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【拾八ノ花】  逃れられぬ恐怖

 街が宵の闇に包まれる時分、田村秀彰は自室の一角で毛布を被って震えていた。


 今朝、テレビのニュースで知ることになった、氷山神社の神主殺害事件。その事実を知ったとき、秀彰は自分たちが、未だ悪夢から解放されていないのだと知ることになった。


 ニュースのアナウンサーは、警察が強盗殺人の線で捜査を進めていると言っていた。だが、当の秀彰自身は、この事件が金目的で起きたものではないことを知っている。


 昨日、自分たちが呪いの脚本と記録ディスクを預けた氷山神社。その神社の神主が、一晩経った次の日の朝、無残な遺体となって発見される。これを堀井有紗の呪いと言わず、なんと言おうか。美幸を、正仁を、そして敢さえも死に追いやった少女の怨霊は、未だ自分たちのことを諦めていないに違いない。


 こうなると、根っから気の弱い秀彰のこと。もう、自分から呪いに立ち向かおうなどという気持ちは、すっかり消え失せてしまっていた。その上、そんな彼に更なる追い打ちをかけることとなったのが、昼過ぎに亮から送られてきたメールだった。


 メールの内容は、やはり今朝の事件に関する話だった。どうやら亮と慶一は、事件をニュースで聞くなり例の神社へ急行したらしい。そして、そこで以前に出会った刑事――――確か、牧原とかいったか――――を見つけ、あの≪魔窟≫で発見されたノートを渡したのだという。


 亮から送られてきたメールには、牧原がこちらの言うことを信じて動き出してくれたとあった。幽霊の話は信じてもらえなかったかもしれないが、少なくとも、堀井有紗の怨念がとり憑いた誰かを逮捕する形で動いてくれそうだとのことだ。


 警察が、ここに来てようやく重い腰を上げてくれたか。秀彰には、そんな風にしか思えなかった。そればかりか、亮のメールを読んだとき、警察に何ができるのかという諦めのような気持ちまで生まれて来た。


 メールを読む限りでは、どうやら堀井有紗の怨念は、誰かに憑依することでしか殺人を犯せないようだった。亮にしてみれば、相手が人間なら対処のしようがあると考えたのだろうが、秀彰にとってはむしろ不安を掻き立てる材料にしかなっていない。


 幽霊と言うものは、昔から神出鬼没で荒唐無稽な存在だ。もし、誰かに憑依することでしか人を殺せないとしても、向こうがとり憑く対象を自在に変えられるとしたらどうだろう。


 自分の友人、自分の母親、自分を守ってくれるはずの警察官。その、誰の中に、堀井有紗が潜んでいるかわからない。あるときはAという人間の中に入っていたとしても、警察に捕まる前にBという人間の身体に乗り換えれば、堀井有紗は決して捕まることがない。


 結局、自分たちの力で呪いに抗うことなど不可能なのだ。そればかりか、今では怨念が憑いた人間に合うことが恐ろしく、気がつけば誰も信じられなくなっている。


 現に、今も夕飯さえ摂ることはせず、こうして自分の部屋で震えているだけだ。いつ、どこで、どんな人間に堀井有紗が憑依して襲ってくるかわからない。そう思うと、自分の両親でさえも信じることができなかった。


「死んでたまるか……。僕は……僕は生き残るんだ……」


 自分に言い聞かせるようにして、秀彰は頭から被った布団を抑え、部屋の隅で震えていた。既に時刻は夜中の二時になろうとしていたが、未だに部屋の電気はつけっ放しにしている。当然だが、このまま眠ることなど、考えただけでも恐ろしい。


 布団の中に忍ばせた金属バットを握り締め、秀彰は襲い来る睡魔と戦っていた。迂闊に寝れば寝首をかかれる。相手に少しでも隙を見せたら、その瞬間に殺されてしまいそうで怖かった。


 カチ、カチ、という無機的な時計の秒針の音が、今日はやけに大きく聞こえた。外の雨音を差し引いたとしても、時計の針の音とはこれ程まで大きな音だっただろうか。


(くそっ……。ここで寝たら、全部終わりだ。寝たら……寝てしまったら、僕は堀井有紗に殺される!!)


