【弐拾弐ノ花】 中から出る者
襖を開ける音に慶一が目を覚ますと、そこには雨音が立っていた。
「ん……。なんだ、雨音か……」
眠たい目を擦りながら、慶一は這うようにして押入れの外に出る。いったい、今は何時なのか。ふと、窓の外に目をやると、東の空が白み始めていた。
「なんとか起きてくれたわね。まあ、あのまま押入れの中で爆睡されても、こっちが困るんだけど……」
「まあな。正直、押入れの中じゃ、あまり眠れなかったけどな」
そう言いながら、慶一は大きく伸びをして立ち上がった。着の身着のままで寝ていたので、首回りが痛くて仕方がない。
昨日、雨音の祖母である節子の提案で、慶一は雨音の部屋に泊まることになった。が、実際に泊まるとなれば、色々と面倒なことになる。それこそ、雨音の両親に説明したり、自分の両親に了解を取ったりしなければならない。
堀井有紗の怨霊に狙われているから、魔除けのある雨音の部屋に泊めて欲しい。そんな理由で自分の娘の部屋に男を泊める親など、どこを探してもいないだろう。苦肉の策として慶一が選ばされたのが、雨音の部屋の押入れに隠れて過ごすということだった。
押入れの中はカビ臭く、はっきり言って長居したいとは思えない場所だ。その上、襖を開けたすぐ外に雨音が寝ていることを想像すると、不覚にも頭に血が昇って眠れなかった。
もし、自分の中に堀井有紗が潜んでいるのなら、寝ることによってそれが目覚めてしまうのではないか。そんな疑念は、とっくの内に吹き飛んでいた。むしろ、堀井有紗とは違う魔物が、自分の中で目覚めてしまいそうで大変だった。
――――夜の間にちょっとでも押し入れから出たら殺すからね。
昨日、雨音が節子の部屋で言っていた言葉が、慶一の脳裏に蘇る。普段は憎まれ口を叩いてはいるが、それを抜きにすれば、雨音は十分に美少女の部類に入る。そんな相手が隣で寝ていることを考えて、あれこれと想像しない方が無理というものだった。
まあ、何はともあれ、これで自分の中に堀井有紗がいないことが証明された。もし、本当に堀井有紗が潜んでいたならば、昨晩の内に雨音を殺していてもおかしくない。
「それじゃあ、私は着替えるから、慶一は先に外に出てて。お父さんとお母さんは、まだ寝てるけど……くれぐれも、二人を起こさないように注意してよ」
「わかってるよ、そんなことは。俺だって、お前の親が起きてくる前には、ここを退散しなきゃいけないと思ってるさ」
そう言いながら、慶一は改めて目を擦り雨音を見た。いつもの学校で見慣れている制服姿ではなく、目の前の雨音は寝巻のままだ。昨晩は風呂場で着替えて来たために見ることができなかったが、こうしてみると、雨音も随分とスタイルが良い。
「ねえ、どうしたの? 私の顔、なにかついてる?」
「えっ……。いや、別に……。ただ、お前の寝巻姿見てたらさ、結構気痩せするタイプなんじゃないかなぁ~、なんて思ったりして……」
「なっ……!?」
さすがに今のは失言だった。そう、慶一が気づいたときには、既に遅かった。
慶一が身構えるよりも早く、雨音の鋭い平手が襲いかかった。早朝の雨音の家に、慶一の頬を叩く渇いた音が響き渡る。
「もう! 朝っぱらから、どこ見てんのよ! この変態!!」
「痛ってぇ……。そっちこそ、いきなり何すんだよ! だいたい、そんなにデカイ声出したら、お前の親が起きちゃうだろ?」
「元はと言えば、あんたが悪いんでしょ! それよりも、早く外に出てくれない? このままじゃ、私も着替えるに着替えられないじゃない!!」
慶一の頬を叩いたことなどお構いなしに、雨音は胸元を押さえながら慶一に言った。こうなっては、慶一としても仕方がない。あまり騒ぐと本当に雨音の両親が起き出し兼ねず、そうなっては一大事だ。
未だ痛みの残る頬を押さえながら、慶一は荷物をまとめると、そっと音を立てないようにして部屋を出た。廊下を抜けて玄関に辿りつくと、鞄の中から靴を出してそれを履く。最後に、できるだけ大きな音がしないように気をつけながら、慶一は雨音の家の扉を開けて外へ出た。
