【エピローグ】 終わらない話
劇場が燃える。
瑞希の放った最後の抵抗により、廃屋となった劇場跡は、今や赤黒い炎に包まれていた。
遠くから聞こえる、パトカーと消防車のサイレンの音。それらを後ろに聞きながら、慶一と雨音、それに牧原は、燃えて行く劇場の姿を何も言わずに見つめていた。
(瑞希……。ごめんな……)
自分が瑞希の想いに答えられなかったこと。そのことが、今更になって悔やまれた。
堀井有紗が憑依してからの瑞希が、どこまでが本物で、どこまでが怨霊による演技だったのか。今の慶一たちには、それを知るための術はない。だが、それでも、最後に見せた瑞希の精一杯の抵抗。あれを見る限りでは、瑞希の抱いていた想いだけは、紛れもなく本物だと慶一は思えた。
「畜生……。結局、俺は何もできなかった……」
慶一の口から、思わずそんな言葉がこぼれた。気がつくと涙が頬を伝い、両手の爪が掌に食い込んでいた。
赤黒い、化け物のような炎を舞い上がらせながら、劇場は更に激しく燃えて行く。その中から吐き出される熱風に乗って、慶一の前に一枚の紙が飛んで来た。
「これは……」
それは、慶一にも見覚えのある、古びた脚本の一部だった。あの、≪魔窟≫で発見した、今回の事件のきっかけとなった脚本の一部だ。
恐らくは、瑞希に憑いた堀井有紗が、この劇場に隠していたものだろう。本当は、自分と雨音を始末した後、これを持って逃げるつもりだったのだろうか。それとも、全てを成し終えた証として、瑞希の身体もろとも何もかも焼き払ってしまうつもりだったのか。
その、どちらでも、今の慶一には関係なかった。
堀井有紗の怨念が宿る脚本は燃え、全ては炎の中に消えた。これで、今度こそ本当に、あの恐ろしい悪夢から解放されたのだ。
「ねえ、慶一……」
隣にいた雨音が、唐突に慶一の手を握ってきた。一瞬、何をされたのかわからずに、慶一は慌てた顔をして雨音を見た。
「な、なんだよ、雨音。俺、また何かしたか?」
「そうじゃないの。ただ……私たち、生きてるんだよね……」
「ああ、そうだな。俺たちは生きている……生きているんだ……」
それ以上は、何も言葉にできなかった。今はただ、雨音と二人、生き残ったことに対する喜びを噛み締めたい。
慶一の腕をとり、その胸に飛び込むような形で、雨音が慶一に体重を預けて来た。そんな雨音を、慶一は無言のまま抱き締める。雨音は慶一の胸の中で、声を押し殺して泣いていた。
堀井有紗の怨霊によって、自分と慶一以外の仲間を全て失ったこと。先輩として、仲間として、瑞希のことを救えなかったこと。それでもなお、自分が今、こうして生きていられること。様々な想いが交錯し、雨音自身、自分でも何を考えて泣いているのかさえわかっていなかった。
雨音の頭を抱えるようにして抱いている慶一の足下で、呪われた脚本の最後の一枚が、橙色の炎に食われるようにして燃え尽きた。サイレンの音が近くなり、劇場の炎が更に燃え上がろうとしたそのとき、曇天の空から降り注いでいた霧雨が、大粒の雨に姿を変えた。
(雨、か……)
天より降りし無数の水が、劇場を覆う赤い怪物を駆逐してゆく。堀井有紗の怨念をそのまま形にしたような紅蓮の炎が、徐々にだが確実に勢いを失ってゆく。
身体が濡れることなど、今はどうでもよかった。未だ泣き止まぬ雨音を腕の中に抱いたまま、慶一は炎が鎮まってゆく光景を、無言のままじっと見つめている。
やがて、到着した警察と消防によって、慶一と雨音は保護された。牧原に連れられて車に乗ろうとした慶一が劇場の方を見ると、その脇には青い紫陽花が、大粒の雨に打たれて揺れていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
白い壁を四方に囲まれた病院の一室で、牧原は再び石鎚勝を前にしていた。
げっそりとこけた頬に、ぎょろりと飛び出した二つの目。そして、その下に色濃く残るどす黒い隈。これで会うのは二度目だが、やはりこの顔は何度見ても見慣れるものではないと思う。
「よう、刑事さん。また会ったな」
組んだ両手で口元を隠したまま石鎚が言った。その手に隠されてはっきりと見えたわけではないが、牧原には石鎚が、ガラスの壁の向こうで笑っているのがわかった。
「今日は、君に知らせたいことがあってね。あの、例の高校生連続殺人事件だが……犯人の女子高生が死亡する形で、無事に終わりを迎えたよ」
