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【八ノ花】  第二の惨劇

 学校の校門前まで来ると、そこにはたくさんの人がごった返していた。下校時間中ではあるものの、ここまで人で溢れ返るのは稀である。それに、中には明らかに学校関係者以外の人間も紛れ込んでおり、慶一はしばし門をくぐるのを躊躇った。


 門の外にいるのは、間違いなく報道陣だ。その手の話にあまり詳しくない慶一でも、あれがテレビや雑誌、それに新聞社などの関係者であることは容易に想像がつく。きっと、美幸が亡くなった事件を嗅ぎつけて、早くも学校の生徒や先生などに聞き込みをしに来たのだろう。


 自分の慕っていた先輩の死を面白可笑しく書き立てられるような気がして、慶一は次の瞬間には踵を返して門から離れていた。あんな、ほとんど野次馬同然の記者達に、いったい何がわかるのか。下手なことを話したら、それこそ美幸が報われない。


 人の群れから逃げるようにして裏門の方に回ると、こちらは正門とは違って静かだった。もとより、ゴミの回収車が訪れる際以外には、殆ど使われることのない裏口である。門は閉じられていたものの、こんな鉄柵を乗り越えることくらい、高校生である慶一にとっては造作もない。


 まず、鞄を向こう側に放り投げ、それから鉄柵に足をかけて、慶一は器用にそれを乗り越えた。着地の際、足に軽い痺れが走ったが、気にせず鞄を拾って歩き出す。


 学校の裏手は住宅街になっており、この時間は特に静かだった。昨日の夜から降り続いていた雨は既に止んでおり、曇天の空の下、濡れた路地と家々だけがどこまでも続いている。


 生垣が続く通りまで来たとき、慶一はそこに、見慣れた少女の姿を見つけて立ち止まった。声をかけようかどうしようかと迷ったが、そうしている内に、向こうの方が慶一の方に振り返った。


「あら、あんたも今帰り?」


 そこにいたのは雨音だった。生垣に植えられた紫陽花を背に、携帯電話を片手に立っている。こんな場所で立ち止まっていたのは、恐らくメールでも返していたのだろう。


「なんだ、雨音か。それより、お前はこんなところで何やってんだ?」


「別に。ただ、正門の方が騒がしかったから、ちょっと別の方向から帰ろうと思っただけよ。あんな場所にいて、麻生先輩と同じ同好会にいた人間ってことがわかったら、それこそ帰れなくなりそうだったからね」


 携帯電話を折り畳んでしまい、雨音が少しばかり軽蔑したような口調で言った。どうやら、考えていたことは同じようで、雨音もまた報道陣の群れから逃げ出してきたところのようだった。


 考えが同じだったことで安心したのか、二人は揃って同じ方向に歩き出した。互いに腐れ縁のような関係だとは思っていたが、家は同じ方向にあるので仕方がなかった。


「ところで……あんた、今日の古文の授業は珍しく起きてたじゃない。この前までは連日のようにノートを借りてたけど、少しは反省したの?」


「いや、別にそういうわけじゃねえよ。ただ、麻生先輩のことが気になって、ちょっと眠るような気分じゃなかっただけだ。それに、眠いのは今でも大して変わりないぜ……」


 そう言って、慶一は大きく伸びをしながら欠伸をした。今日は色々とあって授業中に居眠りするような気にならなかったが、それでも全体的に瞼が重たいのは確かだ。これがなんでもない日であれば、間違いなく爆睡していただろう。


「なんか、昨日の夜に変な夢見てさ。実は、あまりよく眠れてないんだよな」


「変な夢? 珍しいわね。あんたがそんなこと言うなんて。で、それってどんな夢だったの?」


「それが、よく覚えてないんだよな。なんか、雨の中を歩いていたことだけは覚えてるんだけど……そこで何してたのかってのは忘れちまった。ただ、なんか物凄く疲れたってことだけは、頭ん中に残ってるけどさ」