早朝の清んだ空気が、慶一のことを迎えて来た。こんな清々しい朝など、随分と久しぶりだ。もっとも、主に睡眠不足から来る疲労感のせいで、完全に朝の空気を堪能できたとは言い難い。それに、そんな慶一の気持ちをぶち壊すかのようにして、早くも西の空から灰色の雲が顔を覗かせていた。
(この分だと、また昼から雨が降るのかな……。だとしたら、一度家に帰って、ちゃんとした傘を持って来るか)
ここ最近、真夏に向かって気温がどんどん高くなっているというのに、梅雨の終わりは一向に訪れない。これから暑さと湿気に悩まされる季節が当分続くのかと思うと、それだけで鬱な気持ちになる。
そんなことを考えながら待っていると、やがて家の扉が開き、着替えを済ませた雨音が姿を現した。その隣には、彼女の祖母である節子の姿もある。どうやら、慶一が家を出るとのことで、わざわざ見送りに来てくれたようだった。
「おや、もう出かけるのかい? 昨日は、よく眠れたかえ?」
「いや、あんまり眠れなかった……。でも、堀井有紗の怨霊には襲われなかったから、とりあえずは問題ない。それに、俺の中に堀井有紗がいるんじゃないかって疑いも、そっちが晴らしてくれたしな」
「うむ。だが、これでお前達を狙う物の怪が諦めたわけではない。昼間は夜に比べてやつらの動きが鈍くなるとはいえ、それでも相手が相手だ。十分に注意をした方がええぞ」
起きたてとはいえ、そう言う節子の顔は真剣そのものだった。しかし、そうは言っても、いったいどうやって堀井有紗の怨霊から身を守ればいいというのだろう。結界の施された雨音の家とは違い、学校に行っている間は、慶一には怨霊から身を守る術がない。
ここで逃げ続けても、問題は何も解決しない。いずれは堀井有紗の怨霊と対峙しなければならないときが来るだろうし、それ以前に、その堀井有紗から身を守ることの方が先決だ。
このままでは、遠からず自分も殺される。そんな慶一の不安を読み取ったのか、節子はすっと前に出ると、慶一の手になにやら柔らかい物を握らせた。
「なんだ、これ? なんかの飾り物か?」
「少し違うね。これは飾りじゃなくて、列記とした魔除けの一種だよ。外からではわからんが、中には仏様の灰を詰めてある。物の怪が現れたとき、最悪の場合は、この灰をかけて逃げるといい」
「なるほど、仏壇の灰か……。でも、この程度のもので、堀井有紗から身を守ることなんてできるのか? あの、氷山神社の神主だって、殺されちまったってのに……」
「氷山神社? ああ、あの街外れにある似非神社かい?」
氷山神社。以前、慶一たちが呪いの脚本と記録ディスクを預けた場所の名前が出たことで、節子は露骨に嫌な表情をして顔をしかめた。
「あそこの神社はの、戦後の復興の際に今の場所へ移転してきたんじゃよ。なにしろ、戦争が終わった後のドサクサに紛れて移転させたようなもんだからね。まともな手順なんか踏まないで社を移して……そのときに、社におった神様も、いなくなってしもうたのよ」
「神様がいなくなったって……。そ、それじゃあ、俺たちがあそこに脚本を預けても、なんの意味もなかったってのか!?」
節子の言葉を聞いて、慶一は今更ながらに驚いた。
氷山神社には、既に神などいなかった。そんなところに呪われた脚本や記録ディスクを預けてしまったものだから、無駄な殺人事件を引き起こしてしまった。
自分たちの、浅はかな行為が恨めしい。それと同時に、「祈祷料返せ」という気持ちもないわけではない。
どちらにしろ、あの神社でのお祓いが、何の効果もなかったことは確かだ。そして、それを平然とした顔で言ってのける雨音の祖母は、やはり只者ではないのだろう。その節子が作ったお守りなら、少なくとも、氷山神社で売られている物よりかは効果がありそうだ。
「だったら、このお守りは遠慮なく貰っておくぜ。色々と、世話してくれて助かったよ、雨音のばあちゃん」
