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【六ノ花】  惨劇の始まり

 麻生美幸が家に戻ったとき、外は既に大粒の雨が降っていた。


 お気に入りの傘を折り畳み、美幸はそこについた水滴を払ってから玄関の戸を開けた。傘立てに傘を入れたところで、自分の身体がどこか全体的に湿っているのに気がついた。


 六月が湿気の多い季節だということは、美幸とて知らないわけではない。だが、それでも身体に服が張り付いてくるようなこの感覚だけは、何年経っても好きになれそうにない。


「ただいま……」


 多少、疲れの入り混じった声で、美幸は奥にいるであろう母親に向かって挨拶をした。そのまま靴を脱いで家に上がると、真っ先に風呂場へと続く廊下を早足で歩いた。後ろの方から母親が何やら返事を返していたが、いまはそれに答える時間も惜しい。


 脱衣所に鞄を放り投げると、美幸は自分の着ているブレザーのボタンに手をかけた。このまま一気に脱ぎ去ってしまいたかったが、そこは昔からの癖なのだろうか。自分でもじれったいとはわかっているが、服を乱暴に脱ぎ捨てるような真似をすることには抵抗があった。


 上着と、それからシャツも脱ぎ、美幸はそれを丁寧に畳んで足元に置いた。ふと、鏡に映る自分の姿を見ると、そこには少しばかりやせ気味な自分の身体が映っていた。


 色白で、同年代の級友達と比べても細身な自分の身体。痩せていることに対して羨望の眼差しを向けられることもあったが、美幸とて今の自分に満足しているわけではない。


 雑誌のモデルのように均整の取れた身体つきの代わりに、美幸の胸はその身長に反して小ぶりだった。思わず両手で胸元を覆ってみると、なんとも言えぬ寂しい感触に溜息が出る。


 身体だけ痩せて胸だけ大きくしたいなど、それは単なる我侭だ。そう、頭ではわかっているのだが、それでも人は、自分にないものが欲しくなるものである。


「はぁ……。やっぱり、こればっかりは悩んでも仕方ないわよね。私も古河先生みたいに、もっとスタイルが良ければいいのに……」


 自分の所属している同好会顧問のことを思い浮かべながら、美幸は鏡の中にいる自分に向かって呟いた。


 もう三年生になるとはいえ、美幸はまだまだ自分が子どもだと感じるときがある。特に、明恵と一緒にいるときはそうだ。周りからは大人っぽいと評されることの多い美幸でも、やはり本物の大人の女性には敵わない。明恵は時に不良教師のような一面も見せることがあるが、それでも美幸にとっては、一種憧れの女性に近かった。


 まあ、こうして悩んでいても仕方がない。ないものねだりをしたところで、別に自分のスタイルが良くなるわけでもない。そう思いながら腰をかがめ、美幸は自分のスカートに手をかけた。


 この季節の雨は、肌にまとわりつくような霧雨になることも多い。別に、直接雨に打たれたわけではなかったが、それでもスカートは随分と湿気を含み、少しばかり気持ちが悪かった。


 このままクローゼットに制服をしまったら、夜の間にカビが生えるかもしれない。部屋干しなどしたくはなかったが、今日はそれも已む無しか。


 そんなことを缶下ながら、美幸は続けて自分の胸元を覆っているブラジャーのホックに手をかけた。が、次の瞬間、後ろから冷たい視線のようなものを感じ、思わず目の前の鏡に目をやった。


「えっ……?」


 一瞬、まさにほんの一瞬と呼べるものだったが、美幸は確かに見た。鏡の中にいる自分の後ろ側で、黒く長い髪をした女が立っているのを。


 今日の映研の会室で見た、例のビデオのことが頭をよぎる。思わず後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。


 いったい、あれはなんだったのか。訝しげに思いながら再び鏡を見てみるが、やはりそこにも何もいない。下着姿になった自分が、強張った表情をして突っ立っているだけだ。


「嫌だな、もう。あんなビデオ見たせいで、変なこと考えちゃったじゃない……」


 自分に言い聞かせるようにして呟くと、美幸は気を取り直して上の下着を丁寧に外した。今日は会室で変なビデオを見たせいで、思った以上に神経質になっているのかもしれない。さっきの女だって、きっと思い込みから見た幻覚だ。


