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【弐拾ノ花】  中に潜む者

 学校への通学が再開されたのは、敢の遺体が倉庫で発見された翌週の月曜だった。


 土日を挟み、少しでも気が休まるかと思っていたが、慶一に限ってそれはなかった。むしろ、ここ最近はまともな睡眠がとれておらず、常に頭痛と目眩に悩まされていた。


 あの日、牧原と共に向かった病院で出会った、石鎚という男。多重人格と妄想性障害を併発している疑いから、実に二十年近くもの間、精神病院に収容されている犯罪者。彼の話を聞いてからというもの、慶一は自分自身の中に潜む堀井有紗の影に怯えていた。


 石鎚の話では、堀井有紗は神の如き演技力を誇る演技の天才だったという。それは亡霊になってからも変わらず、憑依した相手を完全に演じ切ることで、人知れず次々に殺人を行ってゆくというのだ。


 現に、石鎚自身、その堀井に憑依されて殺人を繰り返したと言っている。果たしてそれが本当なのかは不明だが、少なくとも慶一には、いくつかの思い当たる節はあった。


 まず、ここ最近になって見るようになった妙な夢。最初は雨の中を歩き回っているだけの不鮮明な記憶だったが、思えばあれは、自分の中にいる堀井有紗の記憶を見ていたのではないだろうか。


 自分が夢を見て、その翌日には人が死んでいる。美幸のときも、正仁のときもそうだった。秀彰のときに至っては、とうとう夢から覚めた後で、その両手に誰かを刺殺した際の感触まで残っていた。


 牧原は石鎚の話を半信半疑に聞いていたようだが、恐らく、彼は嘘を言ってはいない。ノートの記述と石鎚本人の証言、それに今までの出来事を全て合わせて考えると、堀井有紗の怨霊が人の身体を使って殺人を犯しているという事実は、疑いようのないものだった。


 自分の中には、本当に堀井有紗の怨霊が潜んでいるのか。美幸を、正仁を、そして敢や神主や、果ては秀彰まで殺したのは、全て自分だったのか。


 自分が自分でなくなってゆく。石鎚の話を聞いてからというものの、慶一は自分自身が今に堀井有紗に完全に乗っ取られてしまうのではないかと思い、恐ろしかった。


 堀井有紗は、憑依した相手の全てを完璧に演じきる。口調も、行動も、思考でさえも相手に合わせ、完璧にとり憑いた人間に成り変わる。


 今、こうしている間にも、ふとした瞬間に堀井有紗が現れるのではないか。いや、それ以前に、こうして考えている自分自身、既に自分ではないのではないか。今、ここにいる自分でさえも、全て堀井有紗によって演じられている、作り物の感情ではないのだろうか。


 自分で自分が信じられず、それが何よりも辛かった。牧原に言われて石鎚に会う決意をしたときは、慶一の中にも真実に立ち向かおうという強い意志があった。が、今やそんなものは完全に消え失せ、己に対する疑念だけが心の中を占めている。


 だが、果たして本当に、石鎚の話を聞かなくてよかったのだろうか。それは、慶一にもわからない。仮に本当に自分の中に堀井有紗がいるのだとすれば、結果として次の獲物を自分が殺すことには変わりない。次に殺されるのは、雨音か、亮か、それとも瑞希か。自分の手で仲間を手にかける瞬間を想像しただけで、喉の奥から吐き気が込み上げてきた。


 本当は、学校など行きたくない。映研のメンバーに会えば、それだけで自分の中の堀井有紗が目覚め、その場で相手を殺してしまうかもしれない。


 この数日間で慶一の身の回りに起こったことを考えれば、両親に言って学校を休むというのも手だ。しかし、休んだところで堀井有紗が自分の中から消えなければ、結果は同じではないか。現に、美幸も正仁も、慶一の知らぬところで殺された。そのことを考えると、今の慶一に逃げ場というものは存在していなかった。


「くそっ……! とにかく、眠らなきゃいいんだ……。眠らなければ、やつは俺の中から出てこない……」


 自分に言い聞かせるようにして、慶一は目の前にあるコーヒーを一気に飲み干した。寝不足が酷く、この程度では睡魔に勝てそうになかったが、それでもなんとか頭の痛みを堪えて立ち上がる。


 今までのことから考えて、堀井有紗は自分が寝ているときに活動しているようだった。それならば、深い眠りに落ちなければ、堀井有紗を抑えることができるのではないか。そう考えて、慶一はこの数日間、常に二時間おきに目覚ましをかけては起きるという生活を続けていた。


