【四ノ花】 異変の予兆
気がつくと、辺りは暗闇と静寂に包まれていた。
記憶の糸を手繰るようにしながら、慶一は二、三度の瞬きをしてゆっくりと起き上がる。初めは真っ暗でわからなかった部屋の様子も、目が慣れて行くにつれ、徐々にわかるようになっていった。
(あれ……。確か、俺……先輩たちと一緒に大騒ぎして……)
慶一の目が光を取り戻して行くに従って、その記憶もまた鮮明になってゆく。自分が何をして、なぜここにいるのか。切れ切れの記憶が、少しずつ頭の中で繋がってゆく。
そうだ。自分は映画研究会の合宿に参加して、先輩たちと一緒に民宿に泊まっていたはずだ。撮影を無事に終えて、最後は顧問の古河先生も巻き込んだ宴会騒ぎに発展し、馬鹿な話に華を咲かせていた。
周りを見回すと、先輩たちは既にその辺で雑魚寝をしていた。雨音を始めとした女子たちは彼女たちの部屋に戻ってしまったのか、今はもうどこにもいない。顧問の古河先生も、飲み終えたビールの缶だけを残して、いつの間にか消えている。
「やれやれ……。なんか、変な時に目が覚めちまったな」
大きく腕を伸ばしながら、慶一は欠伸を一つして呟いた。足元に転がっていた自分の携帯電話を拾い、その液晶画面に表示された時刻を確認する。
時間は、ちょうど深夜の一時。このまま二度寝してしまってもよかったが、慶一はふと、自分がまだ風呂にも入っていないことを思い出した。
これから夏が本格的にやって来ようとしている六月の季節。部屋の湿度の高さも相俟って、慶一のシャツはぐっしょりと濡れていた。自分でも気がつかないうちに、随分と汗をかいてしまっていたらしい。
やはり、このまま二度寝するのはまずいだろう。男連中だけの合宿ならいざ知らず、明日の朝は再び女子も混ざって撮影の続きをすることになっている。
それを終えれば晴れて家に帰れるのだが、その間、雨音の愚痴に耐えねばならないことを考えると気が重かった。普段は別になんてことないのだが、こんな汗臭い格好で一緒にいたら、隣に座っただけで頭を叩かれかねない。
「やっぱ、風呂くらいは入って寝た方がいいよな」
手探りで近くにあった自分の鞄を手繰り寄せると、その中から適当な洗面用具を取り出して立ち上がる。敢も正仁も、それに亮や秀彰も完全に熟睡しており、目を覚ます気配はまったくない。
どうせなら、他の皆も起こして一緒に風呂に入ろうか。そう思った慶一だったが、すぐに考え直して誘うのを止めた。疲れて眠っている先輩たちを起こすのは気がひけたし、秀彰のような後輩を無理やりに叩き起こして風呂に誘うというのも、なんだか気まずい感じがした。
残るは同級生の亮だが、彼は慶一と違って朝に強い。万年寝坊癖のある自分とは違い、きちんと朝の六時くらいには起きて、一人で朝風呂にでも入るはずだ。
まだ眠気の残る頭をなんとか覚醒させて、慶一はそっと部屋を出た。廊下に出ると、昼間よりは涼しい空気が肌に触れて心地よく感じる。相変わらず湿度は高いが、あの暑さがないだけで随分とマシだ。
灯りの落ちた民宿の廊下は、当然のことながら薄暗かった。一応、裸電球のようなものが申し訳程度に点いているものの、それ以外にはこれといった灯りもない。
こんなことなら、懐中電灯でも持ってくればよかったか。そんなことを考えながら、慶一は誰もいない廊下を、足音を忍ばせながら歩く。他の宿泊客がいることを考えると、無暗に足音を立てて寝入り端を起こしてしまうのは申し訳ない気がした。
ぎし、ぎし、という木の軋む音を立てながら、慶一は一階へと続く階段をそっと降りる。民宿の管理人の話によれば、風呂は翌朝の八時まで自由に使ってよいとのこと。田舎の小さな宿にしては、やけに気が効いていると思った。