「なに、礼には及ばんよ。それに、そもそも雨音にも、私が同じような物を渡しているからね。まあ、どちらも気休めのような物にしか過ぎんが……それでも、ないよりはマシじゃろうて」
雨音にも、節子は以前に同じような物を渡している。それが雨音の鞄についていた日本人形風のマスコットだと気づくのに、慶一は少しばかりの時間を要してしまった。
あの人形の中にも、線香を燃やした灰が入っている。家の周りを幾重にも覆っている結界とは違い、これ一つでは、確かに気休め程度にしか過ぎないのかもしれない。
だが、そんなものでも、あるとないとでは大違いなのだろう。最悪、節子の言うように、堀井有紗の霊が憑いた誰かに会ったとき、この中身をぶつけて逃げることができるかもしれない。
事態はまた、振り出しに戻った。堀井有紗の憑いている相手は依然として不明であり、慶一や雨音が狙われていることにも変わりはない。しかし、それでも慶一は、未だ堀井有紗の怨霊と戦うことを諦めてはいなかった。
確かに、相手は人知を越えた悪霊なのかもしれない。何の力も持たない自分たちができることなど、何もないのかもしれない。が、ここで諦めて死を選ぶほど、自分は聞き分けのよい人間ではないと思った。向こうがあらゆる手段を尽くしてこちらを殺そうとしてくるならば、こちらも最後まで抗ってやる。
昇る朝日を目にしながら、慶一は節子から貰ったお守りの袋を胸に入れ、早朝の街中へと消えて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日、雨音が学校についたとき、天気は既に下り坂になっていた。
明け方、両親に気づかれないように慶一を送り出したときは晴れていたのに、もうこれだ。いいかげん、早いところ梅雨が終わってくれないかと思ってしまう。
下駄箱の近くにある傘立てに傘を入れ、雨音は他の生徒たちの流れに乗って教室に向かった。なんだか今日は、一段と空気が湿っているような気がする。慶一と共に迎えた清々しい朝の空気は消え失せて、今ではじっとりと肌に張り付くような、嫌な湿気を含んだそれに変わっている。
慶一は、あれからちゃんと家に帰れただろうか。まさか、家に帰る途中で、堀井有紗の怨霊に襲われたりなどしていないだろうか。
今までのことを考えると、堀井有紗が人を殺すのは夜のことが多かった。だが、学校にいる間に殺された、敢のような前例もある。幽霊が夜にだけ姿を現すなどというものは、既に時代遅れの考え方なのかもしれない。
そんなことを考えながら教室に入ると、そこには慶一が机に突っ伏して眠っていた。
(よかった……。慶一、無事だ……)
思わず、心の中で安堵の溜息をついてしまった。色々と衝突することもあったが、雨音にとって、慶一は大切な仲間だ。出会ったときから、それは今でも変わらない。
「ちょっと、慶一! あんた……いつまでも、そんなところで寝てんじゃないわよ!!」
寝ている慶一の肩を揺すりながら、雨音は少々強めの口調で言った。自分でも、どうしてこんな言い方になってしまうのかわからない。ただ、慶一相手だと、なぜか許してもらえるような気がして、つい口調も荒っぽくなってしまう。
甘えているのかな。そんな風に雨音が思ったときだった。
「ん……。なんだ、雨音か……」
半開きの目をこちらに向けながら、慶一が間延びした声で呟いた。まだ、半分は夢の中にいるのか、どうにも焦点が定まっていない。
「なんだ、じゃないわよ。こちとら、あれからあんたが無事に帰れたかどうか心配してたってのに……朝から教室で爆睡なんて、いい御身分ね!!」
「悪ぃ……。なんか、最近は殆ど寝てなかったから、もう限界でさ……。ってか、お前、俺のこと心配してくれてたわけ?」
「あ、当たり前でしょ! それとも、私があんたの心配したら、何か問題でもあるの!?」
「いや、別にそれはねえけど……。頼むから、朝っぱらからデカイ声で怒鳴らないでくれよ。正直、頭に響く……」