 人間に必要とされる睡眠時間は、最低でも四時間弱。二時間ごとに区切って寝ては、いくら総合で何時間寝たところで、本当に頭の疲れは取れない。しかし、これも堀井有紗を抑えるためとあれば、仕方のないことだと割り切った。


 ふらつく足取りのまま、慶一は鞄を持って家を出る。朝食など、食べる気にはならない。ただでさえ寝不足なのに、朝からトーストだのベーコンだのと腹に入れたら、それだけで胃もたれが酷くなりそうだ。


「行ってきます……」


 普段とは違う覇気のない声で、慶一は形だけの挨拶を残して家を出た。外では久しぶりに太陽が顔を見せていたが、慶一にはそれが、妙に眩しく感じられてならなかった。


 それから先は、どこをどう歩いたのかわからない。気がつくと、慶一は自分の通う学校の前に、独りぼんやりと立っていた。


 眼前に聳え立つ学校の校舎が、なんだかとても禍々しいものに感じられる。見た目は何も変わらないのに、慶一にはそれが、恐ろしい魔物の巣食う古城のように見えてきた。


 一日はまだ、始まったばかり。これから先、この校舎で長い戦いが続く。決して眠ることの許されない、孤独で辛い戦いが。


 はぁっ、という音と共に、慶一の口から大きな溜息が零れ落ちた。これからのことを考えると気が重かったが、それでも慶一は意を決し、学校の門をくぐっていった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 四限の予鈴が鳴り響く頃、慶一はその音を目覚まし代わりに目を覚ました。


 眠い。その上、頭が重い。あれだけ寝まいと心に決めて学校に来たのに、結果はこれだ。授業中、ことある毎に襲いかかって来る睡魔に抗えず、気がつけばノートに涎の染みを作っていた。


 慶一にとって幸いだったのは、授業の時間が一時間と続くものではないことだった。さすがにこの短時間では、堀井有紗も活動できないのか。それとも、幽霊だけに昼時は眠っていて、夜にならないと目覚めないのか。


 その、どちらでも、慶一にとって大差はなかった。とにもかくにも、学校にいる間に堀井有紗が目覚めないのであれば、それでよい。夜はまともに寝ていないだけに、昼間、学校で退屈な授業を聞いているのは、今までになく苦痛だったからだ。


「ちょっと、慶一。あんた、さっきの授業でまた寝てたでしょ?」


 気がつくと、後ろに雨音が立っていた。両手を腰に当て、机に突っ伏した慶一を見降ろすような形で、冷ややかな視線を送っている。


「なんだ、雨音かよ……。悪ぃ……。今日は、お前の説教を聞いている余裕なんてねえよ……」


「はぁ……。そんなことより、あんた、今日はいつになく酷い顔してるじゃない。この週末に、何かあったの?」


「別に……。雨音に言うようなことは、特にない」


 できることなら、今は映研のメンバーと関わりたくない。そう思って言った慶一だったが、そのぶっきらぼうな言い方は、返って雨音の神経を逆撫でしたようだった。


「あんたねえ……。そりゃ、先輩たちが亡くなって……秀彰君も亡くなって、気持ちが沈んでるのはわかるわよ。でも、それにしても、授業中に爆睡ってのは酷いんじゃないの? こんなときだからこそ、私たちでしっかりしなくちゃ駄目じゃない」


「だから、雨音には関係ないって言ってるだろ! お前こそ、先輩たちが亡くなったのに、どうしてそんなに普通にしていられるんだよ!!」


「なっ……。折角人が心配してあげてるのに、なによ、その言い方! それに……普通になんて、してるわけないじゃない! 怖いのは、私だって同じなんだからね! 皆、次々に殺されて……次は自分かもしれないって、不安になってるのに!!」


「だったら、俺なんかじゃなくて、誰か他のやつを頼ればいいじゃないか! 俺みたいな頼りないやつより……それこそ、亮みたいに頭のきれるやつの方が、よっぽど頼りになるだろ!?」


 最後の方は、とうとう慶一も立ち上がって雨音を怒鳴りつけた。その声に、教室中の生徒の視線が、一斉にして慶一と雨音に向けられる。


「悪いけど、これ以上は、お前と話すことなんて何もねえよ。だから、しばらくは放っておいてくれよな!!」


 それだけ言って、慶一は机の横にかけてあった鞄を乱暴に取ると、やけに苛々とした表情のまま教室を飛び出した。いったい、慶一と雨音の間に何があったのか。それを知らないクラスの者達が、残された雨音に好奇の目線を向けている。


