拓馬を好きな少女
昨日とは違い一日がやけに長かった。いつもより七割ほどのスピードで過ぎていく授業をやっとの思いで終え、昇降口を出たとき、佳代がわたしの背中を軽く押した。
その理由はすぐに分かる。目の前には拓馬の姿があった。
「行ってきなよ。気になるんでしょう。朝から暗かったし」
里実はそう言うと肩をすくめる。わたしの迷いに気づいていたのかもしれない。
二人にお礼を言うと、拓馬のところまで行くことにした。
高鳴る鼓動を押さえ、どう自然に彼に話しかけようかだけを考えていた。
彼との距離が三歩ほどに狭まり、その名前を呼ぶ。
彼は振り返ると、目を細めていた。
その笑顔にほっとして、言葉を続ける。
「帰らないの?」
「クラスメイトを待っているんだ。貸していたノートを教室に忘れたらしくて」
「一緒に帰る約束をしていたりする?」
「それはないよ」
「待っているから、一緒に帰らない?」
「でも、もう少し時間がかかるかも」
彼は顔をあげて立ち並ぶ教室を眺めていた。
「いいよ。わたしも一緒に待っている。昨日、待っていてくれたお礼」
わたしの言葉に拓馬は笑顔を浮かべていた。今朝の少年のような表情を払拭できた気がして、ほっとしていた。
「じゃあね、美月」
振り返ると、佳代と里実の姿があった。わたしは二人の言葉に笑顔で応えていた。わたしが拓馬を誘うのを待っていてくれたのだろう。
二人の姿が門の向こうに消え、辺りが夕焼けに飲み込まれたようにしんと静まり返っていた。いつものようにわたし達をじろじろと見る人もいなく、時折グランドでランニングをしているサッカー部の掛け声だけが響いていた。今日の朝のことを彼に何かを言うべきか迷っていたとき、そんなわたしの迷いとは正反対の凜とした声が響く。
「拓馬君」
そこには腰までふんわりとした髪を伸ばした女の子の姿がある。そのこを見て、思わず声を上げそうになった。
彼女はちらっとわたしを見ると、軽く会釈をする。再び拓馬を見ていた。
「ごめんね。これ、借りていたノート」
彼女は手にしていたノートを差し出す。拓馬はそれを受け取ると鞄に収めていた。
「じゃ、明日」
彼女は拓馬に手を振ると、もう一度笑った。彼女は何かを言いかけようとした言葉を引っ込めていた。拓馬はそんな彼女を気にすることもなく、彼女に対して背を向けていた。後ろ髪引かれる思いで拓馬の後を追おうとしたとき、少女の声が響く。
「拓馬君」
わたしは思わず彼女の顔を確認していた。昨日の彼女を見たときのように心臓の鼓動が乱れるのが分かった。彼女はあまりにまっすぐな瞳で拓馬を見ていた。真剣さが伝わる。
拓馬は目を見開き、彼女を見ている。彼女の次の言葉を待っているようだった。
「わたしも一緒に帰っていいかな」
その言葉に拓馬が一瞬、返事に詰まるのが分かった。同時に昨日のことを思い出す。拓馬のあの表情は彼女が一因だったのだろうか。
「ダメかな」
彼女はそういうと、首をわずかに傾げる。かわいいけれど、自信がないのかどこか物憂げに見える。
拓馬はわたしに判断を委ねたかったのか、わたしを見る。帰りたいと言っている女の子を、それも拓馬のクラスメイトを安易に断ることはできなかった。彼には彼の人間関係があるのだから。
「いいよ」
わたしはそういうと、拓馬の腕を引く。
「ありがとうございます。坂木先輩」
彼女は笑顔を浮かべる。
彼女の口からわたしの名前が出てきたことに素直に驚いていた。だが、少し考えると彼女が知っていても不思議ではない。拓馬から聞いたか、もしくは噂で知ったのか、その二択だろう。
「わたしは本田翔子といいます」
彼女は満面の笑みで言葉を続ける。
彼女の名前には聞き覚えがあった。それは拓馬の学年でもてる子の話をしたとき、拓馬の口からすらっと出てきた名前だったのだ。まさか女の子の名前だとは思わず軽い嫉妬は覚えるが、名前が出てきた理由も分かる気がした。