大きな欠伸をしながら腕を伸ばし、慶一は頭を二、三回ほど横に振って強引に目を覚ました。
雨音の家を出てから、慶一はとりあえず自分の家に戻ってみた。その間、当然のことながら堀井有紗の霊に襲われるようなことはなかった。あの、節子にもらったお守りが効いたのかどうかは知らないが、とにかく無事に帰ることはできた。
慶一が家に着いたとき、両親はちょうど朝の支度をし始めたところだった。一方的に外泊したことで怒られるかと思ったが、なにしろ、ここ最近の事件のこともある。無事だっただけ良かったと言われ、それ以上のお咎めはなかった。
とりあえず、このまま家にいても仕方ない。そう思った慶一は、簡単にシャワーと着替え、それに朝食を済ませ、再び家を出て今に至る。二度寝しようとも考えたが、さすがに遅刻が恐ろしく、そこまでのことはできなかった。
「なあ、雨音。お前……これから、どうするつもりだ?」
「どうするって、何をよ?」
「決まってんだろ。あの、堀井有紗の怨霊。あいつを鎮める方法を、なんとか考えなくちゃいけない。このまま逃げ続けたところで、呪いが消えてなくなるわけじゃないからな」
「そうね。でも、具体的にどうする気? 相手は誰にとり憑いているかもわからないんだし……そもそも、どうやって堀井有紗の怨霊を、私たちみたいな一般人がやっつけることができるっていうのよ」
そこだ。雨音の言う通り、全ての問題はそこにある。
このまま防戦一方では、今に命を狩られてしまう。しかし、堀井有紗の力に抗う術がない以上、慶一たちには手も足も出ない。
いや、実際には手も足も出ないわけではない。あのノートに書かれた記述、石鎚勝によって書かれた内容を信じるならば、僅かばかりの希望がある。
――――脚本そのものは祟りが怖くて焼き捨てられない。
石鎚が、例のノートに書いていた一文である。確かに、脚本を焼き捨てようとすれば、堀井有紗はそれを全力で阻止しようとするだろう。現に、呪いを解くという理由で脚本を始末しようとした氷山神社の神主は、堀井有紗の憑いた何者かによって命を奪われた。
だが、そうまでして堀井有紗が脚本に固執するのであれば、それが即ち弱点なのではないか。慶一には、そう思えてならなかった。
堀井有紗の怨念は、己の想い人が書いた脚本を壊されるのを極度に嫌う。それはつまり、脚本の原本そのものが、堀井有紗の怨念が宿る本体なのではないかということだ。
あの、≪魔窟≫に封印されていた脚本さえ破壊してしまえば、もしかすると堀井有紗に勝てるかもしれない。だが、問題なのは、その脚本が今どこにあるのか、それがわからないことだった。
氷山神社の神主が殺されたことで、脚本は慶一たちの手に戻ってくることはなくなった。警察が保管しているのか、それとも堀井有紗が持ち去ってしまったのか。仮に後者だとすれば、慶一たちに残された希望は少ない。が、もし前者であれば、牧原に頼むことで解決の糸口を見つけられるかもしれない。
とりあえずは、休み時間にでも牧原に連絡してみるか。そう思った矢先、慶一の携帯電話がけたたましい音を立てて鳴り出した。
「ちょっと! あんた、学校にいる間は、携帯をマナーモードにしておきなさいよ!!」
雨音に言われたが、慶一は取り合わなかった。ポケットから携帯電話を素早く取り出すと、それを開いて着信に応じた。
「はい、高須です」
≪ああ、慶一君か。無事でなによりだ≫
声の主は、牧原だった。以心伝心とは、こういうことを言うのだろうか。思わずそんなことを考えた慶一だったが、電話越しに聞こえる牧原の口調からは、余裕のようなものは感じられなかった。
≪落ちついて聞いてくれ、慶一君。今朝、宮川君の家から電話があった。なんでも、昨日の夕方から家に戻らず、そのまま行方不明になってしまったらしい≫
「えっ……! りょ、亮が!?」
≪そうだ。心配になった宮川君のご両親が、君の家に電話したみたいだが……君も、昨日は友達の家に泊まっていたそうだね。だから、最初は君と一緒に誰かのところに泊まりに行ったんじゃないかと思ったらしい≫