 秀彰の意思とは関係なく、徐々に上瞼が落ちてくる。その度に、何度も頭を振っては自分自身を叩き起こし、秀彰は堀井有紗の襲来に備えていた。


 雨の音、時計の針の音、そして自分の吐き出す息。様々な音が、今の秀彰にとっては耳障りな雑音にしか聞こえない。睡魔と戦い、恐怖とも戦い、これ以上何と戦えばいい。この理不尽な仕打ちに対する怒りと不安を、誰にぶつければいいのだろう。


 夜が深まって来るにつれ、徐々に雨の音が大きくなってきた。やがて、秀彰の眠気も絶頂に達しようとしたそのとき、変化は唐突にやってきた。


「えっ……? な、なんだ……?」


 突然、部屋の電気が不規則に点滅を繰り返し、最後は派手に弾けるような音を立てて消えた。あまりに大きな音だっただけに、秀彰は布団にくるまったまま軽い悲鳴を上げて飛び上がった。


 部屋の電気が落ち、辺りは一瞬にして闇に包まれる。街灯の明かりも、夜の月明かりもない。自分を照らすものはなにもなく、周囲にあるのは完全なる漆黒の暗闇のみ。


 幽霊が相手を殺すには絶好の状態だ。秀彰の背中に、冷たい物がいくつも走る。バットを握っていた手がじっとりと汗で濡れ、全身がガクガクと震えている。


「なんだよ……。いったい、なんだってんだよぉ……!!」


 誰に言うともなく、秀彰は闇の中で情けない叫び声を上げた。が、それに答える者はなく、代わりに部屋の窓ガラスが、ガタガタと音を立てて揺れ始めた。


 まさか、あの窓ガラスを破って入って来るのでは……。そう思った秀彰は、震える手でバットを握り締めて身構えた。窓を揺らす音はますます激しさを増し、終いには窓ガラスを叩くようなそれに変わった。


 まずい。このままでは、窓を破られて堀井有紗がこちらに入って来る。そうなったら、あの正仁や敢でさえ敵わなかった凶悪な怨霊だ。自分如きに勝ち目などない。


 それにしても、これだけ大きな音がして、なぜ両親共に目を覚まさないのだろうか。この音は自分にしか聞こえていないのか、それともまさか、既に両親は堀井有紗に始末されてしまったのか。そんな嫌な想像が、秀彰の頭の中に浮かんだときだった。


 今まであれほど激しく揺れていた窓が、突然音を立てるのを止めた。そればかりではなく、部屋の電気が再び点滅を始め、最後は何事もなかったかのようにして元の明るさを取り戻した。


 淡く白い明かりに包まれて、秀彰はほっとした表情で胸を撫で下ろす。堀井有紗の怨霊は、こちらのことを諦めたのだろうか。それとも、単に窓がしっかりと閉まっていたので、部屋に入れなかっただけだろうか。


 その、どちらでも、秀彰にはさして関係はなかった。今はただ、自分が助かったという事実を噛みしめて、徐々に肩から力が抜けていっていた。同時に我慢していた睡魔が再び襲いかかり、秀彰は一気に意識を持って行かれそうになって顔を叩いた。


「ふぅ……。危うく寝ちゃうところだったな。でも、結局、幽霊は部屋に入って来なかったんだよな……。だったら、もう寝ても大丈夫かも……」


 別に、他の誰かが部屋にいるわけではなかったが、何か口にしないと不安だった。


 堀井有紗は、本当に自分のことを諦めたのだろうか。それとも、そもそもあれは、本当に堀井有紗の怨霊だったのか。


 だんだんと、怖がっていた自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。あの窓の揺れだって、もしかすると単なる強風によるものかもしれない。電気が消えたことにしても、単に接触が悪かっただけかもしれない。