「何それ? ま、なんだか知らないけど、もう授業中に寝るのは止めてよね。私だって、そうそう何度もあんたにノート貸せるわけじゃないんだから」


「わかってるよ、そんなこと。麻生先輩があんなことになったってのに、呑気に居眠りしているほど神経図太くないっての!!」


 最後の方は、少し強めな言い方になった。別に怒っているわけではなかったが、先輩が亡くなったというのに、いつも通り呑気に構えていると思われるのが嫌だった。


 生垣の多い通りを抜け、少しばかり広めの十字路に出ると、慶一はそこで雨音と別れた。遠ざかって行く雨音の足音を横に、慶一は軽く溜息をついて肩を落とす。


 なんだかんだで、今日は色々とあって疲れた日だった。朝、いきなり先輩の死を担任から告げられ、昨日のビデオとの関係を調べに会室へと行ったら瑞希に鉢合せた。そこでビデオを再び確認してみたら、昨日とはまた違った違和感を抱いて気味が悪くなった。そして、最後にやって来た正仁にビデオのことを任せて帰ろうとしたら、校門の前で報道陣が山のように集まっていたのだから。


 今日はもう、帰ったら早く風呂にでも入って寝てしまおう。ビデオのことは正仁に任せておけばよいし、美幸のことも、自分があれこれと無い知恵を絞ったところで何かがわかるわけでもない。


「ったく……。俺は別に、楽しく学校生活が送れてれば良かったってのに……。どうしてこう、わけわかんねえことばっかり立て続けに起こるんだろうな」


 誰に言うともなく、慶一はそんなことを呟きながら、先ほど雨音が去ったのとは反対の方向へと向かって歩き出した。そんな自分を、電柱の影から見つめている二つの瞳があることに、慶一はこの時、まったく気がついてはいなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 久瀬正仁が学校から家に戻ったのは、彼が慶一や瑞希と別れてからしばらくしてのことだった。


 白塗りの扉を開けると、そこには見慣れた玄関の景色が広がっていた。扉を開けるときに合鍵を使わなければいけなかったことから考えて、どうやら両親はまだ帰っていないようだった。


「なんだ、誰もいないのか。まあ、こっちとしては、その方が助かるけどな」


 履いていた靴を放り出すようにして脱ぎ捨てると、正仁は扉の鍵をしっかりと閉めて家に上がる。リビングに入って電気をつけると、そこには朝の食べ残しにラップをかけた物が、そのまま皿の中に残っていた。


「ったく……。もう、食い物が傷みやすい季節になってんだから、こんな感じで放っておいたりすんなよな……」


 ラップを被せられたソーセージとスクランブルエッグを目にして、正仁は思わず口にした。恐らく、これはやったのは母だろう。兼業主婦で夜遅くまでパートに出掛けているのだが、それにしても生活力の点で粗さが目立つ。これから雑菌の繁殖しやすい季節だというのに、傷んだ物を食べさせられて腹でも壊したらたまらない。


 そんな正仁の母であったが、自分の息子の生活面に関しては、思いの他に厳しかった。


 部屋を片付けていなければ、勝手に上がり込んで机の上を整理する。その際、正仁が大切にしている物であろうとも、母の中でゴミに見えたら構わず捨てられた。この悪癖のせいで、小学校時代は何度宝物を捨てられたかわからない。今では自分で机の整理も部屋の掃除もするようになったが、それもこれも、母に私物を捨てられないようにするための自衛策だ。


 また、母はテレビやゲームといった物に対して、殊更強い嫌悪感を抱いているのも特徴的だった。他の家ではどうだか知らないが、少なくとも正仁の母は、自分の息子がゲームで遊んでいる姿を見るだけで腹立たしい気持ちになるようだった。