(なによ、あいつ……。怖いのは、皆同じなのに……独りだけ追い詰められたみたいな顔しちゃってさ……)


 不服そうな顔をしながら、残された雨音が慶一の去った後の机を見つめていた。


 この数日で慶一に何があったのか、当然のことながら、雨音は知らない。もっとも、先ほどの慶一の様子から察するに、彼が随分と追い込まれているということだけは理解できた。


 だが、だからこそ、雨音は慶一の力になりたかった。普段はぶつかることもあるが、それでも慶一とて大切な映研の仲間だ。


 もう、これ以上誰かの訃報を聞くのも、自分が殺されるのも嫌だった。先輩たちが殺され、秀彰も死に、残されたメンバーはあと僅か。そんなときだからこそ、今一度、仲間として力を合わせるべきだろう。


 そう思っていたからこそ、雨音は本気で慶一のことを心配した。それなのに、当の本人はあの態度。いつもの痴話喧嘩とは違う、なんだか酷く裏切られたような感覚に、雨音は怒りよりも寂しさのようなものを感じていた。


 結局、自分は慶一に、そこまで信用されていなかったということか。普段、喧嘩ばかりしていたから、いざという時にまったく当てにされなくなってしまったのか。


 軽く、項垂れるようにして、雨音は視線を慶一のいた机に落とした。その瞬間、机の中から紙のような物が顔を出しているのに気付き、雨音はそれを無意識の内に引っ張り出していた。


 慶一が机の中に忘れていった一枚の紙。なんだろうと思い広げてみると、それは次の授業で使う英語のプリントだった。


 五限にある英語の授業は、今日は視聴覚室で行われることになっている。慶一は、果たしてプリントのことに気づき、教室に戻ってくるだろうか。鞄を持って教室を出てしまったことから、その可能性は低いだろう。


「まったく、しょうがないわね……。追いかけて、届けてあげなくちゃ」


 あそこまで酷く言われたのに、こうも慶一にこだわる自分が雨音は不思議だった。いったい、自分はなぜ、こうまでして慶一に構っているのか。その答えは、なんとなくだが自分でもわかっている。


 今はとにかく、慶一と少しでも話をするきっかけが欲しい。互いに思ったことを真っ直ぐにぶつけ合えるような、そんな関係を失いたくない。


 たかがプリント一枚を届けたところで、何が変わるわけでもないだろう。そう、頭ではわかっていても、雨音は気づくと慶一の後を追って教室を飛び出していた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 教室を飛び出した慶一が向かったのは、学校の屋上にあるベンチのうちの一つだった。


 慶一たちの学校は、屋上の一部を生徒のために開放している。専用のベンチも備え付けられ、昼食を食べるのに使う者も多い。また、ちょっとした休憩の場として使われることもあり、生徒の出入りはそれなりにある。


 そんな屋上の一角に、慶一が≪特等席≫と呼ぶベンチがあった。この時間、昼の日差しに当てられて、一部のベンチは直射日光をもろに受ける。当然、そんなところに座っては日射病になってしまう可能性があったし、何より夏の日差しに焼かれたベンチに座った場合、下手をすれば尻を焼かれる可能性があった。


 慶一の言う≪特等席≫は、それらのベンチとは反対にあるものだった。ちょうど、校舎の作る影が重なって、旨い具合に日影ができる。普段は湿って薄暗いという理由で好まれない場所だったが、晴れた日の昼には調度よい、知る人ぞ知る穴場だ。


 顔の上に鞄を乗せて、慶一はベンチの上に横になっていた。


眠い。昨日、一昨日とまともに寝ていないため、どうにも睡魔に抗えない。


 いっそのこと、このまま五限をさぼって寝てしまおうか。そう思ってはみるものの、万が一、それで自分の中の堀井有紗が目を覚ましてしまったらと考えると、迂闊に眠ることさえも許されない。


 これが授業なら、完全に爆睡する前に予鈴が鳴るか、教師に注意される形で起きられる。だが、このベンチの上で眠ってしまったら最後、夜になるまで延々と眠り続けるのではないかと思い、怖かった。


(そういえば……雨音のやつ、どうしてるかな……)


 朦朧とした意識の中、慶一は先ほどの雨音との会話のことを思い出した。


 自分が映研の誰かと関わることで、その相手を死に追いやるのではないか。そう思ったからこそ、雨音にはあえて冷たい態度を取ってしまった。あのまま、雨音といつも通りに接して、次に彼女が堀井有紗に狙われることになったら……。そう考えると、自分は間違ったことをしたわけではないと思う。