階段を下りた先にある廊下を進むと、程なくしてその先に風呂場への入口が見えた。先ほどから、外からは微かに雨の降る音が聞こえてくる。昼間は晴れていたが、どうやらいつの間にか雨雲がやってきていたようだ。
ふと、廊下の窓から外を見ると、そこには立派な紫陽花が咲いていた。普段であれば園芸などさして興味のない慶一だったが、そのときばかりは、なぜか紫陽花のことが気になった。
道端に備え付けられた街灯に照らされて、暗闇の中にぼんやりと映し出された大きな花。学校の花壇にも紫陽花が植わっているのを見たことはあるが、ここまで大きいのは珍しい。玖珠玉を思わせるようにして集まった無数の花びら――――正しくは、あれは花びらではなくがくの変化したものだと聞いたことがある――――が、薄明かりの下で赤い光を放っている。
紫陽花は、土の性質で色が変わる。酸性の土では青色になり、アルカリ性が強いと赤味がかるのだとか。調度、リトマス試験紙と正反対の色を示すため、小学校の頃にこの話を聞いて、頭が混乱してしまったことを慶一は思い出した
「それにしても、随分と真っ赤な紫陽花だな。なんか……まるで、血の色みたいだ」
自分でも意識しない内に、口からそんな言葉が飛び出していた。赤い花を見て血の色を連想するなど、我ながら安っぽい発想だとは思う。が、それにしても、あの紫陽花の赤さは少しばかり激し過ぎる。深夜、ぼんやりとした街灯の明かりに照らされているだけだというのに、その赤味の強さが窓の向こう側からでもはっきりとわかる。
――――赤い花を咲かせる木の下には、人間の死体が埋まっていることがある。
何かの本で読んだことのある、都市伝説の一文を思い出した。下らない、小学生の考えるような他愛もない怪談話だと思ったが、なぜかあの紫陽花を見て、そんな話を思い出した。それだけ、紫陽花の花の色が、妖しい赤色に染まっていたからだろう。
こんな時間に、しかも一人で廊下を歩いているようなときに、なぜあんな怪談話を思い出してしまったのか。心のどこかで今の状況を怖がっているのではないかと思い、慶一は気を取り直して風呂場に向かった。
「へっ、馬鹿らしい。こんな民宿の紫陽花の下に、死体なんか埋まっててたまるかよ」
誰に言うともなく、慶一は妙に強気な口調で言い放った。強がりを言っていることは自分でもわかっていたが、そうでもしないと、この妙な空気が拭えそうになくて嫌だった。
風呂場の扉を開け、慶一はそっと中へ足を踏み入れる。深夜ということもあり、当然のことながら他の客はいない。外が雨ということも相俟って、風呂場はいつになく湿った空気が漂っていたが、仕方なく慶一は浴室へと足を運んだ。
ところが、次の瞬間、慶一の後から妙な風が吹いて耳元を撫でた。浴室の入口に漂っていた、妙に湿った空気ではない。それよりも更に生温かく、べっとりとまとわりついて来るような嫌な空気。耳元で、直に口から息を吹きかけられたような、そんな錯覚さえ覚えそうな薄気味の悪い風。
思わず右手で左の二の腕をつかむと、自分でも驚く程に鳥肌が立っているのがわかった。その途端、慶一は自分の後ろから刺すような視線を感じ、思わず体ごと振り返った。
二階へ上がる階段へと、風呂場を繋ぐ短い廊下。先ほどまで自分が歩いてきたその場所には、当然のことながら誰もいない。
「なんだ……。気のせいか」
そう、自分に言い聞かせるようにして、慶一は安堵の溜息を吐いた。もっとも、仮に誰かがいたとしても、よくよく考えれば別に不思議なことなどない。自分のように、深夜の風呂に入ろうとしていた宿泊客が、同じく廊下をうろついていた。そう考えれば、自分の他に人がいても何もおかしなことはないはずだ。
気を取り直して、慶一は風呂場へと続く脱衣所の中へと足を踏み入れる。その瞬間、再び先程の妙な風が吹いた気がして、慶一はまた後ろを振り返った。
(あれ……?)