 初め、母から怒られたとき、正仁は自分がゲームの時間を守れば良いのではないかと思っていた。学校から帰ったら何よりも早く宿題を片付け、それから遊ぶようにする。そうすれば怒られないと思っていたが、母は正仁がゲーム機に手を触れているだけで、妙に苛々して彼に当たり散らすことが多かった。


 まったくもって、独善的で感情的な母親だと正仁は思う。最近はゲームだけでなくパソコンにまで嫌悪感を示し始め、事ある毎に、「パソコンなんかやっていると、今にニートになる」と説教を垂れた。無論、それが大袈裟な考えであることは、正仁から見ても明白である。


 パソコンは、映研の作品を仕上げる際に必要な道具の一つだ。ビデオに収めた映像を繋いで編集するだけでなく、場合によっては様々な特殊効果を入れることもできる。昔は専用の機械が必要だったようだが、今では自宅のパソコンを使って、実に手軽に映像を加工できるソフトもある。


 映研の活動を続ける以上、パソコンの存在は必要不可欠。そんな万能のツールを、母の機嫌一つで取り上げられてはたまらない。今では自分の部屋に鍵をつけ、正仁は自分以外の家の者が部屋に入れないようにすることで、なんとか己の自由な空間を守っている始末である。


 荒っぽい動作で鞄を放り投げると、正仁は冷蔵庫を開けて中から缶ビールを取り出した。未成年の飲酒が法的に禁止されていることは知っていたが、あの母親の顔を思い出すと、飲まずにはやっていられない気分になってきた。


 皿のラップを外して残り物の匂いを嗅ぐと、どうやらそこまで傷んでいる様子もなかった。一人分にしても少ない量しか残っていないことだし、今日はこれを酒のつまみにしてしまおうか。


 ビールと料理の乗った皿、それに先ほど放り投げた鞄も持って、正仁は二階にある自分の部屋へと向かって行った。合鍵で部屋の扉を開け、机の上にビールと皿を置くと、パソコンのスイッチを押して画面を立ち上げる。


「っと……。あのババアが帰って来る前に、ちゃんと鍵を閉めとかねえとな」


 思い出したように呟いて、正仁は部屋の扉の鍵を閉めた。ここ最近、母からは引き籠り扱いされることが多かったが、別に疾しいことをしているわけではない。学校にも行かず、自室に籠ってオンラインゲームやエロ動画にはまっているわけでもないというのに、まったくもって余計な御世話だ。


 パソコンの画面が完全に立ち上がるのを待ちながら、正仁は缶ビールのプルトップに手をかけた。そのまま蓋を開けて中身を飲み干すと、軽い苦味と共に冷たい液体が喉を潤した。


 実は、こうして冷蔵庫の中のビールを失敬したのは、これが初めてではない。主に母の態度に腹を立てて苛立っていたとき、正仁はこっそり父のビールを失敬して飲んでいた。別にアル中というわけでもなければ、本格的に不良になりたいというわけでもない。ただ、母親への反抗心を満たしながら自分の苛立ちを押さえるには、アルコールが最適だったというだけだ。


 程なくして、パソコンが完全に立ち上がったところで、正仁は鞄の中から一枚のディスクを取り出した。今日、会室で慶一や瑞希と会ったとき、話の流れから預かることになってしまった例のディスクだ。


 自室の押し入れからビデオカメラを取り出して、正仁はそれを自分のパソコンと接続した。カメラの機種は学校で使っているものと同じなため、特に問題なくディスクを起動することができる。


 映像の収められたディスクを起動し、正仁は自分のパソコンの中に、その映像のダウンロードを開始した。こうして、まずは動画としてパソコンの中に取り込んだものを、専用の編集ソフトを使って加工してゆく。多少、慣れないと面倒な部分があるものの、これが正仁のいつもやっている編集作業の方法だった。


 画像が完全に取り込まれるのを待ちながら、正仁は小皿の上のソーセージを肴に缶ビールを飲み干した。だんだんと身体が熱くなってきて、酔いが回っているのが自分でもわかる。


