夏:I wanna be…(前編)
きっと今外はうだるような暑さなのだろうと、エアコンの効いた室内で思った。窓の下を、けだるそうな顔をした人々が行き交っている。私もさっきそこを歩いてきたから、その苦労はわかった。まだ制服のYシャツが、汗ばんだ背中にくっついているのだ。
「夏芽ちゃん」
名前を呼ばれて振り返ると、キッチンに立っているあずささんが困ったように私を見ていた。彼女はよく、眉を八の字にしてそんな顔をする。私が好きな顔だった。
「今日は暑いから、麦茶でいいかな」
「うん」
彼女が背中を向けたので、私は忍び足で近づいて腰に手を回した。
「きゃっ」
驚いた彼女がそんな声を上げる。素直すぎる反応は、まだ年幼い少女のようだ。だが彼女は、高校生の私もう一人分くらいは生きているはずだった。
「ごめんね、待てない」
首筋を舌で舐めるとうっすらと汗の味がして、自分の感情が高まっていくのがわかった。そのまま服の中に手を入れて、ブラの上から彼女の胸に触れる。やせっぽっちな私にはない、大人の女性独特の柔らかさが、そこにはあった。
「あずささん、こっち向いて」
体ごと振り向いた彼女の唇を奪う。更には舌を入れて、彼女の口の中を侵していく。彼女から漏れ出す吐息が、舌から伝わる唾液の味が、私の息を荒くさせる。
「……いい?」
私が上擦った声で尋ねると、彼女は控えめに頷いた。
それを確認して、私は彼女の服のボタンを外し始めた。
ベッドから降りて、私は床に脱ぎ散らかした服をかき集めた。下着から制服まで一つずつ身に纏って、ここに来た時のままの格好になる。そんな私の様子を、シーツにくるまったあずささんがぼんやりと見ていた。彼女は何も着ていない。
「あのね、夏芽ちゃん……」
ショートカットの髪をかきあげていると、あずささんが呼びかけてきた。
「なぁに?」
「えと、今日はあの人が早く帰ってくるから……」
辿々しく彼女が言う。そんなことはとっくにわかっていた。いたずらを告白する少女のような彼女が可愛くて、私はその額にそっと口づけをする。
「うん、それじゃあまた」
そう告げると、彼女はまた眉を八の字にして頷いた。こみ上げる笑みを抑えて、私は玄関に向かう。
靴を履いて彼女の家を出る。扉を閉める前に振り返ると、インターホンの上にある表札が目に入った。
「宮原あずさ」の丸っこい字の下には、「宮原雄介」という名前がある。もう何度だって見てきたものだ。今更動揺なんか、したりしない。
扉から手を離すと、無機質な音を立てて閉まった。私はもう振り返らないで歩き始める。
あずささんは、既婚者だ。宮原雄介という夫がいる。一般的な、どこにでもいる専業主婦の一人。
そんな彼女と私が出会ったのは、ちょっとした偶然の巡り合わせだった。
深夜の、もうすぐ日付が変わるという時間帯。どこへ行くともつかず歩いていた私は、ふらふらとどこかのマンションの近くにある児童公園に入った。
そこに、あずささんがいた。彼女は電灯に照らされたベンチに座って、さめざめと涙を流していた。私は思わず、その場で立ち止まってしまった。
彼女に見惚れていたのだ。明らかに彼女は、私よりずっと年上だった。だけどそれと並ぶように、泣いているその姿が、少女のような幼さを感じさせた。
大人であるはずなのに、蹴飛ばせばすぐに崩れてしまうような彼女の危うさに、私は惹かれたのだろう。気がつくと、彼女の前に立っていた。
「……大丈夫ですか?」
声をかけられた彼女は驚いて目を見開いた後、恥ずかしそうに照れ笑いをした。
「あっ、ごめんなさい。やだ、私ったら」
何でもないの、と彼女は手の甲で涙を拭った。それでも後から後からこぼれてくる。
「……何かあったんですか」
そんな風に尋ねてみる。彼女がここまで悲しそうにしている理由を、単純に知りたかった。
彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
「……夫とね、本当にくだらないことで喧嘩しちゃってね。つい飛び出して来ちゃったの」
夫。彼女には夫がいるのだ。その事実に、私はささやかなショックを受けていた。彼女の話は続く。
「最近は何だかずっとギスギスしていたけど……喧嘩なんて、初めてだったから。びっくりしちゃってね」
でも、もう大丈夫。そう言って彼女は立ち上がった。
「お話を聞いてもらってすっきりしたから、帰ってあの人に謝るね。私の周りにこんな話聞いてくれる人いないの。ありがとね、えっと……」
「青葉夏芽です」
「私は宮原あずさ。ありがとね、夏芽ちゃん」
その時私に向けられた屈託のない笑顔に、目を奪われた。
笑い方がどことなく、「あの子」に似ているような気がする。
思うよりも先に、口が動いていた。
「あの! あずささん、またこの公園で会いませんか」
この人と、もう一度会いたい。これきりになってしまうのは、いけないような気がした。
きょとんとしていた彼女は、やがてまた屈託のない笑みを見せた。
「うん。明日のお昼に、待ってるね」
それから私たちはほぼ毎日公園で会って話すようになった。内容はなんてことない、どこにでもあることばかりだった。
彼女はよく、夫の話をしていた。彼はここのところずっと、仕事にばかりかまけているらしい。朝早く出勤して残業ばかりで、会話もほとんどないそうだ。なんて馬鹿な男なんだろう。こんなにも可愛い人を、ほったらかしにしているとは。