 もともと怪談話の類が苦手だったことも相俟って、美幸はそれ以上のことを考えないようとはしなかった。できることなら、一刻も早く忘れたい。身体に張り付いた汗と湿気をシャワー流せば、そんな気分も晴れるだろう。


 そう考えて、彼女はバスルームのドアをそっと開けた。生まれたままの姿になり、窓が閉まっていることを確認して中に入る。そのままシャワーの栓を捻ると、程なくして温かい湯が彼女の身体に降り注いできた。


 自分の身体にまとわりついた、不快なものが落ちてゆく。汗が身体から離れる瞬間、お湯を浴びたときの感覚が、美幸は好きだ。


 いつしか風呂場は白い湯気で満たされて、美幸はしばしの間、至福の時を満喫した。やはり、蒸し暑い夏場はシャワーを浴びて汗を流すに限る。両親は水道代のことを考えて控えるように言うが、汗臭い身体で一日中蒸されていると、何もかもやる気がなくなってしまうのだから仕方がない。


 栗色の長い髪に指を絡ませ、美幸は手櫛でそれをすいた。パーマをかけているわけではないが、美幸の髪は直毛とは程遠い。いつも、出掛ける前にドライヤーで癖をつけているのだが、最近はそれをしなくても、自然な巻き毛になっていた。


 体中の汗を流し、美幸はほっと溜息をついてシャワーの栓を閉じた。たかがお湯を浴びただけだが、それだけでも随分と気分が変わるものだ。そう、美幸が考えたときだった。


 風呂場の窓の向こう側、すりガラスになっている部分の反対側から、美幸は妙な視線を感じて思わず顔を上げた。先ほど、脱衣所で感じたものと良く似ていたが、今度は顔を上げても消えることはない。


(やだ……。もしかして、痴漢!?)


 風呂場の窓は、その構造上、外から中が覗けないようになっている。当然と言えば当然なのだが、それでも窓の側に張り付かれて気持ちが悪くないわけがない。自分の裸を見られたわけではないのだろうが、美幸は慌ててバスタオルを纏うと、お湯の温度を熱湯に切り替えてシャワーの栓を捻った。


 窓の向こう側から感じる視線は、未だ消えずに残っている。と、いうことは、相手はまだ向こう側にいるのだろう。ならば、このまま窓を一気に開けて、ついでに熱湯のシャワーをお見舞いしてやる。


 お化けや幽霊の類は駄目。カエルやヘビなどの気持ち悪い生き物も駄目。そんな美幸ではあったものの、女の敵に対しては容赦する気持ちなど微塵もなかった。本当は怖くて仕方なかったのだが、今は風呂場に自分しかいない。ならば、このまま黙って逃げ出すよりも、相手を少しでも酷い目に合わせてやりたかった。


 バスタオルが外れないように胸元を押さえながら、美幸はもう片方の手でそっと窓の鍵を外した。そのまま窓のフレームに手をかけると、もう一方の手を胸元から外してシャワーの栓を捻る。熱湯が湯気を立てて吹きだすと、美幸はそれが自分にかからないよう注意しながら、躊躇うことなく窓を開けた。


「こ、この痴漢! 観念しなさい!!」


 震える声で叫びながら、美幸は外にいたであろう相手に向かい熱湯のシャワーをお見舞いする。が、次の瞬間、ドンッという激しい音と共に窓が揺れ、美幸は思わず肩をすくめて飛び退いてしまった。


「熱っ!!」


 痴漢に浴びせようとしていた熱湯が自分の足先にかかり、美幸は慌ててシャワーの栓を捻って止めた。どうやら、後一歩のところで相手に逃げられてしまったらしい。


「はぁ……。逃げられちゃったみたいね」


 覗きの現行犯に一矢報いることができなかったのは残念だったが、それでも美幸は安堵の表情になって肩を降ろした。正直、変質者がいなくなってくれれば、美幸としてはどうでもよかったということもある。