それは、時間にしてほんの一瞬のことだったのかもしれない。目の錯覚と言われてしまえばそれまでの、ほんの僅かな間に起きたこと。
だが、それでも慶一は、自分の目に映った光景が妙に頭に焼きついて離れなかった。廊下の向こう側、ちょうど二階に続く階段の辺りで、慶一は確かに見たのだ。薄暗がりの廊下の中を漂う、女の長い髪の毛を。
オレンジ色の裸電球の光の他には、特に廊下を照らすものもない。それなのに、なぜか頭の中には、風に揺れる女の髪の毛の姿が鮮明に残されている。あまりに一瞬のことで相手の顔までは見えなかったが、あれは確かに女だった。年齢などわからないにも関わらず、慶一はなぜか、それが自分と同じくらいの歳の少女に思えてならなかった。
「ったく……。なんなんだよ」
そう、吐き捨てるように口にして、慶一は脱衣所の扉を乱暴に閉めた。こんな時間に、民宿の廊下を少女が一人でうろついている。たったそれだけのことなのに、なぜか嫌な空気が全身にまとわりついて消えなかった。そしてそれは、服を脱いで風呂に入っても同じだった。
風呂場に入ってからも、慶一は先程の少女のことが気になって仕方がなかった。
別に、彼女が自分に何かをしたわけではない。それ以前に、そもそも自分が寝ぼけて見た幻覚だったかもしれないという可能性だってある。そんな女のことが気になってしまうなんて、今日はどうにも調子が悪い。自分でもわからないが、何か得体の知れない者に対して妙に怯えている。どうしても、そんな風に考えてしまうのだ。
「なんか、外の雨も激しくなってきたみたいだな。先輩たちが起きてきたら心配するだろうし……今日はもう、さっさと暖まって寝ちまおう」
適当に身体と頭を洗い、慶一は誰もいない湯船に飛び込んだ。本来であれば他の客と共同で使う民宿の風呂を、半ば貸し切り状態で使用できる。いつもなら喜んで軽くひと泳ぎでもするところだが、今日はそんな気にもなれそうにない。
両腕を広げて浴槽に寄りかかると、一日の疲れがまとめて襲いかかってきた。
そういえば、今日は暑い日差しが照りつける中、雨音と一緒に買い出しに行かされたはずだ。その疲れが、今になって出て来たのだろうか。どちらにしろ、ここは少し身体を休めた方がよさそうだ。
全身の力を抜きながら、慶一は湯船の中で目を瞑って溜息を吐いた。湯の温度は程良い加減で、熱過ぎもせず冷た過ぎもしない。温泉というわけではないのだろうが、旅館の風呂というものは、家の風呂とは違う独得の癒しを期待できる。
日中から溜まっていた疲れと張りつめていた精神が緩んだことも相俟って、慶一はいつしか湯船の中で眠ってしまっていた。頭の中では風呂で寝ることに対する危険信号を送っていたが、それでも疲労には敵わない。
外の雨が一層激しさを増して来たが、慶一はお構いなしに眠っていた。そして、そんな彼の浸かる湯船の中で、いつしか小さな泡が立ち始めた。
――――ゴボリ……。
詰まった排水管から空気が噴き出すような音がして、湯船の中に何かが浮かび上がった。黒く、細長いその物体は、まるで水の中に垂らしたインクのようにして、徐々に浴槽の中に広がって行く。
慶一は気づいてはいなかったが、それは女の髪だった。夜の闇より深く、影よりも黒い色をした長い髪。それらは水の中を漂う蛇のようにうねりながら、少しずつ慶一の方へと近づいて行く。
しばらくすると、髪は湯船一面に広がって、今にも慶一に絡みつかんばかりにうねっていた。髪は徐々に数を増やし、今や浴槽の中は黒一色に染まっている。
ぬらぬらと、まるで一本一本が意思を持っているかのようにして、黒く長い髪の毛は湯船の中を舞っていた。そして、その内の一束が慶一の腕に触れたとき、髪の毛の先が一瞬だけ微かに震えた。
「はっ……!!」
