【九ノ花】 現れた男
久瀬正仁が死んだ。慶一はそれを、朝のホームルームで担任の口から聞かされた。
美幸に次いで、正仁までもが亡くなる。同じ学校の、それも自分の所属している同好会の先輩が立て続けに亡くなったことは、確かに悲しいことだ。しかし、それ以上に慶一は、あのビデオがいよいよ恐ろしい力を持って、二人を死に追いやったのではないかという疑念に囚われ始めていた。
放課後、授業が終わるや否や、慶一は真っ先に映研の会室へと向かって走った。今日が活動日ということもあったが、一刻も早く他のメンバーの顔を見ないと、何故か落ち着けない自分がいた。
慶一が会室にやってきたとき、そこには敢と亮、それに秀彰の三人しかいなかった。雨音も瑞希も、それに顧問の明恵まで、女性メンバーは軒並み席を外している。
「さて……。それじゃあ、何から話したものかな」
重苦しい空気の中、初めに口を開いたのは敢だった。
「何からって……俺、さっき来たばっかりで、状況がよくわかってないんですけど」
「そうだな。まあ、ある程度は予想しているだろうとは思うが……とりあえず、僕の話を聞いてくれ」
慶一の質問を遮るようにして、敢が全員の顔を見回して言った。もっとも、美幸と正仁が亡くなった今、敢の言わんとしていることは慶一にも予想がつく。
果たして、そんな慶一の予想は正しく、敢の口から語られたのは、やはり亡くなった二人についてのことだった。
同じ学校の、それも同じ同好会に所属している人間が立て続けに亡くなったということで、さすがに学校側も映研に対して疑念の目を向け始めたようである。そればかりか、とうとう警察までもが映研に目をつけ始めたようで、顧問の明恵は校長と共に、警察に事情を説明しに行っているとのことだった。
雨音と瑞希がこの場にいないのは、会長である敢の判断だった。仲間を二人も失った後で、そのことについて色々と話す。男の自分たちでさえ気が重くなるであろう話に、わざわざ女子まで巻き込む必要はないとの考えからだった。
「で、今後のことなんだけど……当面は、映画研究会は活動を自粛せざるを得ないだろうな。さすがにメンバーを二人も失って、映画の撮影なんてやってる場合じゃない」
「確かにそうっすね。でも……麻生先輩や久瀬先輩は、どうして殺されなきゃならなかったんでしょうか……」
秀彰が、伏し目がちなまま尋ねた。中学を卒業して一年と経っていない彼にとっては、仲間の死に対する衝撃は大変に大きなものだったに違いない。
「そいつがわかれば、今頃は警察なんて要らなくなってるぜ。俺たちがぎゃんぎゃん騒いだところで、何か進展があるってわけでもないだろ?」
「そんなこと言って、宮川先輩は怖くないんですか!? 同じ同好会のメンバーが立て続けに二人も殺されて……次は、自分が殺されるかもしれないってのに!!」
不安と怯えはそのまま恐怖に変わり、秀彰は隣にいた亮に向かって叫んだ。普段の大人しい秀彰からは想像できない程に昂奮していたが、対する亮は、あくまで冷静な態度を崩さないでいた。
「おい、ちょっとは落ちつけよ、秀。確かに、二人は何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。けどな、別に俺たち、なにも疾しいことなんかしてないだろ? 誰かに恨まれることなんてしちゃいないし、殺される心当たりだってない。それともお前は、過去に何か人から殺される程の恨みを買うような真似をしたってのか?」
「そ、それは……」
「だったら、変に騒いだところで仕方ないだろ。それよりも、今は今後の俺たちがどうするべきなのか……それを話し合う方が先なんじゃねえの?」
お前も、そう思うだろ。そう言わんばかりの視線を送られて、慶一は思わず目を逸らした。
確かに、亮の言っていることは正論だ。敢がここに映研のメンバーを集めたのも、今後のことについて、暫定的にでも決めておかねばならないからだろう。もっとも、メインヒロインを演じる役の生徒とカメラマンまで失った今、その方向性については誰もが予想できるところではあるが。
果たして、そんな慶一の予想は正しく、敢の口から語られたのは当面の活動休止宣言であった。生徒が二人もなくなった時点で、これ以上は同好会の活動を続けて行くことはできない。そう判断してのことだった。