 だが、熱湯のシャワーを止めて美幸が再び窓ガラスに目をやったとき、彼女はそこに気味の悪い色をした手形が残っているのに気がついた。赤黒く、まるで血と泥を練り合わせたような色をしており、なんともいえぬ不快感を誘うものである。


 これは、さっきの痴漢が窓ガラスを叩いたときについたものなのだろうか。そう思って手を出してみると、指先にぬるっとした感触が伝わった。


「ひっ……!!」


 予想もしなかったことに、美幸は怯えた顔になって指を窓から遠ざけた。この手形は、痴漢が窓を叩いたときについたものだと思ったが、それは違う。奇妙な手形はこともあろうか、風呂場の窓の内側についていたのだ。


「ちょっと……。なんなのよ……」


 風呂場には、当然のことながら自分しかいない。では、この手形はどうやって、風呂場の内側につけられたというのだろうか。否、それ以前に、自分が窓の向こうから感じた視線は、本当に痴漢のものだったのか。今となっては、それでさえも疑わしかった。


「も、もうやだ……」


 こんな気味の悪い手形など、一刻も早く洗い流してしまいたい。そう思った美幸は再びシャワーの栓を捻ると、水量を最大にして手形に吹きつけた。


 お湯と水の入り混じったものが、不気味な手形を見る見る内に洗い流してゆく。幸い、手形そのものは、それほどしっかりと窓についていたわけではなかったようだ。これで洗っても消えなかったとしたら、それこそ本当に恐ろしい。原因不明の手形が残る風呂場になど、正直言って長居したいとは思わないからだ。


 やがて、シャワーのお湯で手形がすっかり洗い流されてしまうと、美幸は今度こそ終わったと思い胸をなで下ろした。が、それも束の間のこと。直ぐに新たな異変に気づき慌てて風呂場に転がっていた浴室用の椅子に飛び乗った。


 手形を流した際に、浴室の床に流れ落ちたお湯。本来であれば、そのまま排水溝に流れてゆくであろうそれが、浴室の床一面に広がっていた。どうやら排水溝が詰まっているらしく、上手く汚水が流れてゆかないようだった。


 本当は、あんな気持ち悪い手形を流した後の水になど触れたくない。しかし、ここで水を流しておかねば、後で親に叱られるだろう。


 仕方なく、美幸は黒く淀んだ水に脚を踏み入れると、排水溝の蓋を手早く開けて中を見る。黒く濁った水のせいでわかりにくかったが、どうも髪の毛の類が詰まっているらしい。


「さっき、シャワーを浴びたときには流れたのに……。どうして、今になって排水溝が詰まるのよ」


 怖さを隠すためだろうか。美幸は誰に言うともなく文句を口にしながら、排水溝の中に詰まっているものを取り除こうと指を入れた。瞬間、何かが絡みついてくるような感触があり、美幸は自分の考えが正しかったことを実感した。


 排水溝に詰まっていたのは、やはり髪の毛のようだ。自分もかなり髪を伸ばしているが、同時に抜け毛も少なくない。一本一本はたいしたものでなくとも、それが積もりに積もって排水溝の口を封じてしまったのだろう。初めの内は、そう思っていた。


 だが、排水溝から指を引き抜いたところで、美幸の顔は再び恐怖の色に支配された。自分の指に絡みつくようにして、排水溝から姿を見せたもの。それが何かを知ったとき、美幸の心は我慢の限界を越えてしまっていた。


 排水溝から姿を現したのは、確かに美幸の想像した通り髪の毛だった。しかし、ただの髪の毛ではない。


 栗色をした美幸の髪の毛とは違い、それは真っ黒な直毛の髪の毛だった。当然のことながら、美幸の家にそんな髪をした人間などいない。自分は見ての通りの巻き毛だし、母も最近は白髪を気にして髪を栗色に染めている。父に至っては、もはや言うまでもないだろう。


 指先にまとわりついた黒髪を振り払い、美幸は今度こそ悲鳴を上げて風呂場から飛び出した。本当は洗面所で手を洗いたかったが、今はそんな暇さえも惜しい。適当にタオルで身体を包むと、そのまま一気に二階の自分の部屋まで駆け上がる。