いい意味でお人形さんのような子だった。顔の基盤が普通の人とは違うのではないかと思うほどだった。ぱっちりとした瞳に、上を向いた長い睫毛。ふっくらとした赤い唇。すらっと伸びた手足。彼女の顔やスタイルに文句をつけるなら、嫉妬でしかないだろう。それほど完璧だと思わせるような子だ。
そのとき、拓馬の携帯が鳴る。拓馬は「悪い」と言うと、わたし達から少し離れた水飲み場のところで電話を取っていた。彼の声は定期的に大きくなるグラウンドから聞こえてくる掛け声によって掻き消され、誰とどんなことを話しているのか伺うことさえできなかった。
「拓馬君のこと、気になるんですか?」
先ほどのやわらかい声とは異なり、どこか強さを含めた声。彼女の顔から笑顔が消えていた。それどころか鋭い視線をわたしに送っていた。
「拓馬君の好きな人だって聞いたけど、ぜんぜん可愛くないじゃない。本当に普通なんですね。正直期待はずれでした」
きっと多くの子が思っているであろう言葉だ。胃の奥の部分が疼くように傷んだ。
わたしは彼女から目をそらす。そんなわたしの視界に長い影が現れた。
顔をあげると、不思議そうな顔をした拓馬の姿があった。
「悪い。帰ろうか」
彼の手には先ほどの電話はない。もう話は終わったのだろう。
本田さんはわずかに上半身をかがめ顔の前で手を合わせていた。
「わたし、用事を思い出したから帰るね」
初対面のときのような笑顔でわたしを見る。そのとき、口元がわずかに変化する。
「またね。坂木先輩」
彼女は軽い足取りで帰っていく。彼女は拓馬が好きなのだろう。
あんな可愛い子に好かれているのに、拓馬の好みは本当に分からないと思う。
本当のことを言っただけ。それが分かっていても、帰りがけ、拓馬と言葉を交わすことがほとんどできなくなっていた。結局ほとんど口をきけないまま、拓馬と別れることになった。
拓馬は不思議そうな顔をしながらも、理由を聞いてくることはなかった。
拓馬が彼女に嫌がるようなことをするとは考えにくい。そうなると答えは絞られる。告白した彼女が振られたのか、拓馬が無意識に彼女を傷つけるようなことを言ったのか。他にもあるかもしれないが、思いつくのはそのくらいだった。
「何かあったの?」
「何でもないよ。飲み物でも買ってくるね」
気分転換が必要だと思った。
教室を出たわたしが階段を下りていくと一人の少女と鉢合わせした。ノートとテキストを胸に抱いた少女は目を細めていた。
「おはようごさいます」
改めてみると、彼女は本当に可愛い。再び彼女の顔を見たことで、可愛くないと言われたことを妙に納得してしまってた。
「おはよう」
彼女は訝しげな表情を浮かべながら、階段を上がっていった。
拓馬を好きな子、か。
拓馬はわたしのどこがいいんだろう。
自販機まで行くと、数人が並んでいた。とりあえずその一番後ろに並ぶ。
そのとき髪の毛を耳元で結った人がわたしの傍らを通り過ぎた。二人の言葉が耳に飛び込んできたのだ。
「拓馬君の好きな人って見た?」
「見た。どんなに綺麗は人かと思っていたけど、普通じゃない? 何かさ、あまり相手にされていないから追いかけているって感じがしたよ」
「意外と相手が好きになったらあっさりと冷めるかもね。でも、姉のほうならまだ隙はあるってことか」
「そう思う。だって姉だし、卒業したら学校も変わるしね」
二人はわたしに気付いた様子もなく盛り上がっていた。
こういう感じで言われるよりは、本田さんのように正面向かって言われるほうがいい気がした。
「でも、拓馬君が頻繁にメールしているのって彼女じゃないの?」
「えー? そうなの?」
メール? そういえばわたしは拓馬の携帯の番号も知らなかった。奈月相手だろうか。それならわかるが、わたしの知らない誰かなのかもしれない。
四年はそれほど長い時間だったのだ。




