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シャチ・ホワイトボード・ヘッドフォン

作者: Q

部屋に入ってくるなり彼は、いつものように部屋の隅に置いてあるホワイトボードに向かって何かを書き始めた。

『シャチの身体は黒地に白なのか。それとも、白地に黒なのか』

ホワイトボードに書かれた下手くそな文字を、私はそのまま読み上げる。

私の声に彼が頷いて、私と彼のいつも通りの日常が始まる。

私は耳につけていたヘッドフォンを机の上においてから、彼の疑問に対しての答えを考えてみた。

私の中では、それに対する模範解答は勿論あるのだけど、彼の性格から考えてもそれが彼の求めているものだとは到底思えない。むしろ彼が期待しているものと真逆の可能性すらある。

……かといって、あまり長い間沈黙を続けていると彼を不安にさせてしまう。事実既に彼は、私に対して「早く、早く」というジェスチャーを繰り返しているし。

「………………む」

仕方ない。どうやら自分の模範解答を彼に言う以外の選択肢は私には残されていないみたいだった。

「……生物学的には黒地に白、なんじゃない? 白地だとメラニンがないことになるから、そこからメラニンをもつ細胞が生まれることはないって聞いたことがあるよ」

我ながら機械的でロマンの欠片のない台詞だ。ただただ事実を述べているだけ。彼はもっと夢のある言葉を求めていた気がするのに。

「へぇ、博識だね。一瞬『そんなのどっちでもいいんじゃない?』って言葉が返ってくるかもしれないと思った、ひやひやしたよ」

そんな私の心配を余所に、彼は笑いながら身体を使ってそんなことを大げさに伝える。

「……べ、別に博識なんかじゃないよ。君が余りにも物を知らなさすぎるだけだから!」

少しほっとするのと同時に、知識が豊富だと彼が褒めてくれたのが分かって、それが嬉しくて照れくさくなってしまった。

えーっと、えーっと、そうだ。

「そ、そう言えば、どうしてそんなことが気になったの?」

彼は私の顔が真っ赤になっていることには気づかないだろうけど、私は彼から顔を逸らしながら慌ててそんなことを照れ隠しに聞く。

「いや、ふとね。……シャチが白黒なのに意味も理由もなくて、曖昧なまま白黒だったらいいなと思ったんだ。黒地に白なのか、白地に黒なのか、そんなことは分からなくて、曖昧でふわふわした存在だったらな、って」

彼は少しさみしげな表情で、今度はゆっくりとそう私に伝えてきた。

……そっか、私がそんな幻想を壊しちゃったのか。

私が彼にそんな表情をさせた。もう少し考えれば分かることだったかもしれない。実際彼がそんな答えは求めていないだろうなってことまでは分かっていたのだから。

彼が求めていた答えどころか、彼が聞きたくなかったはずの言葉を突きつけてしまった。

本当に真逆の答えを言ってしまった。

さっきまでの舞い上がるような気分は何処かに吹き飛び、私は自分自身の配慮のなさに嫌気が差す。博識だって褒められて、でもそれは結局彼を傷つけていたかもしれなくて。

無知は罪だって言うけれど、博識も罪に成り得る。知らなければ、こんなに彼を困らせることもなかったのだから。

とんとん、と私の肩を誰かが叩く。いや誰かじゃない、彼だ。そこでようやく私が黙ってしまったことで彼を心配させてしまったのかもしれないという思考に追い付き、視点を上げる。……本当に馬鹿だ、私は。