「さてと……。それじゃあ、いよいよ例の女の正体ってやつを、一つ探ってみるとするかな」


 映像が完全に取り込まれたところで、正仁はまず、例の女が映った場面を一通り見直してみることにした。あの、バス停に佇む女の正体は、果たして何者なのだろうか。酒の力を借りていることもあり、恐怖心というよりは、むしろ好奇心の方が強かった。


 パソコンの画面が切り替わり、動画再生ソフトによって例の場面が映し出される。日の落ちたばかりのバス停で、切なそうな表情をした美幸が立っている。その後ろ側に、確かにあの女は存在していた。


 黒い服に身を包み、髪の毛を地面に着かんばかりに垂らした奇妙な女。ホラー映画などを見慣れていない者からすれば不気味に思えるのかもしれないが、今の正仁にとっては、その女の姿が返って滑稽に見えて仕方がなかった。


「どうやら、勘違いってわけじゃないみたいだな。それに、幽霊にしては、やけにはっきり映ってやがる。やっぱり、バス待ちの客が紛れ込んだって線が濃厚か?」


 元より、正仁はお化けや幽霊の類を信じていない。このビデオに映り込んだ女だって、絶対に何らかの方法で説明をつけることができるはずだ。それも、突拍子もない空想科学の類ではなく、極めて現実的な理論を用いて。


 そう、正仁が思ったとき、画面の中にいる女に変化が現れた。それは時間にして一瞬のものだったが、正仁の注意を引きつけるには十分なものだった。


(なんだ、今の……?)


 明らかに今までとは違う違和感を覚え、正仁は再生していた動画を一端止めた。そのまま少しだけ巻き戻すと、また同じ場面を再生する。


 美幸の後ろで、黒い髪を垂らして佇む黒衣の女。先ほどと同じ光景ではあったが、今度は正仁も画面の中の変化を見落とさなかった。


 今までは、何の動きも見せずに立っているだけだった謎の女。その女が、ほんの一瞬だけであるが、微かに動いたような気がしたのだ。


 久しぶりに飲んだ酒のせいで、画面がぶれて見えたのだろうか。もう一度、正仁は動画を巻き戻し、黒衣の女が現れた初めの方から再生した。


 間違いない。やはり、画面が切り替わろうとする最後の瞬間で、女が少しだけ肩を震わせて動いている。それだけであれば大したことはないのだが、気のせいか、少しずつ女がこちらに近づいて来ているような感じもする。


(馬鹿らしい。再生する度に映像が変わるなんて……そんなこと、あるわけないじゃないか)


 大方、これは目の錯覚のようなものだろう。それに、どうしても女の姿が気になるのであれば、最悪の場合、特殊効果を被せて女の部分だけ消してしまえばよい。同じシーンを撮影した映像は他にもあったが、気味の悪い女が映っていることを除けば、この映像の完成度が一番高かった。


 これからの作業のことを考えると、思いの他に長い夜を過ごさねばならなくなりそうだ。あまり遅くまで起きていると母が五月蠅いのだが、このディスクは学校の備品。いつまでも自分が拝借していては、これからの映研の活動にも差し障る。


「やれやれ……。それじゃあ、さっさとこの、気持ち悪い女だけでも消しちまうかな」


 両腕を天井に向けて伸ばしながら、正仁はそんなことを呟いた。その途端、口から大きな欠伸が出て、猛烈な睡魔が襲ってきた。自分では気がついていなかったが、随分と疲れが溜まっているようだった。


「うぅ、ダリィ……。なんか、まだ合宿の疲れが抜けてねえのかな……」


 久しぶりに親に隠れて酒など飲んだせいで、今まで溜まっていた疲れが一度に溢れ返ってしまったのだろうか。正直なところ、こんな状態ではまともに作業ができそうにない。


 ここは一度、仮眠してから作業に戻った方がいいだろう。あまり長く寝るつもりはないが、この睡魔に勝てる自信はない。


 ベッドの隅に転がっている目覚まし時計を一時間後にセットすると、正仁はそのまま大の字になってベッドの上に寝転んだ。耳を澄ますと、どうやら再び天気が崩れてしまったらしく、窓ごしに微かな雨音が聞こえてきた。


