【弐拾壱ノ花】 護り手の話
慶一が雨音の家についたとき、そこには誰もいなかった。
両親は、今は仕事で外出中。最近になって祖母がやたらと遊びに来るようになったようだが、その祖母も、今はどこかへ出かけているようだった。
本当は、雨音の家に長居などしたくない。二人きりになったところで、もしも自分の中の堀井有紗が目覚めてしまったら、どうなるか。その先は、あまり考えたくはない。
だが、それでも、ここまで来て雨音の誘いを断ることは、どうしても慶一にはできなかった。ここで慶一が帰ってしまえば、雨音は再び自分が疑われているのではないかという気持ちになるはずだ。それを思うと、慶一は帰りたくても帰ることができなかった。
ほとんど状況に流されるままに、慶一は雨音の家に上がらせてもらった。玄関で靴を脱ぐと、香のような匂いが鼻をついた。
「なあ、雨音。お前の家、いつからこんなに抹香臭くなったんだ? なんか、でっかい仏壇でも置いてあったっけ?」
「ああ、これね。これ、おばあちゃんがやったのよ。なんか、最近になって、私の家に遊びに来ることが多くてさ。おばあちゃん、昔の人だから……妙な迷信を信じて、たまに変な事するときがあるのよ」
「へぇ……。まあ、俺のばあちゃんは、俺が生まれてすぐ死んじまったからな。なんか、そういうのはよくわかんねえや」
脱いだ靴を揃えて家に上がると、慶一は雨音についてゆく形で彼女の部屋に入らせてもらった。雨音の家は古い造りの日本家屋で、部屋の仕切りも扉ではなく襖である。なんだか妙に懐かしい物を感じながら、慶一は雨音の部屋の前で妙なものを見つけて立ち止まった。
雨音の部屋に通じる襖には、びっしりと護符のようなものが貼ってあった。寺や神社で売られている一般的なものではなく、恐らくは手作り。何が書いてあるのかは読めなかったが、少なくとも、家内安全や商売繁盛の護符とはまったく違うもののようだ。
「なっ……。おい、雨音。お前……この、妙な張り紙はなんだよ……。これも、おまえのばあちゃんがやったのか?」
「ええ、そうよ……。なんか、魔除けってことらしくて……他にも人の部屋の前に盛り塩するわ、にんにくを頭に詰めたてるてる坊主を吊るすわ、本当に大変なんだから!!」
「なるほど……。そりゃ、お前が頭痛くなるのもわかる気がするぜ……」
雨音の話を聞いている内に、慶一にもだんだんと状況が飲み込めてきた。どうやら雨音の祖母は、筋金入りの迷信好きらしい。よく言えば信じ深いのだろうが、下手をすると、単に常識のない人間のように思われてしまうだけなのかもしれない。
もっとも、雨音の祖母が雨音のことを心配しているのは、紛れもない事実なのだろう。こちとら、悪霊に怯える身。例え気休めであったとしても、こういった護符のような物の存在があるだけで、少しばかり気が楽になる。
「それじゃあ、ちょっと先に部屋で待ってて。何か、冷たい物でも持ってくるから」
「いや、別にいい。俺だって、そう長居するつもりはないし……あまり、雨音に甘え過ぎるのもな……」
「いつも人のノートを借りたり、宿題写させてもらってる身で、今さら何言ってんのよ。でも、あんたが欲しくないっていうなら、別にいいんだけどさ」
そう言いながら、雨音は札の貼られた襖を開けた。部屋の中に入ると、やはりどこか懐かしい匂いがした。いつだったか、夏休みに遊びに行った田舎の家で感じた匂い。それが畳の匂いだと気づくのに、慶一は少しばかり時間がかかった。
雨音に促されるままに部屋に入り、慶一は適当な場所に胡坐をかいて座った。部屋の中はきれいに片付けられており、余計な物など見当たらなかった。
「ねえ、慶一……」
机の前にある自分の椅子に座り、雨音が唐突に話しかけて来た。普段の強気な雨音ではなく、そこにいたのは、いつぞやの帰り道に慶一に見せた、素直な少女のものだった。
「あの、人形なんだけどさ……。前、あんたに探してもらった、鞄につけてたウサギのやつ」
いきなり何を言い出すのだろう。まさか、雨音はまだ、慶一が例の人形のことで雨音を疑っているとでも思っているのか。
「あれ、私が一年生だった頃、慶一に貰ったものなんだよね。あんたは忘れちゃったかもしれないけど……ほら、私が映研に入ったばかりのとき、皆で一緒にゲームセンターに行って取ってもらったじゃない」
「皆でゲーセン……って、まあ、そんなこともあったかな?」
そういえば、慶一と雨音がまだ入学したばかりの頃、映研のメンバーでゲームセンターに行った記憶がある。発案者は亮で、とりあえず親睦を深めるために、どこかに遊びに行こうとのことだった。
あの日、確かに慶一も雨音もゲームセンターに行き、そこで遊んだ記憶はある。その際、慶一はゲームの景品としてウサギの人形を手に入れて、それを雨音にあげたのだ。
こうして思い出してみると、なぜ今まで気づかなかったのかが逆に不思議だった。まあ、実際は慶一も、雨音に厄介払いのような形で人形をあげていたため、そこまで気にしていなかっただけかもしれない。
「私さ……こんな性格でしょ。なんか、つい強気に出ちゃうっていうか……人の気持ちとか考えないで、正論の方が先に出ちゃうんだよね」