「はぁ……。それじゃあ、当面は映研の活動も、自粛せざるを得ないってことっすね……」
敢の口から活動休止の言葉を聞いて、秀彰はどこか残念そうにしながらも、それでも安堵の溜息をついて言った。
「まあ、そういうことだ。と、いうわけで、今日のミーティングはこれで終わりにさせてもらうぞ。僕はこれから古河先生と話があるから、君たちは先に帰ってくれ」
「わかりました。お先に失礼します」
そう言うと、秀彰は椅子から立ち上がり、敢や慶一たちに軽く一礼して部屋を出て行った。次いで、亮と慶一もそれに続く。普段よりも早く活動が終わったことで、亮はどこか時間を持て余しているようにも見えた。
「なあ、慶一。お前、この後時間あるか?」
「なんだよ、急に。別に、ないってことはないけどさ……」
「だったら、久しぶりにどっか寄り道して行かねえか? 活動も早く終わったことだしさ」
「悪い。今、ちょっと、そんな気分になれないんだよな」
同好会の仲間が二人も亡くなっているのに、こいつはいった何を言い出すのか。気がつくと、慶一は亮のことを睨みつけていた。
慶一から見ても、亮は同学年の中でも頭の良い部類の人間に入っていた。それも、単に試験の勉強ができるという類の頭の良さではない。
博識で、それでいて常識も併せ持っている、同い年にしては大人びた仲間。敢のような落ち着いた感じはないが、どこか自信に溢れ、後輩からも慕われている存在。
今までそんな風に思っていた亮が、ここにきてこんな不謹慎極まりない発言をする。そのことが、慶一にはどうしても信じられなかった。
「ああ、そうだ。帰ろうとしているところ悪いけど、ちょっといいかな?」
互いに言葉を失ったまま、次に何も言いだせなくなる二人。そんな気まずい空気を破ったのは、敢の発した一声だった。
「なんですか、先輩? まだ、俺たちに何か?」
「いや、何かってことでもないんだけどね。ちょっと、高須のことを借りてもいいかい?」
「慶一を? いや、俺は別に構わないですけど……お前はどうなんだよ、慶一?」
亮が慶一を横目にして尋ねる。慶一としても、別に敢の頼みを断るような理由はない。
「先輩が俺に用があるって言うなら、俺は残っても平気ですよ。でも……映研の活動もしばらくはないってのに、いったい何の用ですか?」
「まあ、ちょっと個人的なものだよ。別に、大した用でもないんだけどね」
今、この場では話したくない。そんな、本心を隠しているような行動に、慶一は訝しげな表情をしながらも訊くのを止めた。
このまま、ここで問答をしていても仕方がない。亮には悪いが、結果として一緒に帰ることもできなくなりそうだ。彼にはさっさと席を外してもらい、敢の口から要件を言ってもらう。その方が、なんにしても手っ取り早いはずだった。
「悪いな、亮。なんか、先輩も俺に用があるみたいだし、どっちにしろ一緒に帰れそうにないわ」
「なんだよ、まったく……。でも、先輩に呼ばれてるんじゃ、しょうがねえよねな」
そう言うと、亮はしぶしぶ納得したような顔をして、映研の会室を出て行った。後に残されたのは、敢と慶一の二人だけ。昨日、瑞希と一緒に例のビデオを見ていたときもそうだったが、二人の人間が使うにしては、普段は狭苦しく感じる映研の会室も、やけに広く感じられた。
「さて、と……。それじゃあ、何から話したものかな?」
亮が出て行ったことを確かめて、敢は先ほど自分が腰かけていたパイプ椅子に再び腰を下ろした。
「何からって……。先輩こそ、俺に何か用があったんじゃないんですか?」
「まあね。それじゃあ、単刀直入に訊かせてもらうけど……」
敢の目が、探るようにして慶一を見る。普段の温厚そうな彼からは想像できないほど、その視線は鋭い。まるで、心の中を全て見透かしていると言わんばかりの、射抜くような視線だ。
「君、さっきのミーティングのとき、ちょっと様子が変だったよね。いつもだったら、もっと明るく飄々としていたはずなのに……いったい、どうしたんだい?」
「えっ……そうですか? 俺は別に、いつもと変わりないつもりですけど……」
「そうかい? まあ、君の気持ちもわからないではないけどね。麻生と久瀬が死んで……仲間が二人も亡くなって、普段通りに過ごせって方が無理なんだからさ」
「そりゃ……確かに、そうですけど……」
