第2話
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「……あるんだってさ、王者決定戦が」
とあるファミリーレストランの一席で、人間は頬杖をつきながらため息を漏らしていた。
人間の名前は条間すみれ。真里、ツバキ、桜の姉で、四人きょうだいの長女である。
「そのようだな。俺もチラシを見かけた」
すみれの対面で肯定するのは、鋭い目と茶色の髪を持つ男。低い声も相まって、自然と威圧的な印象を与える、そんな容姿だった。
「みんな出るんだって。その話題でめっちゃ盛り上がってたよ」
「皆、とは……ごきょうだいのことか?」
「うん。何かバカ騒ぎしてた」
すみれはもう一度ため息をつく。何をそんなに盛り上がる要素があるのか、あいつらの頭の中というのは分からない。
つまらなそうな顔で窓の外を見やるすみれを、男は険しい目つきで見つめていた。
「……お前は出ないのか」
「? 何が?」
「王者決定戦だ」
その単語に、すみれの眉がピクリと反応する。顔が強張った。
「……出ないよ」
すみれは窓の外を見つめたまま、一言だけ答えた。その声は、寂しそうにも、忌々しそうにも、苛立ったようにも聞こえる不思議なものだった。
「ていうか、何度も言ってるじゃん。私はもう、バトルはしないって」
「なぜ戦闘を避けるんだ」
「……だって怖いんだもん」
「怖いから逃げるのか、お前は」
逃げる。
その三文字は、すみれの心を掻き乱すのに十分だった。
ドン、と重い音が鳴る。テーブルの上に置かれていた二つのグラスが揺れ、中に入っている飲み物が波を立てた。
「逃げてんじゃない!」
叩きつけた拳を震わせながら、店の中だというのも構わずに、すみれは声を荒げた。目の前に座る人物を、思いっきり睨みつけながら。
しかし男は動じなかった。視線一つ逸らさずに、すみれの顔を見つめている。
「大将に何が分かるの!?」
「声を落とせ。店の中だぞ」
「だ……だって……」
不満げな表情を残しながらも、すみれは上げかけていた腰を下ろす。
「……逃げてるんじゃないもん」
「あぁ、俺の言い方が悪かった。すまん、謝る」
謝ると言った割には全然も申し訳なさそうではない男に、しかしすみれは「ううん……いいよ」と応える。はっきりと口にしたわけではないが、それは「許す」ということだった。
「確かにお前は逃げていないな」
すみれに『大将』と呼ばれた男は、そこで言葉を区切ると、
「本当に逃げているなら、王者決定戦の話を俺にするはずがない」
「…………」
「……本当は、戻りたいんじゃないのか」
大将の発した言葉に、すみれは落としていた視線を上げる。その目は、恐怖や驚愕を感じさせるものだった。
信じられないものを見るような目で見つめられた男は、目の前にいる少女を真っ直ぐに見据えながら、
「お前は戦闘に恐怖心を抱いているのだろう? なら、なぜ王者決定戦の話など切り出したんだ。それも、電話でもメールでもなく、直接呼び出したりして」
「それは……」
「こんなことを言うのは何だが……、誘いに来たんじゃないのか。俺に、『一緒に戦ってくれ』と」
「…………」
すみれは何も言えない。
確かに、大将の言う通りだ。自分はもう戦わない。バトルはしない。そう決めたのだ。
にも関わらず、戦闘の塊である王者決定戦の話を、わざわざ大将を呼び出してまで口にした。
いや、しかし。それはあいつらの話に触発されて、『一緒に戦いたい』人物に顔を見せたくなっただけだ。少し話をして、たまたま話題に上がっていた王者決定戦の話をして、それですぐに別れる、それだけが目的のはずだ。
決して、戦いの場に足を戻すつもりで来たわけではない。
「…………」
「即答しないということは、心当たりがあるのだな」
「っ……! ち、ちが……!」
「違う? なら、なぜすぐにそう言わなかったんだ」
またしても、すみれは黙り込んでしまう。完全に大将の術中にはまっている気がする。
大将はきっと、自分にまたバトルをさせたいのだ。それは大将なりの優しさで、自分のことを思っての考えなのだろう。
確かに、この国に――いや、この世界に生きる者は皆、戦闘を経験し腕を磨いて生きていく。理由などない。「気付けばみんながそうしていたから、自分もそうする」、それだけのことだ。
そして、それを放棄する者は、周りから白い目で見られる。当たり前のことを当たり前に出来ない、「おかしな人間」として生活しなければならない。
「違う、よ……」
それでも、すみれは、あんな場所にはもう戻りたくなかった。
嫌な思いしかしない、羞恥や屈辱や挫折しか味わえない、あんな場所には、二度と戻りたくなかった。
「違う、から。本当の本当に、戦いたくなんて、ない、から」
途切れ途切れにすみれは言う。その声は、とても痛そうだった。
「みんなが話してたから、大将にも話に来ただけ……だから」
「……そうか」
男はそれだけ応えると、腰を上げる。すみれの目が彼を見上げたが、止めるような言葉は彼女の口からは出なかった。
「もしかしたらと思って、言ってみただけだ。お前にその気がないのなら、それでいい」
「…………」
「俺は別に、無理にお前を戦闘の場に引き戻したいわけではないからな」
男につられるように、すみれも席を立つ。レジへと向かう大将の背中を見つめながら、すみれは彼に続いた。
レジの前で財布を取り出した大将を見て、慌ててすみれもバッグの中を探る。しかし、
「俺が払う」
「えっ、でも……」
断ろうとするも、大将が二人分の代金をカルトンに乗せる方が先だった。
出しかけた財布をしまい、「ありがとう」と礼を言う。大将はこちらを見もせずに、「あぁ」と一言発しただけだった。
店の外に出ると、大分涼しくなった風が体を撫でた。もう夏も終わりかと、すみれは何気なく空を見上げる。
「帰るのか」
低い声で問われて隣を見ると、大将がこちらを見下ろしていた。
「うん。なんか、付き合わせちゃってごめんね」
「……気にするな」
「じゃあ、また今度」
「おう」
軽く手を上げて別れを切り出すと、大将は短く答えてすみれに背を向けた。そのまま歩いていく男を見ながら、すみれは息をついた。
大将に言われたことが、頭の中を回り出す。
――本当は、戻りたいんじゃないのか。
――誘いに来たんじゃないのか。俺に、『一緒に戦ってくれ』と。
「(……いや、違う)」
戦いたくなんかない。バトルなんかしたくない。
わざわざ恐怖を植え付けに行く必要など、どこにもない。
「(もう、あんな辛いの……嫌だよ)」
当時のことが思い出されるようで、すみれは奥歯を噛みしめた。胸がざわめくのが分かる。
戦闘の場に立っていないにも関わらず、自分は苦痛を感じている。それほどまでに、今の自分にとって『バトル』とは、自らを苛む行動でしかないのだ。
だから、誰に何と言われようと、もう戦ったりなんかしない。
何か言ってくる相手が、大将だったとしても。
すみれは、そう強く心に言い聞かせた。まるで、芽を覗かせる別の考えを、上から土足で踏み潰すように。
あいつらはまだ、王者決定戦の話をしているのだろうか。そうだとしたらそんな空間にはいたくないが、何も言わずに出てきてから、もう二時間も過ぎている。心配云々ではなく、ただ「どこに行っていたのか」と問い詰められるかもしれない。面倒なので、なるべく早く帰ろう。
男が歩いて行った道とは逆方向に、すみれは歩みを進める。
その顔は、家を出る時よりも暗く沈んでいた。