私なら、あなたを大切にしてあげられるのに。彼女の口から夫の名前が出る度、その思いは強くなっていった。
「ねえ、あずささんの家に行ってもいい?」
私がそう提案したとき、彼女は特に迷う素振り無く頷いてくれた。私の思惑を、彼女はわかっていたのかどうかはわからない。ただ彼女は、寂しかったのかもしれない。
でも私が彼女の家のリビングでキスをしたとき、彼女は拒まなかった。ただ困ったような顔をしていただけだ。
私たちの関係は、そうやってあっさりと変化した。
これが正しい関係じゃないことはわかっている。彼女には夫がいる。だがそれが一体どうだというのだ。
彼女と体を重ねたことを、私は後悔なんてしていない。
だって最初から、そのつもりだったのだから。
「おーい、夏芽ぇ」
ホームルームが終わって教科書を鞄の中に詰めていると、瑞香が机の前にやってきた。
「今日ヒマ? カラオケとか行かない?」
首を傾げて、私を横からのぞき込んでくる。そうするとサイドテールにした髪がぷらぷらと揺れた。
ちょっとの間、私は考え込む。今日は、そのままあずささんの家に行くつもりだった。
「ごめん、今日はパス」
「えーっ。最近付き合い悪いよぉ」
ひょっとして、と彼女は私の様子を窺うように目を細めた。
「彼氏とか……出来た?」
いささか深刻そうな彼女の様子に、私は思わず吹き出してしまう。
恋人が出来ると友達との時間が減る子が多いから、きっとそういうのを心配しているのだろう。そんなこと、気にしなくてもいいのに。
「なにさぁ、笑っちゃって」
「ごめん。でも別に、そんなんじゃないから大丈夫だよ」
「そっかそっか」
彼女は大げさに胸をなで下ろした。
「でも夏芽、最近元に戻ったみたいでよかったよ。『あの子』がいなくなってから、なんか元気無かったし」
二人とも、仲良かったもんね。後の言葉を、私は聞いていなかった。
「あの子」。三ヶ月前に学校を辞めて、どこかへ行ってしまった彼女。
どこかの男との子供が出来たからだと、学校では噂で持ちきりだった。
うっすらと汗が、額から滑り落ちるのを感じた。
「……夏芽?」
瑞香が不思議そうな顔をしていた。私は慌てて首を振るう。
「な、何でもない。じゃあ私、そろそろ行くね」
鞄を引っ張って、私は教室を出た。
まだ残っていた汗が、頬を伝って床に落ちる。
「大丈夫?」
あすささんにそう聞かれて、私は顔を上げた。ベッドの上で、私は裸の彼女に抱きつくような格好だった。
「何が?」
「夏芽ちゃん、今日は何だかぼんやりしていたから」
そう言って彼女は、私の頭を撫でてくれる。優しい手つきだ。それで安心して、私はまた彼女の胸に顔を埋めた。
あずささんの体は柔らかい。こんな私のことを、そっと受け入れてくれる。ずっとこうしていたいと思った。
「……ねえ、あずささん。今度一緒に遊びに行かない?」
彼女は少し困った顔になって、「どうしたの、急に」と尋ねてくる。
思えば、あずささんとは家でばかり会っていて、どこかに出かけることはなかったのだ。だからたまには、外で彼女に会いたくなったのだろう。
きっと、「あの子」のことは関係ない。
「何となく。どこへ行くか、また来る時には決めておくね」
あすささんはやっぱり困ったように、曖昧に頷いた。
あずささんと、お出かけ。柄にもなく、私はわくわくしているのかもしれない。瑞香にも、「今日は夏芽、機嫌がいいね」なんて言われるくらいだ。
どこへ行こうかな。帰りのホームルーム中も、私は黙々と考えていた。
せっかくあずささんと出掛けようと思い立ったのだから、今しか行けないところに行きたい。
それにショッピングや映画館なんかには、絶対行きたくなかった。
「そろそろ隣町で、お祭りが開催されるということで……」
その時、ふと先生の話が耳に入ってきた。
お祭り。年に一度の夏に開催されるイベント。それがいい! とすぐに思った。あずささんにはやや似合わないかもしれないけれど、退屈なショッピングや映画に付き合わせるよりはましだろう。
「どうしたの、さっきより生き生きした顔しちゃって」
いつの間にかホームルームが終わったらしい。瑞香が机の前に来て怪訝そうな表情を浮かべていた。
「ひょっとしてお祭りのこと? 誰かと行くの?」
「さあ。どうだろう」
「またぁ。誰かさんに浴衣姿を披露するつもりでしょ」
「はいはい」
浴衣か、と思う。せっかくお祭りに行くのだから、着てみたい。だけれどそのためには。私は小さくため息をついた。
ちょっとした手順を踏まなければならなかった。
「ねえ、お父さん」
夕食の席で、私は正面に座っているお父さんに声を掛けた。
「んっ? どうした」
「浴衣、買ってほしいんだけど」
おや、と彼は意外そうな顔を見せる。
「珍しいな、お前が物をねだるなんて」
「そうかな」
「ああ。これで買ってくるといい」
彼は財布から一万円札を三枚取り出して、私の前に置いた。何となく自分が薄汚い物乞いにでもなったような気分になったが、結局それを受け取る。
この人の。黙々と私が作った料理を口に運ぶ彼を見ながら思う。この人の、お金だけ出して私には極力関わらない、という態度が嫌いだ。
そんな風だから、お母さんにも逃げられちゃうんだ。
「……ごちそうさま」
茶碗に残ったご飯をゴミ箱に投げて、私は台所に向かった。