敢の言葉に、慶一は自分の胸が締め付けられるような思いだった。
麻生美幸の死は、確かにあれは事故だったかもしれない。しかし、久瀬正仁の死は、自分にも責任がないとは言い切れないのではないだろうか。
昨日、瑞希と一緒に見ていたビデオの鑑定を、正仁に頼んだのは自分だ。話の流れから仕方がなかったこととはいえ、なぜあそこで止めておかなかったのか。もし、美幸が死んだ原因があのビデオの女にあるのなら、正仁が死んだのは、あのビデオを彼が持ち帰ったからかもしれないのだ。
映像の中の女が現実世界の人間を殺す。およそ馬鹿馬鹿しい考えだったが、こうも不審な死が縦続くと、関係性を疑わずにはいられなかった。
自分の軽率な行為が、正仁を死に至らしめた。いや、それ以前に、ここ最近の映研のそのものが、美幸たちの死に関係しているのかもしれない。
あの女が映り込んだのは偶然だろうし、女が二人の死の原因であるという証拠もない。ただ、それでも慶一は、自分の中に広がる自責の念に耐えられそうになかった。例え馬鹿馬鹿しい考えであっても、これ以上の罪悪感を抱いて過ごすのは、到底我慢ができなかった。
「あの……先輩……」
恐る恐る、慶一は敢の様子を窺うようにして口を開いた。一笑にふされるかもしれないという恐れよりも、自分の中に妙な隠し事をしておく方が嫌だった。
「こんな話、今はするべきじゃないのかもしれないんですけど……」
「なんだい、高須。言いたいことがあるなら、はっきり言っておいた方がいいってこともあるぞ」
「そうですか。それじゃあ……」
それから慶一は、昨日の会室で自分が見た物を洗いざらい敢に話して聞かせた。初めは馬鹿にされると思っていたが、意外なことに、敢は最後まで慶一の話を聞いてくれた。およそ、オカルト話の類などを信じそうにない相手だっただけに、これには慶一も少々驚いた。
「なるほど……。だいたいの話はわかったよ」
全ての話を聞き終えて、敢はそっと席を立った。その顔には、先ほどの鋭く刺すような視線はない。いつも、同好会の会長として後輩たちの面倒を真摯に見る、優しく爽やかな好青年のものに戻っていた。
「すいません、先輩。なんか、こんなときだってのに、変な話して……」
「いや、構わないさ。それに、確かに僕も、あのビデオに映っていた女には薄気味悪いものを感じていたからね。麻生や久瀬が亡くなったのが、あのビデオにあるんじゃないかって考え、僕は理解できるつもりだよ」
敢の顔が、ふっと一瞬だけ柔らかくなった。
彼が映研の会長を務め、誰からも親しまれている理由。その一つに、この気さくで爽やかな態度がある。それも、単に優しいというだけに留まらず、人の話を最後まで聞いた上で、客観的に物事を判断するだけの器量も併せ持っている。
自分には到底真似できない、正に理想の先輩だと慶一は思った。変に気取って格好つけているのではなく、このような態度が素の状態で出せる。一学年上とはいえ、同じ高校生とは思えないほどに、敢は慶一から見ても大人だった。
「まあ、ここで議論していても仕方ない。君も、今日はもう帰って、後のことは僕に任せておいてくれ。久瀬が亡くなったのは悲しいことだけど、その責任を、君が一人で変に抱え込むことはないんだからさ」
「あ、ありがとうございます。なんか、それ聞いて、ちょっとは気が軽くなりました」
最後に大袈裟な一礼をして、慶一は映研の会室を飛び出した。なんだか、今までうじうじと悩んでいた自分が馬鹿みたいで、部屋を出ると無性に恥ずかしい気持ちになってきた。
あの女の正体がなんで、美幸や正仁の死因がなんだったのか。気になることは山ほどあったが、それでも最初から一人で悩む必要なんてなかったのかもしれない。
自分には、頼りになる先輩もいる。今までも、慶一や他の映研のメンバーが困った時は、必ず敢が助けてくれた。
「ま、俺が一人で悩んだところで、別に何が解決するってわけでもないか……」
黒衣の女が映り込んだ不気味なビデオと、相次ぐ映研メンバーの不審死。さすがに全てを割り切ることはできなかったが、それでも慶一は敢に自分の心の内の一部を話したことで、少しだけ気が軽くなったような感じがした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
