男の人になった手
部屋の中には紅茶の甘味のある、ほのかな香りが漂っている。
横を見ると、先ほど見とれていた姿がある。彼は子供っぽさなどないような落ち着いた笑顔を浮かべ、紅茶を口に運んでいた。
正面には奈月が座り、その隣には髪の毛を肩の辺りまで伸ばした女性の姿があった。彼女はわたしの母親だ。優しい光を放つ目元に血色のよいふっくらとした赤い唇。今は年よりもずいぶんと若く見えるが、昔は実年齢よりもかなり上に見られていたと父親から聞いた。その顔立ちは隣で涼しい顔をしている少女によく似ていた。
母親はカップから口を離すと、息を吐く。そして、首をわずかに傾けて目を細める。
「本当に久しぶりよね」
「四年ぶりですね」
拓馬は何を聞かれるか分かっていたのか、すぐに返事を返していた。
その落ち着いた態度はわたしの知る「少年」だった彼のものとは異なっていた。今日、彼に見とれていたことが不意に脳裏に横切る。それを振り払うために、手元にある紅茶を口に寄せ、彼から目をそらす。口と鼻から先ほどと同じ甘い香りが入ってくる。その匂いをかぎ、何度も自分の心を取り戻そうとしていた。
だが、時折、母親の声に混じるように、低い声が耳の奥をくすぐってきた。
奈月は涼しい顔でそんな二人の事の成り行きを見守っているようだった。奈月は家でも学校でも話をするほうではない。家に帰ると自分の部屋に閉じこもり、ごはんと夕食のときしか出てこない。そんな彼女ゆっくりリビングにとどまっていることがいつもとは明らかに違っていた。拓馬と一緒にいたいからと考えられなくもないが、彼女の性格を考えると否定せざるおえない。
紅茶を飲んでいた彼女の髪がふわりと揺れる。彼女はわたしと目があうと、目を細めた。田中君や佳代を始めとし、夏樹に憧れる生徒が見ると喜びそうな表情だ。そんな彼女は可愛いとは思う。だが、彼女のああいう性格を知っているからか、逆に不気味だ。
「拓馬君はごはんを食べていくんでしょう」
ごはん?
その言葉に拓馬を見る。相変わらず明るい笑顔を浮かべている拓馬を思わずじっと見る。
「いえ、その前に失礼しますよ」
「いいじゃない。久々なんだから。あの人も拓馬君に会いたがっていると思うから」
母親の言うあの人とはわたしの父親のことだった。幼馴染の拓馬はわたしの両親のどちらとも面識がある。
「じゃあ言葉に甘えて」
少し困ったような笑顔を浮かべているが、わたしの母親はもちろんそんなことを気にするそぶりもない。
「でも、本当に大きくなったわね」
母親は拓馬を見て、目を細める。
拓馬はそんな母親の言葉に目を細めていた。
「そうだよね。お姉ちゃんが見とれていた気持ちも分かるくらいだもん」
奈月はそういうと、目を細めて微笑んでいた。
「奈月」
彼女の言葉に顔が赤くなるのが分かった。その言葉を戒めるために強い口調で言い放つ。
「だって、今日、わたしが拓馬を迎えに行ったときには二人で見つめあっていていい雰囲気だったし」
彼女は表情ひとつ変えずに涼しげな笑顔を浮かべている。
「そんなに誤解を招くような言い方はしないでください」
「誤解かな?」
わざとらしいほどよそよそしい言葉に、笑顔で微笑んでいた。奈月は途中からわたしと拓馬のやり取りを見ていて、あのタイミングで声をかけてきたのだろう。
「誤解です」
拓馬のことをかっこいいとは思った。誰だって、かっこいい人にボーっとなったりはする。その一種でしかないと思う。
絶対奈月はわたしの反応を見て楽しんでいる。彼女は昔から拓馬と一緒だと、やけに生き生きしてきて、わたしをからかってくる。拓馬も拓馬で奈月とは気が合うのか、わたしを省けは二人で一緒にいることは多かった。
わたしはため息を吐きたくなった。
「拓馬君は優しくてかっこいいからね」
母親は笑顔でそう言ってきた。
「そんなことないですよ」と否定しているのは当然拓馬。
だが、間違いなく拓馬は自分がかっこいいと自覚しているはずだ。
そうでないとあんな行動をとらないだろう。
わたしがここにい続けるのは奈月や拓馬が母親に余計なことを吹き込まないか監視したかったため。
母親に言えばそれは当然父親に伝わる。母親の脳内で彼女にとって都合のいいように何倍も事実を捻じ曲げられて。
母親は昔から拓馬が気に入っていて、わたしと拓馬がつきあってくれたらいいと思っているようだった。それはわたしの父親も同じだ。拓馬を実の息子のように可愛がり、引っ越してた拓馬の父親からたまに連絡があると、わたしに拓馬の話を聞かせてくるくらいだからだ。
普通、娘に恋人ができると親があれこれ言ってくると聞くが、拓馬とつきあったとしたら、両親に歓迎されるだろう。
「大丈夫? 顔が引きつっているけど」
拓馬は笑顔でわたしに問いかけてきた。
もし顔が本当に引きつっているなら誰のせいか分かっているのだろうか。
「あら、大丈夫? まだ体調が悪いの?」
鈍い母親はこの針のムシロ状態に気づいていない。
「大丈夫だよ」
わたしにはそれしか言えない。
わたしの気分を悪くしているのは、この居心地の悪い状況なのに。
そのとき、わたしの視界を何かがさえぎる。そして、額に熱いものが触れた。それが拓馬の手だと気づくのに時間はかからなかった。
熱くて大きな手に想像以上に反応しながら、目をそらす。
「ちょっと、何するのよ」
「熱があるのかなって思って」
彼の瞳がわたしの顔を覗きこんできた。
拓馬だと分かっているのに、大人びた彼の顔立ちはわたしの心臓の鼓動を着実に乱していく。
「大丈夫だから離してよ」
彼の熱い手に戸惑っているのを悟られないように、強い口調で言った。彼の手首を掴む。だが、勢いよく掴んだまではよかったが、そのあとの行動をとることができない。
「分かった」
今まで額に触れていた彼の手が離れ、ほっとする。
だが、一度乱れた鼓動は全身に走るように高鳴っていた。
わたしは顔のほてりを隠すために膝に視線を向けた。
今、奈月を見ることだけはできない。察しのいい彼女がどんな顔をしているかたやすく想像がついた。
「体調悪いなら寝てきたら? 顔が真っ赤よ」
「そうする」
わたしの中でリビングを監視するよりも、今の状況から逃げ出すことが優った。時間がたてば、昔のようにどきどきすることもなくなると思うから。
わたしは誰の顔を見ることなく、リビングを出た。
足を止めると、まだ彼の感触が残っている額に手を伸ばしていた。
わたしが拓馬の手を払いのけることができなかったのは、彼の手が昔とあまりに変わっていたためだ。小学生の、わたしの記憶の中にある拓馬の手よりも大きく、骨っぽくて、ごつごつしていた。その感触は彼が昔とは違うのだということを教えてくれた気がした。