「なんだよ、お前。自覚あんじゃん……」
「まあね。でも、自覚があっても、どうにもならないことってあるでしょ。自分でも、性格変えようと思ったこともあったけど、やっぱり駄目で……中学のときは、あんまり友達っていなかったんだよね」
いったい、雨音は何が言いたいのだろう。こんなところで慶一に自分の思い出話を聞かせることに、何か意味があるのだろうか。
どうにも雨音の考えがわからない。長居は無用と考えていたのに、これでは最後まで話を聞かなければ帰れそうにない。
まったくもって、妙なことになったと慶一は思った。だが、ここで雨音の話を遮るのも気が引けて、結局は最後までつき合うことにした。
「高校に入ってからも、友達らしい友達って、あんまりできなくってさ。たまたま同じクラスに、前の学校で一緒だった子も入って来てて……それで、変な噂流されちゃったのよ」
「変な噂ね……。そういう意味では、女のネットワークってのは怖いよな」
「自分で言うのも変だけど、確かにそうかもね。で、噂のせいで、高校でも一人ぼっちになっちゃうかと思ってたんだけど……あんただけは、違ってたよね」
「俺が!? なんだよ……その、違ってたってのは……」
「だって、誰も私に話しかけてさえくれない中で、あんただけは私に話しかけてくれたじゃない。一時間目の授業から居眠りしてたから、そのときのノート貸してくれって……」
そういえば、そんなこともあった気がする。もっとも、そんなことで特別扱いされるのは、慶一としてもどこか納得のいかないところがあった。
確かに慶一は、高校に入ってから初めて雨音に話しかけたような人間なのかもしれない。しかし、それは別に、雨音に対する差別や偏見を持っていなかったというわけではない。
慶一が雨音に話しかけたのは、ただ席が近く真面目そうに見えたからだけだ。女子たちの流した噂にしても、そんな物に興味がなかっただけに他ならない。別に、雨音のことが気になったとか、彼女だけに特別優しくしようとしたわけでもない。
自分は別に、なにもしていやしない。そう思った慶一だったが、どうやら雨音は違った意味でとらえているらしかった。まあ、中学時代より友達の少なかった雨音のことだ。理由はどうあれ、ちょっとしたことで声をかけてくれたのが、純粋に嬉しかったのかもしれない。
「私が映研に入ったのも、結局はあんた以外に話せる人がいなかったからなのよね。本当は、映画とか何もわかんなかったんだけど……なんか、折角の縁を無駄にしちゃうのも嫌だったしさ……」
「なんだよ、そりゃ。それじゃあ、お前が映研に入ったのって、ただの成り行きかよ……」
「まあ、そう言われても無理はないかな。でも、映研の活動は真面目にやってたわよ。それは、あんただって見てたでしょ?」
「そいつは俺だってわかってるよ。お前がいなきゃ、今までの映研の仕事が回って無かったことぐらいはさ」
御世辞ではなく、それは本当のことだった。一年の間は、主に雑用をするような形で、雨音はよく頑張った。たまに慶一を巻き込むのが厄介だったが、どんな面倒臭い用事でも、文句も言わずにやっていた。
「ねえ、慶一。あんたはどう思ってたか知らないけど……私があんたにウサギの人形貰ったとき、私は普通に嬉しかったんだよ。だから、絶対に大事にしなくちゃいけないって思って、自分の鞄につけたんだ」
「おいおい、大袈裟だな。あんな安物、その辺のゲーセンに行けば、いくらでも取って来れるぞ?」
「でも、私にとっては大事なものだったの! だって……私を映研の皆に出会わせてくれた人が、私にくれた物なんだよ。だから、あの日だって、何度も何度も……思い当たる場所は全部探したのに……」
だんだんと、雨音の声が小さくなっていった。
あの日、慶一と一緒に探しまわったウサギの人形。雨音にとっては大切な思い出の詰まる、絶対に失くしてはならない人形。
その、失われた人形が、今になって見つかった。それも、雨音を喜ばせるどころか、地獄の底に突き落とすような、極めて残酷な形で。
自分の中に堀井有紗がいると疑われることで、今まで築き上げて来た人との関わりを全て失うかもしれない。それが、雨音には怖かったのだろう。だからこそ、慶一にだけは疑われたくないと思い、こうして引き留めて話をしたのだ。そう、慶一は思いたかった。
疑いの全てが晴れたわけではない。だが、あの雨音に限って、堀井有紗を心の中に宿しているなど考えられない。もっとも、これは単に慶一が考えたくないだけで、実際はなんの根拠もないのだが。
「なあ、雨音……。お前が不安な気持ちになるのもわかるけどさ……俺は、お前の中に堀井有紗の怨念がいるかもしれないなんて、これっぽっちも思っちゃいないさ。いくら人形が≪魔窟≫の近くで見つかったからって、そんなの、ただの偶然だろ? あんな人形、どこにでも売ってそうなものだし……誰か、別の人間が落としたとも考えられるじゃないか」
「慶一……」
「とにかく、俺はお前のことを信じているからな。だから、お前もあんまり気にしないで、明日からは普通に学校に来いよ」
最後は宥めるように言って立ち上がると、慶一はそのまま、雨音の部屋を出て行こうと襖に手をかけた。