慶一が外に出ると、そこには相変わらず曇天の空が広がっていた。梅雨時ということで仕方がないとは思うが、こうも連日で雨に降られると、空に文句の一つでも言ってやりたくなるものである。
右手に傘、左手に学生鞄を持ったまま校門に向かうと、慶一はそこに、見慣れた二人の姿を見つけた。
「あれ? あそこにいるの、亮と秀じゃないか?」
自分よりも先に帰った二人の姿を見て、慶一は首をかしげながら呟いた。あの後、自分が先輩と話をしている間、彼らはずっと学校に残っていたというのだろうか。だとすれば、なんの用があって、こんな時間まで……。
色々と気になることはあったが、とりあえず慶一は、二人のいる方へと足を進めて行った。ようやく顔がわかる辺りまで来ると、向こうも慶一に気がついたようだった。
「あっ、高須先輩!」
最初に振り向いたのは秀彰の方だった。何やら少々困った様子で、慶一の方に助けを求めるような視線を送ってくる。
「なんだよ、秀。俺が先輩と話している間に、帰ったんじゃなかったのか?」
「それが……。実は、学校から帰ろうとしたら、この人につかまっちゃって……」
そう言いながら、秀彰は横目で自分の隣にいる男を見た。そこにいたのは、背広姿の少々背の高い一人の男。年齢は、三十代半ばといったところだろうか。学校にいる若手の体育教師などよりは老けている印象があったが、それでも慶一や秀彰たちの両親に比べると、まだまだ若い感じがした。
「なあ、秀。あいつ、いったい誰だ? 見たところ、学校の先生ってわけじゃなさそうだけど……」
秀彰に言われて、慶一も訝しげな顔をしながら男の方に目をやった。学校関係者でないとすれば、あるいは新聞記者かテレビ局の関係者だろうか。美幸と、それに正仁まで亡くなったことについて、また何か色々と嗅ぎ回ろうとしているのだろうか。
同好会の仲間の死を、面白おかしく書き立てられてたまるものか。報道陣という者は無神経な輩の集まりであると考えていた慶一の中に、目の前の男に対する怒りにも似た感情が湧いてきた。
隣にいる秀彰を押しのけて、慶一はつかつかと男に歩み寄った。急に態度を豹変させた自分に秀彰が戸惑っているのがわかったが、そんなことは知ったことか。
「ちょっと……。あなた、いったい誰ですか? 俺たちの高校に、何か用でもあるんですか?」
今、男の相手をしているのは亮だ。そこに割り込むようにして、慶一は少々苛立ったような口調で言いながら男に近づいた。
「なんだい、君は? もしかして、君もこの学校の、映画研究会のメンバーかい?」
「ええ、そうですけど……。あなたこそ、いったい誰なんです? 言っておきますけど、テレビとか新聞の取材だったらお断りですよ」
相手の男は穏やかな口調で話しかけてきたものの、慶一はあえて突き放すような態度を取った。ここで甘い顔をして、自分まで変な男につきまとわれてはたまらない。それに、未だ仲間の死の原因――――少なくとも、慶一自身が原因だと思い込んでいる、あの黒衣の女の正体――――がわからないままに、更なるトラブルを抱えるのも嫌だった。
「やれやれ、随分と警戒されたものだな。残念だけど、僕は君の思っているような、テレビ局や雑誌社の人間じゃないよ」
いきなり会話に割り込まれ、更には棘のある言葉をぶつけられたにも関わらず、男は何ら態度を変えずに慶一に言った。一瞬、「なんなんだ、この男は」と思った慶一だったが、男が胸元から取り出した物を見て、さすがに言葉を失った。
「あっ……。そ、それ……」
男の胸元から現れたもの、それは、ビニールカバーに包まれた一冊の茶色い手帳だった。しかも、ただの手帳ではない。
男が手帳を開いて見せると、そこには後光を放つ旭日章が見てとれた。それを見て、慶一は目の前の男が何者であるか、瞬時に理解することができた。
「も、もしかして……警察の人、ですか?」
先ほどの強気な態度は、既に影を潜めていた。
今、自分の目の前にいる背広の男。彼はテレビ局や雑誌社の人間ではなく、紛れもない警察官だったのだ。しかも、手帳に書かれていた階級を見る限り、その辺の交番に勤務しているお巡りさんではない。
手帳に書かれていた階級は警部補。警察組織の内部に関して詳しいことは知らないが、慶一も、警部や警部補といった階級に、そう簡単になれないことくらいは知っていた。