 しとしとと、まるで空が泣いているように、雨は街を濡らしてゆく。家も、道路も、庭の木々も、全てを包み込むようにして。


 誰もいない久瀬家の庭の紫陽花に、いつしか数匹の蝸牛が姿を現していた。降り注いだ雨は葉によって受け止められて滴となり、その上を滑るようにして大地へと落ちる。そして、そんな雨粒が撫でるようにして花を揺らし、庭の紫陽花が少しずつ赤く染まり始めた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 正仁が目を覚ましたとき、そこには闇だけが広がっていた。


 否、闇だけというのは、少々語弊があるだろう。電気の消えた部屋の中で、つけっ放しのパソコンだけが、淡い光を放っていた。


 眠たい目を擦りながら起き上がり、正仁は自分の横に転がっていた時計を見た。文字盤を見ると、既に時刻は夜の二時を示している。ほんの一時間ほど寝るつもりだったのが、随分と深い眠りに落ちてしまったようだ。目覚まし時計のアラームさえも聞こえなかったことからして、相当に疲れていたということだろうか。


 明かりをつけようとベッドから起き上がってみたが、頭が妙に重い。缶ビールの酔いが、変な形で残ってしまったらしい。


「まいったな……。夕飯時に起きなかったから、朝一番でババアの説教聞かなきゃなんねえってか?」


 この時間であれば、恐らくは両親共に帰宅しているはずだろう。しかし、ドアに鍵をかけっぱなしで寝てしまったため、当然のことながら誰も起こしには来なかった。夕食も無視して寝続けてしまったことで、朝から母親の機嫌は最悪な状態でスタートするだろう。


 そんなことを考えながら、正仁は部屋の電気をつけようと天井から下がる紐に手を伸ばした。が、紐が手に触れたその瞬間、ふと思い立ったようにして動きを止めた。


 そもそも、自分がこの部屋に入ったとき、確かに明かりをつけたはずだ。では、なぜ今になって、部屋の電気が消えているのだろうか。


 ドアの鍵は閉まったままで、パソコンさえもつけっ放し。この状況からして、母親が御丁寧に部屋の電気を消してくれたとは思えない。では、いったいどこの誰が、この部屋の電気を消したのだろう。


 背筋に嫌なものが走るのを感じ、正仁は天井の紐を素早く引っ張って明かりをつけようとした。しかし、普段であれば何の問題もなくついたはずの蛍光灯が、なぜかまったく反応しなかった。


「なんだよ。肝心なときに、役に立たないやつだな」


 蛍光灯に文句を言いながら、正仁はゆっくりと立ち上がってパソコンの画面を見た。画像の再生を繰り返すだけで眠ってしまったため、少しでも仕事を進めておきたいという気持ちがあった


 だが、それ以上に正仁が気になったのは、パソコンの画面に映し出されていたものだった。


 そもそも、いくら暗闇とはいえ、パソコンの画面がついていれば部屋が闇に包まれるようなことはなかったはずだ。スクリーンセーバーが起動していたとしても、正仁の使っているパソコンに入っているそれは、赤や青のラインが派手な模様を描いて動き回る色鮮やかなものである。単に画面が真っ暗になってしまうだけの、必要最低限の液晶保護を目的としたものとは違っていた。


 パソコンの明かりがあれば、自分はもっと早く起きられたのではないだろうか。現に今も、パソコンの画面に映し出されているものは、なんだかよくわからない黒い物体だけだ。


「なんだ、これ……。もしかして、どこか壊れちまったのか?」


 初め、正仁は画面のあまりの暗さに、思わずどこか故障でもしたのかと思ってしまった。しかし、動画を再生するためのプログラムは問題なく起動していたし、パソコンそのものにも問題はなさそうだった。