成り行きで雨音の家に来ることになってしまったが、なんだか随分と長居する結果になってしまった。これ以上は、さすがに限界だろう。自分の中の疑念を払うためにも、今は一度、家に戻って考えたい。
そう思っていた慶一だったが、そんな彼の腕をつかみ、雨音が再び引き留めた。
「待ってよ、慶一……。もしかして、帰るの?」
「ああ。俺はそのつもりだけど……まだ、何か用か?」
「嫌だよ、慶一! 帰らないでよ! お父さんやお母さんが帰ってくるまで……今日は、私と一緒にいてよ!!」
見ると、雨音はその瞳に涙を浮かべていた。これほどまでにして慶一を引き留めることなど、今まであっただろうか。そう、慶一自身が思ってしまうほど、今の雨音は取り乱していた。
「怖いよ……慶一……。殺されるのも……独りぼっちになるのも……」
慶一の袖をつかみ、雨音は顔をうずめて震えていた。普段は強がっているが、雨音もやはり、女の子だったということだろうか。仲間が次々と殺され、更には自分に疑念の目が向けられそうになったことで、とうとう我慢の限界を越えてしまったのかもしれない。
こうなったら、もう雨音の側にいるしかないだろう。未だ泣きやまない雨音の肩を抱き、慶一はそっと部屋に戻る。
部屋の壁に寄り掛かるようにして雨音を座らせると、慶一は自分もその隣に腰を降ろして雨音を見た。
雨音はまだ泣きやまない。これは当分の間、一緒にいてやるしかなさそうだ。そう、慶一が思った矢先、唐突に激しい睡魔が襲ってきた。
(やべ……。このままじゃ、俺もここで寝ちまうかも……)
自分の中に潜んでいるかもしれない、堀井有紗の怨霊。自分が眠ってしまうことで、その怨霊がここで目覚めたら……今度は雨音が、慶一自身の手によって、次なる犠牲者になってしまうかもしれない。
寝てたまるか。ここで寝てしまったら、全ては終わりだ。
両目を見開き、歯を食いしばるような顔をして、慶一は遅い来る睡魔に懸命に抗った。が、それでも連日の無理が祟ったのだろうか。やがて、慶一の瞼は本人の意思とは関係なく閉じられ、その頭はがっくりと項垂れるようにして下に落ちる。
夢と現実。その境界線を彷徨いながら、慶一の意識は深いまどろみの世界へと吸い込まれて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
灘岡高校の図書室で、宮川亮は独り鉛筆を片手に作業を続けていた。彼の目の前に広がるのは、一冊のノート。本来であれば映研の活動に使うための物だったが、今は別の目的で使っていた。
土日を挟み、亮はあれから自分なりに考えた。事件の犯人は、本当に堀井有紗の憑依した誰かなのか。もし、仮にそうだったとした場合、誰が堀井有紗に憑依されているのか。
そもそも、堀井有紗が自分たちの前に姿を現したのは、合宿で撮影した映像を皆で見たときだ。
バス停に佇む美幸の後ろで、何も言わずに立っている黒衣の女。長い髪を柳の枝のようにしならせて、ただずっと、反対側のバス停からこちらを見つめているようだった。
あの、薄気味の悪い女は、果たして本当に堀井有紗なのか。問題なのは、そこである。
堀井有紗が誰かに憑依しなければ人を殺せないとして、あの映像に入り込んだ意味はなんだろう。ただの警告か。だとすれば、今度は堀井有紗の凶暴性が説明できない。わざわざ死の宣告をしてから殺人を犯すほど、堀井有紗は優しくないと思うからだ。
「あの女が堀井だとして……映像に映ったのは、たぶん麻生先輩への嫉妬だな……。だとすれば、麻生先輩が真っ先に殺されたことも、説明はつくか……」
以前、自分が慶一に語ったことを思い出し、亮は再びノートの上に鉛筆を走らせた。
麻生美幸の演じていた役は、本当であれば堀井有紗が演じるはずのものだった。あのノートに書かれていた話でも、堀井有紗の役を引き継いだ映研のメンバーが、真っ先に死亡したと書いてあった。
やはり、堀井有紗の怨霊は実在している。そうしなければ、美幸が最初に殺された理由や、あの映像に黒衣の女が映り込んだ理由などが説明できない。
「堀井の怨霊は、確かにいるんだろうな……。でも、いったい誰に憑いているんだ?」
亮の鉛筆を動かす手が、ぱったりと止まった。
堀井有紗が憑依した何者かが殺人を行っているとして、その人間は、いったい誰だろうか。
美幸、正仁、それに敢に秀彰は、既に殺されてこの世にいない。彼らに堀井有紗が憑依していた可能性は、限りなく低いだろう。
では、やはり憑依されているのは、自分も含めた残る映研のメンバーの誰かなのだろうか。それとも、自分たちとはまったく関係のない、顔さえも知らぬ謎の相手か。
何か一つでも証拠が欲しい。そう考えた亮だったが、今日はこの辺りが限界のようだった。見ると、時間も既に夕方になろうとしている。まだ外は明るかったが、それでもそろそろ帰らねば、学校の先生に見つかって叱られるだろう。
やはり、警察でも探偵でもない自分が、堀井有紗の呪いの謎を解明することなど無理なのか。なんとも言えぬ無力感を覚えながら、亮は荷物をまとめて図書室を出た。
「ちっ……。せめて俺に、瀧川先輩みたいな頭があったらな」