ドラマではよく若くして警部や警視などといった階級に就いている者が登場するが、あれは全部フィクションだからできることだ。実際、警察官になるだけでも難しい試験があるという話は聞いたことがある。若手刑事という設定故に未熟な面を強調するような演出を用いられることもあるが、本来、彼らは生粋のエリートのはずだ。たかが二十代かそこらの若さで警部補だの警部だのといった階級に就けるのは、ほんの一握りの人間しかいない。
男の年齢は、見たところ三十代半ば。決して若いとは言えない年齢だが、やはり警部補という階級に就いている以上は、それなりにやり手の刑事なのだろう。そう考えると、今まで相手に舐めた態度を取っていたことが、急に恐ろしくなってきた。
「あの……すいません。俺、刑事さんだなんて知らなくって……。なんか、色々と生意気なこと言ってしまって……」
「いや、構わないよ。それより、君もこの学校の、映画研究会のメンバーなのかい?」
「はい、そうですけど……」
男は相変わらず気さくな様子で声をかけてきたが、慶一は申し訳なさそうに俯くだけだった。自分より目上の、それも警察官という相手に対し、思い込みから散々なことを言ってしまったことへの後ろめたさもあった。
「君たちの同好会のメンバーが亡くなったことは、悲しいことだと僕も思う」
刑事を名乗った男が、慶一の出方を探るようにして語りかけて来た。腰を落とし、目線の高さを合わせ、できるだけ警戒心を抱かせないような話し方をしようとしている。よく、取り調べなどで高圧的な態度を取る警察官がいるが、目の前の男からは、そういった雰囲気は感じられなかった。
「でも、こちらとしても、仕事は仕事だからね。色々と思うことはあるかもしれないけど、いくつか質問させてもらっても構わないかい?」
「は、はい……」
気がつくと、慶一は完全に男のペースに飲まれていた。恐らく、亮や秀彰も、こうして男につかまって、色々と聞きだされることになったのだろう。もっとも、こちらとしては事件の詳細など知る由もないので、大して事件の捜査に役立つようなことも言えなかった。
いくつかの簡単な質問を終え、刑事は先ほどの警察手帳とは別の手帳に、その答えを簡単に書き残した。以前、何かのドラマで見たものとは異なり、最近の警察手帳というものは、身分証明書としての役割以外を持っていないようだった。
自分のした話など、とてもではないが捜査の役に立つとは思えない。そう思った慶一だったが、僅かな情報でも逃さないようにしようという考えからだろうか。刑事は手慣れた様子で今しがた聞いた話をまとめると、手帳をしまって再び慶一たちの方へと向き直った。
「さて、と……。それじゃあ、帰ろうとしているところを引き止めて悪かったね。君たちの教えてくれたことが役立つかはわからないけど、先輩たちを殺した犯人は、必ず僕が捕まえてみせるよ」
「先輩たちを殺したって……やっぱり、二人は誰かに殺されたんですか!?」
「学校が君たちに何と言っているかは知らないけど、今のところ、こっちはその線で捜査しているよ。これ以上のことは守秘義務もあるから話せないけど……とりあえず、殺人事件ってことに間違いはない」
「そうですか……」
美幸と正仁が殺された。その事実を改めて突きつけられ、その場にいた全員の顔に影が射した。
二人の死因は黒衣の女の呪いなのか、それともまったく関係ない異常者による殺人なのか。答えは未だ霧の中にあったが、仲間が亡くなったことだけは確かなのだ。増してや、その死が異常なものとなれば、今まで通りの平穏な日常を送れという方が無理というものだ。
「心配するな。不安なのはわかるが、僕たちだって何もしていないわけじゃないんだ」
俯いたままの慶一の肩を、刑事の手が軽く叩いた。決して大きくはないが、それでもどこか力強さを感じる手だ。
「もし、何か妙なことがあったら、ここに連絡するといい。例え相手が誰であれ、これ以上の殺人は、僕だって望むところじゃないからね。君たちが、また笑って学校に通えるように、警察も全力を尽くして捜査をすることを約束するよ」
そう言いながら、刑事は最後に自分の名刺を取り出して慶一たちに手渡した。慣れないことに一瞬だけ戸惑ったものの、慶一はそれを素早く自分の制服のポケットにしまった。それを見た刑事は慶一たちに軽く手を挙げて挨拶すると、そのまま目の前に広がる通りの奥へと消えて行った。
