気付いた気持ち
夏休みになった。だが、完全にオフとはいかない。頬杖をつき、深くため息を吐く。
そして、正面に座っている拓馬に視線を送る。
あれから何か現状が変わったという事はなかった。すぐに夏休みに入る事もあり、細かいことは夏休みに決めようという事になったらしい。だが、少しだけ変わったこともある。
千江美がたまにこの家に遊びに来るようになったのだ。母親も大方事情を知る事になり、彼女が一人では大変だからとお節介をやいたのが発端だ。彼女はわたしに挨拶くらいはしてくれるようになっていた。
ふっとほっぺたがつかまれ、我に返ると拓馬がわたしの顔を覗き込んでいた。
「終わった?」
整った顔で屈託なく笑われ、思わずのけぞる。
「突然何をするのよ」
「ボーっとしていたから、なんとなく」
わたしは拓馬の手をつかみ、わたしの頬から引き離す。
「やめてください」
「気が散るならリビングにいようか?」
彼は困った様子で机の上の本に手を伸ばす。彼が持ってきたのは本当に中身を読んでいるのか疑いたくなるくらい英語でぎっしりと書かれた本だ。
「いいよ。大丈夫」
拓馬のお母さんは来週、またやってくるらしい。彼女の選ぶ選択肢は拓馬と一緒に暮らすか、拓馬のお母さんたちと一緒に暮らすかの二択だ。わたしが気にしても仕方ないことだが、どうしたら彼女にとっての良い結末を迎えるのかが分からなかった。
猫の話は拓馬にもお母さんにも伝えていた。拓馬のお母さんは自分のところで飼っていいと千江美に伝えていた。それも千江美も驚きながらも了承していた。
そのときドアがノックされ、奈月と千江美が顔を覗かせた。
だが、千江美と奈月の姿が先ほどと大きく異なっていた。
「どうしたの? すごくかわいいね」
「おばさんに着せてもらったの」
千江美は後ずさりしながらそう答える。そして、自分の腕をちらっと見る。
奈月は紫のアジサイの浴衣に身をつつみ、千江美は藤の花が描かれた浴衣を着ていた。
「お母さんが買ってきたのよ。面倒だけど着てみた」
彼女は部屋の中を一瞥すると、わたしを見る。
「じゃあ、下の部屋で待ってようよ。今から着るらしいから」
拓馬は奈月の言葉に賛同したのか、下にいると言い残すと本を片手に部屋を出ていく。
そして、わたしだけが部屋に残され、浴衣をじっと見つめる。
「受験でそれどころじゃないのに」
それどころではないが、断りにくい部分はある。
それに新しい浴衣に興味はあった。
奈月程似合うとは思えないが、好奇心を胸に手を伸ばす。
浴衣を体に当てると、それを着る事にした。
リビングに行くと、奈月と拓馬の笑い声が漏れる。
わたしはリビングのドアノブをひねり、ゆっくりあけると顔をのぞかせた。
奈月と拓馬が隣に座り、その正面には千江美が少し物憂げな表情を浮かべている。
浴衣に身を包んだ奈月はとても中学生には見えない。奈月のような容姿をしていたら、ここまで拓馬との関係に引け目を感じる事はなかったかもしれない。
「お姉ちゃんの浴衣も買ってきたんだって。どうせなら今日、着ていけば?」
「行かないよ。そんなの行っている場合じゃないもん」
今日はこの辺りで大きな花火大会が開催される。わたしたち姉妹はあまりそうしたものが好きではないが、母親が専らのお祭り好きでこうしたものには抜け目がない。
「もったいない。拓馬も見てみたいと思うでしょう?」
奈月はいたずらっぽく笑うと自分と色違いのピンクを基調とした浴衣を差し出した。拓馬はその言葉に動揺する素振りもなく、笑顔を浮かべる。
「見たい。きっとめちゃくちゃ似合うよ」
「バカ。何を言っているのよ」
恥ずかしさもあるがそれ以上に、拓馬を好きだと言っていた千江美の前でそんな話をするのは無神経なのではないかと思ったからだ。