図書室を出ると同時に、亮は誰に言うともなく呟いた。映研の倉庫、通称≪魔窟≫で遺体となって発見された亮たちの先輩、瀧川敢。彼は自力で≪魔窟≫の奥にあるノートの存在まで辿り着いたのだ。それだけの力があれば、もしかすると、呪いの謎もまた解けるかもしれなかった。
今、ここに、自分の他に頼りになる者がいないのが悔しかった。せめてもう少し早く動きだしていれば、堀井有紗の存在に気づいていれば、敢を死なせることもなかったのかもしれない。そればかりか、敢と自分で力を合わせ、堀井有紗に立ち向かうこともできたのかもしれない。
だが、敢を失った今となっては、考えていても無駄なことだった。敢亡き今、堀井有紗の怨念には、自分たちだけで立ち向かわねばならない。例えそれが、人知を越えた怪物であったとしても、抗う術は他にない。
とはいえ、そう気持ちだけで思ったところで、何も解決しないのは確かだった。現に、映研のメンバーは次々と殺され、堀井有紗の呪いは完結に向かいつつある。それも、極めて最悪かつ、亮たちにとっては最も恐るべき方向へ。
「どっちにしろ、俺の力だけじゃ限界かもな……。明日、古河先生と牧原刑事を呼んで、また相談してみるか……」
結局のところ、頼りになるのは身近な大人だ。問題なのは、明恵にしても牧原にしても、幽霊の存在を本気で信じていないことである。
牧原はノートの存在を捜査に生かすようなことを言っていたが、あくまで警察官として、科学的な目で捜査を進めることだろう。明恵に至っては、これはもう問題外。そもそも事件に巻き込まれたという点では、自分も明恵も大差はない。この二人の力を借りたとしても、せいぜい堀井有紗の襲撃を遅らせる程度のことしかできそうにない。
八方塞がり。まさにそんな言葉が相応しい状況で、亮は校舎の外に出た。今日は珍しく晴れていたので、校庭の脇を通って裏門を抜けるのは気が引けた。梅雨時とはいえ、日差しがそれなりに強かったので、校庭の側が埃っぽかったからだ。
今日は、久しぶりに正門の方から帰るとするか。そう考えて学校を出た亮だったが、ふと何かの気配に気がついて、そちらの方へと顔を向けた。
(あれ……? あいつ……)
自分の知っている者の後ろ姿を見つけ、亮は訝しげな顔をしながら考えた。
この時間、自分のような物好きを除いては、学校に残る者などいやしない。ここ最近で立て続けに起きた殺人事件のことも相俟って、教師も生徒も逃げるようにして家に帰るのが普通になっている。
それなのに、こんな時間まで学校に残り、あまつさえ自宅とは正反対の方向に帰る者がいる。これはいったい、どういうことか。
なんだか妙な胸騒ぎを感じ、亮はそっとその者の後をつけることにした。なぜ、そんなことをしたのかと聞かれても、自分でもわからない。ただ、人間の第六感というのだろうか。本能的な何かに導かれるようにして、亮は路地裏へと姿を消した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
深い深い闇の中で、慶一はいつ終わるとも知れない長い道を歩いていた。
いったい、ここはどこだろう。自分はなぜ、こんな場所を歩いているのだろう。思い出したくとも、なぜか慶一には思い出すことができなかった。ただ、目の前の道を真っ直ぐに、ひたすら歩くことだけを続けて行く。
どれくらい歩いたのだろう。慶一が開けた場所に出たとき、そこには雨音の姿があった。
「雨音!!」
見知った顔に、思わず駆け寄る慶一。瞬間、何かで頭を叩かれたような感覚に襲われ、慶一はその場に倒れ込んだ。
何だ。何が起きた。いったい、自分は何をされた。その全てがわからないままに、慶一の精神は闇の中へと飲まれてゆく。自分の意思とは反対に、徐々に周囲の景色がぼやけてくる。
(雨……音……)
目の前が暗くなる瞬間、慶一は心の中で雨音の名を呼んだ。だが、自分の前に立っている雨音は、まるで人形のような感情のない顔をしたまま、慶一のことを見降ろしているだけだった。
暗い、暗い闇の中を、慶一の意識は彷徨った。先ほど歩いてきた道もまた暗かったが、今度のこれは、より深い闇だ。
やがて、その闇から目を覚ましたとき、慶一は自分の下に何かがいるのに気がついた。自分の身体の下に、まるで自分にのしかかられるようにして誰かが倒れている。
「う、うわっ!!」
そこにいたのは雨音だった。先ほどまでの無表情な顔はそのままに、瞳が完全に光を失っている。慶一の両手は雨音の首にかけられており、自分が彼女を絞殺したのは明らかだ。
「そんな……雨音……」
自分が雨音を殺した。あれほど睡魔に負けないと、堀井有紗に抗うと言っていた矢先、このざまだ。
もう、自分は後戻りできないところまで来てしまった。このままでは、残る亮と瑞希を殺し、あの石鎚のように壊れるしかない。
絶望の二文字が慶一の脳裏に刻み込まれる。最早、何も考えたいとは思わない。あるのはただ、諦めにも似た投げやりな感情。もう、どうにでもなってしまえ。自分はどうせ、殺人者だ。そう、慶一が思ったときだった。
突然、死んだと思った雨音の身体が、ピクリと震えて動き出した。そのことに、慶一は思わず意識を戻し、雨音の身体から離れて顔を覗きこむ。