 音が消え、明かりが消えたことで、秀彰は徐々に落ち着きを取り戻しながら立ち上がった。念のため、金属バットは片手に握ったままだったが、それでも彼は今しがた揺れていた窓の方へ、確認のためにそっと近づいてみた。


 窓に備え付けられた黄色いカーテンを開き、その向こう側を確認する。まさかとは思うが、窓を破って入って来るようなことはないだろう。念のため、鍵がかかっていることを確認し、秀彰はそっとカーテンを左右に開け放った。


「うわっ!!」


 次の瞬間、秀彰は再び悲鳴を上げて飛び上がった。そのまま後ろに尻もちを突く形でへたり込むと、金属バットを放り出して全身を震わせた。


 窓は、確かに鍵がかかったままだった。しかし、問題なのは、そこではない。


 窓ガラス一面についた、赤黒い色をした不気味な手形。恐らくは、先ほどの窓ガラスをが揺れた際についたものだろう。


「う、うそだ……。そんな……」


 ここは二階。普通の人間が、何の道具も使わずに窓に触れることなどできはしない。では、あの窓ガラスに残る無数の手形はなんだ。これも、怨霊となった堀井有紗だからこそ成せる技の一つということか。


 もう、これ以上は我慢の限界だった。今一度、窓の鍵をしっかりと閉まっているかを確かめるべく、秀彰は身体の震えを堪えて窓に近づいた。ガラスに残る無数の手形は薄気味悪かったが、それでも鍵をきちんとかけねば、今度こそ本当に相手が部屋の中に入って来るかもしれない。


 だが、改めて窓を見たその瞬間、秀彰は今度こそ本当に目に涙を浮かべ、一目散に窓から離れた。


「ひぃっ……ひぃぃぃぃっ!!」


 既に、冷静な判断力などは失われていた。そればかりか、今は頭が混乱し、まともに何かを考えることさえもできそうになかった。


 あの手形は、外から窓ガラスに叩きつけられたもの、そう、秀彰は思い込んでいた。が、しかし、実際に近づいて見るとどうだろうか。


 あの手形は、確かに窓を叩くことによってつけられたものだ。もっとも、外側から叩いたのではなく、あくまで内側・・から叩いたものだったが。


 なんということだろう。敵は既に、この部屋の中に侵入していたのだ。なにが、堀井有紗の怨霊は、人に憑かねば殺人を犯せないだ。やはり、幽霊は幽霊。こちらの常識など全て無視し、思いもよらぬところから現れる。


 敵がこの部屋にいるとわかった以上、そして、相手の姿が見えない以上、長居は禁物だった。いつまでもこんな場所にいたら、今度こそ本当に呪い殺されてしまうかもしれない。



――――逃げよう。



 そう思うが早いか、秀彰は部屋の扉を開け放ち、一目散に駆け出した。当然、逃げる先など考えていない。両親の寝ている寝室に逃げ込もうかとも考えたが、それでは結果として同じことだ。狭い部屋に逃げ込めば、最終的には追い込まれることになる。


(逃げなくちゃ……! できるだけ……できるだけ遠くに逃げなくちゃ!!)


 もう、この家の中でさえ安全だとは思えない。夜中であるにも関わらず、秀彰は家の扉を開けて外に飛び出すと、そのまま雨の街を走り出した。寝巻のままで、靴も履かず、それでも秀彰は逃げ続ける。とにかく今は、堀井有紗の怨霊から、少しでも遠くに離れることが先決だ。それ以外、今の秀彰の頭では考えることができなかった。


 路地裏を抜け、団地の横を通り過ぎ、最後は学校の側にある公園の近くまで走り続けた。さすがに息が切れ、秀彰は膝に手を添えて前のめりに項垂れる。


 聞こえてくるのは、自分の荒い息の音と、辺りを濡らす雨音だけ。それ以外には何の音もせず、何かが追いかけてくる様子はない。


 とりあえずは、逃げることに成功したのだろうか。ほっと溜息をついて、秀彰はその場に力なく座り込んだ。いずれは再び街中を逃げ回ることになるのだろうが、今は少しだけ、体力を回復するためにも休んでおきたい。