「ちょっと、美幸! あんた、なんて格好で……!!」


 下の方から、母の怒鳴る声がする。だが、今の美幸にとっては、そんなものに耳を貸す気にもなれなかった。


 映研の会室で見た奇妙なビデオ。脱衣所の鏡に映った女と、風呂場の窓についた謎の手形。そして、排水溝に詰まっていた、誰の物かもわからない不気味な黒髪。


 この数時間の間に、気持ちの悪い物を立て続けに見せられたような気がした。元来、怖い話が苦手な美幸にとって、これはもう耐えがたい苦痛以外の何物でもない。


 自分が服を着ていないことも忘れ、美幸はベッドに飛び込んで毛布にくるまった。先ほど、熱いシャワーを浴びたばかりだというのに、全身の震えが止まらない。雨こそ降っているものの、今は一年の中でも蒸し暑い季節。それにも関わらず、背中を冷たい物が走って仕方がない。


「もう……なんなの……。いったい、私が何をしたって言うのよ……」


 毛布の中で丸くなったまま、美幸は目に涙を浮かべて叫び続けた。彼女が本当に気持ちを落ち着けたのは、それからしばらくして、母が夕食の準備ができたことを告げに来たときだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夕刻から続いた雨は、夜には更に激しさを増していた。大粒の水滴が大地を打ち、瞬く間に街を濡らしてゆく。普段は大人しい顔をした河は、今や泥水の渦巻く濁流と化した。


 灰色の雲が空を覆い、夜の街を更なる闇のベールで包む。月の明かりも、星の輝きも遮って、どんよりと暗い影を落としている。


 住宅街を抜ける道では、ゴウゴウという何かの流れる音が聞こえていた。音は地面の下からしているらしく、マンホールの近くに来ると激しさを増した。どうやら下水道の中を、雨水によって増量した排水が通り抜ける音のようだった。


 深夜、既に街の住民が寝静まった時分、激しい雨の中にそれはいた。灰色のレインコートに身を包み、彷徨うような足取りで住宅街の中を通る路地を進んでゆく。腰から上はふらふらと揺れ、今にも倒れてしまいそうだったが、反対に脚の動きはしっかりとしていた。


 この夜更けに、それも雨の中、街中を歩きまわるとは何者なのだろう。その顔はフードに隠されて、男なのか女なのかもわからない。背丈は決して高くはないが、フードの奥でぎらつく目玉は、それがただの人間ではないということを物語っていた。


 ふと、レインコートを着たそれが、何かに気づいたようにして足を止めた。街灯に照らされたその場所にあったのは、満開の花を湛えた青い紫陽花。ちょうど、玖珠玉のように集まって丸くなった花が、大粒の雨に濡れている。


 コートを着たそれの手が、紫陽花の花にゆっくりと伸びた。愛でるようにして花を撫でると、花は微かに震えてそれに応える。初めはそれだけだったのだが、やがて花の方にも変化が訪れた。


 青い、それこそ晴天の空のように澄んだ色の花が、徐々に赤く染まっていった。その赤さは、紫陽花のそれにしては随分と濃い。まるで、何かの血を吸ったかのように、激しく濃厚な赤色に染め上げられてゆく。


 気がつくと、コートの者が愛でていた花だけでなく、その株についている全ての花が赤くなっていた。それを見たコートの者は、満足そうに口を笑みの形に歪ませた。


「おいで……」


 コートの者が、紫陽花の葉についている何かに手を差し伸べた。初めは葉と葉の影に隠れてわからなかったが、どうやらそれは、一匹の蝸牛のようだった。


 差し出された手に誘われるようにして、蝸牛は角を突き立てながらゆっくりと葉の表に姿を現す。そのまま釣られるようにして、コートの者の指先に這い上がった。


 ぬるぬると、まるで夢遊病の患者のように、蝸牛はコートの者の手の上を這い上がってゆく。指先から手の甲を通り、最後は手首を通って袖の中へと消えてゆく。


 気がつくと、紫陽花の葉には他にもたくさんの蝸牛が姿を現していた。そのどれもが、ほとんど何かに憑かれたようにして、次々とコートの者の前に集まって来る。


 手と足と、果ては首筋のような部分からまで、コートを着たそれは自分の中に蝸牛たちを受け入れた。そして、完全に蝸牛たちを自分の中に取り込んでしまうと、再び雨の降る街の中を歩き始めた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 深夜の自室、鼻先に冷たい物が垂れてくるのを感じて、麻生美幸はゆっくりと目を覚ました。