「雨音! 生きていたんだな!!」
雨音は死んでいなかった。そんな希望を抱いて彼女の顔を覗き込んだ慶一だったが、彼女の顔を見た瞬間、その希望は早くも崩れ去った。
目元を覆う黒い髪に、その向こう側で光る赤い瞳。見ると、雨音の服もまた、見慣れた学生服から黒一色のそれに変わっている。
黒衣の女。あの、ビデオの映像に映り込んでいた、堀井有紗そのものだ。
「うっ……ぐっ……」
女の手が慶一の首に伸ばされて、その指が激しく食い込んだ。自分はこのまま殺されるのか。こんなところで、仲間の仇さえも討てず、運命に翻弄されたまま死んでゆくのか。
せめて最後くらい、堀井有紗の怨霊に一矢報いてから死んでゆきたい。そう思った慶一だったが、どう抗おうとも女の手が首から離れない。
(慶一……慶一……)
どこかで自分を呼ぶ声がする。あの声は、いったい誰だろう。死に際に聞こえる、幻聴のようなものだろうか。
黒衣の女の口元が、三日月のように歪んで見えた。朦朧とした意識の中、慶一はそんな女の顔を最後にみながら、深い闇の底へと沈んで行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ねえ、慶一! 慶一ってば!!」
気がつくと、そこは雨音の部屋だった。どうやら先ほどのことは、全て夢の中の話だったらしい。
「う……雨音か?」
「まったく……人の部屋で爆睡するなんて、随分といい根性してるわね」
「仕方ないだろ。こっちだって、あんま寝てないんだ」
眠たい目を擦りながら、慶一は大きく伸びをして立ち上がった。あの憎まれ口の様子からして、雨音も少しは落ちついたようだ。成り行きで部屋に残ったものの、少しは意味があったということだろうか。
襖を開けて部屋の外に出ると、どうやら雨音の家族が帰ってきているようだった。自分ではあまり意識していなかったが、かなりの時間、雨音の部屋で寝てしまったようだ。いくら雨音に誘われたからといっても、これはさすがにまずいだろう。
「悪ぃな、雨音。なんか、あんまり役に立たなくって。結局、俺の方がお前より先に寝ちまったみたいだし」
「なんだ、わかってんじゃない。でも、今日はあんたがいてくれたから、こっちも少しは気が楽になったしね。ここはお互い様ってことで、何も言いっこなしにしましょう」
「へぇ、妙に素直だな。まあ、お前がそうしたいってんなら、俺は別に構わないけどさ」
なんだかんだで、話を聞いた甲斐はあったのか。そんなことを考えながら玄関に向かうと、慶一は自分の後ろから、誰かがこちらを見ているのに気がついた。
「ちょっと、そこのあんた。もしかして……雨音の友達かね?」
振り向くと、そこには一人の老婆がいた。雨音の祖母の節子だ。節子は慶一を見るなり傍まで近づくと、慶一のことを品定めするかのようにして様々な角度から見始めた。
「な、なんだよ、婆さん。俺、何か悪いことしたか?」
「いんや、そうじゃない。ただ、あんたからは、雨音と同じような匂いがしたんでね。このまま放っておけば、魔物に魅入られてしまうかもしれんぞ」
「ま、魔物……!?」
初対面の相手に向かい、いきなり魔物がどうしたという話をし始める。雨音は祖母が迷信好きだと言っていたが、これは想像以上だ。こちらを心配しているのはわかるのだが、普通の人間からすれば、明らかに異様な人物だと思われただろう。
だが、それでも慶一は、その日に限って節子の話を適当に流そうとは思わなかった。
魔物に魅入られる。その言葉は、今の慶一にとっては十分過ぎる程に恐ろしい話だ。もし、本当に魔物――――ここでは、例の堀井有紗の怨霊――――に魅入られてしまったら、自分が映研の仲間を再び殺害するかもしれないのだから。
「ちょっと、おばあちゃん! 慶一に、変なこと吹きこまないでよ!!」
後ろから、雨音の声がする。きっと、祖母が慶一と話しているのを知って、慌てて飛んで来たのだ。
「いや、気にすんなよ。俺もちょっと、この人の話を聞いてみたくなったからさ」
履きかけた靴を再び脱ぎ、慶一は節子の方に向き直った。この人は、もしかすると幽霊や呪いについてわかる人かもしれない。ならば、自分の中に潜んでいるであろう、堀井有紗を追い出す方法も知っているかもしれない。
雨音の話では、彼女の祖母は単なる迷信好きの老人とのことである。しかし、今の慶一には、そんな者くらいしか頼れる相手がいない。
藁にもすがる思いで、慶一は再び雨音の家に上がらせてもらうと、そのまま節子と共に奥の部屋に向かった。
「まあ、その辺に適当に座んなさい」
自分の部屋に慶一を通し、節子が座布団を差し出してきた。雨音の部屋とは違い、随分と質素なつくりだ。必要最低限の生活用品しか置いていないことを考えると、普段は持て余している部屋なのだろうか。
「なあ、婆さん。あんた……もしかして、霊感みたいなもんがある人なのか?」
単刀直入に、慶一は節子に訊いてみた。この際、回りくどい説明など不要だ。自分の知りたい答えが手に入れば、それで構わない。