 身体が濡れることなど、既に気にしてはいなかった。ふと、公園の脇にある花壇を見ると、闇夜の中で紫陽花の花が雨に濡れていた。


(夜中の紫陽花か……。そういえば、あの映画のタイトルにも、確か紫陽花の名前が使われていたような……)


 なんだか急に、嫌なことを思い出した。まさかとは思うが、自分は逃げ出したつもりが、むしろ敵の懐に飛び込むようなことをしてしまったのではあるまいか。怨霊のいる部屋から脱出したつもりで、本当は更に出口のない迷宮に、独りで迷い込んでしまったのではないだろうか。


 そう、秀彰が不安に思ったときだった。


 彼の目の前の紫陽花が、徐々にその花の色を変え始めた。初めに見たときは薄紫色だったその花が、徐々に真っ赤な色に染まって行く。まるで、大地から生き血を啜っているかのように、紫陽花の奥から赤い色が染みだして来る。


 なんだ、これは。花が一瞬にして血の色に染まるなど、そんなことが現実的に起こり得るのか。


 どうやら自分は、未だ堀井有紗の怨霊から逃げ切れていなかったらしい。途端に恐怖が蘇り、秀彰は再び立ち上がると、雨の中を駆け出そうと大地を蹴る。


 だが、彼が新たな一歩を踏み出したその瞬間、脇腹に冷たい物が押し込まれた。


「うっ……あぁぁぁぁっ!!」


 数秒の間をおいて、激しい痛みが襲ってきた。腹に手をやると、そこには先ほどの紫陽花と同じ色をした、赤黒い血がべったりとついている。


(お、追いつかれた! でも、いつの間に!?)


 足音など聞こえなかった。追いつかれた感覚などなく、気配さえもしなかった。それなのに、相手はいつの間にか秀彰の傍まで忍び寄り、その脇腹を鋭利な刃物で突き刺した。


 やはり、自分は堀井有紗の怨霊から逃げることができなかったのか。否、自分だけではない。きっと、他の映研のメンバーも、こうして散って行くのが運命なのだ。あの映画、≪アジサイの咲く頃≫の撮影を始めたときから、これは逃れようのない運命だったのだ。


 そう思わねば、今の自分に起きていることを受け入れることができなかった。だんだんと意識が薄れ、先ほどの痛みさえも遠のいて行く。まだ、自分は死にたくない。その気持ちとは反対に、身体がまったく動かない。


 血だまりの中に倒れた秀彰を、レインコートに身を包んだ何者かが静かに見つめていた。秀彰の目が光を失ってゆく様を見降ろしながら、それは満足そうな顔をして口元を笑みの形に歪ませる。最後には秀彰の上に馬乗りになると、そのまま手にした鋏を逆手に持ち、躊躇うことなく秀彰の胸元に突き立てた。



――――ザク……ザク……ザク……。



 未だ降り止まぬ雨の音に混じり、深夜の公園に肉を切り刻む音が響き渡る。流れ出した鮮血は雨の水と混ざり合い、共に大地を濡らしてゆく。


「ふふふ……。皆……皆、報いを受ければいいのよ……。あの人の物語を汚したものは、皆消えればいい……」


 全身に、かつて秀彰であったものの返り血を浴びながら、それは血濡れた鋏を片手に残酷な笑みを浮かべていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 慶一がベッドの中で目を覚ましたのは、東の空が明るくなってからすこしばかり経った辺りの時間だった。


 時計を見ると、まだ時刻は朝の六時。どうも最近、あまりよく眠れない日が続いているような気がする。早起きできるのはいいのだが、これでは全然寝た気がしない。いつもとは違う生活リズムで過ごすことを強いられているようで、なんとも気分が悪くなる。