 闇の中、聞こえてくるのは未だ止まない雨の音。それに混ざって、水滴の垂れる微かな音が、時折彼女の耳を刺激する。



――――ピチャッ……。



 また、鼻先に水が垂れた。煩わしそうにしてふき取ると、美幸はベッドからそっと起き上がる。寝る前には気がつかなかったが、雨漏りでもしているのだろうか。


 だんだんと暗闇に目が慣れてくるにつれ、美幸を言い様のない不安が包んできた。普段の見慣れた自分の部屋なのに、どこか異質で不気味な感じがする。学校から戻ってシャワーを浴びたときのことが思い起こされ、美幸は思わず肩を震わせて小さくなった。



――――ピチャッ……。



 また、水の垂れる音がした。だが、今度は水滴が美幸の頭に落ちることはなく、音はもっと別の方でしたようだった。


「なんなのよ、もう……。こんなんじゃ、落ち着いて寝ることもできないじゃない」


 怖さを紛らわすためだろうか。美幸はあえて声に出し、ベッドから這い出して立ち上がった。


このまま暗闇の中にいては、何が起きているのかわからない。夜中に部屋の明かりをつけるのに躊躇いはあったが、今はそんなことを言っている場合ではない。


 天井から垂れ下がる紐をつかみ、美幸はそれを軽く引いた。いつもなら、これで部屋の蛍光灯が光を取り戻すはずだ。


 ところが、肝心の蛍光灯は、いつまで経っても明かりがつくような様子はなかった。試しにもう一度紐を引いてみたが、やはり何の反応もなく無駄だった。


 雨漏りに続き、今度は停電か。それとも、こんなときに限って蛍光灯が切れてしまったのだろうか。どちらにせよ、間の悪いことには変わりない。


 こうなったら、いっそのこと頭から布団を被って、雨漏りの水滴をやり過ごしてしまおうか。どうせ、漏れている箇所を見つけたところで、今の自分にはどうすることもできはしない。そう、美幸が思ったときだった。


 ぬるり、と滑り込むようにして、生温かい風が部屋の中に入ってきた。湿気を多く含んだ、梅雨時の陰鬱な空気。それに人間の吐息を混ぜ合わせたような、なんとも不快なものだった。


 たまらず首筋を押さえると、美幸はすかさず後ろを振り向いた。そこにあったのは、部屋に置かれた自分の机。その先にある小さな窓が、こともあろうか全開になっていた。


「やだ……。これじゃあ、雨が部屋に入ってきちゃうわ」


 寝る前に窓が閉まっているかを確かめたはずだが、確認をし忘れてしまったのだろうか。不審に思った美幸だったが、このまま放っておいては机の上がびしょ濡れになってしまう。眠たい目を擦りつつも、彼女が仕方なく窓の側へと近づいたときだった。



――――ピチャッ……。



 自分のすぐ真後ろで、水の滴る音がした。それを耳にした美幸は、自分の背中を冷たいものが一気に這い上がってくるような気持ちになった。


 音は、さっきよりも強くはっきりと聞こえていた。それだけではなく、今度は自分の背後から、何者かの視線まで感じられる。


 間違いない。この部屋にいるのは自分だけではない。相手が誰なのかはわからないが、恐らくは開いていた窓から侵入したのだろう。だとすれば、泥棒か、それとも変質者か。どちらにせよ、今の自分が極めて危機的な状況にいるのは変わりなかった。


 振り返ってはいけない。気づいていないふりをして、このままやり過ごさなければいけない。そう、頭ではわかっていても、美幸の顔は少しずつ後ろに傾いてゆく。


 このまま知らないふりをしても、今に後ろから刺されるかもしれない。そう考えると、もう駄目だった。


「だ、誰……」


 開け放たれたままの窓を背に、美幸は暗闇の中にいるであろう人物に向かって尋ねた。が、その言葉に返ってくるものはなく、代わりに返ってきたのは、ボタッという奇妙な音だった。