「ほう、霊感とな……。まあ、確かに私の家系は、そういった力を持っておったようだがね。しかし、今となっては大した力も持っておらんよ。私はまだ、物の怪の気配を感じ取るくらいはできるが……雨音くらいの代になると、もう普通の人間と変わらんね」
「物の怪の気配!? そ、それじゃあ、人間に幽霊がとり憑いているかどうかなんてのも、わかるってことか!?」
「そうだねぇ……。そこまで正確にはわからんが、私にも一つだけ言えることがある」
節子が慶一の目の奥を覗き込みながら言った。このまま見つめられ続けたら、それだけで心の奥底まで見透かされ兼ねない。そんな目つきだった。
「物の怪の類に憑かれている人間ってのはねぇ、独特の匂いがするもんなんだよ。わかる人間にしかわからん、陰気でどす黒い匂いがね」
「に、匂い……?」
「ああ、そうだよ。その一方で、物の怪に狙われている人間からも、また不快な匂いがするものさ。でも、これは憑かれているのとはちょっと違ってね。なんというか……物の怪がつけた、目印のようなものを感じるんだよ」
だんだんと、怪談めいた話になってきた。いや、堀井有紗の怨霊が例の事件の犯人とわかった時点で、既に十分な怪談話か。
「私はあんたや雨音から、そんな匂いを感じてね。雨音の部屋に、魔除けの守りを施したのも、それが理由さ。あんたも雨音も、物の怪から狙われている。私には、そう感じられるんだよ」
そう言いながら、部屋にあるポットから急須にお湯を注ぎ、節子は入れたばかりのお茶を慶一に差し出した。慶一は、軽く一礼をして受け取と、それを少しだけ口にして脇に置いた。
それにしても、これはいったいどういうことだろう。節子の言っていることが本当なら、慶一の中には堀井有紗がいないということになる。では、あの夢は全て慶一の思い込みで、堀井有紗とは何の関係もなかったというのだろうか。
「なあ……。その、物の怪なんだが……もしかして、俺の中にいるってこと、ないよな?」
念のため、慶一はもう一度だけ訊いてみた。その言葉に、節子は一瞬だけ顔をしかめて慶一を見たが、直ぐに元の顔に戻ると、無言のまま首を横に振るだけだった。
「あんたがなぜ、そんなことを思うのかは知らんがね。物の怪は、あんたには憑いてはおらんよ。むしろあんたは、雨音と同じように狙われている人間だね。このままだと、あんたもいずれ、酷い目に遭うことになるだろうよ」
「狙われている、か……。まあ、確かにそれは、当たってるけど……」
自分たち映研の人間が、堀井有紗の怨霊に狙われている。そのことから考えて、恐らく節子の言っていることは間違いない。
では、仮に慶一自身の中に堀井有紗がいないとして、誰に憑依しているというのだろうか。そして、そんな堀井有紗の魔の手から、こちらの身を守るための術はないものか。
この老人には、まだ聞きたいことが山ほどある。そう思い、何から尋ねようかと慶一が考えたところで、部屋の襖が唐突に開け放たれた。
「ちょっと、おばあちゃん! いいかげんにしてよね! 慶一も、あまりおばあちゃんを調子に乗らせないでよ!」
「あ、雨音……」
開け放たれた襖の向こう側で、雨音が腰に手を当ててこちらを睨んでいた。自分の家族の見られたくない姿を見られ、我慢できなくなったのだろうか。
「おや、雨音じゃないかい。折角お友達が来てくれているってのに、そんな言い方はないだろう?」
「友達だからこそ、おばあちゃんに変なこと吹きこまれたら嫌なのよ。それでなくたって、こちとら妙な事件に巻き込まれてるってのに……おばあちゃんが出てきたら、ますますわけがわかんなくなっちゃうじゃない!!」
「おやおや、これはとんだ言われようだねぇ。でも、私には見えるんだよ。あんたやこの子が、何か物の怪の類に狙われている。そういう匂いがするんでね」
目の前で怒っている雨音のことなど気にもしない。そんな様子で、節子は慶一と雨音を見比べて言ってのけた。
「なあ、雨音。お前が、ばあちゃんの言っていることを信じられないのもわかるけどさ……。でも、少しくらい話を聞いてもいいんじゃないか?」
「なによ。慶一まで、おばあちゃんの味方するつもりなの?」
「そうじゃない。ただ、もう意地を張るのはお前だって限界だろ? 堀井有紗の怨霊のこと……相談できるのは、お前のばあちゃんくらいしかいないんだからさ」
「そ、それは……」
堀井有紗の怨霊。その言葉に、さすがの雨音も言葉に詰まった。そして、そんな二人の会話を聞いていた節子は、ゆっくりと立ち上がって雨音を見た。
「雨音……。詳しく話してくれるだろうね?」
もう、こうなっては仕方がない。本当は祖母を巻き込みたくなかったのだが、今は頼りになるのが彼女だけというのも事実である。
神社の神主にさえ祓えなかった悪霊相手に祖母の迷信がどれだけ力になるのか。その辺りの信憑性がどうにも曖昧だったが、それでも祖母とて、腐っても拝み屋の末裔なのだ。何も知らない両親や、本物か偽物かもわからない、怪しい霊能力者に頼るよりはマシだろう。
それから雨音と慶一は、今までのことの成り行きを洗いざらい節子に話すこととなった。
映研の倉庫で、先輩たちが脚本を見つけたこと。その脚本が、実は呪われた脚本であったこと。合宿で撮影したビデオに、黒衣の女が映っていたこと。そして、美幸や正仁などの映研メンバーが立て続けに殺されたこと。