髪が腕に触れたところで、慶一が突然目を覚ました。ぬるぬるとした、まるでウナギのような何かが腕に触れたことで、一瞬にして夢の中から現実へと引き戻された。
いったい、今のはなんだったのか。得体の知れない物に触られた不安から、慶一は思わず二の腕を押さえながら辺りを見回した。が、既に湯船の中には何もなく、ただ自分の身体が浴槽の中にあるだけだった。
「やべえ……。つい、このまま風呂で寝ちまうところだったぜ」
眠たい目を擦るようにして、慶一は軽く自分の顔を濡れた手で拭った。最後に自分の腕に何かが触れたような気がしたが、恐らくは気のせいだろう。このときは、その正体について考えようなどという発想は、当の慶一にはまったく湧いてこなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌朝は、昨日の夜の雨が嘘のように晴れた天気だった。山の向こう側から昇った朝日が、澄みきった空の下に広がる村々を優しく照らしている。
柔らかな朝の光に包まれて目覚める至福の一時。だが、神というのは残酷なもので、そんなことを慶一に考えさせる余裕すら与えてくれなかった。
ドカッ、という音と共に、尻の辺りに響く鈍い痛み。この攻撃は以前にも食らったことがあるので、仕掛けてきた相手が誰なのか、大方の予想はつく。
眠たい目を擦りながら、慶一は毛布の中から面倒臭そうに顔を出した。果たして、彼の予想は正しく、そこにいたのは皆口雨音。既に彼女は服を着替え、慶一のことを冷ややかな目線で見つめていた。
「ちょっと、慶一。あんた、いつまで寝てるつもりなのよ。もう、他の人は朝の支度済ませてるんだから。早く起きなきゃ、先輩や先生、それに旅館の人にも迷惑でしょ!!」
「うっせえなぁ……。お前に言われなくたって、俺だってわかってるよ。ただ、ちょっとぎりぎりまで寝てたかったってだけでさぁ……」
「なによ。人が折角、親切で起こしてあげたってのに。少しは感謝くらいしたらどうなの!?」
「いきなり寝ている人間の尻を蹴り飛ばしておいて、よく言うぜ。そういうお前こそ、もう少し女の子らしい起こし方ってのできないのか? さっきのあれは、ほとんど鬼嫁とかそっち系の人間の起こし方だろ……」
「なっ……! 鬼嫁って、あんたねぇ!!」
正に、売り言葉に買い言葉。山村の爽やかな朝は一瞬にして崩壊し、慶一と雨音の痴話喧嘩の舞台に成り果てた。
とくに≪鬼嫁≫の一言が決定打だったのか、雨音は完全に怒っている。慶一が起き上がるよりも早く、彼女は感情に任せるまま、布団の上から慶一の胸を踏みつけた。
「ぐぇっ……! お、おい、やめろ、雨音! こっちが寝てるからって、先制攻撃は反則だぞ!!」
「うるさーい! 文句があるなら、さっさと起きて顔でも洗いなさいよ!!」
「ああ、はいはい、わかりましたよ……。ただ、お前さぁ……」
これ以上、雨音に不当な暴力を振るわれては敵わない。観念したのか、慶一もそれ以上は逆らう素振りを見せず、渋々と布団から這い出しながら雨音に言う。
「なによ。まだ、何か文句でもあるの?」
急に大人しくなった慶一に、雨音も訝しげな顔をして訊いた。その間にも、慶一は布団から這い出しながら、気まずそうな視線を向けて言葉を続けた。
「お前……その……下、見えてるぞ」
「なっ……!!」
今まで慶一のことを踏みつけていた雨音が、慌ててスカートを押さえて後ろに下がった。
慶一にしてみれば、親切心から言ってやったことである。が、先日の映研のミーティングでもあったように、雨音にとってこれは地雷だ。
案の定、スカートを押さえる雨音の顔が瞬く間に赤くなり、同時に眉が物凄い勢いで吊り上がってゆく。慶一がしまったと思ったときは、もう既に遅かった。