 自分の肩に何かが落ちたのに気づき、美幸はそれを咄嗟に払い落した。ぬるっとした嫌な感触が手に伝わり、思わず指を引っ込める。粘性の高く、冷たい身体をしたものが、自分の指に張り付いているのがわかった。


「ひっ……!!」


 闇の中で指を顔に近づけたとき、美幸は自分の手についていたものが何かを知って思わず悲鳴をあげた。彼女の指についていたもの。それは、一匹の巨大な蝸牛。先ほど自分の肩に落ちてきたのも、恐らくはこれだろう。


 元より、カエルだのヘビだのといった生き物が苦手な美幸のこと。真っ暗な部屋の中で蝸牛が肩に落ちてきたという事実は、それだけで美幸の精神の箍を外すのに十分だった。


「い、いやぁぁぁぁっ!!」


 指についた蝸牛を払い落し、美幸は夜中であるのも忘れて悲鳴を上げた。が、その声は外から聞こえてくる激しい雨音に無情にもかき消された。



――――ボタッ……ボタッ……ボタッ……。



 美幸の悲鳴に呼応するようにして、天井から更に蝸牛が降ってきた。肩に、頭に、腕に、そして最後は顔の側に……あらゆる場所に蝸牛が張り付き、美幸は完全に自分を見失って泣き叫んだ。


「ひぃ……ひぃ……」


 既に立っていることさえ敵わず、腰を床につけて頭を抱える美幸。その間にも、蝸牛は彼女の身体を這いまわり、服の裾や髪の毛の間からぬるぬると侵入してくる。冷たい、それでいて粘性の高いものが肌の上を動くたびに、美幸は全身に鳥肌が立つのを感じて嗚咽した。


 これはいったいなんなのか。今、自分は何か悪い夢を見ていて、うなされているだけではないのか。そう思いたい美幸だったが、現実は更に残酷な追い打ちをかける。


 最早、声を上げることさえできず、美幸は喉をつまらせながら泣いていた。その美幸の前に、闇の中から二本の脚がすっと現れる。靴は履いておらず素足のままだが、その足は酷く泥に汚れていた。


 自分の目の前に何者かが姿を現したことに気づき、美幸はゆっくりと頭を上げる。そこにいたのは、これまた薄汚れたレインコートに身を包んだ一人の人間。顔を覆うようにしてフードを被り、その表情まではわからない。ただ、闇の奥で光る二つの目だけは、しっかりと自分のことを捕えているのがわかった。


「クッ、クッ、クッ……」


 コートを着た人間が、闇の中で肩を震わせて笑っていた。表情など見えないはずなのに、相手の口元が三日月のように歪んでいることだけは美幸にもわかる。


 上半身をゆらゆらと揺らしながら、それは美幸に近づいてきた。汚れた足が美幸の部屋の床を踏むたびに、水に濡れた音がする。そして、その音に誘われるようにして、それの着ているコートの裾から先ほどの蝸牛たちがボタボタと落ちた。


「い、いや……。来ないで……」


 もう、何がなんだかわからない。何故、自分がこのような目に遭わねばならず、そもそも目の前にいるのは誰なのか。そのどれもが、今の美幸にとってはどうでもよかった。ただ、この恐怖から逃げ出したい。今の美幸の頭にあるのは、ただ純粋にそれだけだ。


 ズルッという音がして、それはコートの裾から何かを取り出した。暗闇の中で、鈍い銀色をした刃が微かに光る。先端が鳥の嘴のように鋭く尖った、一本の鋏が姿を見せた。


「――――!!」


 次の瞬間、美幸が声を出すよりも早く、それは鋏を彼女の喉元につきつけた。風船の割れたような音がして、辺り一面に鮮血が飛ぶ。


 ぐりぐりと、その刃先を喉元に押し込まれながら、美幸は自分の意識が急速に薄れてゆくのを感じていた。傷みや恐怖は不思議とない。ただ、自分の身体が冷たくなってゆくことと、この恐怖からようやく開放されたこと。その二つだけを感じながら、美幸の意識はやがて深い闇の底へと消えていった。

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