 では、この画面に映っている黒いものはいったい何か。動画の繰り返し再生を行っている際に、何かエラーでも起きて画面が暗転してしまったのか。そんなことも考えてみたが、どうも違う。動画の画面は確かに真っ黒に塗りつぶされていたが、時折、その画面が揺れたようにして動くのだ。テレビの砂嵐などとはまた異なるのだが、黒い何かが蠢いているのに間違いはない。


 いったい、この黒い物はなんだろう。そう思って、正仁が動画を一時停止しようとしたときだった。


「うわっ!!」


 突然、画面の中の黒い物が、今までとは違った動きを見せた。先ほどまで横に揺れていただけのそれが、ゆっくりと上に持ち上がるようにして動いたのだ。そして、代わりに画面に映し出されたのは、細長く黒い糸のような物の隙間から覗く真っ赤な目。それが、あのバス停に佇んでいた黒衣の女のものだと気づくのに、正仁は数秒程の時間を要してしまった。


 画面の中の女は、再生を繰り返す度にこちらへ近づいてくるような素振りを見せていた。あれは目の錯覚だと思っていたが、どうやら間違いだったらしい。正仁が寝ている間に何度も動画が再生されたことで、とうとう美幸さえも追い越して、まさに画面に密着するほどにまで近づいてしまったのだろう。先ほどの黒い物体は、限界まで近づくことで画面を塞いでしまった女の髪だったのだ。


 ビデオの映像に収められた女が、再生と同時にこちらに向かってくる。そんな馬鹿なことがあるはずないと思っても、現実にはそれが起こっている。


 理由など、到底わかるはずもない。いや、そもそも今起きていることが現実なのか、夢なのか。それさえも窺い知るための術はない。


 画面の向こう側からこちらを見据える二つの赤い瞳。血で染められたような赤さを持つそれが、普通の人間のものでないことくらいは正仁にもわかる。


「くそっ! なんだよ……いったい、なんなんだよ!!」


 動画の再生を止めようと、正仁は慌ててマウスを動かしプログラムの停止を試みた。しかし、正しい操作をしているはずなのに、彼の愛用のパソコンは、主の命令をまったく聞いてくれようとはしない。その間にも、画面の中の女の瞳が、徐々に正仁に迫ってくる。


 プログラムの停止が無駄だとわかると、正仁は主電源を強制的に落とそうとしてボタンを押した。例えコードを引き抜いたところで、内部電源が残っている以上は簡単にシャットダウンできない。ハードディスクが損傷する危険があったものの、手っ取り早く画面を閉じるには、最早強制終了しか方法はない。


「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそっ……!!」


 焦りと苛立ちを隠せないまま、正仁は何度も悪態をついてボタンを押した。が、それでもパソコンの画面が落ちることはなく、女は更に画面の向こうから接近してくる。


 既に彼のパソコンの画面は、巨大な赤い瞳が一つだけ映っている状態だった。瞳の部分だけが大きくアップで映し出され、長く垂れた前髪の向こう側で妖しく光っている。


 このまま近づかれたら、今に女が画面の中から出てくるかもしれない。普段の正仁であれば決して思いつかない考えだったが、このときは必死だった。


 暗闇の中、ボタンを叩く音と、正仁の悪態だけが虚しく響く。だが、どれだけ主電源のボタンを押そうと、悪態を吐こうと、パソコンの画面は消えることはない。


 ついに女の目が、その瞳の向こう側まで覗けんばかりに近づいた。そして、次の瞬間、画面の向こう側に正仁は確かに見たのだ。赤い、血のように燃える瞳が、にぃっと笑みの形に歪んだのを。