もっとも、慶一も慶一であるが、雨音も雨音である。スカートを穿いた状態で相手を踏みつければ、その中身が見える可能性くらい考えねばならない。それを考慮せずに二度も慶一のことを踏みつければ、同じ結果になることくらいは簡単に想像ができたのだが。
「おのれぇ……。一度ならず、二度までも!! もう許さないわよ、このスカート覗き魔!!」
「ちょっ……勘弁してくれよ! だいたい、なんで俺がお前のパンツなんか好き好んで見なきゃなんねぇんだ! 今だって、お前の方が勝手に見せたようなもんで……」
「なによ、それ!? それじゃあ、まるで私が痴女みたいな言い方じゃないのよ!!」
「いや……。別に、そういうわけじゃないんだけどさ……」
目の前で怒りのボルテージが上がり続けている雨音を、なんとか落ち着かせようと慶一は頑張って見た。もっとも、そんなことで雨音の怒りが静まるのであれば苦労はしない。
案の定、次の瞬間には雨音の強烈な平手が慶一の頬を直撃し、朝の旅館に乾いた音と情けない少年の悲鳴が響き渡った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
結局、その日の朝にあった騒動は、慶一が雨音に一方的に平手打ちを食らったことで終わりを告げた。
あの後、慶一はなんとか仕度を済ませ、旅館の人に謝って遅めの朝食を出してもらった。朝から飯を食いっぱぐれなかったことだけが、不幸中の幸いだ。
「それじゃあ、僕たちはこれで帰ります。明日からは学校もあるんで……短い間でしたけれど、ありがとうございました!!」
会長の敢が、映研を代表して旅館の人に挨拶をしていた。色々と迷惑をかけたのではないかとも思われたが、旅館の人たちは、皆一様に笑顔で映研のメンバーを送り出してくれた。
「さあ、皆。準備ができたら、早くバス停まで移動するわよ。次のバスを逃したら、もう一時間ほど待たないと、駅に向かうバスが来ないんだから」
そう言って、顧問の明恵が生徒たちを急かす。慶一たちも慌てて旅館の人に挨拶を済ませると、早足でその場を後にした。
雨上がりの村は、田舎独得の草の匂いが広がっている。都会ではついぞ感じることのできなくなった、どこか懐かしい日本の昔ながらの香り。朝の騒ぎなどついぞ忘れたようにして、雨音も今では普段の様子に戻っていた。
「わぁ、先輩! あんなところに、紫陽花が咲いてますよ」
バス亭へ向かって歩き出した慶一の手を、瑞希が軽く引っ張りながら言った。その言葉に慶一と瑞希だけでなく、今まで歩いていた女性陣たちがこぞって足を止めた。
「あら、本当ね。それも、随分と大きな紫陽花ね。旅館の裏に、こんな立派な花があったんだ……」
珍しく、雨音も旅館の裏手にある紫陽花に見惚れているようだった。植え込みそのものが塀の役割を果たしているのか、向こう側はそのまま旅館の裏手に当たる。調度、旅館の風呂場へと続く廊下から見える、ちょっとした庭のような場所に行きつくのだろう。
「それにしても、随分と大きな紫陽花ですよねぇ。ボク、こんな大きなやつ、生まれて初めて見ましたよぉ」
都会育ちの瑞希にとっては、こんな田舎の村に咲いている花でも珍しかったのだろうか。
紫陽花などそこら中に、それこそ、この村の中では腐るほど見つけることができる。三年生の先輩たちがこの村を撮影場所に選んだのも、何を隠そう、紫陽花で有名な村だからだ。今の季節、観光客こそ少ないが、≪アジサイの咲く頃≫というタイトルの映画を撮影するにはうってつけだったといえる。
人の頭ほどもある大きさの花塊に触れようと、瑞希がそっと手を伸ばしたときだった。
突然、植え込みが軽く揺れて、中から掌ほどの大きさの何かが飛びだして来た。一瞬、何が起きたのかわからずに、固まってしまう瑞希。そして、現れたものの正体がわかったとき、初めに悲鳴を上げたのは三年の美幸だった。
「きゃっ!!」