 だが、それにしても、もっと言い方というものがあったのではないかと思ってしまうのも事実だった。あんな言い方をしては、雨音でなくとも機嫌を悪くするのは間違いない。普段は喧嘩ばかりしているが、慶一とて、本気で雨音のことを嫌っているわけではないのだ。


 なんだか、自分がとても悪いことをしてしまったような気がして、慶一は胸の奥にやりきれない物を感じていた。どちらに転んでも、罪悪感しか残らない。そんな現状に、早くも嫌気がさし始めていた。


 もう、いっそのこと、石鎚のように警察に出頭してしまおうか。牧原に頼み込んで、どこか誰も手を出せない場所に隔離してもらえば、この事件は全て終わるのではないか。ふと、そんなことを考えたときだった。


「先輩! そんなところで、なにやってるんですかぁ?」


 聞き覚えのある声に、慶一は顔の上の鞄を退かして目を開ける。見ると、こちらを覗きこむようにして、瑞希の顔が目の前にあった。


「なんだ、瑞希か……。お前こそ、こんなとこで何やってんだよ?」


「ボクは、お昼御飯を食べる場所を探していただけですよぉ。それよりも……先輩の方こそ、大丈夫ですかぁ? なんだか、ちょっと顔色が悪いですよぉ?」


「悪ぃ、瑞希。実は、ここ最近は、あんまり寝てなくってさ。ちょっとワケアリで、夜になっても熟睡できないんだよ」


「そうですか……。やっぱり先輩も、あの堀井有紗って人の幽霊のこと、気になってますよね……」


 瑞希の表情に、途端に影が差した。慶一の手前、今まではなんとか明るく振る舞おうとしていたものが、簡単に崩れてしまった。そんな感じだった。


「なあ、瑞希……」


 鞄を横に置き、慶一は眠たい目を擦って起き上がる。瑞希にまで、先ほどの雨音と同じような思いをさせてはならない。今度はできるだけやんわりと、自分から離れてもらうことにしよう。


「悪いけど、これ以上は俺に関わらない方がいいぜ。下手すると、今度はお前が堀井有紗の怨霊に殺されることになる……」


「はぁ? どうしたんですか、先輩? 三流漫画の主人公みたいな台詞なんて言って……。ボク、そういう冗談、わからないんですよね」


「冗談で、こんな臭い台詞吐くと思うのか? 氷山神社の神主が死んだとき……お前も亮からメール貰ったはずだろ? その内容を、ちょっと思い出してみろよ」


「メールの内容ですかぁ? えっと……確か、堀井有紗の怨霊は、誰かにとり憑かないと人を殺せない。そんなやつでしたよね?」


「ああ、そうだ。その、堀井有紗がとり憑いている人間なんだけどな……もしかすると、それは俺かもしれないんだ」


 自分でも、ここまで直球で話を伝えてよいものかどうか戸惑った。だが、一度話し出すと、もう後戻りはできなかった。


 堀井有紗は、果たして本当に自分の中にいるのか。もし、自分の中にいるのであれば、それを追い出すためにはどうすればいいのか。それらの問題が解決するまで、映研メンバーとは距離を置きたい。そのことを伝えるのには、こうして正直に自分の考えを話す他になさそうだった。


 もっとも、いきなりそんなことを言われても、傍からすれば信じろという方が無理だろう。案の定、瑞希はますます心配そうな顔をして、慶一の隣に腰を降ろした。


「なに言ってるんですか、先輩。もし、堀井有紗が先輩にとり憑いているなら、今ここでボクを殺したっていいはずですよ。でも、先輩は普通にボクと話ができてます。だから、それは先輩の考え過ぎだと思いますよぉ」


「そうは言ってもさ……夢に、見たんだよ。麻生先輩や久瀬先輩が殺された日、俺は雨の中を彷徨うような夢を見たんだ。秀が死んだときなんか、あいつを刺したときの感触まで手に残ってた。あの、ノートにも似たようなことが書いてあったし……たぶん、俺の中に堀井有紗がいるのは間違いない」


「先輩……。それでもボクは、先輩を信じます。先輩は絶対に、堀井有紗の幽霊にとり憑かれてなんていません!!」


「瑞希……」


 こんな自分でも、信じてくれる後輩がいる。思わず泣きそうになったが、そこは慶一も男だ。なんとか気持ちを落ちつけると、改めて瑞希に向き合った。


「お前が信じてくれるのは、俺も嬉しいさ。でも、俺の見ている夢や、あのノートに書かれた話はどう説明する? もし、俺の中に堀井有紗が潜んでいたら、今度はお前を俺の手で……」