「う、うわぁぁぁぁっ!!」


 これ以上は、自分の感情を押さえられそうになかった。夜中であるにも関わらず正仁は大声で叫ぶと、近くにあった置物をパソコンの画面に投げつけた。


 ガラスの砕けるような音がして、画面が粉々に破壊された。瞬間、今までぼんやりと部屋を照らしていた明かりが失われ、辺り一面が闇に包まれる。


「はぁ……はぁ……」


 肩で息をしながら、正仁は思わずベッドの上に腰を下ろした。鼻筋を伝わり、額から溢れ出た脂汗が滴り落ちているのが自分でもわかる。


 あれはいったいなんだったのか。動画の中の女が再生する度に場所を変え、最後はこちらを見て笑うなどと……果たして、本当にそんなことが起こり得るのか。


 自分の常識の範疇を越えた現象に、頭がついてゆかなかった。ただ、この恐ろしい現実から逃れたい。その一心で、正仁は愛用のパソコンを破壊した。親から怒られたり、後で自分が困ったりするということは、考えになかった。


 額の脂汗を腕で拭いて、正仁は肩を撫で下ろしながら安堵の溜息を吐く。酒の酔いが見せた幻にしては、酷く悪い冗談だ。しかし、あのまま放っておけば、どうなっていたかわからない。


 画面から女が飛び出て来たか、それともこちらが画面の中に引きずり込まれてしまったか。安っぽいホラー映画のような発想しか思いつかなかったが、現実にあの瞳を目の当たりにすると、それさえも本当に起こりそうな気がして怖かった。


 自分が未だ生きていることを実感し、正仁は二つ目の溜息をこぼした。パソコンを壊してしまったのは早まったことをしたと思ったが、自分の命には代えられない。大袈裟なことと笑われるかもしれないが、あの時は本当にそう思ったのだ。


 とにかく自分は助かった。あの、黒衣の女の恐ろしい瞳から、逃げ出すことに成功した。そう、正仁が考えたときだった。


「なんだ……」


 頬を撫でる生温かい風に、正仁の中で先ほどの悪寒が再び蘇ってきた。恐怖はまだ終わっていない。そう言わんばかりの表情で、自室にある部屋の窓を見る。


 寝る前は閉まっていた窓が、大きく開いていた。宵闇の中、まるで奈落の底に誘う穴のようにして、ぽっかりと口を広げている。


 再び生温かい風が吹き、部屋のカーテンがザワザワと揺れた。外は未だ雨が降っているのか、細かい雨粒が霧となって部屋に流れ込んできた。



――――ボタッ……。



 霧が正仁の横を通り過ぎるのと、何かが天井から降ってくるのが同時だった。べったりとして、それでいて柔らかいものが顔に張り付いて、正仁は思わず手を伸ばしてそれに触れてみる。


「げえっ……!!」


 自分の指に絡みついているものを間近で見て、正仁はそれ以上何も言えずに言葉を失った。


 突き出た二つの角と、乳白色に染まった柔らかい肉。巨大な殻を背負ったそれは、正仁の指の上でぐねぐねと動き回っている。


「このっ……離れろ!!」


 自分の手の上で蠢く物体を、正仁は力任せに振り払った。彼の指に絡みつくようにして動いていた物、天井の上から降ってきた一匹の蝸牛は、そのまま壁に叩きつけられてぐったりと動かなくなった。


 いったい、なぜこんなところに蝸牛がいるのだろう。開け放たれた窓から侵入したとすれば説明はつくが、では、あの窓を開けたのはいったい誰だ。


 常識では理解できないことの連続。気味の悪い現象に立て続けに襲われて、正仁は既に冷静な判断力を失っていた。とにかく今は、この部屋から逃げ出したい。逃げ出して、階下の寝室で眠っている親に助けを呼ばなければ。


