帰路についているのだろうから、同窓生がいないのは当然だし、少し興奮状態にある元交際相手を宥める必要はまだないと思い直す。今度はきちんと考えて、言い返す。
「君にはモラルがない。」
「あんたにはデリカシーがない!」
「それはさっきも聞いたよ。ていうか、靴下左右逆じゃない?気になってたんだ。」
ついでに空気も読めないところが嫌、と吐き捨てるように呟いた元交際相手に分かった悪かった別れるよと応えた。そうしたところで、僕はやっと落ち着けた気がした。
例の先輩と元交際相手とのことをお節介な友人から聞いたときは、まあ仕方ない、いつフラれるかなぁと呑気に構えていたつもりだったけれど、やっぱり心のどこかでは、許せないとかどういうことだとか、そういう負の感情が積もっていたのだろうと思う。だがそれも、これで消えるだろう。消えてもらわないと困る。ストレスというものは、時に人の体どころか心をも壊しかねないということを、とっくの昔に教わっているのだ。
「……それで、彼女はなんて?」
いくら心に平穏が戻ってきたことを自己申告しているとはいえ、半日も経たぬくらいの、ほやほやフラれたて男の傷を抉るこの後輩は鬼の子なのではなかろうか。バイト中限定で二つに結んでいる髪はきっといつか立派な角になり、遠目で見てもその視線の先がわかるほど大きなこの目も、眼光鋭く光る鬼の目となるのだ。
「元彼女ね、元。別に何も言ってなかったよ。」
「ふうん?じゃあ元彼女の浮気相手(仮)と元彼女が、わざと先輩にヤキモチ妬かせようとしてたって線はナシですか。」
「ナシですね。ていうかこんな話よりオーダーの話しようよ。」
「オーダーなんてありませんよ。今日、暇ですもん。それよりそれより先輩!下向くと二重顎やばいですよ。また太りました?」
「お前はきっと将来鬼になるんだろうと思っていたが、実はもうすでに人間のフリをした鬼になってるんじゃないか・・・・・・。」




