綺麗だけど変な男の人
「その彼氏のことを詳しく聞かせてよ」
いつの間にか佳代の中では彼のことがそう処理をされてしまったらしく、興味津々という表情でわたしの顔を覗き込んできた。
何でこう彼女は人のそういう話が好きなんだろうと心の中でため息を吐きながら、彼女にどう言い訳をするか考えていたときだった。
「坂木さん」
わたしを呼ぶ救いの声が聞こえてきた。
声のした方向に目を向けると、ロングヘアの少女が立っていた。彼女の髪の長さは肘ほどまでと里実と同じくらいの長さだが、小柄な身長のためかもっと長く見える。彼女はわたしと目が合うと、切れ長の凛とした瞳を細めていた。学級委員の白井浅子だった。
「さっき、職員室に行ったら先生が呼んでいたよ」
「どうしてだろう」
先生に呼び出される理由がすぐに思い浮かばなかった。
「進路希望の紙がどうとかって言っていたけど」
浅子は眉をひそめ、右手の親指と人差し指であごをしゃくるように掴んでいた。
「そういえば出してなかった。ありがとう」
彼女は話が通じてほっとしたのか、会釈をすると自分の席に戻っていく。
わたしは鞄の中から進路希望の紙を取り出した。今日、遅刻したので朝のホームルームには出ていない。そのため、今朝提出すべきだった進路希望の紙を出していなかったのだ。
朝、職員室に寄ったときに出せばよかったのだが、担任もいなかったし、わたしもすっかり忘れていた。担任の受け持つ数学は朝一に行われたため、放課後まで顔をあわせないことになる。
「そういえば今朝、遅刻していたね」
佳代は思い出したように口を開いていた。
「うん。体調が悪くてね。今から出してくるよ」
「どこ書いた?」
里実は立ち上がったわたしにそう問いかける。
わたしは志望大学を記した紙を佳代と里実に見せる。里実や佳代とは希望の学科は違うものの、大学は同じ大学を志望していたのだ。
里実はそのプリントに目を配り、細めていた。
「やっぱりそこか」
「近いし、やりたいこともあるからね」
わたしの言葉に里実は笑顔を浮かべていた。
椅子を引き、窓の外に少しだけ視線を向ける。そのとき、窓から生暖かい風が飛び込んできた。
「出してくるよ」
「体調は大丈夫なの?」
「うん、平気」
朝、遅刻したのは少し体調があまりよくなかったからだ。受験勉強をしていたので、少し最近寝不足だったからだろう。その証拠のように、補習の分と一時間目の分はばっちり睡眠をとったので、今は普通に元気だった。
わたしは里実達にもう一度声をかけると教室を出た。
廊下に出ると、教室内のざわつきが嘘のように静かになる。人気もほとんどなかった。それは昼休みの残り時間は二十分以上あるからだろう。学食に行った人は学食で食べているだろうし、買いに行った人は教室に戻ってきて食べている時間。昼休みの中で一番人の姿を見かけなくなる時間帯なのかもしれない。
一階と半分をくだり、階段の途中にある踊り場まできたとき、なんとなく足を止める。下から人の足音が聞こえてきたが、気に留めることなく聞き流していた。
わたしはさっきの里実の話の影響か、ある少年のことを思い出していた。
最後に会ったのは四年前。小学生だったあいつも今年で高校生になっている。わたしも四年前とは少しは変わったと思う。背も伸び、あれほど嫌いだった数学がいつの間にか得科目になった。わたしだけではなく、奈月もずいぶんと顔立ちが大人びてしまった。そんな長い時間は当然彼にも流れていただろう。だから、彼が昔のままだとは思わない。思わないけど、やっぱりそれなりに抵抗感はある。
わたしが好みのタイプはと聞かれると、年上と答えるようになったのもあいつが原因だ。
わがままで、自分勝手で、自己中心的で、意地悪で。
同じ言葉を並べているのに気付き、わたしは苦笑いを浮かべた。
笑うとすごく可愛い子だ。そして、自分の気持ちにあまりに正直で、嘘がない。
彼は四年前に親の転勤でこの町を離れた。それまでのわたしと彼はいわゆる幼馴染だったのだ。小学校のときから幾度となくクラスメイトとの別れを繰り返した。彼もそのうちの一つだ。四年間一度も連絡を取っていない彼に再び会う可能性はほとんどないだろう。もう会うことのない存在をわたしが気にしても仕方ないのだ。
長い時間呆けていたのに気付き、わたしは頭をかいた。職員室にプリントを出しに行くために歩を進めたときだった。
階段をのぼってくる男子生徒の姿が見えた。先ほど響いていた足音の正体だろう。だが、彼自身を気にとめることはなかった。ただ、階段を降りるために、無意識に階段に足をのせたときだった。靴底がうまく階段に乗らずに、靴底が擦れる感触が伝わってきた。次の瞬間、わたしの周りの世界が歪む。