 それにしても、昨日は一段と寝苦しい日だった。雨が降っているのに妙に蒸し暑かったのもあるが、それ以上に、夜中に見た不気味な夢が気になった。


 雨の降る深夜の街を、どこへ行くともなく歩き回っている自分。やがて辿りついた公園で、慶一は自ら手にした鋏を持って、目の前にいた誰かを刺す。暗がりなので相手の顔は見えなかったが、相手を刺した際の感触だけは、夢にしては生々しいものだった。


 本当のところ、あれは現実で、今も自分の手に相手の返り血がべったりと貼り付いているのではないか。そう思って両手を見たが、なんのことはない。どこも汚れてなどいない、いつも通りの自分の手だ。


 馬鹿馬鹿しい。あれは、あくまで夢なのだ。ここ最近、物騒な殺人事件に巻き込まれていたことで、自分でも気がつかない内に神経をすり減らしていたのだろう。その犯人が堀井有紗の怨霊ともなれば、いよいよ気が滅入ってくるというものだ。


 どちらにせよ、これでは二度寝などしたい気分にもなりそうにない。仕方なく、慶一は頭痛の残る頭を強引に覚醒させると、寝巻姿のまま階段を下って行った。


 この時間、まだ両親は共に起きていない。もっとも、父は今日も会社があるので、そろそろ起き出す頃だろう。母もそれに合わせて起きてくるので、朝食を待たされる心配はない。


「なんか、喉渇いたな……。それに、ちょっと腹も減ったし……」


 適当に水でも飲めばいいのだろうが、この季節の水は妙に生ぬるくておいしくない。冷蔵庫にお茶でもできているかと思ったが、残念ながら冷たい飲み物など入ってはいなかった。


「しょうがねえな。なら、今日は牛乳でも飲んで我慢するか」


 家の郵便受けの下に牛乳の配達が来ていることを思い出し、慶一はそれを取りに行くために外へ出た。保冷剤と共に入れられているはずなので、水道水よりは冷えているはずだ。腹も減っていることだし、少しでも栄養のあるものを口にした方が、身体にもいいだろう。


 家の外に出て郵便受けの下を見ると、果たして慶一の予想通り、牛乳が配達されていた。箱を開けて中から牛乳瓶の入った袋を取り出すと、ついでに郵便ポストにも目をやった。


 ポストには、雨に濡れないようビニール袋に入れられた、慶一の家でとっている新聞が入っていた。牛乳を取りに来たついでだ。これもまとめて回収してしまえ。そう思い、慶一が新聞を引き抜いたときだった。


「えっ……? なんだ、これ……?」


 新聞を包んでいたビニール袋の先端に、赤い斑点のようなものがついている。触ってみると、それはべったりと貼りつくようにして、慶一の指の上で平たく伸びた。


「これは……血だ!!」


 郵便受けに突っ込まれていただけの新聞に、どうして血などついているのか。慌てて蓋を開けて中を見たその瞬間、慶一は片手に持っていた牛乳瓶の袋を取り落とし、そのまま大きく後ろに飛び退いた。


「う、うわぁぁぁぁっ!!」


 そこにあったのは、二つの目玉だった。赤い血に濡れたピンポン玉ほどの大きさの眼球が、じっと慶一の方を見つめている。それは慶一に助けを求めているようでもあり、また恨みとも怒りともとれる感情をぶつけてきているようでもあった。


 牛乳瓶の割れる音と、慶一の悲鳴が朝の街に響き渡る。悪夢はより最悪な方向で、確実に慶一たちの現実を侵蝕しつつあった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 早朝からの呼び出しを受け、牧原耕作は朝食も摂らずに現場へと急行していた。


 明け方、雨も降り止んだ時分、犬の散歩に出ていた近所の老人が公園で変死体を発見したのだという。ここ最近、この街で起きている連続殺人事件のことを考えると、どうやら今回もその事件に絡んだもののようだった。


 現場の公園に着いたところで、牧原はパトカーから飛び降りて近くにいた制服警官に詰め寄った。辺りでは既に鑑識や他の警察官が忙しなく動き回っており、現場を保存するために、黄色いテープで囲っていた。


