放課後の告白
わたしは人気のなくなった靴箱から、黒の革靴を取り出した。
放課後から今まで何をしていたかといえば、勉強だ。
勉強は家でもできるが、昼休みの見知らぬ生徒がわたしを見てひそひそ話をしていたという嫌な記憶がわたしを足止めしていたのだ。
あの話を聞いただけならよかっただろう。だが、あれで終わりではなかった。職員室に行くまで何人かの生徒とすれ違った。特に一年生と思しき生徒が何人かわたしをなめるように見ていたのだ。
人の噂も七十五日というが、この噂はいつ立ち消えになるのだろう。
革靴を置く音が辺りにぱたりと響いた。それほどもう靴箱には人気がなく、辺りが静寂に包まれていたのだ。靴を履き替えると、上履きを靴箱に戻す。
グランドから掛け声が聞こえる。これはサッカー部の掛け声だろうか。
高校三年の春。もう受験までのカウントダウンは着実に始まっている。わたしはその一年の王子様でもなく、残された高校生活を受験に全力投球したかったのだ。
「本当、何がなんだか」
気を引き締めても、今日一日の記憶がよみがえり、体をしんなりとさせる。
家に帰ってから、奈月に詳しい話を聞いてみよう。
そう思い、昇降口の外に出たとき、背後からわたしの名前を呼ぶ声がした。
「坂木さん」
何気なく振り向くが、そこにたっていた人の姿を見て、思わず目を見開いていた。意味もなく、頭を軽く下げる。階段でわたしをひっぱりあげてくれた人だったのだ。
彼はわたしと目が合ったことに気づいたのか、目を細めると肩をすくめる。この学校に中学生のころから通っていることもあり、顔見知りは多い。だが、彼のことは知らなかった。だからその気持ちを言葉に乗せた。
「わたしの名前、どうして知っているんですか?」
風がゆっくりと流れ、さらっとした彼の髪の毛を撫でていく。彼はそんな迷い風にかき消されそうなほど小さな声で「ああ」と呻いていた。
「ずっと可愛い人がいるなって思っていて、それで」
詰まった言葉とは対照的に、彼の表情は落ち着いており、戸惑いなどは見られなかった。
まるでセリフを読み上げているような違和感。それは自分よりきれいな人に可愛いと言われたからか、現実味のなさを感じてたのかもしれない。まるで映画のような遠い場所の出来事を見ているかのような感覚だ。
「坂木さん?」
再びわたしを呼ぶ声で我に返る。
「ごめんなさい。それで何でしたっけ?」
口にしてから、さっきの可愛いという言葉を思い出していた。
彼は迷い猫のような目でわたしを見つめる。
その儚げな様子にどきりとする。
「坂木さんは僕のことを知らないよね? 一応同じ学年なんだけど」
自信がなかったのか、言葉を選びながら話しているようだった。
同じ学年だったのか、と彼の言葉に気づかされる。だが、彼の姿を見た記憶はない。名前は知らなくても顔だけは知っているということでもなかった。
外部から入ってきた人はいるが、三年も同じ学校に通っていて気づかないことなんてあるんだろうか。
「ごめんなさい。あの、何組ですか?」
わたしは知らなかったのを認め、彼に問いかけた。
「三年五組。名前は佐藤信一っていうんだけど」
彼は困った表情を崩さずに、言葉をつむぐ。
わたしたちの学年は六組まである。理系クラスで三組で、体育でも、あまりかかわることのない五組の人は他のクラスに比べると面識がない。きっとわたしの記憶漏れの部分に彼がいたのだろう。
「ごめんなさい」
仕方ない面はあるといっても、もうしわけない気分になってきて、素直にわびる。
「人が多いから無理はないよね」
彼は笑顔を浮かべている。
よく笑う、優しそうな人だ。こんな人が同じ学年にいて、うわさにもならなかったのは不思議な気がするが、わたしがその彼に関する話題に気づかなかっただけかもしれない。
でも、そのとき思い出したのは彼の上履きのラインだった。あの色は三年生の青のラインではない。あれは一年生のものだ、と思ったとき、想像以上の言葉が耳に届いた。
「急にこんなことを言って、驚くかもしれないけど、もしよかったらつきあってほしいんだけど」
その言葉を理解するのに数秒を要した。そして、その言葉を理解すると、彼を見た。それまで考えていたことが一気に吹き飛んでしまったような気がした。
彼は相変わらずの優しい笑顔を浮かべている。
誰と誰がつきあうの?
彼の言うことを、真に受けるなら彼とわたし。だが、どう考えてもつりあうわけもない。
そもそもわたしは今の今まで彼の名前を全く知らなかった。
そんな相手と付き合うなんて考えられない。
彼の黒髪が再び風になびく。
高鳴る鼓動と、混乱する頭。それらを落ち着けようとするかのように流れる穏やかな風と淡い日差しを浴びながらも、彼に伝える言葉を見つけ出すことができなかった。
わたしが何も言わないからか、彼が困ったように眉をひそめる。
その表情に胸が痛んだ。
わたしがノーと返事をすると決めたからだろうか。
だめだと一言で断ち切るのか、友達ならというのか。可能性を探れど、一番の言葉は出てこなかった。
何とか気持ちを整え、深呼吸をする。
何を言うかも決めていないのに、言葉を搾り出そうとしたとき、わたしのそんな勇気を一気に吹き飛ばす、淡々とした声が響いてきた。
「こんなところで何をやってるのよ」
振り返ると、そこには長髪の少女が立っていた。その姿を見て、先ほどの言葉が彼女から投げかけられたものであることに気づく。
そのどこか冷めた印象を受ける、わたしと同じ背丈の少女はわたしと彼を見比べていた。その少女の髪の毛は肩の辺りで綺麗に切りそろえられている。紺のブレザーの制服上下。膝丈までのスカート。一見するとわたしの制服と同じように見えるが、厳密には異なっている。制服とはリボンの色が違う。それはこの学校の中等部の制服だった。
「奈月。今日は遅いんだね」
彼女はわたしを一瞥すると、佐藤さんを見ていた。だが、彼女はにこりとも笑おうとしない。彼女のムダに整った顔立ちであまりに無表情だと人形を連想してしまう。
そこまで愛想が悪いわけではないが、今のような無表情なときもある。
「人と約束をしていたから」
無表情を崩さずに淡々と語る。
「誰と?」
奈月の視線は佐藤さんのところで止まったままになっていた。
そんなことより見知らぬ男性のことが気になるのだろう。
とりあえず彼に奈月のことを紹介すべきだろうか。
わたしは苦笑いを浮かべている佐藤さんに話しかけた。
「彼女はわたしの妹なの」
奈月は愛想笑いさえ浮かべない。彼女は最低限の礼儀は忘れない子だった。そんな彼女がまじまじと佐藤さんを見つめているとを注意することにした。
「挨拶くらいしないさい」
彼女はちらっとわたしを見ると、ため息を吐く。
「珍しい組み合わせ。お姉ちゃんに黙っておいてくれって言うから黙ってたけど、仲直りしたんだ。別に喧嘩したってよりおねえちゃんが一方的に怒っていただけなんだろうけどね。それなら待ってなくてもよかったんだ。時間を無駄にした」
彼女の会話のないようについていけずに、奈月を見る。
今の彼女の会話から察すると、奈月と彼が知り合いだというだけではなく、わたしと彼も知り合いということになる。
目の前の彼を見ると、わずかに笑みを浮かべていた。