「へ?」
ただ、今の自分の状況を理解できなかったことからか、自分でもマヌケと思えるような声を出していた。
その直後、お尻に強い痛みを感じた。体はそのまま落下すると思ったが、二段ほどくだったところで尻餅をついていた。そして、体の動きが止まった。
「全く」
愚痴のようなぼやきのようなうめき声を出す。
何をやっているんだろう。考え事をしていて階段でこけたなんて誰にも言えない。
だが、思い出したのが階段をあがってきた男の子の存在だった。彼が通り過ぎた気配もないということは急に身を翻していない限り、この無様な状況を見られてしまったということになる。
混乱している思考を必死に抑えようとしたとき、わたしの視界に大きなごつごつとした手が差し出された。
わたしの視界に黄色のラインの入った上履きが映る。
「大丈夫ですか?」
まだどこかあどけなさの残るけど、それでいて低い声。
わたしはその声に導かれるように顔を上げた。目の前にいたのは白く通るような肌をした男の人だった。彼の黒髪が肌の白さを際立たせている気がした。
……その彼の瞳にしりもちをつき、ただ唖然と彼を見つめているわたしの姿がある。
そんな当たり前のことに、不意に胸が高鳴る。
通った鼻筋に、二重の瞳。少し中性的な厚みのある唇。あどけないけれど、彫りの深い顔立ちが彼を少年ではなく男の人に見せていた。かっこいいというより、綺麗という言葉がぴったりあてはまりそうな容姿をした男の人だった。
黙って彼を見つめていたことに気づき、大丈夫ですと言おうとしたけれど、上手く言葉が出てこない。それでもやっと言葉を絞り出そうとしたときだった。
彼が「あ」と声を上げると、目を見開いた。そして、肩を震わせて笑い出す。
わたしはとっさのことで意味が分からずに彼を見ていたのだ。
「相変わらずマヌケだよな」
さっきわたしに問いかけたのと同じ声でわたしに言葉を投げかける。
わたしはさっぱり事情が飲み込めない。そして、彼の言葉が突然砕けた理由も分からなかった。
「初対面、ですよね?」
わたしは記憶を辿るが、彼に似た人を見た記憶はなかった。
そう問いかけた彼が笑みを浮かべるのが分かった。爽やかという言葉がぴったりな笑みだ。
「そうだよ」
彼はわたしの腕をつかむと、体を引き上げた。あっさりと、まるでぬいぐるみでも持ち上げるかのように。
「じゃあ、もうこけるなよ」
その言葉に顔が赤くなるのが分かった。
その人はそんなわたしを見て、からかうような笑顔を浮かべると、そのまま階段を上がっていく。
彼の姿が見えなくなって我に返る。
今、ものすごく見知らぬ人に迷惑をかけてしまった。そのことを思い出すと、顔から火が出てきそうな心境だった。できるだけ今の記憶を忘れようとして、職員室に行くことにした。
一階まで行くと、静まり返った校舎内がわずかにざわつきを取り戻しているような気がした。そして、目の前にある靴箱のところでは男の子と女の子が話をしていた。二人とも見たことはないが上靴の色から一年だと分かる。顔を赤くしている男の子とは対照的に女の子はどこかさめた表情でそんな状況を見つめていた。告白でもしているのかもしれない。そう思ったのでできるだけ二人とは焦点を合わせないように顔を背ける。
恋愛、か。
わたしは佳代が驚いたように、色恋沙汰には縁がなかった。誰かを好きと思ったことも、好きだと言われたこともほとんどなかった。全くといえないのは、一度だけ告白じみたことをあいつに言われたからだ。それが告白なのか、独占欲なのか、思いつきなのか、答えは分からない。
また頭の奥深くに収めた記憶を引っ張り出そうとしてるのに気づき、首を横に振る。なんでこうあいつのことばかり思い出してしまうんだろう。
わたしのファーストキスを奪い、恋とは真逆の感情を植え付けた彼を。
そう自分を戒め、職員室に続く石造りの渡り廊下に行こうとしたときだった。視界の隅に二人の女の子が映る。彼女達がわたしを見ているのは薄々気づいていた。
「あの人が?」
「高等部のほうの坂木さんと聞いたから、お姉さんのほうでしょう? 彼とつきあっているんだって」
そんなひそひそ話の聞こえてきた方向を見る。すると、そこには赤のラインの入った上履きを履いている生徒が二人こちらを見ていた。それは二年生だ。さっきの佳代の話からどんな噂を流されているか見当がついた。
彼女達はわたしと目があうと、白々しく目をそらす。
奈月か誰か知らないけど、なんて噂を流しているんだろう。その一年生も否定したらいいのに。
わたしはそんなものにかまう気にならずに、職員室への道を急ぐことにした。