「そうですか……。でも、俺と亮は、昨日は一緒じゃありませんでしたよ」
≪ああ、そうだろうね。今朝、君が学校に向かった後、再び宮川君の家から君の家に連絡があったみたいでね。そこで、宮川君が未だ家に戻らないことが発覚して、警察に捜索願が出されたんだ≫
「そう……ですか……」
それ以上は、言葉が見当たらなかった。なんということだ。秀彰に次いで、今度は亮までもが堀井有紗の魔の手にかかってしまったというのだろうか。だとすれば、事態は一刻の猶予も許されない。
≪君は、昨日は宮川君と一緒ではなかったと言うんだね。だったら、後の捜査はこちらで行う。くれぐれも、無謀な真似は考えるんじゃないぞ!!≫
「わ、わかりました……」
電話の向こうにいる牧原に、慶一はそう答えるのが精一杯だった。やがて、通話が切れた携帯電話を静かに折り畳むと、それをしまって雨音の方に向き直った。
「雨音……。どうやら、今度は亮のやつが行方不明になったみたいだ。今、警察から連絡があった」
「えっ! なにそれ、どういうこと!? 亮が行方不明って……それに、警察って……」
「詳しい話は後だ。俺はこれから、学校の中に亮のやつがいないかどうか探す! お前も何かあったら、この番号に連絡しろ!!」
使い古された財布をポケットから取り出し、慶一はその中から一枚の名刺を引き抜いた。あの、牧原が初めて慶一たちと出会ったときに渡してくれたやつだ。
名刺を雨音に押し付け、慶一は教室を飛び出した。これから授業が始まるとか、牧原に止められているとか、そんなことは関係なかった。
昨日から、行方不明になって帰らない。そんな亮の姿が、以前にも同じような状況で亡くなった敢の姿と重なった。あの、頭の切れる亮のことだ。そう簡単に死なないとは思いたい。が、そう信じていた敢が殺されたことを考えると、あまり楽観的に構えることはできなかった。
敢の遺体は、学校の中で見つかった。ならば亮も、学校のどこかで堀井有紗に襲われたのではないか。
願わくば、無事でいて欲しい。殺されているのではなく、監禁されているだけ。そんな状況ならば、まだ救いようがある。
自分勝手な想像だということは、慶一も理解していた。ただ、そう思わねば、やっていられない自分がいた。
昨日、自分が雨音の家に泊まるのをごまかすため、両親に送った一通のメール。それが原因で、亮の捜索は遅れることになってしまった。もし、これで亮が亡くなりでもしていたら、その責任の一端は自分にもある。自意識過剰な考えと笑われるかもしれないが、これ以上は、自分の周りで誰かが殺されるのを黙って見ていられない。
「くそっ!!」
階段を駆け下り、下駄箱の近くまで来たところで、慶一は傘立てを見て思わず悪態を吐いた。
明け方の様子とは違い、外は既に雨が降っている。当然、傘が必要になるのだが、その肝心の傘がない。誰かに盗まれてしまったのか、それとも単なる嫌がらせか。どちらにせよ、これで自分の傘が盗まれたのは何回目だろうか。こんなときに限って下らない悪戯を仕掛ける何者かに、慶一は怒りを隠せずにはいられなかった。
こうなったら、もう濡れることなど気にしてはいられない。頭が禿げるとか、着替えがないとか、そんなことは二の次だ。
降りしきる雨の中、慶一は躊躇うことなく校舎の外へと飛び出した。向かう当てなどない。亮がどこにいるかなど、そんなことはわからない。ただ、可能性のありそうな場所を、しらみつぶしに探してゆく他にない。
校舎に沿うようにして体育館の脇を抜け、慶一は≪魔窟≫の方へと足を急がせた。まずは、最も怪しいと思われる場所から調べてやる。それで何もなければ、その時に次のことを考えればよい。
そう思って、ふと横に顔を向けると、慶一はそこに見慣れた後ろ姿を発見して立ち止まった。
(あれは……)
短く切り揃えられた髪と、高校生にしては低い背丈。同じ映研メンバーの、瑞希だった。
(あいつ……こんな時間に、あんな場所で何を?)