「灘岡署の牧原だ。突然ですまないが、現場の様子を教えてくれ」


 警察手帳を見せて形だけの挨拶を終えると、牧原は制服警官の答えも聞かずに黄色いテープをくぐって中に入った。


 現場は慶一たちの通う学校の近くの公園。その公園に生えている街路樹に、首吊り自殺のような形で死体が吊るされていた。


「あれか……」


 早朝から見るにしては、あまりに無残な変死体。ここに来て、牧原は自分が朝食を抜いてきたことが正解だったと思った。


 死体は寝巻姿だったが、その全身は雨でぐっしょりと濡れていた。胸部や腹部には複数の刺し痕があり、どれが致命傷になったのかはわからない。だが、少なくとも、遺体の着ている寝巻の前方が血で染まっていることだけは確認できる。


 だが、それにも増して凄惨なのは、その遺体の頭部に他ならなかった。乱れた髪と、恐怖にひきつり埴輪のように開けられた口。そして、眼球を抉り出されて失った、今や単なる空洞と化した目が痛々しかった。


 血の涙を流す埴輪。吊るされた遺体を形容するなら、その言葉が相応しい。


 更に遺体の状況を調べるべく、牧原は鑑識の男たちの邪魔をしないよう注意しながら遺体に近寄った。これもまた、例の連続殺人事件に関するものなのか。あの、高校生たちが言っていたように、堀井有紗という人間の怨霊が憑依した、何者かによる犯罪なのだろうか。


 そんなことを考えながら、牧原は遺体の顔を改めてみる。そして、次の瞬間、牧原は雷に打たれたような顔をして呆然と立ち尽くした。


「どうしたんですか、牧原さん? もしかして、何か気づいたことでも?」


 牧原の様子に気づいた現場の鑑識が、訝しげな顔をしながら訊いてきた。が、それに答えることはなく、牧原はただ、呆然と吊るされた遺体を見つめている。


 早朝の公園で発見された、見るも無残な変死体。その死体は、かつて牧原も出会ったことのある、一人の少年、田村秀彰の物に他ならなかったのだから。


 美幸、正仁、敢に続き、これで四人もの映研メンバーが殺された。昨日、慶一や亮と話したばかりだというのに、それを嘲笑うようにして新たな殺人が起きる。次の犠牲者が出るのを食い止められなかったことに、牧原は自分の力の無さを改めて恨めしく思った。


「あの、牧原さん……」


「なんだ?」


 隣にいた鑑識が、再び牧原の名を呼んだ。少しばかり苛立った口調で返すと、その男は恐る恐る、牧原のポケットを指差して言葉を続けた。


「携帯、鳴ってますよ」


「んっ……? ああ、そうだったか。こいつはすまない」


 秀彰の遺体に気を取られ、携帯電話が鳴っていることさえも気づかなかった。一瞬、無視してやろうかとも思ったが、これが上司からの連絡だった場合、後で面倒なことになる。


 仕方なく、牧原は携帯電話を取り出すと、そこに表示された相手の番号を見た。その番号は、牧原の知っているものではない。誰かの携帯電話のようだったが、名前は表示されなかった。


「はい、牧原です」


 普段とは違う、少しぶっきらぼうな口調で、牧原は携帯電話の呼び出しに答えた。


「あっ……刑事さん? 俺です! 昨日、喫茶店でお話しした、高須です!!」


「高須……? ああ、慶一君か。こんな時間にどうした? 随分と慌てているみたいだが……」


「そ、それが……」


 電話の向こうの慶一は、随分と慌てている様子だった。いや、慌てているというよりも、怯えているといった方が正しいか。


 時に自分でも何を言っているのかわからなくなる慶一を宥めながら、牧原は彼の話に耳を傾けた。本当は、もう少し現場の様子を見ていたい。初めはそう思っていた牧原だったが、徐々にその表情は、深刻な面持ちのそれに変わっていった。

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