「はぁ……。それにしても、なんか変なことになってきたっすね。刑事さんはあんなこと言ってましたけど……ひょっとして、僕たちも疑われてるなんてこと、ないっすよね?」
刑事の去った後の通りを眺めながら、秀彰が不安げな様子で呟いた。普段の気弱な性格も災いして、考え方が悪い方へ悪い方へと傾いているようだ。
いくら同じ学校の、それも同じ同好会に所属していたからといって、それは考え過ぎというものだろう。だいたい、こっちには美幸や正仁を殺すだけの理由がない。今まで何の問題もなく活動をしてきた同好会で、いきなりこんな血生臭い殺し合いなど起きるものか。
そう、突っ込んでやりたくなった慶一だったが、代わりに口を開いたのは亮だった。
「なに馬鹿なこと言ってんだよ、秀。いくらなんでも、そいつは漫画の読み過ぎってやつだぜ」
「で、でも……」
「まあ、お前が不安になるのもわかるけどさ。けど、そんなこと言ってビビってたら、余計に怪しく見えちまうぜ。それに、もしもあの刑事が言っていることが本当だったら、俺たちの街には今も先輩たちを殺した殺人犯が野放しにされてるってことだろ? 俺としては、そっちの方がよっぽどおっかないと思うけどな」
「さ、殺人犯が野放しって……。も、もしかして、その殺人犯に狙われてるのって、映研のメンバーなんじゃ……」
「さて、そいつはどうかな? ただ、用心するには越したことないだろ。もしも何か妙なことが起きたら、早めにここに連絡した方がいいだろうな」
亮が、先ほど刑事が残していった名刺を取り出して秀彰に見せる。名刺には連絡先と思しき携帯電話番号の他に、刑事の名前も書いてあった。
K県警灘岡署所属、牧原耕作。先ほどの会話で名乗ることはなかったが、よくよく思い出して見ると、警察手帳にも同様の名前が書いてあったような気がする。
「灘岡署の牧原刑事か……。なんか、ドラマに出てくる刑事さんとは、ちょっと違った感じだったな」
「現実なんて、意外とそんなもんだぜ、慶一。それよりも、俺たちも今日は、さっさと帰った方がいいんじゃねえの? また雨も降ってきそうだし、先輩たちを殺した犯人だって、まだ捕まってないんだからさ」
曇天の空を鬱陶しそうに睨みつけながら、亮が学生鞄の中から折り畳み傘を取り出して言った。
置き傘などせず、それでいて、常に不足の事態に対する用意を忘れない。こういった点で、亮は会長の敢とはまた違った冷静さを見せることがある。もっとも、どちらにせよ慶一に真似できることではないために、あまり意識したことはないが。
夏至が近づき、日が長くなっているとはいえ、それでも物騒なことには違いない。亮の言う通り、今日のような日は、さっさと家に帰って学校の宿題でも片付けていた方がいいのかもしれない。
そこまで考えた時、慶一はハッとして歩き出した足を思わず止めた。前触れもなく急に立ち止まった慶一のことを、先を行く亮と秀彰が不思議そうな顔で見る。
「どうした、慶一? なんか、気になることでもあったか?」
「いや……。実は、ちょっと学校に忘れ物してたの思い出してさ。明日までの宿題になってた、化学のレポート。あれ、途中まで書いたやつ、自分の机の中に忘れて来た……」
「なっ……! お前……こんなときに、なにやってんだよ!!」
「しょうがないだろ、そんなこと……。ってなわけで、俺はこれから、ちょっくら学校に戻ってレポート取って来るわ。お前達は、今日は先に帰ってろよ」
「ああ、わかったぜ。でも、お前も気をつけろよ。先輩たちが巻き込まれた事件のこともあるし、あまり遅くなると、マジでヤバいぜ」
「んなこと、お前に言われなくてもわかってるよ。それじゃあ、また明日、学校でな!!」
最後の方は、二人に背を向けたまま言うような形になった。先ほどまで歩いてきた道を引き返し、慶一は学校へと舞い戻る。
校門の前まで来ると、いつの間にか空の灰色が更に深みを増していた。今にも雨が降り出しそうな雲を背景に立つ校舎は、まるで不幸な冒険者を待ち構える魔王の根城のようだ。今まで何も考えずに通っていたような学校から、こんな圧迫感を覚えたのは初めてだ。
自分はただ、宿題を取りに戻るだけだ。そう、頭ではわかっていたものの、慶一はなぜか、このときの自分の中で妙な胸騒ぎがしてならなかった。