瑞希の後ろ姿が消えて行ったのは、ゴミ捨て場に通じる一本の道。普通は掃除が終わった後に、生徒たちがゴミを捨てるときにしか使われない。
この時間、ゴミ捨て場に向かう人間などいやしない。そう思った慶一は、次の瞬間には瑞希の後をつけて歩き出していた。
陽の当らない校舎の脇を、慶一は瑞希を追って通り抜ける。校舎の角に植えられた紫陽花の影にかくれて様子を窺いつつ、瑞希がゴミ捨て場の前で止まったところを見て一気に飛び出した。
「おい、瑞希……」
声をかけたが、返事はない。いつもなら、あの独特な明るい喋り方で、慶一に絡んで来るというのに。
「お前、こんなところで何やってんだよ!!」
つい、口調が荒くなっていた。瑞希が何をしたわけでもないのに、なぜこうも苛立つのだろう。心の奥から湧き上がる、この言い様のない不安はなんだ。
「あれぇ、先輩……。あっはははっ! 見つかっちゃいましたねぇ、ボク」
ゴミの山を背に、瑞希が慶一の方を振り向いて言った。その手に握られているのは、男物の黒い傘。慶一が、雨が降るであろうことを予想して、家から持って来たものだ。
「瑞希……それ……」
「ああ、これですかぁ? これ、先輩の傘ですよぉ。ボク……どうしても、先輩と一緒に帰りたかったから……時々、こうやって傘を始末してたんですよね」
「し、始末って……。そんなことしなくても、ちょっと言ってくれれば、一緒に帰るくらいしてやったって!!」
「あはは……。先輩、なぁんにもわかってないですねぇ。ボクは、ただ先輩と一緒に帰るだけじゃあダメだったんですよぉ……。先輩と、一緒の傘に入って、肩を並べて歩きたかったんですぅ……」
「なっ……。お前、たったそれだけのことで、俺の傘を何本も隠して捨てたのか!?」
「そうですよぉ。でも、それも今日でお終いですね。ボクが傘を捨てているところ……こうして、先輩に見られちゃいましたからぁ」
衝撃的だった。あの瑞希が、人に隠れてこんなことをする人間だったとは。慶一と一緒に帰りたい。ただ、それだけのことで、ここまで計画的に動き回れたとは。
ここにいるのは、本当に自分の知っている瑞希なのか。それとも、自分の知っている瑞希は偽物で、目の前にいる方が本当の瑞希なのか。
本当は、堀井有紗の怨霊に襲われたかもしれない、亮を探すはずだった。なのに、自分はいったい、ここで何を見ているのだろう。あまりに急なことで、頭の中身が追いついていかない。
混乱し、呆然と立ち尽くす慶一の方へ、瑞希が一歩、また一歩と近づいてきた。慶一の傘も、自分の差していた傘も放り捨て、最後は慶一の胸に飛び込んでその背中に腕を回す。
「なっ……み、瑞希!?」
「先輩……。先輩は、どうしてボクのこと見てくれないんですかぁ? ボクは、こんなに先輩のことが好きなのに……やっぱり、あの女のことが好きなんですかぁ……?」
「あ、あの女って……まさか、雨音のことか!? 俺は別に、あいつとは……」
「誤魔化さなくてもいいですよぉ……。ボク、先輩のことだったら、何でもわかりますからぁ。でも、これだけボクに寂しい想いをさせたんだから、先輩も罰を受けるべきですよねぇ」
慶一の胸元にうずめられた、瑞希の口元が細く曲がる。抱きしめる腕の力が一段と強くなり、慶一はそれに痛みさえ覚えた。
「だから……しばらくは、眠っていてください、先輩」
そう、瑞希が口にするのと、慶一の身体を押さえつけていた腕が一瞬だけ離れるのが同時だった。
空いた方の肩腕で、瑞希は懐から黒い箱のようなものを取り出した。そして、慶一がそれに気づくよりも早く、瑞希は箱の先端を慶一の腰に押し当てた。
「がっ……!?」
全身を襲う、痛みにも似た激しい苦痛。気がつくと、慶一はその場に仰向けになって、瑞希の顔を見上げるようにして倒れていた。
「ふふふ……。残念だったわね、高須慶一君。好奇心から余計なことをしなければ、こんな目に遭わずに済んだのに……」
手にした黒い箱の先端に細い電流を迸らせながら、瑞希が慶一を見て小さく笑った。その口調は先ほどの瑞希のものとは異なり、瞳は既に光りを失って灰色に淀んでいる。
倒れたときに落としたのだろうか。慶一の胸ポケットから、節子にもらったお守りが転がり出た。それを見た瑞希は一瞬だけ不快な顔をしたものの、すぐにそれを蹴り飛ばし、手にしたスタンガンをしまって言った。
「なるほど、お守りか。でも……私から身を守りたいんだったら、ちょっと数が足りなかったかしら? 後、二十個くらい持っていれば、さすがに近づけなかったでしょうけどね」
既に言葉を発することができなくなった慶一を見降ろして、瑞希が満足そうな笑みを浮かべながら言ってのけた。彼女の脇では校舎裏に生えた紫陽花の花が、いつしか赤い色に染まっていた。