「それは大丈夫です。先輩の中には、たぶん堀井有紗はいませんから」


「そう思いたいのは、お前の勝手だぜ。けど、もしも俺の中にやつがいたら、本当にお前が死ぬかもしれないんだぞ? お前はそれが、怖くないのか?」


「だから、大丈夫だって言ってます! だって……だってボク……先輩の中に堀井有紗がいないっていう、証拠みたいなのを持ってますから……」


 そう言いながら、瑞希は自分の鞄の中から何かを取り出して慶一に見せた。いったい、瑞希の言う証拠とは何だろう。半信半疑なまま目をやると、そこにあったのは、薄汚れたウサギの人形だった。


「おい……。瑞希、これ……」


「はい。皆口先輩の鞄についていた、ウサギの人形です」


 以前、牧原と初めて出会った日に、学校に戻ったばかりに雨音と探す羽目になった人形。なぜだか知らないが、雨音がしきりにこだわっていた、あの人形だ。


 そんなものを、いったいなぜ瑞希が持っているのだろう。謎は深まるばかりだったが、とりあえず慶一は、瑞希がどこでその人形を手に入れたのかが気になった。


「なあ、瑞希。お前……いったいどこで、この人形を拾ったんだ?」


「どこで、ですか? ボク、今朝になって、やっぱり少し気になって……例の≪魔窟≫まで行ってみたんです。相変わらず、中に入ることはできませんでしたけど……倉庫の裏手の方にまわってみたら、この人形が落ちてたんです」


「≪魔窟≫に向かったって……お前、正気かよ!? あそこは瀧川先輩が殺された場所だぞ! そんなところに独りで行って、堀井有紗の霊に襲われたらどうするつもりだったんだよ!!」


「ご、ごめんなさい……。でも、ボク……どうしても、気になって仕方がなくて……」


 この話をして、まさか慶一に怒鳴られるとは思っていなかったのだろう。瑞希の声が、徐々に小さくなっていった。顔を覗きこんで見ると、今にも泣き出しそうになっている。折角瑞希が心配してくれたのに、これでは雨音のときの二の舞だ。


「わ、悪ぃ、瑞希。なんか、急に怒鳴ったりして……」


 とりあえずは、瑞希のことを落ちつかせなくてはならない。そう思った慶一が口にすると、途端に瑞希は顔を上げ、慶一の手を取ってきた。


「先輩。皆口先輩には気をつけてください。もし、堀井有紗の霊が誰かにとり憑いているなら……ボクは、皆口先輩に憑いていると思います」


「なっ……なに言ってんだよ、瑞希。雨音に限って、そんなはずないだろ!!」


「でも、それじゃあ、≪魔窟≫の近くに人形が転がっていたのは、どう説明するつもりなんですかぁ!? あんな場所、そう滅多に行くはずもないのに……そんな場所に人形が落ちているなんて、いくらなんでも不自然ですよぉ!!」


 慶一の手をしっかりと握り締め、瑞希がその小さな瞳を向けて来た。


 あの雨音に、堀井有紗がとり憑いている。にわかには信じがたい話だったが、それでも瑞希の言っていることが本当ならば、その可能性も否定できない。あの日、雨音が人形を失くしたのも、敢を殺した際に落としたのだとすれば説明できないこともない。


 だが、それにしても、今は断定するのに情報が少な過ぎる。仮に雨音の中に堀井有紗がいたとして、人形を見つけただけで、そう判断するのはあまりに早過ぎる。


 やはり、堀井有紗は自分の中にいるのだ。そうでなくては、あの夢の説明をつけることができそうにない。そう思い、慶一が再び瑞希に話をしようとしたときだった。


 ドサッという、何かが落ちる音がして、慶一と瑞希は揃って音のした方を振り向いた。瞬間、瑞希の顔が幽霊でも見たかのようなそれに変わり、慶一もまた、目を丸くして固まった。


 そこにいたのは、他でもない雨音だった。鞄を取り落とし、呆然とこちらを見つめている二つの瞳。なぜ、このような状況になっているのかわからない。もしくは、自分の信じていたものに完全に裏切られた。そんな表情だった。