女の子らしい、甲高く切れるような声を上げて、美幸は反射的に側にいた慶一の腕に飛び付いた。慶一が下を見ると、そこにいたのは一匹のアマガエル。どうやら瑞希が紫陽花に近づいたことで、驚いて飛び出してきたもののようだった。
「なんだ、カエルじゃないですか。大丈夫ですよ、先輩」
「う、うん……。でも、私、昔からヘビとかカエルとか、そういうの駄目で……」
「だから、大丈夫ですって。こいつ、別に何か悪さするようなやつじゃないですし」
そう、慶一が言っている間にも、アマガエルはピョンピョンと跳びながら別の植え込みの中に消えていった。ヒキガエルなどと違い、慶一は別にそこまで気持ちの悪いものだとは思っていなかったが、カエルがいなくなったことで、美幸はややもすると大袈裟に思えるような素振りで胸を撫で下ろしていた。
「はぁ……。もう、いなくなったわよね?」
「ええ、もういませんよ。それと……そろそろ、俺の腕を離してくれると助かるんですけど……」
「あっ! ご、ごめんね、高須君!!」
そう言われて、美幸は慌てて自分がつかんでいた慶一の腕を離した。意識せずに腕をつかんでしまったことを、純粋に申し訳なく思ったのだろう。
「ちょっと、慶一! あんた、なに朝っぱらから先輩といちゃついてんのよ!!」
美幸が慶一の手を離した瞬間、間髪いれずに雨音が突っ込みを入れてくる。今朝のできごとが頭の中でフラッシュバックし、慶一は再び身の危険を感じて引き下がった。
「なんだよ。別に、お前には関係ないだろ。それに、俺の腕をとってきたのは、先輩からだったんだしさ」
「でも……麻生先輩とくっついてた時の高須先輩、なんか目がいやらしかったですよぉ。やっぱり、二人ってそういう関係だったんですかぁ?」
先ほどまで紫陽花に興味を向けていた瑞希も、慶一のことを少しばかり白い目で見て言った。普段は慶一の味方をしてくれるはずの彼女だが、こんなときに限って手厳しくなるから困りものだ。
「別に、俺と麻生先輩は、そんなんじゃないってば。頼むから、これ以上雨音を怒らせるようなことを言わないでくれよ」
「そうですかぁ? まあ、先輩がそこまで言うなら、ボクも信じますけどぉ……」
「頼むぜ、まったく。ああ見えて、雨音は怒ると怖いっての、お前も知ってるだろ」
最後の方は耳打ちするような形で、慶一は瑞希に言った。後ろでは雨音が未だ訝しげな表情でこちらを睨んでいるが、下手に突いてまた怒らせるのもよくないと思った。
「おい、何やってんだ、お前たち。早くしないと、バスの時間に間に合わなくなるぞ」
慶一たちのいる場所から少しばかり先の方で、正仁が彼らを呼んでいた。美幸がアマガエルに驚いている間に、いつの間にか置いて行かれてしまったようだった。
「あっ、すいません! 今すぐ行きます!!」
雨音が手を振って正仁の言葉に答え、慶一たちもそれに続く。最後にその場を離れるとき、慶一はふと妙な違和感を覚え、先ほどカエルの飛び出してきた紫陽花の植え込みにもう一度目をやった。
(あれ……? あの紫陽花……)
昨日、風呂場に行くとき、廊下の窓から見た紫陽花の花。あれは確か、血のように赤い色をした花ではなかったか。
しかし、今、慶一の目の前に咲いているのは、誰がどう見ても青い色をしている紫陽花だった。場所から考えて、この紫陽花が昨日の夜に見た紫陽花であることに間違いはない。ならば、旅館の方に向いて咲いている花が赤で、道端の方に向いて咲いている花が青だったということだろうか。
一本の紫陽花の枝に、異なる色の花が咲く。そんなことが、現実的に起こり得るものなのか。それは、慶一にもわからない。
紫陽花の色と土壌の性質の関係については、慶一も簡単な話しか知らなかった。そのため、そのときは特に不自然に思わずに、さっと横目で流して仲間たちの下へと走り去ってしまった。