「ほぅ……」
「君の言っていた、堀井有紗とかいう人間の怨霊だが……それも、同時に消滅したようだ」
業火に包まれて消えた瑞希のことを思い出しながら、牧原はガラス壁の向こう側にいる石鎚に向かって話していた。
小鳥遊瑞希が石鎚のような二重人格障害を抱えていたのか、それとも石鎚の言う通り、堀井有紗の怨霊に憑依されていたのか。全てが炎の中に消えてしまった今となっては、牧原にも確かめる術はない。
だが、少なくとも、堀井有紗の怨念が込められているとされる脚本まで燃え尽きたことにより、これ以上の事件は起こらないだろうと思われた。
「事件の犯人が死んでしまったことは残念だが、これで君も、もう堀井有紗の怨霊に怯えて暮らすことはない。ここを出られる日も、そう遠くないうちに訪れるだろうさ」
二十年間、堀井有紗の怨霊がいると主張し続け、多重人格障害や妄想障害と診断されてきた石鎚勝。そんな彼も、これでようやく苦しみから解放されるだろう。これからは、幽霊の影に怯えて生きることもなく、徐々に普通の生活に戻れるに違いない。そう、牧原は信じていた。
ところが、そんな牧原の考えとは裏腹に、石鎚は椅子に腰かけたまま、小刻みに身体を震わせて笑いだした。
「うっふふふふふっ……あひゃっ……うひゃひゃひゃひゃっ……!!」
堀井有紗の高笑いとはまた違う、それでいて、誰しもに生理的な不快感を覚えさせる狂った笑い声。あまりに突然な石鎚の豹変ぶりに、牧原は思わずガラス壁に手をついて向こう側にいる石鎚に向かい叫んだ。
「おい、何がおかしい! 堀井有紗の怨霊は消えた。そして、今回の事件の犯人も死んだ。全ては炎に焼かれて終わったはずだ!!」
「くっ……くはははっ……。いや、すまねえ。あんたの発想が……脳みそが、あまりにおめでたかったもんでな」
「なんだと! それはいったい、どういう意味だ!?」
「どういう意味もなにも、そのままの意味だぜ。堀井有紗は、もともと死んでいるんだぞ? そんなやつを、何の力も持たないあんた達が、いったいどうやって倒すってんだ?」
懸命に笑いを堪えながら、それでも我慢できない様子で、石鎚は身体を震わせながら訊いてきた。そして、返答に詰まる牧原を他所に、その大きな眼をカッと見開いたまま、牧原に向かって話を続けた。
「あいつは……堀井有紗は、あんたが考えている以上に狡猾なやつさ。嘘と真実を……素顔と演技を巧みに織り交ぜて、決してその本心を見せようとはしない。そんなやつが、そう簡単にこの世から消えてなくなると思うか?」
「し、しかし……現に、堀井有紗の怨念が宿るとされた脚本は、劇場と一緒に燃え尽きたんだぞ。それに、彼女に憑依されていたという子も、劇場の火事に巻き込まれて死んだ。それでも君は、堀井有紗が滅びていないと……そう言うのか?」
「ああ、その通りだぜ、刑事さん。あいつは何の保険もなしに、自分の正体をあんた達に晒して戦いを挑むようなやつじゃない。消えたとみせかけて、どこかに必ず最後の罠を仕掛けている。そういうやつなんだよ……」
口元を隠していた両手を下げて、石鎚がにやりと笑った。ある意味では、堀井有紗よりも、この男の方がずっと恐ろしい。そう思わせんばかりの、不気味で不快な笑みだ。
「堀井が俺を生かしておいたのは、まあお情けみたいなもんだろうな。俺が脚本を倉庫の奥に封印して、誰の手に触れることもないようにすること……。そこまで読んで、俺のことを最後まで生かしておいたのさ」
「だが、その脚本も今はない。君の言う堀井有紗は、既に消えたんじゃないのか?」
「ふふふ……。随分と頭の固い男だな、あんたも。だから言っただろう? 堀井有紗は、何の計画も無しにあんた達を呼び出すような間抜けじゃない。必ずどこかに、保険になるものを用意しているってな」
事件はまだ終わっていない。そう言いたげな表情で、石鎚は牧原をじっと見つめたまま喋っていた。
堀井有紗の怨念が宿る脚本は燃え尽き、憑依されていたはずの小鳥遊瑞希も死んだ。劇場も、瑞希も、堀井有紗の情念も全て焼き払われ、全ては無に帰したのではなかったのか。
事件は解決した。そう思いたい牧原だったが、それでも彼の背中を言い様のない不安感が襲ってくる。
堀井有紗は、最後まで罠を仕掛けている。そんな石鎚の言葉が、牧原は自分の中で何度も繰り返されて離れなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
