見えているものと、見えていないもの
じめじめとした空気が辺りに満ち、わたしの肌について回る。強い日差しを手で遮りながら、膝の上に広げられたテスト問題をじっと見つめていた。
そこにはマルだけが延々と並んでいる。
わたしはため息交じりにそのテスト問題の下部をつかむ。
「すごいね」
「勉強したから」
拓馬はあっさりとそう答える。
高校一年の内容は中学の延長のような内容がメインとなり、受験勉強をした生徒ならある程度は解ける問題が多い。
だからといって新しい内容もあるし、満点を取るのはそんなにたやすいことではない。
高校から入ってきたということはそれなりにできるんだろうとは思っていたが、それ以上に彼は勉強ができたようだった。
もともと運動神経はよかったので、そちらのほうは特別気にしたことはなかった。
老婆心とでもいうのか拓馬のテストのことが気になり、気になるなら見るかとためらう様子もなく差し出したのがそれだった。
たまにと彼が口にしたように週に二回ほどはこうして一緒にご飯を食べていた。普段は千江美と一緒に食べているようだが、今日のようにわたしを誘ってくれることもあった。
六月も半ばに差し掛かっていた。拓馬から母親の話が出てくることはあまりなかった。
予定は狂うものだし、戻ってきたら母親からそれとなく聞かされるとは思っていたので聞かないようにはしていた。
拓馬と千江美はいつでも一緒だった。拓馬が中学生の親戚と一緒に暮らしているという話はすでに広まっていた。
その噂が耳に届くのとほぼ同時に彼女と奈月が同じクラスだと知り、奈月が一足早く拓馬がこちらに戻ってきたことを知っていたのに納得できた。
「これ、どう思う?」
拓馬が遊園地のチケットを差し出した。
一瞬、拓馬が誘ってくれたのかと期待する。
「こういうのって中学生くらいで行っても楽しかったもの?」
中学生と聞き、恥ずかしい勘違いをしていたことに気づく。千江美のために用意したものだったのだろう。
「本人に聞いてみたら? きっと喜ぶんじゃない?」
「でも、母親との思い出もあるだろうから、行きたくないのかなって思ったんだ。毎年、ここのチケットを母親が親戚からもらうんだよね。で、今年も送ってきたんだけど」
彼女の両親が身勝手な人ということは聞いた。
具体的に何をどうしたのかということはいまだに知らなかった。
何かあるならわざわざつらい記憶のある場所に彼女を連れて行く必要なんてない。新しい場所で別の思い出を作るほうがいいに決まっている。
「お母さんに対してつらい思い出があるなら、控えたほうがいいかもしれないね。他にも遊園地はあるし、そっちのほうがいいのかも。二年くらい前にできたんだ」
「らしいね。前に母親から聞いた。場所が分かるか不安だけど」
「大丈夫。駅を出たらそっち方向に行く人も多いから適当についていけば着くよ」
拓馬は安心したように笑っていた。
身内だからこそ気遣っているのだろう。
それにやきもちなどやいてはいけない。
わたしはテスト用紙を拓馬に返すと、お弁当のふたを開ける。
お弁当の続きを食べることにした。だが、チケットをじっと見つめている拓馬を見て箸の動きを止めた。
「どうかした?」
彼はチケットの角を持ちひらつかせる。
「無駄にするのも悪いし、よかったら一緒に行かない? 来年の春までだから受験終わってからでもいいよ」
すぐには事情を呑み込めずに拓馬を見る。
「嫌なら別に」
「行く」
自分でも驚くほど大きな声でそう口にする。
拓馬は意外そうな顔をしながらも笑っていた。
「そんなに行きたいとは思わなかった。完全に子供向けの遊園地かと思っていたけど」
遊園地に行きたいというわけではなく、拓馬と一緒に出掛けたかったのだ。彼が帰ってきてから二人で遊びに出掛けたことはまだなかった。
「いいじゃない。でも、大学生くらいでも行くと思うよ。小学生のときにそれくらいの人を見たもの」
「そんなものだっけ?」
「遊園地なんてどこでも大差はないからね。近いし、便利だもん」
「なら行こうか」
そのとき、拓馬の携帯が鳴る。一瞬発信者の名前が見え、ドキッとした。そこには千江美と表示されていた。彼は「千江美から」と一言断ると電話をとる。
彼は彼女と言葉を交わし、一瞬顔をひきつらせた。そしてわかったというと電話を切った。
「用事があるから今すぐ来いってさ」
「いいよ。教室には適当に戻るから気にしないで」
彼は残った昼ご飯を食べ終わると、テストなどを鞄の中に入れる。
「悪いな。どうせたいした用事でもなんだろうけど」
わたしが首を横に振ると、彼は校舎のほうに戻っていく。
何度かこういうことがある。彼女は拓馬をいつでも独占していたんだろうか。彼女の行動の節々にそう感じさせるところはあった。
拓馬が最大限に彼女に親切にしてもそこまで求めるのは拓馬の与えるものと、彼女が求めるものが剥離しているからかもしれない。
何気なくふっと天を仰いだとき、思わず体の動きを止める。
二階の校舎から強気な笑みを浮かべている千江美と目があったのだ。
彼女は卑屈な笑みを浮かべると、わたしから遠ざかっていく。
彼女の姿が見えなくなりため息を吐くと、ごはんを食べることにした。わざわざ教室に戻って食べることも面倒に感じたからだ。
最後のミニトマトを口の中に入れると弁当箱のふたをしめ、布の袋に入れた。
鞄の中に入れると、一息つき立ち上がる。
教室に戻ろうと渡り廊下に入った時、足音が聞こえ振り返る。
わたしは思わず声を出す。
顔をひきつらせた千江美が立っていたのだ。彼女の脇には拓馬はいなかった。
「拓馬と一緒じゃなかったの?」
思わず問いかけた言葉に、彼女はわたしを睨む。
「何であんたなんかにわたしの行動を決められないといけないの。鬱陶しい」
「気に障ったならごめん」
反射的に歩みかけたわたしの手を彼女は打ち払う。
「あなたのことなんて嫌いなんです。近寄らないで」
彼女は拳を握り、わたしにそう主張する。
わたしはとっさに彼女の目を見ていた。だが、見た瞬間、胸が予想外の鼓動を刻む。
一見さっきのような強気の笑みを浮かべていたように見える。だが、近くで見て彼女の眼は光で満ちていた。まるで泣いているようだったのだ。
「何かあった?」
彼女は一瞬、体を震わせる。だが、口元をゆがめると、わたしの足を踏んできた。
彼女はわたしを睨みそのまま走り去っていった。
わたしは動くこともできず小さくなっていく彼女を目で追った。
「美月」
名前を呼ばれて我に返ると、拓馬の姿があった。
「千江美ちゃんなら向こうに行ったよ」
彼女の去っていった方向を指さした。だが、もう彼女の姿はどこにもない。
「勉強教えてほしいって言ってきてすぐに終わったから戻っていったんだ。いないから教室に戻ろうとしたら会えてよかったよ」
彼女がこんなところにいた理由と、悪意に満ちた言葉の意味に気づく。
「そっか。ごはんは食べ終わったんだ。今から教室に戻るところ」
「今日は悪いな」
わたしは曖昧に笑っていた。
彼女のことを拓馬に教えるべきなのか、黙っておくべきなのか迷っていた。
迷った挙句、他人という立場を弁え、彼には何も言わないことに決めた。