「おい、雨音……。お前、今の話……」


 鞄を取り落とし、呆然と立ち尽くす雨音に、慶一は恐る恐る声をかけた。雨音の様子を見る限り、先ほどの話を聞かれていたのは間違いない。


 慶一の言葉に答えることなく、雨音が突然踵を返して走り出した。落とした鞄も拾わずに、脱兎の如く駆け出して行く雨音。それを見た慶一は、次の瞬間には瑞希を残し、雨音の鞄を拾って飛び出していた。


「おい、待てよ! 雨音!!」


 先ほどの瑞希が言っていた話が真実であるはずがない。確かに、瑞希は人形を≪魔窟≫の近くで拾ったのかもしれないが、それで雨音を全ての犯人扱いするなど早過ぎる。


 雨音は堀井有紗なんかじゃない。確かに口は悪く、気がつけば喧嘩をしているような関係だったが、このまま誤解されて終わるのは慶一にとっても本意ではない。


 階段を駆け下り、廊下を走り、慶一は雨音を追いかけた。玄関の扉をくぐり、学校の門を抜けたところで、ようやく雨音に追いついた。


「はぁ……はぁ……」


 互いに肩で息をしながら、慶一は同じようにして動けなくなっている雨音に近づいた。とにかく今は、雨音に対する誤解を解かなくてはならない。そう考えるだけで精一杯だった。


「なあ、雨音……。俺は……」


 息が切れて、思うように言葉が出ない。おまけに頭にも血が昇り、なかなか良い言葉が浮かんで来ない。


 こんなときに、我ながら情けないと慶一は思った。だが、それでも少しは雨音に伝わったのだろうか。やがて、呼吸を整えると、開口一番に雨音が慶一に向かって叫んできた。


「私は……私は、堀井有紗なんかじゃない! 私は先輩たちを殺したりなんかしていない!!」


「わかってるよ、そんなことは……。俺だって、お前が堀井有紗の霊にとり憑かれているなんて、思っちゃいないさ」


「で、でも……。あんた、さっき小鳥遊さんと一緒に話してたじゃない。あの子が私の失くした人形を≪魔窟≫の近くで拾って……それで、私が事件の犯人じゃないかって……」


「だから、俺はお前が犯人だなんて言ってないだろ? そりゃ、確かにお前の失くした人形が、あんな場所から出て来たってのは不自然に思ったけどさ……。けど、それだけでお前を犯人扱いするほど、俺だって頭が単純じゃないぜ」


 最後の方は、少し強がるような言い方になった。自分が雨音を信じていると言って、では、なぜ信じているのかと聞かれても困る。まさか、「俺の中に堀井有紗がいるから、お前は犯人じゃない」などとは、この状況では口が裂けても言えそうにない。


 もっとも、そんな慶一の心配を他所に、雨音はただ一言、「ありがとう……」と言っただけだった。なんだか拍子抜けしてしまったが、とりあえずは一安心か。そんなことを考えていると、校舎の方から五限の開始を伝えるチャイムが聞こえて来た。


「やべっ! もう、こんな時間かよ! 五限の授業、始まっちまったな……」


「別にいいんじゃない? 私、今日はもう、学校に戻る気はないから。また、小鳥遊さんと顔を合わせたら、今度こそ本当に酷い喧嘩しちゃいそうだし……」


「おいおい、マジかよ……。でも、本当にいいのか?」


「うん。それよりも慶一。どうせだったら、一緒に学校サボらない? どうせ授業に出たって居眠りしかしないんだったら、私のこと家まで送って行ってよ」


 珍しいこともあるものだ。あのクソ真面目な雨音の口から、学校をサボるなどという言葉が出るとは。


 いつもの癖で、つい「明日は雪でも降るんじゃないか」といいたくなった慶一だったが、その言葉を慌てて喉の奥に飲み込んだ。


 映研のメンバーが立て続けに死んで、雨音も不安には思っているのだろう。それに加えて、先ほどのあの一件だ。これ以上は学校にいたくないという、雨音の気持ちもわからないではない。


 結局、その日は雨音に促されるままに、慶一は学校を抜け出してしまった。未だ自分の中に堀井有紗が潜んでいるのではないかという不安があったが、このまま雨音を突き離すのも気が引けた。


(まだ昼だし……家まで送るくらいなら、たぶん大丈夫だろ)


 自分の心の中に秘めた言葉は雨音に伝えずに、慶一は左手に持っていた鞄を雨音に渡す。そんな二人の姿を見降ろしている仄暗い瞳があることに、このときの慶一と雨音は、まったく気づいてはいなかった。

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