灘岡高校の一室で、古河明恵は独り自分の荷物をまとめていた。
合宿開けから映研を襲った、おぞましい高校生連続殺人事件。明恵が顧問を務める映画研究会の面々の内、その五人までもが命を落とし、更には近所の神社の神主まで巻き込まれた最悪の猟奇殺人事件である。
警察からの報告を受け、学校は映画研究会を実質上の活動停止とした。余計なことを勘繰られ、変に報道されるのを防ぐために、廃部にされなかったのが唯一の救いか。もっとも、それでも失ったものは決して小さくはなく、明恵は事件の解決した翌日には校長から姉妹校への転属を命じられた。
映研の活動を休止させ、倉庫も封印し、果ては顧問の講師さえも左遷する。そうやって、周りの人間のほとぼりが冷めたところで、初めて何事もなかったかのようにふるまうことができる。それが学校側の出した、今回の事件に対する結論だった。
警察の話では、二十年前にも同様の事件が灘岡高校であったという。当時の明恵は子どもであり、この地域に住んでいなかったことも相俟って、そんなことがあったなど知る由もなかった。恐らく、二十年前の事件もまた、学校が同様の手口で揉み消したのだろう。
この校舎とも、今日限りでお別れだ。学校が、自分の異動をどのように生徒たちに説明するのかは興味がない。ただ、利用されるだけ利用されて、トカゲの尻尾を切るように捨てられる。そんな学校のやり方に、明恵は怒りにも似た感情を覚えていた。
このまま自分がいなくなっても、全てが終わるわけではない。慶一と雨音が卒業し、事件が人々の記憶から消え去っても、亡くなった映研のメンバーが帰ってくることは決してない。
気がつくと、明恵は自分の鞄を片手に映研の会室の前までやってきていた。
この部屋に入れるのも今日で最後。事件のことを考えると胸が痛んだが、それでも明恵にとっては思い出の残る大切な場所だ。
そっと、音を立てないように扉を開けると、そこには見慣れた映研の会室が広がっていた。
「ふぅ……。皆、いなくなっちゃったわね……」
誰も答える者などいない。そうわかっていても、声に出さずにはいられなかった。
教え子たちが次々に殺され、最後まで生き残った雨音と慶一にも、映画研究会の顧問として関わることはもうできない。自分には何もできなかったことに一抹の寂しさを覚えながら、明恵が部屋を立ち去ろうとしたときだった。
突然、何かが弾けるような音がして、部屋に置かれていたテレビのスイッチが入った。
自分は別に、何かをいじったわけではない。訝しげに思いながらテレビに近づくと、そこにあったのは一台のビデオカメラ。その配線はテレビに直接繋がれており、中に入っているディスクの映像が再生されているようだった。
薄暗い、陽の落ちたばかりのバス停で、ワンピースに身を包んだ少女が儚げな表情を浮かべて佇んでいる。今は亡き、麻生美幸の演じるヒロインの姿。そして、その後ろでこちらを見据えるようにして立っている、黒く長い髪をした黒衣の女。
「ちょっ……、なんなのよ、これ!?」
あまりに唐突なことに、明恵は目の前で起きている現実が何なのかさえわからなかった。
なぜ、ビデオが急に動きだし、テレビが勝手に点いたのか。合宿で撮影された映像を収めたディスクが、どうしてここにあるのか。そして、そもそも使われなくなった会室に、ビデオを持ち込んで接続したのは誰だ。
そう、明恵が考えている間にも、画面の中の黒衣の女は、徐々にこちらに近づいてきた。柳の枝のようにしなる髪を風になびかせて、その隙間から覗く赤い瞳をこちらに向けて、実にしっかりとした足取りで歩いて来る。
このままでは危ない。明恵の本能が危険を告げ、それに従うままに、明恵はビデオの電源を切ろうとスイッチに手をかけた。
――――バチッ!!
黒衣の女が画面いっぱいに近づいたところで、部屋の電気が唐突に切れた。テレビもビデオも、それに部屋の蛍光灯も、全てが一度に光を失った。
薄暗がりの部屋の中、ビデオのスイッチに手をかけていた明恵がゆっくりと立ち上がる。その瞳に、既に以前の輝きはない。
仄暗く、どんよりとした底知れぬ闇を瞳に湛えたまま、明恵は静かに顔を上げた。そして、自分の身体の動きを確かめるように指先を動かすと、実に満足そうな笑みを浮かべて呟いた。
「消させないよ……誰にも……」