全ての話を聞き終えたとき、節子はいつになく険しい顔をしたまま、慶一と雨音に向かって言った。
「なるほど……。どうやらあんた達は、知らない内に魔物の巣に足を踏み入れていたようだね。あんた達は知らんかったんだろうが……二十年前の事件で脚本を封印したとき、既に映画研究会の倉庫は魔物の巣になっていたのかもしれん」
正に≪魔窟≫だな、と慶一は思った。二十年の間、堀井有紗の怨霊が宿る脚本を封印してきた映研の倉庫。その汚さ故に≪魔窟≫と呼ばれてきたが、どうやらそれは、単なる冗談で済ませられるようなものではなかったらしい。
「あんた達を狙っている、その堀井とかいう女子の霊だけどね……。残念ながら、私にはそれを祓うような力はない。あんた達を物の怪の手から守る方法は知っておるが、物の怪を退治する術は知らんのでな」
「なっ……。それじゃあ、俺たちはこのまま、殺されるのを待つしかないってのか!?」
「いや、まだ希望を捨てるのは早いよ。幽霊って言ったって、元は人間さね。それに、神様として崇められる程の力を持っていなければ、普通は念だけで人を呪い殺すなど不可能だよ。だから、やつらは人の身体を借りて、あれこれと悪さをするんだね」
人の身体を借りる。以前、病院で石鎚に会ったとき、彼もまたそんなことを言っていたような気がする。
「まあ、人の身体を借りると言っても、奴らはあくまで魔性の者だからね。魔除けの類で身を固めれば、こちらに近寄ることなんてできないのさ。私が雨音の部屋の前に盛り塩をしたのも、護符を貼ったのも……それから、ニンニクをぶら下げたのも、全ては魔除けのためさね」
「魔除け……。でも、そんなもんで、本当に怨霊の攻撃を防げるのか?」
「防ぐんじゃない。ただ、近づかせないだけだよ。さっきも言ったけど、私はあくまで拝み屋の末裔に過ぎないからね。本当に真っ向から戦おうとしたら、私の力なんぞ赤子同然よ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ! このままだと、俺たちだって、いつかは……」
節子の力を持ってしても、堀井有紗には敵わない。まあ、あの氷山神社の神主が殺されてしまった時点で、そもそも並の人間では敵わないことは気づいていた。が、それでも、やはり誰も堀井有紗に抗えないとなると、さすがに辛い物がある。
これからいったい、自分たちはどうすればいいのか。互いに顔を見合わせている慶一と雨音の前で、節子もまた何かを考えているようだった。
「のう、あんた……」
突然、節子が慶一に向かって声をかけてきた。
「あんた、確か慶一とか言ったか? 今日は、この家に泊まってゆくとええ。焼け石に水かもしれんが、この家にいる限りは、魔物もお前達に手は出せん」
「えっ……。で、でも……」
「いいから、今日は泊まってゆけ。このまま家に帰ったら、次に死ぬのはお前さんかも知れんぞ。今まで亡くなってきた者たちだって、皆、己の家で死んでおったであろうに……」
節子の言葉に、慶一は美幸や正仁のことを思い出した。
殺された全員が全員、自分の家で死んだとは限らない。だが、自宅が必ずしも安全かというと、そうとも言い切れない。秀彰の亡くなったときの状況から考えても、それは明らかだ。
このまま家に帰っても、堀井有紗に殺される可能性が高まるだけ。ならば、少しでも生き延びることを考えた場合、迷信でもなんでもすがるしかない。
そう考えた慶一だったが、彼が返事をする前に、今度は雨音が反対した。
「ちょっと、おばあちゃん! いくら悪霊に狙われてるからって、急にそんなこと言われても困るわよ。こっちだって、部屋に空きがあるわけじゃないんだし……だいたい、お父さんやお母さんには、どう説明するのよ!!」
「あの二人だったら、まだ仕事から帰っておらんよ。その前に、あんたの部屋に匿ってしまえば問題ないじゃろ」
「匿うって……それでも、寝る場所なんかはどうする気? こいつに貸せる空き部屋なんて、家にはないでしょ?」
「そうだねぇ……。まあ、それはお前の部屋を使わせてやればよかろう。多少、寝苦しいとは思うが、押し入れにでも寝てくれれば見つからんじゃろうて」
客人を、よりにもよって押し入れに寝かせる。どう考えても非常識な発想だったが、雨音はそれ以上に、自分の部屋に慶一を泊めるという節子の発言が信じられなかった。こちとら、もう高校生。小学生が、友達の家でお泊まり会をするのとは違うのだ。その辺のことを、節子はきちんと理解しているのだろうか。
「勘弁してよね、おばあちゃん……。確かに、おばあちゃんのお陰で、あの部屋には幽霊なんて近づけないかもしれないわよ。でも、その代わり、寝ている間にこいつに襲われちゃったらどうすんのよ!!」
「なっ……。なんで、そういう話になるんだよ! こっちだって、誰が好き好んで、お前のことなんて襲うかよ!!」
「悪かったわね。襲いたくなるような魅力もなくて」
「なんだよ。じゃあ、俺はどう言えばよかったってんだよ!!」