奈月の視線がこちらに向く。彼女は拓馬の肩を軽く叩いた。
拓馬は反射的にわたしを見ると、屈託のない笑顔で微笑んだ。
「やっぱり良く似合う」
「だから、そういう事は」
「わたしもそう思いますよ」
突然割り込んできたセリフに戸惑いながら声の主を見つめた。千江美だ。
拓馬はそんな千江美を驚くことなく笑顔で見つめている。
「行くでしょう? 花火」
まるでわたしの心を読んだような奈月の問いかけにわたしは小さくうなずいた。
「一緒に行こうか。一時間くらいならいいよ」
勉強をしていると言っても朝から晩まで勉強をしているわけではない。息抜き替わりと考えれば悪くはないだろう。
夕方を待ってわたしたちは家を出る事にした。奈月と拓馬は他愛ない話で盛り上がり、わたしと千江美が並んで歩く。奈月たちとの距離が大きく開いていた。その距離を縮めようと千江美に言おうとしたとき、千江美がわたしの腕をつかんだ。
「奈月ちゃんに頼んだの。先輩と二人で話をさせてほしいと」
彼女は目を細め、小さくお辞儀した。
「もう気を遣わなくても大丈夫ですよ。わたしはもう拓馬のことを忘れると決めたんです」
そう笑った彼女はどこか大人びて見えた。
「今年いっぱいはここにいると思うけど、来年は多分おばさんの住んでいるところに引っ越そうと思っています。なので拓馬のことをよろしくお願いします」
彼女の決意を聞き驚いていた。だが、それが彼女の下した結論なのだろう。
「分かった」
「そろそろ会場なので合流しましょうか」
千江美の言葉に同意し、歩きかけたとき、誰かとぶつかった。
ハスキーな声が謝りかけて途絶えた。
「坂木先輩とこんなところで会うなんてね」
あからさまに嫌そうな顔をした艶やかな大振りの花がプリントされた浴衣を着た少女たちをどこで見たのか思い出した。以前、拓馬がわたしを好きになったら飽きるのではないかと言っていた人たちだ。もっとも二人はわたしが聞いたことを知っているかは定かではない。
「美月さん?」
千江美が不思議そうに振り返る。
「先に行っていいよ」
わたしはそう答えた。彼女たちの悪意に千江美を巻き込みたくなかったのだ。
「あの子って拓馬君の従兄弟?」
一人がそう顔を曇らせる。
彼女はわたしを見て嘲笑った。
「どうやって丸め込んだのかは分からないけど、拓馬君、この前綺麗な女の子と一緒にいたんだよ。きっと本命なんだろうね」
「本田さん?」
わたしは思わず翔子の名前を口にした。
「さすがに彼女ほどじゃないけど、誰かさんよりはずっと美人だよ。じゃあ、せいぜい楽しんでね」
挑発的な瞳にわたしはびくりと震わせた。
拓馬に友人は多い。わたしの知らない人もきっといるはずだ。
だが、わたしの知らない誰かの存在に戸惑い怯えていた。
だって、彼はあのときわたしにキスをしなかったから。
嫌がっていたはずなのに、いつもと違う行動はわたしを不安にさせた。
きっとわたしの中で拓馬に対して幼馴染以上の感情が芽生えていたから。
「美月?」
腕を掴まれ顔をあげると、拓馬が立っていた。もうあの二人はどこにもいない。
「千江美から美月が知り合いに会ったと聞いて、心配になって見に来たんだ」
「そう。奈月たちのところに行こうか」
そう言ったわたしの手を拓馬が掴んだ。
「奈月と千江美が二人で見て来いってさ」
「でも、二人にするのは」
「美月がそう言うと思って松方先輩もよんでいたみたいだよ。だからね」
わたしは頷いた。
二人が言っていたことは確かに気になる。それでも、わたしは今手をつないでくれている彼が今まで言ってくれた言葉をただ信じたかった。
そのとき、軽い音が上空ではじけ、追うように少し重みのある音が響いた。
空が艶やかに染まった。
わたしも拓馬の手を握り返していた。