けれど、顔を上げた私の目に飛び込んできたのは彼の心配そうな顔ではなくて。

『シャチだけに白黒はっきりつけちゃいました!』

ホワイトボードに書かれた下手くそな字と、シャチらしき絵と、渾身のギャグを披露して無邪気に笑う彼の姿だった。

そんな予想外の光景に私は思わず吹き出してしまう。

「あはは、全然、全く、これっぽっちもうまくないよ!」

もうこれじゃあ、さっきまで悩んでいた私も馬鹿みたいじゃないか。

敵わないなあ……もう、ずるいよ。

肩を落として落ち込む彼を見ながら私はそんなことを思う。

そうだ、私たちの間ではそういう気遣いは不要なんだった。

そういう気遣いはしない約束だった。

そう、約束をした。

…………私がこのヘッドフォンを貰った時に。私が彼に眼鏡をあげた時に。

「それはともかく、ね。見える物の中で、何か曖昧な物はないかなって僕は思ったんだ。……でもやっぱり、見える物の方が見えない物よりもはっきりしてるんだなって」

彼はさっきのショックを顔に残したまま、今回の話の目的を、そう私に伝える。

不安。漠然とした不安。

そういう感情が彼の中から私にも伝わってくる。

目に見える物ははっきりしているのに、見えない物ははっきりしていない。

きっと彼は目に見えない物の中ではっきりしていない物を探すことで、目に見えない物の中でもはっきりしている物があると信じたかったのだろう。

例外があることを信じたい。

今回はシャチがその例外だと信じたかったんだ。

…………結局その儚い希望は意図せず私が打ち砕いてしまって今に至る訳だけど。

彼の気持ちは私にも理解は出来る。分かる、なんておこがましいことは言えないけれど。

私だって、曖昧なものが多いこの世界で確かに信じることが出来るものが欲しい。

私にとって現実感のないこの世界で、私が確かにこの世界に繋がっていると実感できる物が欲しい。

私と彼のような人間はそういう“確かな物”をより求めがちなんだと思う。

「でも、きっと見えなくてもはっきりしているものもあるよ」

机の上のヘッドフォンを手にとって、私は彼に例外はあるんだと告げる。

でもそれは同情や気遣いからじゃない。

もうそれはしないという約束を思い出した今、それをすることは彼に対して失礼になる。

それをしてしまうほど、私は馬鹿じゃない。

それに、目に見えなくてもはっきりしているものも本当にある。

そう、私は彼の無邪気に笑っている顔を見て、……それに気づいた。気づいてしまった。

「そう? 例えば?」

「例えば? そう、例えば……」

今からしようとすることを考えて心臓がいつもより多めに働いているけれど、私はそれを無視してヘッドフォンを持ったまま立ち上がる。

落ち着け落ち着けと何度も自分に言い聞かせながら、私はそっと彼に近づいていく。

彼はもう目の前。私は一度立ち止まり、彼に聞こえないように深く深呼吸をする。

……よし、大丈夫。

ようやく少し落ち着いた私はヘッドフォンを片手に彼の頭へと手を伸ばした。

そして…………静かに彼の眼鏡を外して、代わりに彼の耳にそのヘッドフォンをはめる。

彼からもらった、ヘッドフォンを。

「!?」

彼の驚いた顔が目の前に広がる。

「……これは目に見えないけど、本当で、確かにここにある、はっきりしたものだよ」

ヘッドフォンをした彼には震えながら言ったこの言葉は聞こえない。

「……私が君を好きだっていう感情は、ね」

湯気が出るくらい真っ赤な私の顔も、盲目の彼には見えない。

けれど、きっとこの想いは伝わるだろう。

目が見えなくても、耳が聞こえなくても。

私の胸の鼓動は隠しきれなくて。

身体が触れ合う温度は誤魔化しが効かないのだから。

私は彼の胸に頭をうずめるようにして、彼を抱きしめる。

君には見えなくても、私は此処にいるよ。

そう、主張するように。

彼の身体が強張っているのが分かる。

彼だけじゃない。私だって、こんなことは初めてだ。

けれど、もう私の中にある“確かな物”はもう抑えが効かなくて。

気づいてしまったらもう止まらない。

それはもう、はっきりとした感情だった。

恥ずかしい。――いきなり抱きついてしまった。

嬉しい。――彼の体温が心地良い。

怖い。――けれど拒絶されてしまったらどうしよう。

色んな感情がないまぜになって、自分がどうしてこんなことをしてしまったのか納得できる説明もできそうにない。

でも今の私を突き動かす衝動は、目に見える物よりも何よりも確かに此処にあると信じることが出来るものだった。

そんな私の身体を、彼がゆっくりと抱きしめる。

私の背中を優しく包み込む彼の腕に先ほどの緊張はもう、ない。

そっと、下から見上げた私に彼は言う。私の好きな、無邪気な笑顔で。

「     」

耳が不自由な私には、彼が何て言ったのか分からない。

でも、確かにそれは伝わった。

聞こえなくてもはっきりしているものも本当にある。

それは目に見えなくて、私は直接聞くこともできないけれど。

人によっては酷く曖昧で、はっきりしない物なのかも知れないけれど。

私が、そして彼もきっと感じた “確かな物”。

「君が、好き」

言葉が形を無くしても、想いは届く。

目が見えなくても。耳が聞こえなくても。

曖昧なものが多いこの世界でもきっと。

――それは、確かに信じられるものなのだから。


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