最早、お約束となった痴話喧嘩。雨音と一緒にいると、やはりこういったぶつかり合いが耐えない。もっとも、今ではそれも含めて、慶一は雨音との関係を大切にしたいとは思っていた。どちらも互いに、本気で相手のことを嫌っているわけではない。むしろ、どこかで信頼しているからこそ、こうやって文句の一つも言えるのだ。
だが、それだからこそ、慶一は自分が雨音の家に泊まるわけにはいかないと思った。自分の中に、堀井有紗の怨霊が潜んでいるのではないかという疑念。それが晴れていない以上、雨音の部屋に泊まらせてもらうわけにはいかない。
「なあ、雨音。やっぱ俺、今日はもう帰るわ。お前のばあちゃんには悪いけど……もし、本当にお前の言っていたみたいなことになったら、さすがにマズイしな」
「なっ……。なによ急に。まさか、今更になって、硬派な男を目指そうなんて思ってるんじゃないでしょうね」
「いや、別にそんなんじゃない。ただ……もしも、俺の中に堀井有紗がいたらってこと、お前は考えないのかよ。あいつは他人の身体を借りて、人を殺すんだぜ? 誰の中に入っているかもわからないんだから、俺の中にいたっておかしくないじゃないか」
随分と遠回しに、慶一は自分の抱いている疑念を雨音に伝えたつもりだった。
これでいい。これで、例え自分の中に堀井有紗がいたとしても、雨音を手にかけることはない。それに、節子の言っている守りが完璧ならば、この家にいる限りは雨音も安全だ。
結局、自分が雨音にしてやれることは、こうして目の前から去ることだけなのかもしれない。そう、慶一が思ったときだった。
突然、節子が部屋の仏壇から灰をつかみとり、それを慶一に向かって投げつけた。あまりに急なことで、顔を守る暇さえもない。慶一は灰をもろにかぶり、思わず目を瞑って顔を払った。
「ぶへぇっ……。お、おい! いきなり、なにすんだよ!!」
「まあまあ、そう怒りなさんな。それよりあんた、気分はどうだね? どこか痛いとか、吐き気がするなんてことはないかね?」
「は、吐き気……。いや、別にないけど……それよりも、これはいったい何なんだよ!!」
「見ての通り、仏様の灰だよ。もし、お前さんに物の怪の類が憑いておるのなら、これで尻尾を出すはずなんだがね。何の変化もないところからして、どうやらお前さんの中には、その堀井有紗って女子はいないようだね」
灰を被り、未だ苦い顔をしている慶一に向かって、節子は平然と言ってのけた。
なるほど、確かに線香を燃やした灰というものは、仏様の力が宿っているともいえるだろう。昔から、悪霊や妖怪の類というものは、神だの仏だのという存在の力を嫌う節がある。慶一の中に堀井有紗がとり憑いているというのであれば、この灰の一撃で、何らかの反応を見せていてもよいはずだ。
だが、それにしても、まったくなんという判別方法だろう。こんなことをしなくても、もっと他に方法があったのではないだろうか。
「やれやれ……。でも、これで俺の中に、堀井有紗はいないってことが証明されたってことか? なんか、まだちょっと信じられないんだけど……」
「何を言っておる。そもそも私は、お前さんが雨音の部屋に入れた時点で、物の怪に憑かれてなどいないと思っていたがね。あれだけの守りを突破して部屋に入れるようなのが相手なら、雨音もとっくに殺されておるわ」
「なっ……。だったら、最初からそう言えよ。これじゃあ、灰を被っただけ馬鹿みたいじゃないか」
肩についた灰を落としながら、慶一は不服そうに言ってのけた。
節子は初めから気づいていたのだ。慶一は堀井有紗に憑かれた人間ではなく、雨音同様に狙われているだけの人間だと。だからこそ、こうして慶一を守るために、色々と手を尽くして引き留めようとしたのだろう。
なにはともあれ、これで自分の中にある疑念からは、とりあえず開放されることになった。残るは雨音が慶一を部屋に泊めるか否かという問題だったが、こうなった以上、慶一としては雨音以外に頼れる相手がいなかった。
「絶対に襲わないって約束するから」
そう、自分が考えられる限り最高に真面目な顔をして、慶一は雨音に向かって言った。そのあまりに真剣な表情に、雨音もさすがに憎まれ口を叩くわけにはいかなかったのだろうか。
「わかったわ。でも、夜の間にちょっとでも押し入れから出たら殺すからね。それだけは、覚悟してなさいよ!!」
相変わらず、物騒なことを平気で言う。口ではそんなことを言いながらも、宿泊に同意したということは、どこかで信用されているということなのだろう。ならば、その信頼を裏切らないためにも、ここは紳士であるべきだ。
(それにしても、なんか変なことになったな……。とりあえず、家には友達のところに泊まるとでも連絡しておくか……)
もう時期、雨音の両親も帰ってくる時間に成る。それまでに、さっさと雨音の部屋に身を隠し、泊まっていることが知られないようにしなければならない。
なんだか自分が妙に悪いことをしている気になって、慶一は少しばかりの罪悪感を抱いていた。だが、ここまで来て節子の好意を無下にするわけにもいかない。
自分のポケットから携帯電話を取り出すと、慶一はとりあえず、自分の両親に宛てて簡単なメールを送っておいた。