四年前の約束
食事を終えると、わたしは拓馬を部屋に連れて行った。父親と母親はにこにこして、奈月はにやついていたが、ここはあえて無視することにした。
拓馬を先に部屋の中に入れると、ドアを閉めた。
「今日の階段でのことだけど」
「大丈夫だった? どこか痛む?」
彼はわたしの顔を覗き込むように尋ねてきた。
「大丈夫だよ。痛くないし。それはいいんだけど、あの話は絶対に人にしないで」
「美月がそう言うなら誰にも言わないよ」
その理由はただ知られたくなかったからだ。
「話ってそれだけ?」
「それだけ」
彼は長い腕を頭の後方に伸ばす。
「残念。てっきり愛の告白でもされるのかと思った」
彼の言葉をすぐに理解し、顔が赤くなるの分かった。
「バカなこと言わないでよ」
わたしは顔を背け、頬を膨らませる。
「下に戻ろうか。きっとお母さん達が待っていると思うから」
再びドアを開けようとしたわたしの手が背後からつかまれた。彼の体が辺り、後ろから抱きしめられたかのように錯覚してしまいそうになる。
「俺さ、少しは大人っぽくなった?」
「え?」
「少しくらいは美月の好みに合うようになったかなって」
「好みって、何が?」
「彼氏候補になれそう?」
わたしは拓馬の手をほどき横に動く。拓馬は体をわずかに掲げ、顔を覗きこんできて、壁と拓馬に挟まれるような形になってしまった。
彼と密着しているのも心臓に悪いが、動いただけで状況が悪化しただけのように感じられた。
「そんなの無理。わたしからすると十分子供でしかない」
わたしは拓馬に嘘を吐いた。彼の嘘を疑わなかった時点で彼を年下の幼馴染ではなく、同じ年の男の人として見ていたのだから。
拓馬の手がわたしの頬に触れ、彼とわたしの瞳の距離も一気に縮まった。拓馬と彼を戒めようとしたが、声が上ずりそうになり、言葉が出てこなかった。
わたしが何もいわなかったのをどうとらえたのか分からないが、彼の行動はそれだけで終わらなかった。拓馬の親指がわたしの唇の上をなぞった。その彼の仕草がわたしに四年前の記憶を思い起こさせた。振れているのは唇と手という違いがあったのにも関わらず。
彼はわたしの動揺を見透かしたかのように、いたずらっぽく笑った。
「四年前の約束、覚えている?」
「約束?」
わざとらしく問いかける。彼が口にした年月は先ほどわたしが思い描いた記憶と同じだったのだ。
いつものように学校から帰宅し、宿題をしていると、部屋の扉が前触れもなく開いた。そこにはわたしより少し小柄な男の子の姿があった。彼は目に大粒の涙をためていた。そして、立ち上がったわたしに抱きついてきたのだ。
「美月ちゃん」
わたしはわたしの体にしがみついている少年をそっと抱き寄せた。
「どうかしたの?」
「僕、引っ越すことになったんだ」
わたしはその話を母親からすでに聞いていた。父親の仕事の関係で引越しをしないといけなくなったと。引越し先は父親の地元だから、そこで家を買おうかという話も出ていて、おそらくここに戻ってくることはないだろう、という話だ。
「お母さんから聞いた」
「僕、行きたくない」
「でもそんなの無理だよ」
わたしは拓馬の頭を撫でていた。
このときの拓馬はわがままなところがあったが、わたしによくなついてくれる可愛い幼馴染以外での何者でもなかったのだ。
彼から好きだと言われても、子供の言うことだと軽く流してしまっていた。
「美月ちゃんに会えなくなるのが寂しい」
「また会えるよ。遊びにきたらいいよ。わたしはいつでも待っているから」
わたしは弟のような可愛い幼馴染をなだめるためにそう告げたのだ。
拓馬はわたしの腕の中でもぞもぞと体を動かすと、顔を上げた。そして、上目遣いにわたしを見る。
「本当に?」
「本当に」
「ありがとう」
そのとき、わたしの唇に何かが触れた。視界に入ってきたのは茶色の髪の毛とまだ成長する前の小柄な体。わたしには突然の状況が理解できずに、彼の髪の毛が遠ざかっていくのをただ見守っていた。
唇を離した拓馬はさっきまで泣いていたのが嘘のような目でわたしを見ていた。
「戻ってきたら僕と結婚してね。だからそれまで待っていてね」
そう言い残して彼は引っ越していったのだ。
好きなことは好きだったと思う。だが、それは幼馴染や弟という存在として。今の年になればその言葉はあまりにも重い。
そのとき、頬に何かが触れた。それが拓馬の唇だと視界に映る黒髪を見て気づく。
「拓馬」
「何?」
わたしの頬から唇を離した彼は笑顔を浮かべる。
「今、キス」
「さすがに口にすると怒られそうだから、その代わり。あの時と俺の気持ちは全く変わってないから、覚悟しといてね」
口調は優しいものだった。だが、言葉の中身は驚くほど強気のものだった。まるで、夕方のわたしの心の戸惑いをすべて読んでいるのではないかと思うほどだ。
さっきとは比べ物にならないほど、体が熱を持っていた。
「拓馬のこと好きって言ったけど、それはそういう好きじゃないの」
「知っている。でも、美月に好きだと言わせてみせるよ。近いうちにね」
そう拓馬は四年前を思い起こさせるような笑顔を浮かべていた。
わたしはため息を吐いた。
「今日は変なことばっかり」
「変なこと?」
「友達が言っていたんだ。わたしが一年で人気のある子と付き合っているという噂があるんだってさ」
「へえ。で、誰? 付き合っているの?」
拓馬はわたしに腕をつかまれたまま顔を寄せてきたのだ。
「噂だよ。わたしはその相手のことを知らないんだもん」
「美月はその噂をなくしたいんだよな?」
「まあね。知らない人だもの」
「だったら、明日俺と一緒に学校行かない? そんな噂、なくなると思うよ」
「そんなものかな」
わたしはいまいちぴんとこなかったが、よくわからない第三者とのうわさを流され続けるよりはいいと思い、拓馬の言葉に頷いたのだ。
その後、拓馬を玄関まで送ることにした。玄関先まで送ろうとすると、それを拓馬が制していた。
「危ないからここでいいよ。また明日ね」
そんな今までにない優しさを向けられて、くすぐったいような気分になってきた。扉が閉まるのを確認すると、履いていた靴を脱ぐ。そのとき、リビングの扉が開き、奈月が出てきた。そして目が合う。
「よかった。相変わらず二人が仲よさそうで」
「仲いいって」
悪くはないが、そんなに仲がいいかといわれると、よく分からなくなる。拓馬に対して動揺していたことをからかわれるのではないかと身構えたときだった。
「わたし、困ってたんだよね。お兄ちゃんとつきあっているって噂を流されて。だから、周囲の人にお兄ちゃんの好きなのはおねえちゃんだって伝えておいたんだ」
その言葉で佳代の言っていた噂の真相を知る。
「これからお兄ちゃんと仲良くしてね。二度とわたしがとばっちりを受けないように」
奈月はそう天使のような笑顔で口にした。