 普段、母親のことを嫌っていることなど、当に頭の中から消え去っていた。年甲斐もなく、正仁は母の顔を思い出し、自室のドアの鍵を開けようと扉に手をかけた。


 ガチャガチャと、深夜の部屋に金属のぶつかるような音が響く。が、それだけだ。鍵は既に開いているというのに、ドアはまったく動いてくれない。まるで、外から何かに押さえつけられているように、正仁が押してもびくともしない。



――――ボタッ……。



 また、蝸牛が落ちてきた。今度は正仁の上ではなく、彼のすぐ足元に広がるカーペットの上だ。


 もう、自分の上にあんな物が降ってくるのはこりごりだ。震える表情のまま天井に目をやると、正仁の身体はそこで止まった。


「あ……あぁ……」


 それ以上は、何も言葉にならなかった。部屋の天井は、既に無数の蝸牛で覆い尽くされていた。そして、その中央に陣取るようにして、レインコートに身を包んだ人間が張り付いている。およそ信じられない、重力の法則に逆らう形で、それは天井に張り付いたまま正仁の方を見つめていた。


「ふふ……ふふふふふ……」


 コートを着た人間が、正仁のことを見て不気味に笑った。フードに覆われて目元は見えないが、その口が三日月のような形に歪んでいるのだけは、暗闇の中でも何故かはっきりとわかる。



――――ボタッ……ボタッ……ボタッ……。



 次の瞬間、正仁目掛けて天井にいた蝸牛たちが一斉に振ってきた。こうなると、もう正仁に逃げ場はない。


 そもそも、逃げ出そうにも、天井全てが蝸牛と奇妙な人間に占拠されてしまっているのだ。腕で額を覆うようにして丸くなる正仁だったが、蝸牛たちは容赦なく正仁の上に降り注いでくる。


 ぬらぬらと、それでいて普段の愚鈍な動きからは信じられないようなスピードで、正仁の上に降ってきた蝸牛たちが襲いかかってきた。腕を這い、顔に張り付き、最後は口や耳といった穴の中に、我先に飛び込んで暴れまわる。


「うぅ……が……はぁ……」


 口の中に生臭い匂いが広がって、正仁は喉元を押さえたまま転げ回った。蝸牛の持つ独特の体臭と不快なぬめりもそうだが、なにより気道を封じられ、まともに呼吸をすることさえできない。


 自分がいったい何をした。何故、自分はこんな目に遭わねばならないのだろうか。そう、心の中で叫んでも、それに答える者はいない。


 窒息と、蝸牛に蹂躙されるという二つの恐怖に襲われたまま、正仁はバタバタと手を動かして懸命にもがいた。しかし、その行為を嘲笑うようにして、今度は天井に張り付いていた人間の方が、正仁の側に降り立った。


「終わりだよ……」


 スルッという音がして、レインコートの袖から銀色の刃が飛び出した。それは、先端が鋭く尖った一本の鋏。これから正仁に永遠の眠りを与えるであろう、コートの人物が用いる恐るべき凶器。


 両手で鋏の柄を持つと、コートの人物は二つの刃をゆっくりと左右に展開した。そして、未だ苦しむ正仁の顔目掛けて、躊躇うことなく銀色の牙を突き立てた。


「…………っ!!」


 悲鳴は声にならなかった。無数の蝸牛によって塞がれた口では、断末魔の叫びを上げることさえできなかった。


 ブシュッという何かの潰れるような音と共に、鋏の先端が正仁の眼球に突き刺さる。飛び散った鮮血は壁を染め、更には鋏を持った人物のコートをも返り血で染める。


 完全に視界を奪われた世界で、正仁は手と足を滅茶苦茶に振り回して抵抗した。痛い。あまりに酷い痛みに、頭がおかしくなってしまいそうだ。


 コートの人物が手にした鋏が、更に奥深く刺しこまれる。眼球を貫き、その奥にある脳髄に刃が達したとき、正仁の意識は今度こそ深く終わりのない闇の底へと飲みこまれて行った。

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